まゆみちゃんと俺の関係が「恋人」から「他人」になってから、数ヶ月。
 季節は秋。まだ学校に植えられている木々は紅く染まっていないが、もう少し経てば例年通りに鮮やかとなるだろう。

 俺はグラウンドの脇にある、校舎と部室を繋ぐ通路を歩いていた。
 今日は自主練習がてらに後輩の指導を行っていた。
 甲子園で二回戦敗退をした翌日には引退宣言をして、ついでに新しい部長も指名しているのだが、今でも週に三回は顔を出していた。
 通常ならば受験対策に追われる日々が待っていたのだろうが、俺はもうプロになる事が決定している。
 もう既に進路が決まっている者の道楽という奴だ。
(今日も疲れたな)
 心の中で愚痴をこぼす。
 監督はどこか人が変わったような様子で、それに加えて新しく指名したキャプテンも頼りない。
 世間は何故か、徐々にヒーローたちのことを忘れていったけれど、ヒーローが花丸高校野球部に残した影響の根は深かった。

 ――コツン、コツン、コツン。

 既に引退した身である以上、ある意味では他人事の問題に頭を悩ませていると、自分以外の足音が聞こえてきた。
 部室に出たのは俺が最後だったし、俺は誰ともすれ違っていない。
 グラウンドには誰もいないのだから、つまりは校舎の方から歩いてきているという事になる。
(玲奈ちゃんかな?)
 最近では毎日のように彼女と下校している。
 今日のように遅くなった日でも、何か理由を付けては待ってくれているのだ。
 呼び方だって自然と――彼女の白々しくもさりげない希望に応じて――「霧島さん」から「玲奈ちゃん」に変わった。
 彼女がどういう気持ちで、俺と接しているのかは分からない。
 だが、悪い気はしていなかった。彼女と一緒にいる時は、まゆみちゃんのことを忘れているような気がするからだ。

 ――コツン、コツン。
 足音が近づいてくる。
 思考している間に下がっていた頭を上げ、どこか悲壮感が漂うほどに燃えている夕日に目を細めながら、前を見る。
「おつかれさま、でやんす」
 予想とは反して登場した湯田くんに、度肝を抜かされた。


「お、おつかれ。部室に何かようなのか?」
 どこか申し訳無さそうな、バツの悪い表情の湯田くんに、俺は普段通りを意識して言葉を投げかけた。
 初っ端から噛んでしまったのは、緊張しているからだ。
「そ、そうでやんす。オイラ、忘れ物をしたんでやんすよ」
「そっか。湯田くんは部室に荷物をいっぱい置いてたからな。早めに全部回収しないと、捨てられるぞ?」
「それは困るでやんす!」
 緊張の原因――それは、湯田くんがまゆみちゃんの義兄さんだからだ。
 まゆみちゃんが記憶を失くし、俺たちが甲子園で敗北してから、俺たちは変わった。
 いや「俺とまゆみちゃん」「俺と玲奈ちゃん」のように「俺と湯田くん」の関係が変わった。
 どう変わったのかは、言葉では言い表せない。
 歯車が一つ抜けて、空回りしているブリキのおもちゃのような、そんな感覚を覚えるようになった。
 とりとめのない会話をしても話が続かなくなったんだ。

「……じゃあ小波くん、さよならでやんす」
 湯田くんはそう告げると同時に、部室へと走り出した。
 すれ違い、夕闇に消えてゆく湯田くんを、俺は引き止めなった。
「廊下を走ってはいけません」なんていう校則を、今この状況で出す勇気なんて俺にはなかったからだ。

 俺が出来たのは……ただ一言。聞こえるか聞こえないかギリギリの音量で、

 ――『まゆみちゃんのこと、よろしく』

 そう呟く。それくらいだった。


 校門の前で玲奈ちゃんと出会い、「偶然だよ、図書室でみんなと受験勉強してたの。別に待ってたわけじゃないよ」という、
 尋ねてもいない答えを触れずに聞き流し、下校路を歩いていく。
(こっそ〜り、こっそ〜り、えい!)
(ひょい)
「もう分かれ道だね」
「おぉぉぉお?! う、うん! そうだね……」
 時折俺の左手に伸びる玲奈ちゃんの右手を、意識的に避けながら俺と玲奈ちゃんの分岐点にたどり着いた。
 依然として、玲奈ちゃんが俺にどんな感情を抱いているのかは、分からない。
 おそらく分かろうとしていない。
「今日は待たせてごめんね」
「別に待ってたわけじゃないから、謝れるのはくすぐったいかな。それなら、ありがとうって言われる方が嬉しい。
 ほら、本村先生がよく「ん〜ごめんなさいよりありがとうの方が盛り上がるよね〜。あっはははー!」とか言うじゃない?」
「相変わらず微妙に上手いねモノマネ」
「うん、もう同窓会でやろうと思って今から練習中。
 じゃなくて、どうせなら小波くんから「ありがとう」って言われたいな」
 霧島さん……玲奈ちゃんは、にぃ、と笑った後、期待した瞳で俺を射抜く。
 俺は言い知れない昂揚感に襲われた。もう夕日は完全に落ちたというのに、俺の顔は真っ赤になっているに違いない。
「あー、えっと。その」
「うんうん?」
 玲奈ちゃんは意味を成さない言葉の羅列を頷いて片付けると、俺の両手を握ってきた。
 今度は避けられなかった。
「あ、」
 まるで告白するかのように、まるでまゆみちゃんと身体を重ねた時のように、体が熱くなる。
 このまま流されても悪くはないと、そう考えたその瞬間――

「あれ、小波さん?」

 まゆみちゃんの姿が瞳に映った。
 幻覚なんかじゃない。切れかかった電灯の下に、忘れるはずのない彼女が佇んでいる。
 甲子園で敗れたあの日から、ずっとずっと会っていなかった彼女が、俺を見ている。
 俺はすぐさま玲奈ちゃんから手を離して、数歩距離を置いた。
 慌てて何か喋ろうとするが言葉が見つからない。まゆみちゃんと再会して、俺が言葉を発するまで、二分は必要とした。


「あ、っ……ま、まゆみちゃん。久しぶり。もう退院したんだ」
「ええ。あれ、お兄ちゃんから聞いてないですか?」
「あ、あー聞いていたかもしれないな」
 相変わらずの他人行儀な態度に胸をチクチクさせながら、適当に回答する。
 実は言うと、母さんは未だにまゆみちゃんと会っているようで、逐一まゆみちゃんの情報を伝えてくるから、ある程度の近況は知っていたりする。
「それで、夜遅くにどうして?」
「あ、コンビニ帰りなんだ。これ」
 まゆみちゃんはプリンやヨーグルトが入ったビニール袋を胸の前に上げて、ぶらぶらと振った。
 なるほど、玲奈ちゃんの家は住宅街にあるし、まゆみちゃんの家も住宅街にある。
 この近くを通っているならいつか会うのは当然のことなのか。
 今度から気をつけよう。彼女の顔を見るのはつらい。

「……………………ねぇ」
 玲奈ちゃんは急に現れた女の子に話を中断され、訝しげな表情をしていた。
 言い換えると、不機嫌の極みのような表情だ。
「えっと……ちょっといい? 小波くん。この子、誰?」
「あ、ごめん。この子は湯田くんの妹でまゆみちゃんって言うんだ。まゆみちゃん、この人は野球部の元マネージャーのきりし」
「れ・い・な・ちゃ・ん」
「も、元マネージャーの玲奈ちゃん」
 ギロリと睨まれ、その迫力に急いで訂正する俺。
 女の子は怒らせると怖い人が多いってのは湯田くんが良く言ってたが、玲奈ちゃんは人一倍怖い気がする。
 というか、「玲奈ちゃん」と呼ぶのは二人きりの時だけって言っていたはずなのだが、
 どういうわけか、この紹介で不機嫌の極みから、更に三倍ほど不機嫌になったようだ。今ならオーラで人を殺せる。

「まぁいいけど。……それで、小波くんの何?」
「それは……」

 もちろん、『他人』だ。
 今の俺とまゆみちゃんの関係は『他人』『知り合い』『顔見知り』程度でしかない。
『友達』ですらないのだから、『恋人』なんてありえない。
 たとえ、俺と彼女が二ヶ月前までは恋人で、他人となったキッカケが事故というどうしようもない事だったとしても。
 冗談で口に出すことすら躊躇しなくてはならない。
 だから――

「知り合いだよ」


 カラン、コロン。
「いらっしゃいませー」

 グラスに入ったアイスコーヒーをちゅうちゅうと吸いながら、未だに不機嫌な目線を送る玲奈ちゃん。
 あの後……まゆみちゃんと少し話した後、まゆみちゃんと、俺たち二人は別れた。
 同時に玲奈ちゃんとも別れ、帰宅しようとした俺だったが玲奈ちゃんに引き止められ、今はこうして喫茶店にいる。

「私は納得してないであります」
「何でエセ軍人口調?」
「せっかく良い雰囲気だったのに」
 それについては否定できない。玲奈ちゃんが何に怒っているかなんて、ちょっと考えればすぐに分かる。
 だけど俺は踏み出せなかった。結果的に、怒らせてしまった。
 だから少ない小遣いをはたいて喫茶店なぞに来ているわけだ。
「それで、もう一回確認するけど、本当にあの子、小波くんとただの知り合いなの?」
「そりゃあね。湯田くんの妹だよ。つまり親友の妹で、まゆみちゃんから見た俺は兄の親友」
 ふーん、と白々しい嘘を吐かれたような声を出して、玲奈ちゃんは空になったグラスの中の氷をストローでかき回した。

「じゃあ何で、あの子との関係を訊く度にそんな顔するの?」

「……そんな顔って?」
「泣き出しそうな顔。小波くんって童顔だけど、泣き出しそうになるとさらに若くなるね」
 そこが可愛いんだけど、と小さく付け加える玲奈ちゃん。
「…………俺、泣きそうになってる?」
「なってるよ」
 気付かなかった。じゃあ、まゆみちゃんにも泣きそうな顔を見られたのか。
 俺は「そっか」と呟いて、目線を窓の外へと向けた。街路樹も学校の木々と同じく、まだ緑で一杯だった。

「さぁ、お姉さんに話しなさい」
「おいおい、同い年だろ?」
「私のほうが一ヶ月早いのよ。いいから、話してみなさい」

 そうか。それじゃあ、仕方がない。


――――――――――。


 今日、久しぶりにあの人に会った。お兄ちゃんの親友だという小波さんだ。
 試合を見ていてくれ、と彼からお願いされ、甲子園の中継を見ている時。
 結果は残念だったけれど、小波さんは必死に頑張っていた。試合中のあの人の姿を見て、何故だか心がざわついた。

 私は記憶喪失――記憶障害と言った方が正しい――らしい。
 実感はないが、以前の私は家族に対して死ねと言ったり、物を投げつけるような暴力を振るっていたそうだ。
 あの悪ふざけの多いお兄ちゃんの言うことだから、少し誇張表現も含まれているんだろうけど。
 ともかく、私は記憶を失った。
『過去の私』から『今の私』に変わったんだ。

 決して記憶が元に戻らないわけじゃない、とお医者さんは言っていた。
 むしろ、しばらくしていたら、なんてことのないタイミングで思い出すと言っていた。

 けれど、私はもう二度と、記憶が戻らないと思う。

 なら、『過去の私』と今まで付き合ってきた人たちは、『今の私』をどう思うだろう?
 お兄ちゃんは? お母さんは? クラスメイトは? 同級生は?
 ……小波さんはどう思うのだろう。分からない。
『他人』になるんだろうか。分からない。
 それ以前に『過去の私』と小波さんの関係は何だったんだろう。……分からないことだらけだ。

 本当、分からないことばっかり。


――――――――――。


 まゆみちゃんと再会して、数日経った。
 相変わらず湯田くんとは話をしていないし、野球部は頼りないし、まゆみちゃんも記憶を失くしたままだ。
 現状に変化はない。
 今までは「会ってしまえば我慢できなくなって、色々壊れてしまう。
 ……なんてセンチメンタルなことを考えていたのに、実際には何も変わっちゃいなかった。
 こんなことなら見舞いに行けばよかった。何度も母さんに催促されて、その度にイジけていたのは何だったんだろう。
 今更になって後悔する。……我慢、出来るじゃないか。
 泣きそうな顔だと玲奈ちゃんは言ったけれど、予想では泣いていたんだから、まだまだ許容範囲だ。
 今はそれでいい。今は隠せていなくても、いつかは不自然に自然と笑えるはずだから。

 そのための第一歩を踏み出すためには……?

「よし、小波くん。デートしよっか」
 玲奈ちゃんはホームルームが終わると同時に、俺の席へと駆け寄りそう言った。
 俺は軽く頷いて、何も書き込まれていない綺麗な教科書をスクールバッグへと投げ入れた。
 受験がないのは気楽なものだ。
「おまたせ、いこうか」
 立ち上がり、ざわつく教室を振り返らずに外へと出た。
 振り返ると、今日は休んだ湯田くんの席が目に映った。


 行きつけの喫茶店に入り、向かい合うように座り、適当にメニューを注文する。
 にやにやぁ、と玲奈ちゃんが笑っているが、どう反応したものか。
「今日ので、私たち公認カップルになったりしないかな?」
「今日ので公認になるくらいなら、ずっと前から公認だろうな」
「じゃ、公認だ」
 そう言うといなや、玲奈ちゃんは俺の手に指を絡ませ、胸元へと導いた。
(スイカップッ!)
 いわゆる特盛。
 手を繋いだまま、哺乳類の証たる女性の神秘に触れている。
 ……まぁ、指を絡ませられているから、揉みしだく事は出来ないのだが。
 前から積極的だなぁとかガード甘いなぁとは思っていたが、こんなあからさまな色仕掛けをされるとは思っていなかった。
「か、からかってるだろ?」
「そこは『俺のこと、好き?』でしょう?」
「どう繋がるか覚えてるから遠慮する」
 もう二年も前の懐かしい会話だが、意外と忘れていないものだ。
 玲奈ちゃんはアハハ、と笑って俺の手を離した。あっけらかんと笑う玲奈ちゃんは、どこか寂しそうに見えた。

「あー……」
 不意に玲奈ちゃんの顔が赤くなった。
「恥ずかしくなった?」
「うっさい」
 図星のようだ。
 後から後悔するくらいなら、最初から色仕掛けなんてしなければいいのに。というのは、少し酷い言い草なんだろうか。
 玲奈ちゃんはコホン、と一つせき払いをして、スクールバッグから一冊のノートを取り出した。
 パラパラとめくり一通り確認した後、

「第一回『まゆみちゃんの愛を取り戻せ!』大作戦、ミーティングを始める!」

 ドンっ! とテーブルを両手で勢いよく振り下ろした。いわゆる「意義あり!」の体勢だ。
「弁護人の霧島さん。その作戦名はどう言った意図で付けたのですか」
「べ、弁護人? 作戦名が気に入らないなら候補を10は用意しているから、その中から選んでくれていいよ」
 差し出されたノートを開く。
『まゆみちゃんの愛を取り戻せ!』『打倒湯田っち100日間』『誰がために鐘はなる』『彼氏彼女の^2』……
「あぁ、愛を取り戻せでいいよ、もう」
「諦めた!?」

 ……作戦と言うほど、大それたものじゃない。

 まゆみちゃんと再会した後、この喫茶店で俺は玲奈ちゃんに全てを打ち明けた。
 高校一年の頃にまゆみちゃんに出会ったこと。まゆみちゃんと湯田くんは義理の兄弟で、家に居場所がなかったこと。
 なんとなく気になって、遊び始めたこと。その内に好きになって、付き合い始めたこと。
 キスをしたこと。幸せだったこと。
 まゆみちゃんが事故で記憶を失くしたこと。「見ていてくれ」と頼んでおいて、二回戦で負けたこと。それが原因で顔を合わせ難くなったこと。
 その後、まゆみちゃんと湯田くんが仲良くしているのを、湯田くん本人と母親から聞いたこと。

 吐き出したかったのかもしれない。背負わせたかったのかもしれない。自分でどういう意図だったのか分からない。
 玲奈ちゃんは俺の告白を最後まで何も言わずに聞いていた。
 時々相づちを打つ彼女の声は、昔見たドラマの母親役のように優しかった。
 全てを聞き終わった玲奈ちゃんが取った行動は、諌めるわけでも慰めるわけでもなく。

『小波くんはどうしたいの?』――俺の意思を確認する。たったそれだけだった。

 目が覚めるようだった。ウジウジとしている自分が恥ずかしくなった。
 我侭を言って、ただ怖いから、自分を恋人として見てくれないまゆみちゃんが悲しいから。
 そんな理由で避けていたなんて、馬鹿にも程がある。
 俺は何を望んでいるのか。現状の打開? 何を持って打開をする? そのために出来ることは?

 そうだ、答えはもう既にある。
 まゆみちゃんと会っても、まゆみちゃんとのことを思い出しても、泣かないように。
 過去じゃなくて、未来を見つめるように。
 端的に言えば、笑えるように。不自然な状況だろうと、自然に笑えるように。
 意気地なしで弱い俺は、そのための第一歩を踏み出す為に、お膳立てが欲しかった。

 繰り返すが、作戦というような大それた事をしようとはしていない。
「湯田くんと接触する」「湯田くんとチームメイトの関係を引き戻す」「まゆみちゃんと接触する」、ただそれだけのことだ。
 贅沢を言うなら、最近たるんでいる現役たちに渇も入れたい。

「湯田くん、見つかったって」
「じゃ、そろそろ行ってくるよ。みんなをよろしく」
 二人が飲み食いした分のお金をテーブルにおいて、席を立った。
 玲奈ちゃんにはやってもらうことがある。俺もやらなくちゃいけない事がある。
「うん。がんばれー」
 俺は玲奈ちゃんをおいて、喫茶店を飛び出した。
 目的地は河原――あの特訓の舞台だ。
 商店街を走る時、有田くん、台場くん、白石くん――懐かしいあの面々を見かけた。
 俺は一瞥するだけだった。彼らを説得するのは、彼女にお願いした仕事だ。


 ――――――――――。


 メガネの少年が投げた小石は、まるでバッタが跳ねるように河を渡り、そして向こう岸へと渡った。
 少年は河原にやってきては、毎日のように野球の投球練習をしている。
 彼が所属する野球部は、自分のチームに現れた『ヒーロー』を打倒するため、ここで秘密の特訓を行った。
 黒野博士という如何わしいにも程がある悪の科学者が発明した、これまた如何わしい練習道具のおかげで野球部のチームメイトは短期間で大幅な成長を遂げた。
 だから、黒野博士の特訓が終わった後になっても、少年が河原で野球の自主練習をすることは、不自然な事ではなかった。
 メキメキと実力を付けていくイメージがそこにある。精神っていうのは重要なもので、調子がよければ練習の効果も高い。
 ……練習を始めた当初は、本当に不自然な事ではなかった。
 少年が変わったのは、あの『夏』からだ。
 甲子園大会の二回戦では少年はエースピッチャーとして登板するが、最終的には五対四で敗北した。
 三対三で迎えた八回表、花丸高校野球部は堅実なバッティングを見せ、一点のリードを得た。
 八回裏を見事なピッチングで三者凡退で押さえ、追加点もなく最終回、緑満高校の攻撃――。

 悲劇は起きた。

 緑満高校は打撃面で言えば、力強いバッティングで兎にも角にもヒットを狙うチームだ。
 少年はそのクセを把握しており、少年はそれに合わせて守備を後退させていた。
 その裏をかかれた。
 九回裏、ツーアウトの場面で四番のセーフティバントが完璧に決まった。出塁を許してしまった。
 あまりの博打行為に虚を突かれた花丸高校は浮き足立ち……
 焦ったまま、落ち着く間もなく投げた対五番の第一球は、気が付けばバックスタンドへと運ばれていた。

 かくして、相手高校のジンクスに慢心した少年達は、嘘のような敗北に喫した。
 
「オイラは……!」
 少年はもう一度、石を投げる。
 今度は息抜きのような水切りではなく、ちゃんと彼が試合で使っているスリークォーターで。
 当然ながら石は水面を跳ねず、水面へと没した。
「あぁ……うああっっ……あぁああああああああああああああああああああ!!!! やんすぅぅぅっぅぅううう!!」
 もう一度石を投げる。今度はフォームも考えず、ただひたすらに、一心不乱と。

 試合に負けた後、放心状態から回復して一番怖かったのは、仲間の叱責。
 けれど、決して仲間達は少年だけを責めなかった。だからこそ少年は傷つくというのに。
 翌日になり新しい部長も無事決まり――そして、彼らは引退した。言い訳する暇も謝罪する暇もなく、彼らは離れ離れとなった。

 その時期と同じくして、もう一つの面倒ごとが少年を襲う。

 少年にはまゆみという義理の妹がいる。
 顔を合わせればキモイだのウザいなど言う可愛くない――外見に非ず――女だった。
 けれど、それは彼女が交通事故で記憶を失くす前までの話だ。
 記憶を失くしたまゆみは少年に対しても笑顔一杯で、少年の事を『お兄ちゃん』などと呼んだりする。
 ヲタクでありながら萌えが嫌いと言っても、自分のことをお兄ちゃんと言って慕ってくれるのだ。
 そりゃあ惚れる。今まで虐げられてきた分がツンデレ効果で威力が二倍だ。

 しかし実際には、少年が彼女に恋愛感情を抱くことはなかった。
 少年の親友が彼女の恋人で、あまつさえ記憶を失くしてから連絡を取っていない事実を知ったからだ。
「うぅ……顔、あわせにくいでやんす」

 明日は義妹の――まゆみの誕生日だ。……クソったれ、と少年は心の中で呟いた。次の瞬間。

「よう、湯田くん。見っけたぞ」


 ――――――――――。


「あぁ……うああっっ……あぁああああああああああああああああああああ!!!! やんすぅぅぅっぅぅううう!!」

 河原に着くと、湯田くんが狂ったように小石を河へと投げ込んでいた。
 湯田くんにも俺の知らないストレスというものがあるんだろう。と無責任なことを考えた。
 土手を降りて湯田くんに近づき、不意打ちした。
「うぅ……顔、あわせにくいでやんす」
「よう、湯田くん。見っけたぞ」
「ぶっ……!!?」
 湯田くんの口から透明な液体が飛んだ。顔に付着しそうになるのを間一髪のところで避ける。
「汚いなぁ」
「こ、こ、こ小波!! な、えっとこんにちわでやんす!!」
「あと少しでこんばんわだけどな」
 にぃ、と笑って見せる。
 普段と違う――いや、以前と同じような態度に困惑しているのか、湯田くんは何度も目を開閉していた。


「湯田くん。今日、学校休んでたよな。ここで何してたんだ?」
「あー……サボタージュでやんすよ。サボリ。ふけるでもいいでやんすけどね」
「湯田くん。不良嫌いじゃなかったっけ? サボるだなんて不良だな」
「さ、サボりたい時だってあるでやんすよ」
 俺もある。一応、授業は真面目に聞いているが、最近ではそれが苦痛になってきている。
 プロになる以上は世間体も気にしなくてはならない、なんて思って出来る限り寝てはいないのだが。
「まーいいや。湯田くん、俺と勝負しようぜ。一打席勝負だ」
「なんでやんすか? 実はオイラ、ここで自主練してたでやんす。オイラも来年からはプロでやんすからね。
 つまりは調整中なわけで、今ここで小波くんと勝負して変な影響が出たら嫌でやんす」
「ボールとバット、ついでにミットも持ってきてる。
 三振、フライなら俺の負け。フォアボールは二回まで仕切りなおし」
「人の話を聞いてるでやんすか?」

「後、投手と一塁方向以外へのゴロでも、俺の勝ちだ」

「…………」
 湯田くんの表情が一変する。
 目を限界まで見開いて俺を睨んでいる。自分が酷く卑怯に感じたが、訂正はしなかった。
「それで、勝負して何になるでやんすか? そんなことしたって、タイムスリップできるわけじゃないでやんすよ」
「あぁ、別に過去に戻りたいわけでもないしな。……俺が勝ったら、俺のお願いを聞いてくれないか?」
「なんでやんす?」

「OBを集めて試合しようと思うんだ。相手は花丸高校野球部」

 しん、と辺りが静まり返る。……ような気がした。本当はカラスが五月蝿かった。
 湯田くんは何も言わず、端に放っておいたらしい自分のグローブを拾い上げ、右手に装着した。
 それなりの距離を取り、湯田くんが首を振る。俺も湯田くんを見据えて、バットを構える。
 湯田くんが振りかぶり――刹那、高校時代には見なかったような速球が湯田くんから放たれた。
「うぉぉ!」
 無心となり、バットを振りぬく!

 気が付けば、ボールは湯田くんの遥か後方を飛んでいた。


 ――翌日の放課後。
 季節は秋といっても、昼間はやはり暑い。絶好の試合日和だ。
 もうグラウンドには数ヶ月前まで一致団結して、共に甲子園で戦ったOBたちが続々と集まっている。
 それぞれみんな、大きさは違えど甲子園で負けた事に納得できていない。
 ヒーローを乗り越えて手に掴んだ結果が、二回戦敗退だなんて格好が付かないじゃないか。
 ドラフトに掛かったのは俺と湯田くんだけで、他のみんなには受験が待ち構えている。
 そんな中、わざわざ集まってくれたのは、玲奈ちゃんの説得が成功したからなんだろう。

 しばらくすると、現役部員達が集まってきた。
「よう、みんな。昨日の内に霧島さんから連絡が入っていると思うが、今日は試合をやるぞ。
 追い出し試合だと思って我慢してくれ」
「い、いいえ! コチラこそ先輩方と試合が出来て光栄です!」

「玲奈ちゃん、何か余計なこと吹き込んでない?」
「ひゅ〜ひゅ〜♪」
 玲奈ちゃんは吹けもしない口笛を吹いて目を逸らした。怪しい。まぁいいか。

「よーし、勝負だ。いくぞ、現役!」
「ハイ! 先輩!!」


 ――――――――――。


 私は花丸高校が指定する自転車置き場に、愛車を駐輪すると急いでグラウンドへと目指した。
 お兄ちゃんに呼ばれているのだ。「大事な用があるから、学校が終わったらマッハで来るでやんす!」だそうだ。
 律儀に守るのも面倒だったけど、今日は確か私の誕生日だったはずだ。
 何かイベントでもやってくれるのだったら、その厚意を無碍にするのは心苦しい。
 どうせ、誕生日を祝ってくれる彼氏なんていないのだから。
 あれ……いないんだよね?
 クラスの男子が冗談めかして「俺、お前の彼氏だったんだぜー」とか言うから混乱します、はい。

 そんなことを考えている内にグラウンドに到着した。
 私以外にもチラホラとグラウンドを見学している人たちがいるようだ。
 何だろう? 甲子園に出場したから、その偵察とかがやってくるんだろうか?
(でも花丸高校の制服着ているなぁ……ん?)
 グラウンドに注目してみると、どうやら試合をしているようだった。
 ベンチに座っている部員も合わせて、合計40人を超える高校球児たちがグラウンドを沸かせていた。

「お、小波さんもいるんだ」
 小波さんはセンター? のポジションでバッチコーイと叫んでいた。バッチコーイに何の意味があるかは知らない。
 それは『思い出に無い』というわけじゃなくて、『知識として取り合わせていない』というわけだ。
 どうやら私は――記憶を失くす前の私は――野球が嫌いだったのか、それとも全く興味がなかったようだ。
 私としては――今の私としては――少しだけ興味があるのだけど。
 まぁ、お兄ちゃんも小波さんもプロ選手になるらしいからであって、特に深く知るつもりはないのだが。
 ……あれ、お兄ちゃんはともかく小波さんのことをそこまで気にするのは何でだろう。まっいいか。

 とにかく、試合の流れを知りたい。
 そう思った私は、近くにいる女の子に目を付けた。私よりも少し背の低い、おとなしそうな雰囲気がある女の子だ。
 黒色のワンピース……でいいのかな、この服。わかんないけど、が似合っている。細くて羨ましいなぁ。
 どこか儚げだけど、他の人よりも真剣に見ていたようだから、私は話しかけた。

「ねえ、これって何の試合だか知ってる?」
「……………………」
 待つ事一分。
(あ、これ私無視されたのかな)
「……私のことが、見える?」
「うん? うん、見えるよ。ちゃんと見える」
「…………現役部員とOBの試合。OBの追い出し会の意味もあるらしい。
 今は九回裏、四対〇でOBチームが四点リード。場面はノーアウト満塁、四番。
 ……これでいい?」
「あ、うん、ええと」
 早口なせいであまり聞き取れませんでした、とか言える雰囲気ではなかった。可愛いのに雰囲気で損している人っぽい。
 むしろマニア受けしそうなことは、まゆみさんもノーコメントだ。
「………………」
「良く分かんないんだけど、つまりOBたちの勝ちは決まっている感じ?」
 だって四点も差があったら取り返すのに苦労するだろう。
 腐ってもOB、先輩なんだから一気に五点取られるなんて事は、
「いや……違う」
 あるようだ。
「え、違うの?」
「ノーアウト満塁だから、逆転のチャンスはある……ピッチャーの湯田は九回まで全力で投げているから疲れている。
 事実、初回はまるで寄せ付けなかった現役部員たちに追い込まれた。次は四番、ここでホームランが入れば同点になる。
 ホームランじゃなくてもヒットが続けば分からないし、外野フライでもこの状況では点が入ってしまう」
「へー……」
 意外にピンチのようだ。というか、ピッチャーお兄ちゃんなんだ。気付かなかった。
 お兄ちゃん、ピンチに弱そうだしなぁ。
 まともに試合をしているところなんて見たこと無いから分からないけど、あの人に火事場のクソ力的なものは期待できない。
「…………心配?」
「ん? んー……」
 誰のことを聞いているんだろう。
 ……お兄ちゃん? 確かに心配だ。あの人、見た目に寄らず――むしろ見た目通りにメンタルが弱い人だ。
 河原でお兄ちゃんが自主練をしていると聞いて迎えに行った時、ストレスからなのか絶叫している事があった。
 チーム全体? この試合にどちらが勝っても、私にはあまり関係の無さそうな気がビンビンと伝わってくるなぁ。
 小波さんたちが勝てば「良かったね」だし負ければ「残念だったね」で、それだけだ。
 そして、小波さん。私はあの人が勝利している場面を見たことが無い。
 甲子園の二回戦に進出しているんだから、間違いなく甲子園で一勝しているはずなんだけど、その時の私は色々と呆けていたから、見忘れてしまっているのだ。
 だから、心配と言われれば心配と言えるし、けれど心配でないと考えるなら心配じゃない。全然だ。
 答えるのに、どれだけの時間を要したのはか分からない。
 体内時計なんて持ってないし、時間なんて気にしていなかったから。けれど、まだ現役チームの四番打者は構えたままだ。
 私は、心の中で、彼のことを思い浮かべながらこう言った。
「いいや。全然。頼りになるもん、あの人。あ、なんとなくね」
「……」
 女の子はコク、と満足したように頷き、そして私から視線を外してグラウンドに注目する。
 私も釣られてグラウンドを見やった先にはマウンドがあり、お兄ちゃんが振りかぶっている。
 四番打者に対する第六球目(だと思う、数え方が間違ってなければ)が、お兄ちゃんの手から放たれた――。

 近くで聞けば、ブンッ!! と音が聞こえたんだろうか。
 巨大な打撃音と共にグラウンドの向こう側へと飛び立った白球の、華麗な弾道を見つめ、私はそんなことを考えていた。
「……これで同点。負けるかもしれない」
「そうかな? もうフライがどうのとか、そういうの気にする必要なくなったんでしょ? これから三球三振を三連発だね、間違いない」

「あー、ダメダメ、湯田を下ろさない限りは無理だな」
「え?」

 ふと、後ろの方からおっさんの声がした。いや、比喩でも揶揄でもなく本当におっさんだ。
 
「おいそこの女子高生一人。一応訊いとくが、お前、ここの生徒か?」
 しかもなにやら不遜だ。おっさんは赤い羽織をバサァ! と翻してアゴのヒゲを撫でた。
 ん、一人? 『一人』という単語に違和感を持って、あの女の子の方へ振り向くと、
(あれ?)
 もう彼女はいなかった。つくづく変な子だ。
「何キョロキョロしてるんだ」
「いいえ。ちょっと不思議体験したもんで。
 後、見ての通り思いっきり部外者です。でも兄がこの学校に通ってるんで立ち寄りました。
 許可証持ってますけど、確認します?」
「いや、連絡が入ってたから、その手間はいらない。湯田の妹だな」
 なら何でそんな不遜な態度取って話かけてんだ……?
 と思ったら私のこと知っているのか。有名人だな私。驚き桃の木山椒の木って奴だった。
「はい、そうですけど。あの、お兄ちゃんが降りないとダメってどういうことですか?」
「そのまんまだよ。もうグロッキーなんだ。
 試合展開も地味に甲子園の二回戦……お前が見ているかは知らないが、湯田のせいで大敗した試合な、それに似てるしな。
 九回になった時点で、救援を出してやるべきだった」
「はぁ……。じゃあ、お兄ちゃんは負けちゃうんですか?」
「さぁな」

 別に、勝っても負けても何も変わらない。それは絶対だ。
 追い出し試合とか言っているけど、引退は数ヶ月も前に済んでいるのだから。この試合の意図が見えない。私に見せようとした理由が分からない。

 捕手の人が審判らしき人に話しかけて、みんながお兄ちゃんに駆け寄っていく。

 ……真剣だ。楽しそうだな。


 ――――――――――。


 湯田くんが四番打者に放った第六球目は、タイミングもパワーの乗せ方も見事としか言いようがないほど、完璧なまでにホームランゾーンに突き刺さった。
 現役部員達が「おぉぉぉぉぉ!」と熱狂し、数十人くらいはいるらしい観客も「わぁわぁ」とざわついていた。
 森盛くんが審判(現役部員の一人に任せてある)にタイムを申し出たので、湯田くんの下へとみんな集まった。

「ご、ごめんでやんす……」
「いや、気にしなくていいよ湯田くん。配球をミスったのは捕手である僕の責任だ」
「まぁいくら無死満塁とはいえ、後輩を敬遠するのは格好付かないからな。あの場面じゃあれが"普通"だぜ」
「何ッ、あの場面では"普通"だったのか!」
「あー、野丸、ちょっと黙っとけ」

 みんながみんな、思い思いに湯田くんに言葉をかける。
 まるであの時――甲子園で負けた時のようだ。失敗をしてしまって、湯田くんを慰めて、そのまま投球に戻り、そしてホームランを撃たれる。
 負けてしまう、このままじゃ。
 別に負けたって何も変わらない。勝ったって、何かを手に入れられるわけじゃない。
 過去に戻りたいわけでも、過去の再現をするつもりだったわけでもない。

 けれど、俺は嫌だ。

 俺はまゆみちゃんがいる方向を見つめ、そして湯田くんに視線を戻す。
 さっき気付いた。まゆみちゃんが俺たちを見ている。
 負けたくない。ここで勝ったって、まゆみちゃんの記憶は戻らないって分かっている。
 ここで頑張ったって、まゆみちゃんが再び俺のことを好きになってくれる保障なんて、どこにもない。
 だが俺はもう二度と、彼女に無様な姿を晒したくない!

「みんな、聞いてくれ」


 ――――――――――。


「おぉ、一気に三連続奪三振! お兄ちゃんもやれるじゃん。九回裏終わったね」
 どうよ、と何故か横で私と一緒に観戦していた赤い羽織のおっさんに話しかける。
「何をやったんだが。ヒーローの時といい今回といい、勝手にやりやがって」
 ヒーロー? 何のことを言ってるんだろう。
「見た感じ、小波が何か言ったっぽいな。まぁいい、流石にOBが負けると体裁も悪いからな」
「勝てるんですか?」
「さぁな。俺に訊くなよ」
 そりゃそうだ。

 数分後、一番から始まった十回表でOBチームは二点をゲットし、
 更にその十数分後、相手の二番打者にホームランこそ打たれたものの、アドバンテージを守りきってOBチームは勝利した。
 追い出し会にしては現役チームがガチで勝ちに行っていたのが印象的だった。
 OBチームはみんなでお兄ちゃんを胴上げしていた。
「勝ちましたね」
「そうかい。なぁ、湯田の妹」
 赤い羽織のおっさんが今まで築いてきたイメージとは全く別のシリアスな顔をしていた。相変わらず偉そうな呼び方だ。
「なんですか?」
「お前、この試合を見て、何か変わったか?」
 私はその台詞を言われて、何でそんなことを訊くんだろう、と不思議な顔をしていたようだ。
 おっさんはボサボサと頭を掻いて、空の方を見やった。もう夕日で真っ赤だった。

「あー、なんでもない」
「おっさん、そういうのいいから」
「……ちっ、例えば、俺の中のヒーローとか。例えば、湯田や小波、OB連中の中の"何か"とか。
 例えば、現役連中の中のOBへの態度だとか。この試合で何かが変わったように感じたんだよ。
 あいつらは変わってないって言い張るかもしれないし、事実、大きい劇的な変化はない。
 あいつらがメチャクチャ強くなったわけでも、過去が入れ替わってOBの連中が甲子園優勝できたわけでもない。
 目に見えない、本人達が感じることの出来ない部分で『変化』してるように感じたんだよ。
 見てみろ、OBチームは良い顔しているし、現役チームももうそろそろ照明が点灯しそうな時間なのに、練習をし始めたぜ」
「はぁ。そうですか」
 私は変わった……のかな。
 記憶を失くす前と『今』は大きく変わったと思う。それは自他共に認めてる。でも、この試合を見て、何か変わっただろうか。
 相変わらず一生懸命に野球をする小波さんに少しだけ胸が踊ったりはしたけど、それだけじゃないか。
「うーん……」
「まぁいいさ、大人のちょっとした勘違いって奴だ。それより、さっきから小波が手を振ってるが、お前を呼んでるんじゃないのか?」
「え?」


 ――――――――――。


「おーい!」
 大きく手を振る。もうまゆみちゃんと顔を合わせるのに、躊躇いは無い。
 俺と湯田くんはまゆみちゃんの下へと駆け寄った。
 近くに佐和田監督がいて吃驚したけど、どうやら無断で試合した事には怒ってないようだった。
 まぁ、正確には報告していなかったのではなく、報告したくても避けられていたわけだから、叱られる謂れはないのだけど。
 監督は理不尽な性格してるからな、うん。
「いつから見てたでやんす? 試合前にはいなかったでやんすよね」
「それは当たり前だろ、湯田くん。俺たち、授業が終わったらすぐに試合し始めたんだし」
「九回の表からかな。ノーアウト満塁って言うんだっけ? あの場面から見てたよ」
 ノーアウト満塁は九回裏、つまり現役たちの攻撃だったわけだが……訂正するのもテンポが悪い。
 そんなことを考えていると、三人の間――いつの間にか監督はどこかへ消えていた。本当逃げ足の速い人だ――に妙な沈黙が流れる。
 ……う、耐えられない。沈黙が痛い。

「えー、と。そういえば、まゆみちゃんはどうしてここに?」
 試合では『まゆみちゃんが見てる! まゆみちゃんがこっちを見てるぞ! おぉぉぉ!』てな具合に、
 一人で盛り上がって何も思わなかったが、冷静に考えれば不思議だ。何か用事でもあったんだろうか。
「お兄ちゃんに花丸高校に来いって言われたんです。大事な用があるって」
「オイラ、まゆみに試合を見てもらおうと思ったでやんす」
 そうだったのか。
 ん? しかし今回こそ湯田くんが九回裏で調子を崩し、打ち込まれたからこそギリギリで間に合ったが、
 そうでなければまゆみちゃんは間に合わなかったんじゃないか?
「あれ、じゃあ試合の日程を休日にした方が確実だろ。何で先に言ってくれなかったんだ」
「いや試合はオマケでやんす。急いで来いと言ったのは試合に間に合わせるためでやんすが、間に合わなくても良かったでやんすよ」
「じゃあ本命は何だったんだ?」

「まゆみに小波くんを紹介しようと思ったでやんす」

「え、あ? お?」
 どういう事だ? 俺は湯田くんの発言に意表をつかれ、意味のない言葉を連発した。
 同じくまゆみちゃんも面食らっている。
「つまり、どういうことだ?」
「オイラは女の子と付き合ったりした事がないでやんすが、有田くんによると知り合いや家族を友人に紹介するのは、ごく普通のことらしいでやんす。
 というわけで、小波くんとまゆみは仲良くするでやんす!」
 グッ! と右手を突き出し親指を立てて、素敵な笑顔でコチラを見る湯田くん。
 あぁクソ! 「オイラ良い仕事すたでやんす……」みたいな恍惚とした笑顔に腹が立つ!
 俺は湯田くん首根っこを強引に掴んで、まゆみちゃんから距離を取った。
「どーいうつもりだ、ええ?」
「ぐ、ぐるじいでやんす! げほ、げっほ。
 だって小波くん、河原での勝負の後に『残るはまゆみちゃんとの関係だけだな』とか呟いてたじゃないでやんすか!」
「だーからって紹介の方法もあるだろ! 何この雰囲気、すっごい嫌なんだけど!?」
 それに今更『紹介』って不自然にも程があるだろう。
 そもそも人の独り言を勝手に拾うなと言いたい。
「そこはほら、小波くんオイラと違ってイケメンでやんすし? ガッツポーズするだけでフラグ立てればいいでやんす」
「うるさいイケメンでも何とかならない時だってある!!」
「イケメンって認めたでやんす!?」
 イケてるメンタルことイケメンだ。決して自分の容姿に自信があるナルシストではない。
「どうしてくれるんだよ、この変な空気。もう少し自然に出来なかったのか? ったく……」
「ご、ごめんでやんす」
 まゆみちゃんの姿を確認する。困ったような顔で頬を掻いていた
「あー……」
 き、気まずい。気まずいんだが……けれど、このばつの悪い雰囲気は、逆に絶好の機会かもしれない。
 まゆみちゃんと話していても、まゆみちゃんが俺のことを覚えていなくても、素直に、そして自然に笑えるように。
 それが最初の目標だったじゃないか。ここで適当に一発ギャグでもぶっ放して、友好な関係を築ければ、成功だ。

「ま、まゆみちゃん――」
「じゃあ邪魔者なオイラはさっさとトンズラかますでやんすかね〜♪」
「…………」
 ヤロウ、楽しんでるな。後で会ったら絞めよう。色んなものを。

「えと、小波さん……?」
「あ、いや。もう試合も終わったし、後は家に帰るだけだよな。送るよ」
「そんな、悪いですし」
 何か負い目でもあるのかと思うくらい即座に遠慮された。
「私なんかより、彼女さんに構ってあげてください」
 彼女さん? その時、まゆみちゃんの視線が、俺ではなくその後方に向いているように感じた。
 ふと気になって後ろに振り向くと、
「うぉっ」
 この世の何よりも『笑顔』っていうくらいの笑みを顔に貼り付けて、俺の方を見ていた女の子がいた。
 玲奈ちゃんだ。そういえば、今回の試合が上手く行ったら、お茶を飲みにいく約束をしていたような……?
 約束を反故にするつもりはないが、できれば空気を読んで頂きたい限りだ。
「まぁ、『アレ』は彼女じゃないから」
「いいんですか? 笑顔なのが逆に凄く不気味……あ、こんなこと言うと失礼ですかね」
「うん、まぁ、とにかく外に出よう」
 グラウンドを出る際、玲奈ちゃんがいた方向を見つめた。湯田くんがなにやらフォローしているようだ。
 貸しプラス一といったところか。むしろ借りマイナス一と言うべきか。感謝なのには変わりない、か。

 俺たち二人は、特に誰と会うこともなく学校を出た。
 二人きりじゃなくなったのは、外へ向かう途中、職員室に寄り道してまゆみちゃんが何かを返却したくらいだ。
 どうやら立ち入り許可証みたいなシステムがこの高校にもあるのだろうか。
 あまり気にしたことがなかったので詳しくないんだが、明日になっても気になるようなら湯田くん辺りに聞いてみよう。
「えーと、お兄ちゃんがお世話になってます?」
「あはは……まぁ、お世話しているかなぁ」
 校門をくぐって、住宅街。永遠に感じるほど長かった沈黙を破ったのは、まゆみちゃんだった。
 俺も返事をして、また水を打ったように静かになる。……会話が続かない。ここのところ、何度も体験させられている問題だ。
 湯田くんに対して、そしてまゆみちゃんに対して。
 湯田くんとは、ただ単純に関係がこじれていただけだが、まゆみちゃんは根本的に違う。
 まゆみちゃんと話せば話すほど、今のまゆみちゃんと以前のまゆみちゃんの相違点を探してしまいそうになる。
「そういえば私、小波さんに聞きたい事あるんですけど」
「ん、なんだい?」
 例えば。以前の彼女なら、自分のことを「あたし」と呼んでいたんだ。
 記憶を失くしてから初めて会った時もそうだったのに、いつの間にか変わってしまっている。
「私と小波さんって、どういう関係でした?」
「この前玲奈ちゃんに話していたのを聞いていたと思うけど、ただの知り合いだよ」
 例えば。以前の彼女なら、俺のことを「小波くん」と呼んでいたんだ。
 初めて会ったあの日から、記憶を失くすあの時まで。
「ふーん」
「何?」
「いや、何か引っかかるなーって思って」
 たはは、と一笑して首を捻るまゆみちゃん。
 例えば。以前の彼女なら、俺と会話する時、敬語なんて使わなかったんだ。ずっとタメ口だったんだ。
 例えば。以前の彼女なら、こんな不安定な状況に怒ると思うんだ。普段の口調と、可愛い顔からは想像も付かないような口汚い言葉を使って。
(…………馬鹿みたいだな)
 まるで粗探しだ。性格の悪さが露呈してしまいそうで身震いした。

「小波さん、ハンカチ要ります?」
「……え?」
「その、小波さん、私と会うといつも――って言っても退院してから二回目なんですけど、とにかくそんな顔しますよね」
 そんな顔、という事は俺は今泣きそうな顔をしているらしい。
 けれど、試しに目の辺りを手で拭ってみても、水滴は付かなかった。
「別に、平気だよ」
「そうですか。結構、情けない顔ですよ? ……ねえ、小波さん」
 不意にまゆみちゃんが足を止める。そのことに気付くのが遅れた俺は、まゆみちゃんを追い越して数歩、前を歩いた。
 横に並んで歩いていた二人の距離が、少しだけ遠ざかった。
「うん?」
 刹那、確かに俺は時間が止まったように感じた。五月蝿く鳴くカラスがいない。住宅街にあるべき喧騒もない。
 消えそうになり点滅している街灯が、ずっと消えたままだった。
 そして、やはりそれは俺が聞こえていないのだと納得したのと同時に、まゆみちゃんの口から言葉が紡がれた。

「私は、そこまで変わりましたか?」

 彼女のこの発言で溢れた俺の感情は、筆舌に尽くしがたいと言えば良いのか、もうとにかく文字に出来るものではなかった。
 意図が見えない。理解できない。記憶を失ってここまで変貌しているのに『変わったか』だって?
 変わったに決まっているだろう。変わっていないはずがないだろう。
 それは林檎が重力に従うように、一と一を足せば二となるように、もはや当然としか言葉にできない事実だ。
 考えるまでもない。だからこそ理解不能だった。
 彼女は一体、どういう意味で、どういう意図でこんな質問をしている……?
「よく分からないな」
 ようやく出た俺の答えは、お茶を濁すような、そんな生ぬるいものだった。
 だってそうだろう。俺は、まゆみちゃんのことを諦めきれない。
 記憶が戻るのが何時になるのか分からなくても、それまで待つ気持ちでいる。

「記憶を失くしてから、ずっと思うことがあるんです。私は以前の私と変わったんだろうなって。
 だって覚えてないんですもん。記憶が戻りそうにもないからね。戻したいとも思いませんし。
 で、私が変わったとしたら、前の私と関わってきた人たちは、一体今の私をどう感じるんだろうって思ったんです」

「それは……」
「例えば、お兄ちゃんと私はすっごく仲が悪かったらしいんですけど、今では一般的な兄妹だと思ってます。
 例えば、学校の先生が言うには、先生に暴言を吐く子だったらしいんですけど、今では私、そんな面倒事嫌なんで無視ってます。
 それってひどく違和感のある事なんじゃないかなぁって。どう思うんだろうなぁ、って」
 難しい問題だった。
 内容だけを聞くなら、態度が軟化している分、今現在の方が以前よりも『良い』のかもしれない。
 俺にとっては違和感だらけの『今のまゆみちゃん』だが、湯田くんにとっては可愛い妹に大変身しているわけだ。
 いや、生まれ変わったんだ。
「でも、もし私に異物感を覚える人がいるとして、それって私が変わりすぎたからなのかなぁとも思うんですよ」
 なるほど。そこで「そこまで変わりましたか?」に繋がるわけだ。
 確かに、彼女は以前の彼女を知らないんだから、別物扱いされるとその分、以前の自分がどんなものだったのか、気になるんだろう。
 
 つまりこれは『質問』じゃなくて『愚痴』なんだ。

「すいません、なんか」
「いや、いいよ。記憶喪失する前の君も、初対面でいきなり家庭の悩みを打ち明けてきてたんだぜ」
「うっわ、恥ずかしい」
「はっは、照れるな」
 言葉とは違い、羞恥の色は見えなかった。他人事に感じるからだろう。

 だが、これで少しだけ、気が楽になった。
 自分のことばかりで頭が回らなかったが、彼女は彼女なりに生きている。彼女は彼女なりの悩みを持っていて、彼女は彼女の考えを持っている。
 それは当然なことで、人間らしさのように思えた。
 記憶を失くしたまゆみちゃんを、どこか『まゆみちゃんの偽者』と心の隅で思い続けていたけれど、
 たった今――『もう一人の彼女』として、受け入れることが出来たと思う。
 もしかすると『受け入れてしまった』の間違いかもしれないけれど、今は考えないでおこう。
「あー、なんか急に恥ずかしくなってきた。さっきの、忘れてくださいね。なんか自分に酔っているようでキモいですし」
「いやだね、一生覚えてるね」
「なっ! なんで急にそんな子どもっぽくなるんですか」
 そりゃ当たり前だろう? なにせ、今までぎこちなかった分が全部上乗せされてんだから。
「まぁまぁ、いいじゃないか」
「よくないです。表情もいきなり余裕ある雰囲気になってますし。っちょ、近づいてくんな」
 おぉ、どうやらこの不自然な状況で自然な笑顔を作れているらしい。目標達成ってやつだろうか。
 じわじわとまゆみちゃんに詰め寄る。傍から見ると変態に間違われるかもしれないが、人通りの少ない住宅街だから気にしなかった。
「そうだ、商店街の喫茶店に行かないか? 何かおごったげるよ」
「え、もう帰る気満々だったんですけど? あぁだから近づくなよ、空気おかしいって、こら!」
 冗談は絶好の潮時を読むことが出来てようやく言えるモノだ。
 というわけで、俺はまゆみちゃんから離れた。まゆみちゃんは顔を真っ赤にして、ぜぇぜぇと息をしている。
 さすがに焦りすぎだ。襲うわけないのに。……ないよな?
「あー、なんか小波さんに失望したなー、小波さんから小波に格下げって感じ?」
「うわ、ひっでぇ」
「ひどくなんかねぇよ変態」
 でもまぁ、敬語よりは幾分かマシだろうか。

「よし、じゃあまずは商店街に向かうか」
「ちょっと、私の言ってること聞いてる? おい先行くなよ!」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃない!」
 全力でツッコミが入る。まったく、嫌なら勝手に帰れば良いのに。変なところで律儀な女の子だ。
「しかたないな、何か一つだけ質問に答えよう。嘘は言わないぞー」
 自分でも驚くくらい笑みがこぼれる。……なんだ、余裕じゃないか。
「喫茶店で何を話すんだよ!」
「そんなことでいいのか?」
「あー、まて、何か恥ずかしいことにする」
「ちなみにサービスで答えると、喫茶店では主にまゆみちゃんの愚痴を聞きだそうかと思う」
 即座に「キモイ!」とトゲのある言葉が返ってくる。うん、なんか楽しいぞ?
 自分はMの素養なんてなかったと思うんだが……、まぁいい、目覚めたと言う可能性もなきにしもあらずだ。
「待って、先々行くなよ。せめて自転車、学校に自転車おきっぱだから取りに戻りたいんだけど」
「えー、じゃあ先に質問してくれよ、取りに行ってる間に答えを考えとくから」
「答えを考えるって本当の事じゃないのか。あー……そうだな」
 左手で右肘を持ち、右手で顎を撫でるまゆみちゃん。どこかの探偵のようなポーズだが、妙に似合っていた。
「……よし」
 頷いて「私良いこと考えたよ?」と言いたげな満面の笑みを見せる。

「今日の試合の九回裏、ノーアウト満塁からのホームラン! その時、何て言ったの?」

「そんなことでいいのか?」
「うん。あの赤い羽織のおっさんが、小波が何か言ったんじゃないかって言っててね。なんとなく気になってるんだよ」
「よし、じゃあ適当に考えとくから、早く自転車を取りに戻ってくれ」
「もう真面目に答える気ゼロだな!」
 捨て台詞のようにそう言ってから、花丸高校に向かって走り去るまゆみちゃん。
 もう空は真っ暗で、校門が開いているようには思えなかったが、まぁすぐに戻ってくるだろう。
 あっという間に視界から消え去った、妙に足の速いまゆみちゃんを思い出してそんなことを考えた。
 さて……しかし、質問の内容が、よりにもよって「あの時なんと言ったか」ねぇ。
 たとえば本当はどういう関係だったの? とか、そういうのを期待してたんだけど。

 ……まぁいいか。質問こそ違えど、答える内容にそれほどの違いはない。
 恥ずかしいし、今まで『知り合い』だと言いくるめてきたのが無駄になるが、それもまた一興だ。
 ある意味では決別で、ある意味では告白の台詞を、出来れば噛まないように、頭の中で反復させる。

「今日は秋の夜分にしては暑いなぁ」
 そう呟いて、俺は天を仰いだ。

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