「……寂しい、かな」
 苛立ちをこめた独り言をつぶやくのは、あまりいい気分ではない。
それが泣き言ともなれば、最悪と言っていいだろう。
無駄に煌びやかな夜の街のネオン。
その消えることのない明りに照らされながら、そんなことを小波は思う。
 意識せずに口から洩れた言葉は、自らにしか聞こえないほど小さいものではあった。
だが、それでも生じたばつの悪さを隠すように、彼はそれとなく周囲を観察する。
 そろそろ日付が変わってしまう時間にもかかわらず、街に人の姿は多い。
夜遊びにふける学生。遅くまで働いていたのであろうサラリーマン。
――化粧がきつめの、己の美貌で金を稼いでいる女。
 そういえば、恵理もそういった職業だったっけ。
 思い出して、小波は頬を小さな笑いにひきつらせた。
外見、性格、どちらを取っても、彼女はそういった雰囲気の無い女性だった。
派手に着飾ることもなく、夜を仕事場にしているには、あまりに真面目すぎる。
 そんな、女性。
「……はぁ」


「……はぁ」
 溜息を吐くことは、好きじゃない。
陰鬱な気持ちがそのまま漏れ出たような吐息をこぼして、そう恵理は思う。
(幸せが逃げる。って言うよね)
 もっとも、今の自分がしあわせかどうかは、疑問に思うところではあった。
――悩めるうちはまだ幸せなのかもしれない、そんなことを思い浮かべながら、
けだるさに包まれた足を、一歩動かす。
「ぅ……」
 その途端、身体のいたるところが痛みに軋んだ。
その原因は彼に手ひどく殴られたから――だけではないだろう。
振り返って見れば、ここ二、三日、まともな生活を送っていなかった。
食事をきちんと取ることもなく、良く眠れてもいない。
ちゃんとしないと。そう思っても、何もする気力がなかったのだ。
「んっ」
 再び溜息が漏れそうになって、恵理は無理やりに口を閉じた。
溜息を堪えることに成功はしたものの、重い気持ちは変わらない。変わるはずもない。
「…………」
 溜息を堪えること。当てもなく歩き続けること。考えて、考えて、考え続けること。
すべてが無駄なことは嫌なぐらいにわかっているのに、どうしようもない。
そんな自堕落な考えを浮かべる自分を嫌悪しながら、恵理は歩き続ける。
 夏なのに、熱帯夜と呼べるほどの暑さなのに、汗に濡れた恵理の身体には寒気がまとわりついていた。
 震える身体を自らの腕で抱きしめて、恵理はつぶやく。
「……ばかみたい」


「……馬鹿らしい」
 視界に入ったカップルの姿に、小波の口から再び独り言が漏れた。
声が聞こえたのか、彼らは怪訝そうな顔をして、逃げるように小波から離れて行く。
それに苛立ちを感じながら、彼は足を進める。
「……」
 馬鹿らしい。まさにその通りだった。
他の男を選んだ女など、さっさと忘れるべき。そんな当り前のことができずにいる。
好きになって、付き合って、……別れて。
それを繰り返していくことは、自然なことなのだから。
(けど――)
 それでも、小波にはどうしても、恵理が最後に言った言葉が忘れられなかった。
彼女が泣きながら叫んだあの言葉が、今でも耳に残って消えない。
 『もう、自分がだませないの!』
 あの時、走り去る彼女を引きとめて想いを伝えていたら、もしかしたら。
 そこまで考えて、小波は静かにかぶりを振った。
それはあまりにも都合の良すぎる考え。彼女はあくまで、
昔の小波が好きだから、今の自分と付き合っていた。そのはずなのだから。
「……」
 考えすぎた頭が、少し痛んだ。


 じくじくと、痛む頭。夏風邪でも引いたのだろうか。
疑問に思って、恵理は立ち止まり、額に手をあてた。
「……?」
 熱は感じない、それどころか、気味が悪いくらいに冷え切っていた。
加えて、手のひらと額に生じる感触が、皮膚がゴムにでもなったかのように鈍い。
(のど、かわいたな)
 異常事態を意識しながらも、痛む頭に別のことが浮かぶ。
今朝起きてから、何度飲み物を口にしたのか。
把握しきれないほど、恵理の喉は何度も水を欲していた。
喉が渇く、というのも正確ではない。
ただ無性に水が飲みたい。というのが正しいだろうか。
今までに起きたことのない、そんな身体の変調に戸惑ったものの。
(どうでも、いいや)
 恵理はすぐに、考えることを放棄した。何もかもが面倒で、どうでもいい。
「……」
 自分が駄目になっていることを自覚しながら、いつもより重く感じる身体を動かし始める。
 疲れ切ってしまった心が、体に異常を生み始めていることを、
 恵理は知らなかった。


 小波も知らなかったわけではない。
嘘をつき続けたことで、彼女を苦しめてしまったことを。
それどころか――それが言い訳にはならないことも、よく知っている。
 汗ばんだ手のひらの熱気を、ズボンに擦りつける。
普段ならちゃんとハンカチを使うのだが、そんなことが妙に億劫に思えたのだ。
「……ふぅ」
 ふと、恵理に真実を告げようとしたことを思い出す。
彼女は全く信じようとせずに、別れ話を婉曲に表現されたと思いこんでいた。
 普通に考えれば、そうだ。人の中身が入れ替わっているなんて、信じる方がどうかしている。
そして説得するのを諦めて、彼女のそばにいることを選んだ自分は――
 最低だ。
 自己嫌悪と、彼女に対する微かな怒りに拳を握りしめる。
怒り。それは理不尽な考えから生まれたものではあったが、
湧くことを抑えることができないものでもあった。
(……恵理が気づかなかったら、幸せなままでいられたのかな)
 そんなわけがない。内心でつぶやいた言葉を否定して、小波は自動販売機の前で足を止めた。
汗ばんだ手をポケットに入れて、財布を取り出す。
無意識にスポーツドリンクを選んだのは、野球選手故だろうか?
やや大げさな音とともに落ちてきた缶は、
夏のキャンペーン中らしく、いつもより少し大きくなっていた。
試合や練習が終わったばかりならともかく、
多少の渇きをいやすだけなら、少しだけ多すぎる量。
「……ぷはぁっ」
 蓋を空け、一気に半分ほど飲みほすと同時に浮かぶ光景。


 冷えた缶を握りしめると同時に浮かぶ情景。
 一つの缶を分け合う、幸せな二人。
(……ロマンチックすぎるかな)
 吐き捨てるようにその考えを振りはらい、恵理は缶の蓋をあけた。
「あぅ」
 手が震えていたためか、痛みを覚えるほど冷たい液体が飛び出して手にかかる。
放っておけば、べたつくことになるだろう。
緩慢にポケットに手を入れて、恵理はハンカチを取り出した。
汗を何度もぬぐったせいか、嫌悪感が生じるほど濡れている水色の布。
これで手をふく意味はあるのだろうか、いっそスカートの端で拭いてしまってはどうか。
誰かに汚れているのを気づかれても、取り繕う体裁なんて残っていないのだから。
 一瞬だけ迷って。
「……ばかみたい」
 漏れる呪詛。何とか理性は残っていたようだった。
濡れたハンカチで手を拭いて、ポケットに戻す。
 そしてジュースを一気に飲み干した。
「う……」
 酷くなる頭痛。ふらつきながらも、恵理はゴミ箱に近寄り、缶をそっと入れた。
薄汚れた赤い箱が、小さく揺れる。
 ――この箱をヒステリックに蹴飛ばせば、少しは気が楽になるのだろうか。
「……」
そんな馬鹿な考えを思いついたのがとてもおかしくて、恵理は笑いたくなった。
 蹴飛ばすことも、笑うことも、
 できなかったが。


 できないはずはなかった。
いくら自分が野球一筋に生きてきて、あまり頭がよくないとはいえ、
諦めずに真実を伝え続ければ、彼女を納得させることもできたのだから。
 そして、納得してもらえば――
 思考がループし始めたことに気づいて、小波は足を止めた。
そしてそのまま空を見上げる。
都会の夜空には、小さな満月一つだけが妙に明るく輝いていた。
(恵理……)
 時がたつにつれ未練が強くなるのは、それだけ彼女のことを――
「……帰るか」
 どこに行くあてもなく、気分転換にすらならない散歩。
こんな無駄な時間を過ごすぐらいなら、寮で身体を休めるべきだろう。
 脳裏に浮かぶ彼女の泣き顔を振り払うように、
 小波は再び歩き始めた。


 再び歩き始める気力もなく、
恵理は自動販売機の前で立ちつくしていた。
「……はぁ」
 堪え切れずにため息をつくと同時に、あの男に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
『愛は一人では成り立たない』
 それは、そうだろう。そんなことは恵理にもわかっているつもりだった。けれど。
(つもりだけで、わかってないのかな)
 未だに恵理は、彼が自分を――好かれてはいないのだとしても――、
嫌いだと信じることができずにいた。
 ……あの時、本当に彼が辛そうだったから。
喋っている時も、殴っている最中も、何かに脅えていたのがよくわかった。
 だから恵理は――
「……小波、さん」
 彼の名前を呟いたと同時に思い浮かんだのは、彼ではない彼の笑顔。
 彼は彼じゃないけれど、本当に優しかった。
遊園地に連れて行ってくれた。馬鹿な行動を笑ってくれた。
暴力を振るわれることも、性欲のはけ口として扱われることもなかった。
 愛されていると思いこみながら彼を愛して。幸せな時間を過ごしていた……けれど。
「小波さんは、小波さんじゃ、ない。……よね」
 小さく吐き捨てると同時に、恵理は無理やりに体を動かし始めた。
しばらく歩いたところで、店先のガラスに、自らの顔が映っていることに気づく。
 疲れ切った、惨めな、不幸に酔った女の顔。
 それを見て、恵理は自傷気味に笑おうとした。
けれど喉からこぼれたのはかすれた吐息。
ひきつった頬は、笑みの形にすらならず小さく痙攣するだけ。
(……なんだか、疲れちゃったな)
 何か、指針が欲しかった。
 誰か自分を必要とする人がいてほしい。
 そうすれば、そうすればきっと私は――
「……はぁ」
 そんなことを考えている自分が、
 嫌で、嫌で仕方がなかった。


 嫌になるほどの熱気。今日、明日あたりが今夏もっとも暑い日になる。
そう今朝のニュースが言っていたことを、小波は思い出していた。
野球選手としては、暑さに当てられて体調を崩すわけにはいかない。
無目的に街をうろつくなど、もってのほかだろう。
それなのに、街を歩き続けたのは――
(独り者の宿命、なんてのはどうだろう)
 思いついた答えと、人肌を恋しがっている自分を嘲笑いながら、
小波は薄暗い路地から大きな通りに出た。タクシーを拾おう。そういった算段だったのだが。
「あ、あれ?」 
 思いもよらないものが目に入り、小波の口から上ずった声が出た。
肩まで伸ばした髪、お気に入りの薄い緑色の服。
いつもと違い、暗い雰囲気が漂っていたものの――人違いではない。
 彼の視線の先にいたのは、夢にまで見た彼女、その後ろ姿。
「あれは、恵理じゃないか!」
 続いて出た声は、震えていた。
距離は近い、手を伸ばしても届く距離ではないが、
言葉を届かせたいと思えば、それができる距離。
すぐに声をかけようとして、言葉が喉に詰まった。
(…………彼女は他の男を選んだんだ。俺の出る幕じゃない)
 思い浮かぶ台詞。それは紛れもない事実だった。
小波がどれだけ恋い焦がれていようとも、愛は一人では成り立たないのだから。

 だから。
 さよならを告げて、未練を断ち切ろう。

 胸に走る確かな痛み。それを振り払うかのように。
 彼はゆっくりと、口を開く。


――――――――――――――――――――――――――――――――
 彼女はゆっくりと、口を開いた。
「……そっち行くね」
 生ごみの匂い、すえた生き物の体臭、そんな酷い匂いに満たされた廃墟。
散乱したゴミを片付ける者が誰もいないのだろう。
あちこちに転がっているコンビニの袋には、蠅がたかっているのが見えた。
 ……こんなに酷い場所で、彼は一人ぼっちだったのだ。
胸を満たす悲しみ。それに酔いながら、彼女は男のもとへ歩き出す。
「やめろ。近づくな!」
 手を振り払いながら、彼は後ずさりして必死で逃げようとした。
 これ以上彼をおびえさせたくない。そう思い、女は両腕を広げた。
自分が彼に危害を加えないことを、穏やかに微笑んで伝える。
「ほら、なにも心配することなんてないんだよ」
 泣きながら震える彼の元へたどり着いて、彼女はその背中に手を回す。
「あ、あ……」
 泣いていいよと伝えたくて、彼女は彼を優しく抱きしめる。
今泣くことはきっと、情けなくも、惨めでもない。
 だから、泣いていいのだ。
「うわああああああ!」
 男の嗚咽が建物を揺らす。伝わる体温がとても暖かい。
彼女の身体中を満たしていた寒気が、少しだけ癒えた気がした。
「つらかったんだね」
 胸元の彼に、決しておびえさせないように優しく声をかける。
 彼が泣く姿を見たことはなかった。それを見れたことが嬉しかった。
 けれど嬉しいと感じている自分が嫌になる。そんなことを、喜んでいいはずもないのに。
 贖罪を求めるように、彼女は彼を見つめた。
彼の瞳からこぼれた涙が、自らのの胸元に吸い込まれていくのが見える。
「でも……もう大丈夫だよ」
 たった一人で、壊れるまで彼は頑張ったのだ。
 だから。
 だからもう、休んでもいいんだよ?
 胸中で囁き、彼女は抱きしめる力を強くした。
背中に指をつきたてられ、微かな痛みが走る。
だがそれは、彼が彼女を頼っているという確かな証。
それが嬉しくて、それが悲しくて、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえて。
(――――)
 ふと、誰かの顔が脳裏に浮かんだ気がした。
けれど、彼女はそれを深く意識することはせずに、振り捨てる
思い出すと決意が鈍ってしまう。それがわかっていたから。
 彼の顔を見つめる。
 心がゆっくりと、冷えていくのを感じながら。
「最期まで一緒……だから、ね?」
 微笑みとともに、彼女は言葉を投げた。
――――――――――――――――――――――――――――――――


 悲しみとともに、彼が言葉を投げる直前。
いつの間にか閉じていた眼を開いた理由は、あまりにも酷いものだった。
 未練だ。醜く、情けなく、邪な未練。
それがどんなに汚れたものなのかがわかっていても、
眼を開かずにはいられなかった――本当に、彼女のことが好きだったから。
 そして見えたのは、
(――!)
 まるで泣いているような彼女の瞳。
それを目にした瞬間、小波は走り始めていた。
何故なのか、それを理解したわけではない。
あとになれば、何故か理由をつけることができるだろうが、
その時の彼には、とても単純な欲望しかなかった。
 恵理を抱きしめたい。恵理を泣かせたくない。恵理に声を伝えたい。恵理を笑わせたい。
 あんな顔をした恵理を、見たくない!
 感情とすら呼べない、単純で、強い欲望。
 それに動かされて声を出す。


「おーい、恵理!」


 声が聞こえた。とても、とても優しい声が。
強い調子、怒っているようにも聞こえる。
昔の彼と全く同じ声色、けれど明らかに違う声。
「…………あ!」
 振り返って、こちらに駆け寄る彼の姿が写った時、
恵理の心に浮かんだのは驚き、恐怖、喜び――そして強い自己嫌悪。
 喜び。そのあまりに自分勝手な感情が、彼女の身を苛む。
 彼を傷つけたのに、今の自分は彼に甘えたがっている!
 ……そんなのは、最低だと、そう思った。
「おい、待てって!」
 何も言わずに、恵理は駆けだした。
彼と向き合うことが、怖くて、怖くて仕方がなくて。
 逃げ出したのだ。


 逃げる彼女に追い付いたのは、繁華街と住宅街の境目にある小さな公園だった。
ベンチに座っている若い男女が、突然現れた闖入者に驚いたのを目の端でとらえながら、
小波は立ち止まって息を整えている恵理のもとへと駆け寄る。
「はぁはぁ」
 荒い息を吐きながら、華奢な――思いっきり力を入れてしまえば、
壊れてしまいそうな肩に向けて手を伸ばし、掴んだ。
「はぁ……」
 呼吸を整えて、正面から見つめる。
小さく震える恵理の身体。滲む涙は、彼女の瞳をきらめかせていた。
言いたいことはたくさんあった。けれど今、口に出せる言葉はそう多くはない。
意を決し、腹から生まれ喉を通り頭を突き抜ける大声を、
 叫ぶ。


「どうして逃げるんだ!」


 叫びが、恵理を揺らした。
身体全体にしみわたり、脳髄を痺れさせるような大声が公園に響く。
強く掴まれた肩には、鈍い痛みが走る。
だがそれよりも、まっすぐに突き刺さってくる小波の視線のほうが、恵理にとっては痛い。
「だ、だって」
 その痛みから逃げるように、恵理は顔をそむけた。
痛くて、辛くて、怖かった。
いっそ心臓が止まってしまえばいいと思うほどに!
「……」
 でも、これ以上逃げられない。
すぐにそれを悟って、恵理は彼の瞳を再び見つめた。

 ――そうだ。どうせなら、傷つけてほしい。
嫌いだと言ってほしい、罵ってほしい、蔑んでほしい、痛めつけてほしい!
 そうすれば、そうすれば私は!
 私は――私は……
 
 なにが、したいんだろう。

 わからないまま、恵理は口を開く。
自らを傷つける、彼に傷つけられるための、どうしようもなく惨めな最低の言葉を言うために。
「わたしのこと嫌いでしょう?」


「ああ、キライだね!」
 迷うことなく、小波は乱暴に叫んだ。
彼女のことを傷つけるとわかっていても、苛立ちを隠すことができるはずもなくて。
「一方的にあんな風に別れるなんてひどいじゃないか。 俺の気持ちは、どうでもいいのか!」
 だが、恵理が傷ついた反応を見せる前に、彼は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
苛立ちよりも強い感情、それをどうしても伝えてたくて。
「……え?」
 小波の言葉に少し遅れて、驚いた顔。
普段なら、可愛いなど思って、頬をにやけさせたかもしれない。
だが、そんな余裕もなく、小波は叫び続ける。
 辺り全てを震わせる、想いをこめた大声で。
「たしかに中身は前と変わってるかもしれないけど 俺はニセモノなんかじゃないぞ」
 伝えたいことはただ一つ、紛れもない本心。
「俺が、君が好きなんだ!」


 好きだという彼の言葉に、
恵理の頭の中に浮かんでいた様々な言葉が消えていった。
頭の中がぐしゃぐしゃになり、何も考えられなくなる。
「小杉じゃなく、俺を選べ!」
 涙が頬を伝う。冷え切った体を温めるように熱い雫。
それは錯覚だと頭の隅で理解していたが、本当に熱く感じた。
「わ、わたし……」
 ぐしゃぐしゃになった頭では、ただ一つのことしかわからなくて。
そのただ一つのことを、どうしても伝えたくて!
「もう、なにがなんだかわからないよ」
 恵理は言葉を紡ぐ。ゆっくりと、ゆっくりと紡いでいく。
頬を伝う大量の涙が襟を濡らし、鼻の奥に針を刺されたような痛みが走る。
けれどそんなものはどうでもよかった。
この想いさえ伝わるのなら、何もかもがどうでもいい。
「ただ、今ここにいるあなたが好き!」
 精一杯の大声で想いを伝えた途端。彼が強く抱きしめてきた。
強く抱きしめられて、背中の骨が軋む。痛い、呼吸が苦しくなるほど痛い。
けれどその痛みさえも、心地よく思える彼の腕の中で。
 恵理は泣いた。大声で泣いた。
 悲しいのではなく、嬉しいだけでもない。
 泣きたくない。ただひたすらに泣きたい。
 逆さまの感情に動かされて、恵理は泣き続けた。


 泣き続ける彼女を抱きしめることに、苦痛は無かった。
ただそれがとても自然な行動に思えたのだ。
 涙と鼻水を垂れ流しながら、子供のように大音声で泣き続ける恵理。
辺りには、いくらかの人影がある。
彼らから見れば、恵理は情けなくて、惨めに見えるだろう。
 だが――
(それで、いいか)
 情けなくて惨めでも、そんな彼女が好きなのだ。
 泣いていいよと伝えたくて、両腕で強く彼女を包み込む。
 汗と、恵理自身の匂い。
その匂いは、いつの間にかそばにないことが不安になっていたものだった。

 恵理が泣きやむには、長い時間が必要だった。
もし小波が空を見上げれば、月の位置が変わっていることに気づいただろう。
 それほどの長い時間。けれど小波にとっては、とても短く感じる幸せな時間だった。
「……んっ、っく……」
 息をのみ込むように、懸命に泣くのを堪えて、
恵理は震える手で小波の胸を押してきた。
「恵理――」
 もう少し泣いても――そう言いかけた言葉を止める。
泣きたいなら、好きなだけ泣けばいい。
だが、泣きやもうとする彼女を止めるのは間違っている。
それがわかっていたからこそ、小波は腕を緩めて、彼女の顔を胸から離した。
予想通り、涙と鼻水まみれの、ひどい顔だった。
「ん」
 そのひどい顔に向けて、小波は唇を寄せた。
触れ合う唇。彼女の身体は妙に冷えているくせに、そこだけは熱く感じた。
短い甘い時間を終わらせて、視線を絡ませる。
真っ赤な目からこぼれおちる雫は、まだ止まらないようだった。
 安心させるように微笑み、小波はつぶやく。
「とりあえずどこかで休憩しよう。ここじゃ人目も多いし」
「……」
 返事こそなかったが、一度大きく眼を開いて、恵理が小さく頷く。
歩きだすために手を掴もうとしたところで、
寄り添ってくる彼女の身体がどうにも頼りなく感じた。
「あのさ」
「?」
 突然しゃがみ込んで背中を向けた小波に、恵理は戸惑ったようだった。
声こそ出さないが、そんな気配が伝わってくる。
「背中、貸すから」
「……?」
 小波は両手を後ろにまわして、恵理の方を向いた。
戸惑いの表情を見せる彼女に微笑み、口を開く。
「いや。ただ……なんとなく、恵理を背負いたくて」
「…………」
 再びこくりと小さく頷いて、恵理は小波の首筋に手を回してきた。
体重が背中に預けられたのを確認して、彼女のやわらかい太ももを支えて立ちあがる。
「よっ……大丈夫?」
「……うん」
 小さな囁きを確認して、軽い身体を揺らさないように。
 二人で前に進み始めた。


 二人一緒に、ゆっくりと前に進む。
背負われているためか、いつもより視点が高い。
そのため、世界が変わって見える……というのは少し大げさだろう。
 だが、今の自分と、少し前の自分が違うことを、恵理は確かに感じていた。
「小波……さん」
「……?」
 彼に声をかけるには、少しだけ勇気が必要だった。
この幸せな時間が壊れてしまわないか、怖くて。
 それでも、どうしても伝えたいことがあって、恵理は言葉を紡ぐ。
「えっと、ね」
 言いたいことはたくさんあった気がしたけれど。
伝えたいことは、結局のところ一つだけだった。
「……すき」
「知ってる」
 想いに即答してきた彼の声には、微かに笑いが含まれていた。
からかわれたのを知って、恵理は思案する。
「じゃあ」
 小さな復讐を含めて、恵理は囁いた。
「……だいすき」
 どうやら、予想外だったらしい。
息をのむような気配の後、後ろ手で頭を撫でられた。
汗でぬれた恵理の髪が、くしゃくしゃになる。
「……俺も、恵理が大好きだよ」
 帰ってきた言葉は、恵理の望んだものだった。
「うん……」
 涙が出そうになるのを、堪えることもせずに恵理は瞳を閉じた。
幸せに包まれた意識が、だんだんとまどろんでいくのが分かる。
 それを感じ取ったのか。小波が言う。
「しばらく眠ったら? ……明日は休みだから、一緒にいるよ」
 少しだけ、甘えよう。そう思って、恵理は意識を閉ざし始める。
ゆらゆらと、ゆりかごの中にいるかのように身体が揺れて、
夢と現の堺が曖昧になっていくなかで。
「……うん。……少しだけ、眠るね」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい……」
 彼のぬくもりを離さないよう、ぎゅっとしがみついて。
 恵理は穏やかな眠りについた。


 穏やかに眠っている恵理を、小波は優しくベッドに下ろした。
高級そうな白いシーツが、少しだけたわむ。
いきなり駆けこんだホテルに、空き部屋があったのは幸運だったのだろう。
結構な出費にはなったが、それも気にならないほどに、小波は幸せだった。
 彼女と言葉を交わし、想いを伝え合うことができたのだから。
「すぅ……」
 緩やかな寝息。見ると、泣き疲れて眠ってしまった子供のような顔。
頬に残る涙の痕、あどけない口元、しわくちゃな服。本当に子供みたいだった。
 ――もっとも、そう見えたことに、自らの願望も混じっているのを、小波は気づいていたが。
「恵理……」
 名前を呼んで、彼女の隣に座る。深い眠りについているのか、起きる気配はない。
 涙の跡をぬぐおうと、小波は恵理の頬に触れた。
柔らかな感触が、いつまでも触っていたくなるような心地良さを生む。
「……ん?」
 頬を指でふにふにと歪ませていると、
頬の上、右目の周りの肌の色が少しだけおかしいことに、小波は気づいた。
 あまり大きな違いではない、明るい部屋の中でないと気付かなかっただろう。
(あざ、だよな?)
 そこに触れる。感触はそうおかしいものではない。
だが、指先が少し沈むと同時に、恵理の顔にゆがみが走った。
 転んだ。あるいは何かをぶつけた。そんなところだろうか?
疑問に思いながら、優しく撫でて、痛みを取り除こうとしていると。
「んぅ……」
 恵理が寝返りを打って。
「む」
「!」
 小波の指を咥えた。ぱくっと。生暖かい粘液が指にまとわりついて。
「んむ……」
 舌が、動いた。積極的に舐めてくるわけでもはないが、
味を確かめるように、ゆっくりと入念に動く柔らかいぬくもり。
小波はまったく動くことができずに。
 時間だけが流れた。
「……はっ」
 十数分後。呆然自失の状態から回復して、小波ははっと眼を見開いた。
するべきことはたくさんある。このままぼうっとしておくわけにはいかない。
「と、とりあえず、風呂でも沸かそうかな?」
 一番最初に思いついたのは、そんなことだった。
自分もそうだが、恵理はずいぶんと汗をかいているように見えた。
女性にとって、身体を汗まみれの状態にしておくことは望むことではないだろう。
 ひとりごちたその言葉は、恵理に問う形になっていたが、
未だに指をしゃぶり続ける彼女は、もちろん返事をしてこない。
「……」
 フロントで聞いた話によると、
ここの風呂は二人で一緒に入っても十分に余裕があるらしい。
 どうせなら恵理と一緒に入って――
(……落ちつこう)
 長い間一人で処理さえしてなかったためか、すでに股間が痛いほどに膨れ上がっていた。
深呼吸して、気持ちを落ち着かせようとする。が。
「……ん」
 溢れる気持ちを抑えられずに、小波は涙の残る頬に、
 熱い情欲をぶつけた。



 熱いぬくもり。それをそばに感じながら、恵理は眼を覚ました。
強い光に眩んだ眼を擦る。皮膚に伝わる感触は、まだ少し鈍い。
だが、身を包んでいたさむけは消えていた。暖かくて、幸せだった。
「起きた?」
「うん……」
 声が聞こえてきた方向を見る。にこやかに笑う彼の姿が目に入り、恵理は嬉しさに顔を綻ばせた。
「えっと……おはよう?」
「いや、まだ夜中だよ」
 あいさつを交わし、ぼんやりとした頭がはっきりとしていく。
だんだんと、恵理は現状を把握し始めた。
 小波さんがそばで、すぐ隣で寝そべっている。ここはホテルみたい。
小さな水音がする。そういえばお腹すいたかも。喉はもう、乾いてない。少し汗臭い。
「汗……?」
 最後に浮かんだ言葉を、声に出して反芻する。鼻で息を吸うと、濃い匂いが頭にしみこんできた。
けれどそれは嫌悪感を誘うものではない。自分の汗の匂いと、彼の汗が匂い混じっている。
 そんなどうでもいいことが、途方もなく嬉しい。
「あ、ごめん」
「!」
 ぬくもりが離れていきそうになって、恵理は慌てて小波の腕をつかんだ。
すぐそばに彼がいる。いなくなったりはしない。
それがわかっていても、離れたくなかったのだ。
「……」
 小波の手が、恵理の頭を撫でる。
固く、無骨な指。けれど、誰よりも、誰よりも優しい動きの指。
訳もなく熱くなる目頭に、瞳を閉じる。さすがにもう、泣きはしなかったが。
「お風呂」
「?」
 小さくつぶやかれた言葉に、恵理は瞳を開いて、小波を見つめた。
独り言のつもりだったのか、彼は驚いたように眼を見開いていた。
 照れ臭そうに頬を描きながら、彼は言う。
「お風呂、わいてるからさ。……いっしょに入ろうか?」
 誘い。色欲の混じった瞳に、恵理の身体が打ち震える。
 一緒お風呂に入るの嬉しいな、でも一人で身体をしっかり洗いたいかも。
そんな葛藤に眉をしかめて、恵理が考え込んでいると。
「まあ、今の恵理に一人でお風呂に入らせたくないしね。溺れそうだ」
 彼がそんなことを呟いて、
「…………あ……ひっどーい!」
 くすくすと、二人で笑いあった。 心から笑えたのは、
 ずいぶん久しぶりだった。


 ずいぶん久しぶりに見る、恵理の裸体。
少し痩せている気もしたが、数か月前と大きく変わった様子はなかった。
むしゃぶりつき、舌を這わせ、噛みつきたくなる小ぶりの胸。
指を添わせて、つねって、撫でまわしたくなる腰。
みずみずしく、触らずとも柔らかいと確信できる白桃の尻。
それら全てが狂いそうなほどに、小波の欲望を強くしてくる。
「……ぅ」
 浴室の扉を閉めて、恵理が振り返る。
恥ずかしそうに、右腕で胸を、左手で股の付け根を隠す彼女を見て。
 くらり、と。世界が揺れる衝撃が小波を襲った。
だが、その衝撃に身をゆだねることができないものも、彼の視界に映る。
「そのあざ、どうしたの?」
 右の肩、へその左、先ほど気づいた右目のまわり。
見るだけでも痛そうな、三つの紫色のあざは、恵理には似合わしくないものだった。
「……え、えっと」
 問われて、困り切った表情になる恵理。見なれたものだと言えば、そうかもしれない。
その表情が和らいだ時に、心がくすぐられるような淡い愉悦が生まれることを小波は知っていたのだが。
 それを無視して彼は口を開く。
「とりあえず座って、まず体を洗おう」
「……うん」
 恵理はこちらに背を向けて、ゆっくりと腰をおろしてきた。
近づいてくる果実。思わず小波の手が伸びる。
「ひぁ!」
 柔らかい。暖かい。少し湿っている。弾力もにょもにょ。
鼻先を少し近づける。やや未熟な果実からは薄い匂いが漂ってきた。
嫌悪感を誘うほど強くはなく、無臭では決してない。
 股間の熱が暴発しそうなほどの、魅力的な女の香り。
「び、びっくりした……もぉ」
 下ろしかけた腰を再び上げて、恵理が振り返り、小さく頬を膨らませて抗議してきた。
大きな瞳――彼女を年齢よりも若く見せている一因――には、涙さえ浮かんでいる。
「ごめんごめん、つい」
「……! じゃあ、わたしも」
「へ?」
 その大きな瞳が、いたずらな輝きを放つ。彼女の視線の先にあったのは、小波のそびえたつ男根だった。
「ちょ、ちょっと待……う」
 赤い唇が近づいてくるのを止めようと、小波は手を伸ばす。
だがわずかに遅く――恵理の顔を目指していた手は、彼女の右胸にあたった。
 やわらかくぷるぷるあたたかくほわほわちくびかたいすこし。
「んっ……」
 幼児退行した思考の中、唇にふたをされて、柔らかな指が小波の男根に触れる。途端。
「っ!」
 射精が始まった。吐き出された精液が恵理の手と腕に飛び散る。
勢いは激しく、醜い色の液体は髪にまで飛んでいく。
「う……む……」
 情けない声が小波の口から洩れようとするが、恵理の舌がそれを許さない。
貪欲に口内を暴れ、小波の唾液を吸い取るかのように動く舌。
瞳を開くと、恵理は優しげな――けれどひどく蠱惑的な瞳で、こちらを見つめていた。
「ぷはっ」
 快楽の波が引き、強い虚脱感が小波の身を襲う。
同時に恵理の口が離れていって、唾液がつぅっ、と小波の身体に垂れた。
「いっぱい、でたね」
 熱い吐息と共に、恵理がつぶやく。
汚い色が彼女の腕を汚しているのが嫌で、小波は手をシャワーのノズルへと伸ばした。
「ん……」
 だが、恵理が手についた精液を口に含んだのを見て、動きを止める。
彼女は何も言わずに、自らの身体を汚した精液を手で救い、舐めていく。
 恵理はじっくりと精液を舌に擦りつけていく。
 一滴ずつ。味を確かめるように。


 精液を一滴ずつじっくりと味わっていく。
ゼリーのようにぷるぷるとした白い塊は、結構しょっぱい。
 舌に乗る感触と合わさって、子供の時に作ったゼリー――塩と砂糖を間違えるなんて、
ありがちな失敗をした――に、味が似ていたような気がした。
もう二十年以上昔の話だ。今ではそんな失敗もしなくなった。だいたいは。
「えっと、その……ごめん」
 手についていたのをすべて舐め終わるのと同時に、小波の口から謝罪の言葉が飛び出す。
早く出しすぎたから? それとも私の身体に精液が飛び散ってしまったから?
 聞くことはせずに頬笑みだけ返して、恵理は椅子に腰をおろした。
一応手で前を隠して、彼と向かい合う。
「……」
 あざについて彼に説明するかどうか、恵理は迷っていた。
たぶん彼は怒るだろう。あの人に対して、もしかしたら言い淀んだ自分に対して。
 悩む。嘘をつくのはいやだった。
けれど真実を言わないことで、彼が嫌な思いをするのはもっと嫌だった。眉をひそめて、考えて、考えて。
「あの、ね」
「恵理」
 言いかけた言葉を遮る形で名前を呼ばれて、知らず知らず逸らしていた視線を彼に向ける。
 彼は笑っていた。
「言いたくないなら、今は言わないでいいよ」
 彼に言わなくていいと言われて、安心している自分。
言わなくちゃいけないような気がして、焦っている自分。
 ずるいな、と思った。自分は、ずるい。なにがずるいのかはよくわからないのだが。
「……でも」
 言葉を紡ごうとして、途中で止まってしまう。
 恵理にはよくわからなかった。でも――そのあとに続く言葉が。
 迷っていると、
「……でも」
 頭に、何かが置かれた。手だ。彼の、右手。
「……でも、いつか」
 そして恵理の代わりに、小波が言葉を紡いだ。
「いつか。まあ、ずっと後でいいから、言ってくれ」
「……」
 声は出さず、恵理は頷いた。


 頷く恵理を確認して、小波は空いた手でシャワーのノズルを手に取った。
蛇口を足でひねるとぬるい水が漏れだす。適温になるには少し時間がかかるだろう。
 それまで頭を撫で続けていよう。たぶん、何か辛いことのあった恵理のために。

「ん……っ!」
 たがいに身体を洗いあって、二人で湯船に入ったのと同時に、小波は恵理の首筋にかぶりついた。
大きな浴槽を有効に使わず、背中から抱きしめる形で、小波は恵理の身体を蹂躙していく。
指で胸の脂肪を挟み、舌で首――背中、肩のラインをなぞる。
「ふぁ……あっ、はぁっ……あっ」
 体の力を抜いて、恵理は快楽に身をゆだねていた。
男根には触らないでほしいと(暴発しそうなため)言っておいたため、
彼女は小波の太ももを撫でてきている。
「……あッ!」
 秘所に手を伸ばすと、びくん。と、恵理は震えた。
指が豆に――すでに肥大して、隆起している豆に触れたらしい。
「う……く、ん、あっ、ん!」
 触れたのをいいことに、さらに強く指で押す。
少し苦しそうな、快楽の喘ぎ。それに気を良くしてさらに責めていく。
膣口に右手の人差し指を当てる、ぬるりとした液体がまとわりついた。
周りのお湯とは明らかに違う、恵理の淫らな液体は、彼女の興奮を如実に物語る。
「ひっ……あぁっ! はぁ、あ……」
 左手で乳首をつまむと、太ももを撫でる恵理の手が止まった。
軽く達したのか、喘ぎ声に力がなくなる。
「恵理……」
 豆をいじっていた手を、男根へ移動させた。
びく、びくと震えるものの先端からは先走った液体が漏れ出て、お湯へとまぎれていく。
「このまま、いれていい?」
「はぁ、はぁ、ふぁ……う、うん」
 恵理が首だけで振り返り、頷いたのと同時に、
 凶悪なまでに硬い肉棒を、
 彼女の中へ侵入させていった。


 侵入する異物。大きな衝撃が恵理を襲う。
ずぶり、ぬぷりと侵入してくるそれは、凶器と呼んでいいほど彼女の身体を壊していった。
 入ってくる速度はかなり遅い――小波が荒い息を吐いているところから見て、
早くも彼は限界が近いのだろう。
 それに不満を覚えるわけではない、むしろ喜びを覚えて、
恵理は自らの身体を犯す侵入物のもとへと手を伸ばす。
「うぁっ!?」
 小波の呻きと、恵理のあえぎ声が重なる。
指に触れる、びく、びくと震えるかれの分身。中に入ったのは全体の半分ぐらいだろうか?
 もっと、もっと奥まで欲しい。そう思った。
「ふぅ……ぁぁっ、っ」
 腰を無理やりにおろしていく。少し痛く、割と気持ち良く、とても嬉しい。
「っ〜〜〜!! ……はい、った、ね」
 完全に、彼のモノが恵理の膣内へと抉りこんだ。深く、深く、隙間なくぴったりと。
背中から伝わる彼の鼓動は、早鐘のように激しい。
 ……早鐘って、良く聞くけど、なんなんだろ。
突如頭に沸いたくだらない疑問も、すぐに快楽にまぎれて消えて行った。
限界まで深くつながったというのに、彼がさらに腰を押し上げてきて。
「ひっ…うぅっ!」
 無理な挿入に、痛みが強くなる。
だがそれは、とても甘い痛みだった。痛いのに心地よく、痛いのに幸せで。
 妙な音――骨や肉が無理やりに潰されるような音の後、小波の動きが止まった。
「ふかい、の……おく、んっ!」
 男根が恵理の奥深く、誰も、誰も侵入したことのない部位まで到達している。
味わったことのない感覚――快楽ではない。幸福感というのが正しいか。
けれど、頭の中身が白に染まり、体が中に溶けていく感覚は、快楽とよく似たものだった。
「ぅっ」
 小さな小波のうめき声。大きく、びくんと、彼が震えた。
吐き出されていく精液が、恵理の最奥へと向かっていく。
「あー……ぅ、ぁ……はぁ……」
 湯船の中に漂う身体が、宙に浮かんだかのように曖昧になる。
恵理の全てが満たされていくような、深く、静かな絶頂だった。
「ひゃぁ!!?」
 余韻に浸る間もなく、突如身体を起こされる。
水の揺れる音。小波が立ち上がって、恵理を浴槽の淵へと押し当てる形にしたのだ。
 一度――いや、二度放出したにもかかわらず、彼の男根は萎えていない。
「恵理……」
 かすれた声で名前を呼ばれて、小波が動く。
後ろから、犯すように激しく、恵理の尻に彼の腰がぶつけられる。
ちゃぷ、ぱちゅ、じゅぷ、と浴槽と恵理の膣内がかき混ぜられる音が響いた。
「あ、う、ぁんっ! そ、そこ、指いれるの……」
 彼の指が、後ろの穴に捩りこんできて、恵理は拒絶の言葉をあげようとした。
だが、気持ちよくて、気持ち良すぎて、拒絶することができない。
「すごい、よぉ……おしり、も、すごいの、あっ、んっ!」
 恵理の身体は、快楽による弛緩でまともに動けなかった。
肺にうまく息が入らず、ろくにあえぐことさえできない。
 だがそれでも――気持ち良かった、幸せだった。
「う゛ぁっ! い、いっ、あんっ!」
 乱暴に乳房をもてあそばれて、小さな悲鳴が恵理の口から洩れる。
だが、その痛みは恵理の意識と身体をはっきりとしたものにさせた。
 滲んだ視界に、浴室の壁しかが映る。
小波の姿を見ることができないのはいやだったが、
与えられる快楽と、彼の必死な喘ぎ声が、大好きな人がそばにいる安心感を恵理に与えた。
 だんだんと絶頂が近づいてくるのを感じながら、彼に合わせて、
 恵理は腰を動かし始めた。


 恵理の腰が動いたのを見て、小波に焦りが走る。
二度も情けなく絶頂を迎えたくせに、自らの分身がすでに限界に近づいていたのだ。
 だが、それは無理もないことでもある。
精を吐き出すような行動が、久しぶりだったこと。初めて互いの好意を確信しての交わりだったこと。
恵理の膣壁が、細胞の一つ一つが肉棒に絡むかのように、吸いついてくること。
 何もかも全てが、彼の興奮を高めていくのだ。
 気が、おかしくなりそうだ。
そう思いながら歯を食いしばり、快楽に耐えていたのだが。
「ぐ……」
 限界を、感じた。
「ふぁ!!? あ、ぅ……はぁ、はぁ、ふぅ……」
 絶頂へとたどり着く少し手前で、引き抜いた。
ずるり。引き抜かれた男根が、赤黒い輝きと共に揺れた。
「はぁっ、はぁっ、……ふぅ、はぁ……はぁ」
 荒い息を吐いて、小波は興奮を沈めていく。
何かに触れただけで、欲望を吐きだしそうになっている性器は、小さく震えていた。
「あ……う?」
 右目だけが見える程度に恵理が振り返る。
その瞳には明らかに途中で終わったことに対する、不安感が見えた。
「……移動、しよう。のぼせ、そうだ」
 言葉を区切りながら言った、半分の嘘が混じった言葉は、水音にまぎれるほど小さかった。
言いなおそうか迷ったが、恵理が立ち上がろうとしたことで、口を閉じる。
「?」
 ざばん。半分ほど体を起しかけて、恵理が湯船に沈む。ぶくぶくと空気の泡が水面に揺れて、弾けて。
 十秒ほど経過。
「恵理!?」
 慌てて腰の辺りを掴んで、体を引き上げる。
水も滴るいい女は、けほけほと数度咳をして、ぼけっとした瞳でこちらを見た。
「もう、のぼせちゃって、たみた、い」
 絶え絶えの息とともに吐き出された言葉は、小波を安心させて、苛立たせた。
恵理に対する苛立ちではない――熱が入り過ぎて、彼女のことを気遣わなかった自分に対してだ。
「じゃあ、俺が運ぶよ」
「……ふぇ?」
「ベッドまで、恵理を」
「……え、えぇ? い、いいって!」
「いや、運ぶ」
「きゃっ!」
 赤ちゃんを抱きかかえるように恵理の身体を持ち上げて、浴槽から飛び出す。
滑りそうになる足を何とかこらえて、ベッドへ向かおうとしたのだが。
「ん?」
 足に、何かがあたる。用心しながら、
見てみると、小さな白い袋――ホテル備え付けの、剃刀の入ったものだった。
石鹸などと一緒に、浴室に持ち込んでいたみたいだが。
「……」
 楽しいことを思いついて、
 小波は恵理の身体を床に下ろした。


 身体が床に置かれて、困惑しながら恵理は小波を見つめた。
彼は袋をびりびりと破り、中身を取り出した。
「さて、剃るか」
「…………」
 彼が笑いながら言った言葉の意味を理解できずに――いや、心の奥底では理解していたのかもしれないが――恵理は固まる。
 彼の視線は、恵理の股間に向けられていた。
「〜♪」
 鼻歌を歌いながら、彼が恵理の足を開く。艶めかしいピンク色の肉がわずかに見える秘所へと、彼は顔を近づけていく。
「……え、えっと?」
「♪〜〜〜♪〜〜」
 鼻歌がサビに入る。最近の歌――恵理にとっては、あまり思い入れの無い時代の歌。
少し年が離れているのだから、あたり前なのかもしれない。
 三十秒後、ようやく彼の行動に対する疑問が頭に浮かぶ。
 そるって何だっけ。反る、SOL(太陽の固有名詞)、ソル(通貨)……
「そうじゃなくて」
「?」
 頭に浮かんだ他愛もない考えを、口に出して否定する。手で石鹸を泡だてていた彼は、きょとんとした表情でこちらを見つめた。
「えっと……なんで剃るの?」
「剃りたいから」
「理由になってないんだけど……」
「剃りたいから」
「真剣なまなざしで言われても……」
「剃りたいから!」
「じょ、情熱的に言われても……」
「そりたいから」
「こ、こ、子供っぽく言われても……んっ!」
 馬鹿なことを言っている間に、股間に彼の手が押しあてられた。
優しく、生えている毛をまんべんなく撫でていく手。
泡が恵理の秘所を、完全に多いつくのに、たいして時間はかからなかった。
「……駄目?」
 剃刀を構えて、彼が言う。叱られる寸前の子供みたいな目。
 くすり、恵理は笑った。
「ううん……いい、よ?」
 恵理が了承の言葉を言い終わる前に、彼は剃刀を恵理の肌にあてていた。
少し驚いたが、苛立つほどでもない――いや、ちょっと困ったのだが。
(いいっていったけど、恥ずかしいなぁ……)
 しょり、しょりと音を立てて恵理の恥毛が剃られていく。誰かにそってもらうなど、めったにない経験だ。
大けがをして病院に担ぎ込まれたりしない限りはありえないだろう。
そんなめったにない経験ではあるのだが、決して嬉しいものではない。
(……でも、少し嬉しいかも)
 矛盾したことが頭に思い浮かぶと同時に、彼に何をされても、
受け入れてしまいそうな自分がいることに気づいて、恵理は眉をしかめた。
 なんとなく、それはあまり良くないことに思えたのだ。けれど。
(今日だけなら……いい、よね?)
「ん、終わった」
「あ……」
 考えている間に、作業は終わったようだった。
洗面器にいれられたお湯をかけられて、恵理の性器があらわになる。
同時に彼の指が恵理の秘所へと伸び、割れ目を広げた。
 柔らかな曲線の、何もない丘。他の人と比べて、どうなのか少し気になる。
性器がついている位置は普通だと思う。色も割と綺麗だと思いたい。
「んっ!」
 彼の指が恵理の性器を広げる。広がる割れ目とあらわになる桃色の肉。
びらびらは小さめかもしれない、ひくひく動いている肉がいやらしい。
「あんまり見ちゃ……恥ずかしいよぉ……」
 興奮もだいぶ収まったためか、陰核はすでに皮に隠れてしまっていた。
彼に出してもらった精液も、ほとんどお湯に流れしまったのか、膣内から出てくる様子もない。
「……じゃあ、行こうか」
 彼が立ち上がって、手を差し出してくる。恵理の身体の弛緩は、すでにとけていた。
 指先を握る。
 どくどくと、流れる血液を感じた。


 流れる血液が集まり、脳と、性器が熱を帯びていく。
それをことさらに意識したわけではない――今の小波の頭の中は、
恵理の裸体を見ることしか考えていないのだから。
「……んっ」
 ベッドに横たわる恵理は、控え目に表現して天使と言ったところか。
煌々とした明かりに照らされて、彼女の身体は白く、美しく光る。
特に、毛を完全に剃った秘所からは、成熟した女性が持つことのない、
背徳的な美の香りが漂ってきていた。
 水を弾く艶やかな肌。丸く、大きな瞳。やや薄い印象を受ける身体。
童顔と評されることの多い彼女。正確な年齢を出せる人は少ないかもしれない。
小波が初めて出会った時も――自分より年上だとはわかったが――三十路近いとは見えなかった。
「小波、さん?」
 名を呼ばれて、恵理の顔に小波は目を向ける。やや潤んだ瞳を、上目づかいにしてこちらを見る彼女。
角度によっては、未成年のようにも見えることもある。
 ……もしかしたら、化粧をうまく使えば『来年大学受験です!』なんて言っても通るかもしれない。
 そんな考えが浮かんだのだが。
(……さすがにそれはない、か)
 小波自身はそう思う――確信しているのだが、それはひいきというものなのだろう。
 痛いAVみたいになることが、簡単に予想できた。
「はずかしい……んだけど」
 あらゆる個所をじろじろと見られて、恵理が小さく身じろぎをする。
とりあえずその言葉は無視することにした。
 右手を彼女の股間へと伸ばす。そのまま人差し指と中指を卑裂に押し当て、広げた。
「ぁぁぅぅぅ……」
 両手を顔に押し当てて、真っ赤になった頬を隠す恵理。
広げられた花弁からは、一滴の蜜がこぼれおちてきた。
指ですくうと、もう一滴。さらに一滴。
もの欲しそうに震える小さな孔からは、熱気が立ち上っていた。
「駄目だなぁ、恵理は。こんなにあふれさせて」
「! ……っっ!!」
 べろん、と舐める。雫がさらにこぼれ出した。
同時にピンク色の膣口がひく、ひくと蠢く――鼻に届く、女の香り。
嫌になるほどきつくなく、決して無臭ではない。ちょうどいいバランスの匂いだ。
「あっ! なめ、るの……きもち、いい……んっ!」
 犬のように、小波は舌を動かし始めた。
びちゃびちゃと唾液を塗りたくり、愛液と混ぜて、そして飲み込む。
豆の皮を舌で剥き、舌でいじる。嬌声が部屋に響く。
「小波さん、わたし、もう……」
 ――愛撫は、これ以上必要ないようだった。
「ふぁ……んっ」
 体を起こし、恵理の身体を覆う。
唇と唇を擦るだけの口づけから始まり。舌を絡ませ、歯を舐め、唾液を吸い合う深い口づけ。
触れて、離れてを繰り返す口づけ。知る限りの口づけを、試していく。
「ぷふぁ……はぁ、ぅ……」
 恵理の瞳がどろどろに溶けていくのを確認して、小波は男根をあてがった。
たぶん、今回も長くは持たないだろう。間違いなく男の面目丸潰れ。
 だが。
「……んんっ!」
 躊躇など、するはずもなかった。


 躊躇なく一気に奥まで貫かれた瞬間。恵理は一瞬意識を失った。
もとおり、異常なほどに興奮している身体は、ちょっとした刺激で、すぐに絶頂へたどり着いてしまう。
「ふぁっ! あっ、あっあっ!!」
 彼が腰を動かし始める。恵理の腰に手を添えて、激しく。
 技術も何もない、単純な前後運動。けれど一突き一突きが、内臓を抉るような力強さ 
もっと、もっと長く彼と交わっていたい。そう思っても、恵理の体力はどんどん擦り減っていく。
「あ゛ぅ、っ! ……っはっ! ぅ、ぁ」
 声を出すことが辛い、呼吸することさえ辛い。だが、それでも――
「おく、おくに、もっと、もっとぉ……!」
 恵理は汗に濡れた手で自らの太ももを持ち上げ、もっと奥まで彼が入ってこれるようにした。
奥に、奥に、奥に。ただひたすら奥に彼を感じたい。
「う、ぁ――――ん!?」
 突然、彼の腰の動きが止まる。射精が始まったわけではない。
「――え?」
 何が起こったのかわからないほど素早く、
体位が入れ替わる。恵理が上、彼が下。挿入感がさらに強くなり――
「あ・あ・あ……なんか、へん……」
 彼の先端が小突いている部分が、まずかった。
恵理の最も弱い箇所。最も淫らな点。
「あ……」
 彼の腰が少し動いただけで、恵理の意識が白く染まった。声も出なくなる。
それだけではない。二人が繋がっている所から、盛大に液体がこぼれ出した。
「え、恵理?」
「…………ふぁ……や、やん、ぁ……でちゃ、った」
 水を飲みすぎなければよかったのに。ふわふわとした思考の隅に、そんな言葉が生まれる。
漏れだした液体がシーツに大きなシミを作る――黄色くなかったのは、せめてもの救いだろうか。
「これって……潮?」
「は……ぇ?」
「いや、なんかそんな感じが」
 彼の手が結合部に伸び、液体を指に絡ませる。
冷静な気持ちでいればそれを止めることもできただろうが、今の恵理にそんな思考力は無い。
「ん……味だけじゃ、よくわかんないかな」
「……あじ?」
 ぺろりと指を舐めたあとにつぶやかれた言葉も、恵理には理解できなかった。
ただ、なんとなく嬉しかったが。
「まあ、いいや。……恵理、動ける?」
 体力はすでにない。動くことができるはずもない。なのに、それなのに、恵理の腰は動こうとした。
「うん……ん!」
 どんな動きをすればよいのか、よくわからなかった。
けれど、気持ち良くなってもらうために、気持ち良くなるために。
 恵理は動きだす。

 恵理の動きは、今までに見たことがないほど淫猥なものだった。
くねり、すりつき、緩急をつけて自由自在に動く腰。
「ふぁぁぁ……ひゅぅ、あ、んっ……こなみ、さん!」
 恵理の吐息に混じるように、小波の口からも喘ぎ声が漏れだした。
腰のあたりに疼く感覚が、もう数分も持たないことを告げる。
「んっ、んんっ! きもち、いい? わたしは、すごく……んぁ!」
 少しは男の意地を見せようと、腰を動かそうと思ったのだが――動かない。
体力の限界ではない。ただ、あまりに気持ち良すぎたせいだ。
「あああっぅ!!」
 せめてもの抵抗にと、小波は目の前で揺れる胸を掴んだ。
乳房を押しつぶす、揉みしだく。こりこりとした乳首をつねる、つまむ。
恵理の身体が何度も痙攣する。膣内の収縮は、小波の腰まで揺らすのではないかと思うほど激しい。
「恵理……恵理!」
「あ゛ー……ぅ、あっ、あっ、おく、おく……おくぅ……あっ!」
 絶頂にたどり着いたまま戻らないのか、恵理の目はうつろだった。
だが、それでも腰の動きは止まらない。それどころか一層激しく、上下に動き始める。
「くる、いくぅ……きちゃう、もう、だめぇ!」
 髪を振りまわしながら、恵理が叫ぶ。
ぽたぽたと汗が小波に降り注ぎ、じゅぶじゅぶと二人の体液が激しく混じり合う。
 自分の存在全てが、恵理に飲まれていく。そんな感覚の中、男根が大きく震えた。
 限界だ。
「俺も、もう……」
「あう、うぁ、ん、こなみさん、こなみさん!」
 恵理の声色が変わり、小波の名前が叫ばれて――確かな恵理の想いを、小波は感じた。
両手を伸ばす、肩を握り引き寄せて、限界まで密着する。
「ん〜〜〜!!!!!」
 離さない。この腕で、縛りつけてでも離さない!
声無き叫びをあげながら、小波は恵理の膣内に想いを放った。
 恵理の体温が小波を焼き、小波の体温が恵理を焼く。
 見つめあいながら、互いの息を止めるように口づけをしながら。
 どくどくと流れ込んでいく精液が、彼女を満たすのを感じながら。
「ん〜〜〜〜〜!!!!」
 二人の交わりが終わる。
 それを悲しむかのように、恵理の閉じた瞳から、
 涙がぽたりと零れ落ちた。


 ぽたりと、グラスの水滴がテーブルに落ちた。
「おかわりはどう?」
「あ、お願いします」
 聞こえてきた声に顔を上げて、すっかり顔見知りになった女将さんにコップを差し出す。
隣にいるソムシーは、彼女の隣にいるおじさんから野球のルールを教えてもらっているようだった。
『インフィーるどフライって、なんナンだ?』なんて言葉も聞こえてくる。
「……行かなくて、よかったのかしら?」
 梅酒が満たされると同時に、女将――幸恵さんが問いかけてきた。
彼女の視線の先には、小さなテレビがある。
日本シリーズ最終戦。普通なら、応援に行くべきなのだろう。
「……はい」
 球場に行かなかった理由は、二つあった。
一つ目の理由は、恵理自身のわがまま。二つ目の理由は――
「そう……あら、ごめんなさい」
 客に呼ばれて、微笑みとともに彼女は離れていった。
小さな居酒屋は、ほとんど満席だ。恵理にだけかまっているわけにもいかないだろう。
「……」
 一口だけ飲んで、テレビを見つめる。コマーシャルが終わりそうなところだった。
もうすぐ、九回裏の攻撃が始まるはず――
「!!」
 コマーシャルが終わった瞬間に大きく映った顔に驚いて、
恵理の手からグラスが滑り落ちかける。こぼすことは、何とか防いだが。
「…………」
 彼を見るのが、辛い。
 それが一つ目の理由――恵理のわがままだった。
 選手たちの顔を数人映して、アナウンサーが喋り始める。
「さて、いよいよ大詰めとなってきたわけですが……
今回の日本シリーズ、やはり注目されていたのは小杉選手と小波選手でしょうか?」
「ええ。あの二人の対決は野球ファン全てが望んでいたと言っても過言ではありませんからね。
もちろん、他の選手も彼ら以上に頑張っているのですが――――」
 二人の対決。
 聞こえてきた言葉が、頭の中で何度も響く。
 そう。二人が対決している場所に、自分は邪魔だ。
 そう思ったのが二つ目の理由だ。 根拠はなく、ただの言い訳のようにも思える。
 ただ、彼らは本当に――
「楽しそう、だもんね」
 それを邪魔したくは、なかった。
「ンー? 何がダ?」
 いつの間にかおじさんとの話を終えたソムシーが、恵理に話しかけてきた。
小さく微笑んで、恵理はテレビに視線を戻す。
 今日、小波は勝つだろう。彼自身のために、必ず。
 その確信は、やはり根拠のないものだった。だが、信じるに値するものだ。
「お、ダンナのトージョーだゾ!」
「うん!」
 打席に入る小波の姿に、恵理の胸が高鳴る。だが、彼の後ろ姿も同時に見えて、複雑な気持ちになる。
 胸を満たす彼への気持ちは――愛ではなく、未練でもない。
だが、彼に対して何も思っていないと言えば、嘘になる。
 一球目――空振り。
「ナンカ、真剣だナ?」
「……うん」
「ムー……コレデどうダ!」
 わしゃわしゃと頭を掻きまわしてくるソムシーを無視して、恵理はテレビを見続ける。
今はまだ、彼を見るだけでも辛いけれど。
(……でも、いつか)
 いつか、いつかは辛くなくなる日が来る。
 そしてその時――
「……オォ!?」
 かぁん。と、小さな音がテレビから飛び出して。
 居酒屋は歓声の渦に包みこまれた。

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