「…あ〜あ。真央ちゃん、今日もパトロールに言っちゃったなあ」

「…」

「なんだか淋しいよ、スキヤキ」

「…な〜ご」

「あーあ。本当にヒーローなら、まさしく今切ない思いに打ちひしがれている俺を、慰めに来て欲しいなあ。
 はあ、真央ちゃ〜ん…」

「フシュッ」

「あ、クシャミするなよ。鼻水が腕にかかっただろ、スキヤキ!」


   スキヤキと主人公




 随分前の事だった。
 もはやその時期を忘れてしまったくらい前の頃に、真央ちゃんは何かを思い立ったのかいきなりどこかへ出向かうようになったのだ。
 初めて居なくなったのは、ええと。
 …デートの途中だったかな。

「行かなくちゃ」

「へっ?」

 俺がメキメキRのさおりちゃんのコスプレを真央ちゃん着て貰う様にせがんでいたら、唐突に真央ちゃんが姿をくらませて消えてしまった。
 あまりに意表を突かれた為、呆気に取られてしまい、俺はさおりちゃんのコスプレを持ったまましばらく立ち尽くした状態から動けなかった。
 なんとか思考が回る様になった時『愛想を尽かされた』といった言葉ばかりが俺の脳裏で反響して、半ば狂乱になって真央ちゃんを探しに町を駆けたんだ。
 そしたら、案外近くに真央ちゃんの姿はあった。
 …公園のゴミ箱に頭ごと体を突っ込んでいて、えび反りに背中を曲げらせていた。

「死ぬって! しゃれじゃなく死ぬ! ごめん、そんなにまで真央ちゃんがコスプレをしたくないだなんて思わなかったよ!」

「…いい」

「…真央ちゃん?」

 ゴミ箱から真央ちゃんを引っこ抜きつつ大袈裟なリアクションの注意と謝罪を言い立てる。
 …されども、真央ちゃんの機嫌は俺の予想していたものとは違い、別段怒っても、いじけた様子のものでもなくただ淡々としていて視線を俺の眼に見据えるのみ。
 数秒の沈黙の後、真央ちゃんは俺に一言だけ投げかけた。

「ヒーローだから」




「…ああ。独特のえぐみが食道から鼻膣まで透き通るよ。お茶って、こんなに美味しいんだなあ〜」

「なおん。…フスン」

 父さんと母さんは出かけている。
 俺は今居間のちゃぶ台前に座って、ニッポンの美『お茶』の心に触れ合っている最中だった。
 折角の休日だっていうのに左隣がいつもより眺めが良い為に、戸惑いを紛らわせるために仕方なく普段家に居る時は絶対にやらないであろう事に精を出しているのだった。
 お茶を入れてみようと思ったのも、気まぐれの一種。
 湯飲みに入ったお茶の質は粗末なもので、適当にお茶っ葉をこしてきゅうすから大雑把に注いだだけのものだけれど、お茶の渋みとはこんなに舌の奥底にまで届くものなのか。
 こんなに満足するなんて、熱湯をきゅうすの茶葉越しに入れている時はさっぱり思いもしなかった。
 物は試しだなあ、熱々の温度を保ったお茶の感触、これは癖になりそうだぞ。
 今度母さんがお茶を入れる時、俺も一杯頼んでみようかなあ〜…。

「なっ」

「ん? …よ〜しよし。スキヤキもニッポンの文化に触れたいんだな、わびさびかく語りきだな、よ〜しよし…」

 人恋しくなったのか、スキヤキが俺の側に寄り添ってくる。
 スキヤキの頬回りを指で軽く撫でていると、スキヤキはふとももにカリカリとたわんだ腕を乗せてきて、そのまま身軽に飛び乗ってきた。
 ふとももに腰をすわえ、俺のお腹にぐりぐりと顔を押し付けてくるスキヤキ。
 その内にスキヤキの興味はちゃぶ台の上に置かれた湯のみへと変わり、やや腰の引けた態勢から湯のみに対して猫パンチを繰り広げ始めた。
 パンチと言うよりも、そ〜っと腕を伸ばして、湯のみの腹部を触り温度を確かめ窺っている様子で、肉球に感じた熱い刺激に驚いたか早急に手を引っ込めているといった方が正しいけれど。

「なおん」

 スキヤキのサラサラで整っている毛並みを、首周りを中心に手首や指を巧みに使い存分に掻き撫で回す。
 時折ボディタッチやお腹をうりうりとまさぐることも怠らない。
 特にお腹周りは毛並みが薄く、撫で繰り回すとぷにんとした贅肉の感触と体温を手のひらに直に感じて心地が良い。
 こら、スキヤキ。お前、ダイエットしていないんじゃないか?
 にゃんこがぐーたらしていたら駄目でしょう! お仕置きをしてやる、このこの!
 …スキヤキは鬱陶しそうに顔をしかめて、面白くない表情を浮かべていた。

「ごめん、ごめん。湯のみに興味があるんだったな、もう邪魔はしないよ」

「ゴロゴロゴロ…」

 気を取り直したか、スキヤキはまた、湯のみに対するちょっかいを再開する。
 さっきまで自由を奪われていたうっぷんを晴らすためか今度の猫パンチの威力は勢いがついたもので、…、…ん?
 ちょっと待った、それだと力が強くて湯のみが倒れて中身がこぼれてしまうんじゃないか!?
 …考えた時には、既に湯飲みが傾いていた。
 俺のほ・う・に♪

「…あっちゃあ゛あ゛ああああ!!」

「…クシュッ。…ぶるるっ」

 急速に込み上げてくる高熱の刺激に耐えられなくなり、俺は思わず飛び上がった!
 …ガタリとちゃぶ台越しに無情な音を立てて、湯のみの口が俺の座っている方向へ面を向ける。
 湯飲みにはまだまだ飲みかけの中身が入っていて、スキヤキと俺の下半身にお茶がもろに被ってしまったのだった。
 ふとももに腰を落ち着けていたスキヤキは、突発的な地盤変化にも動じることなくごく自然に床へと着地する。
 美しい放物線を描いたそのジャンプは、ある意味芸術とも感じ取れた。

「あちっ! あちっ!」

 アホなことを考えても、当然ヒリヒリとこびりつく感触は消え去ってくれなかった。
 入れたての頃より幾分かは冷めているものの、そこそこの温度を持ったお茶の熱は、俺を悶絶させるには十分な温度だった。
 ジーンズからパンツにまで、熱が絡み合うように液体が吸収されて浸入してくる…。
 …そういえばスキヤキは熱湯を思い切り、さらに体全体に受けたんだよな。
 猫って水が苦手で、加えて俺ですらあまりの熱さに立ち跳ねたくらいの熱水なのに毅然と落ち着いた容体のスキヤキ、お前…。

「ふにゃっ、…ヴヴヴウ、ゴロゴロゴロ…」

 何事もなかったかの様に体を震わせて水気を跳ねさせ、床に横ばい目を細めるスキヤキ。
 スキヤキの声色はどこか緊張したたつぶれ声のものの、うつらうつらと瞼を落とさせて、ついに船を漕ぎ始めてしまった…。

「…違うだろ、こら、スキヤキ! お前、何湯飲みひっくり返してるんだよ!」 

「…zzz」

 スキヤキは取り付く島も見せず、ついに寝息を立てて眠りこけてしまった。
 
「…お前の大物っぷりには負けたよ、スキヤキ」

 恐らく居間の俺の表情はほとほとにうんざりした、呆れ返ったものなのだろう。
 …スキヤキだって、所詮は猫だもんな。
 好奇心が旺盛なのはいいことだし、別に怪我をさせた訳でもないし、仕方ないか。
 まるで世界地図を描いているジーパンと例外なく中までお茶が染み込んだパンツを脱いで、何か別のものに履き替えようと辺りを探る。
 うーん、居間には特に洗濯物が無いみたいだなあ。
 面倒だけど、2階の自分の部屋まで取りに行くしかないか…。
 ズボンを取りに行くついでに脱いだズボンを洗濯場に入れようと足を動かした、その時だった。

「なあ」

「ん?」

 スキヤキがその憎たらしいほどに可愛らしい肉球を、俺のかかとに乗せて動きを引き止めてきたのだ。
 たまたまスキヤキが手を伸ばした時に、当たったのかな?

「どうした、スキヤキ。すぐに戻るから待っててな」

「ふにゃあ」

 スキヤキはだだをこねたあんばいを示して、今度はぽふぽふと柔らかい肌触りのする腕を足にしがみつく様に絡めさせてきて、とことん行動を制止させてくる。
 どうしたのかな? 正直下半身すっぽんぽんの状態から早くズボンを履いて、抜け出たいんだけど…。
 火傷になっちゃったのか、空気に触れてヒリヒリするし。
 チクチクと痛む太ももをよそに、ふくらはぎに顔をすりつけてきて『にゃーん』と甲高い声をあげるスキヤキ。
 ゴロゴロと、上機嫌に喉も鳴らしている。
 …。

「…ばあ」

「…なっ?」

 ゆったりと自分の体を床に沿って伏せ、スキヤキの目線と同じ高さにまで顔を下げる。
 スキヤキも足にしがみついた状態から体を起こして、ゆったりと細長く滑らかな尻尾を揺らし、俺の顔へと近づいてくる。
 お互いに顔を向き合わせて、水を打ったような沈黙が流れた後、俺はスキヤキに呼びかけた!

「ばあ!」

「…なっ」

「ばあ、ばあ!」

「な〜ん、にゃあ〜!」

「あ、お前、普通の鳴き声も出せるんだ」

 顔と顔を対面させて、自分たちでもなんだか良くわからない鳴き声をかけあっている。
 やっている途中に自分で自分の行動をおかしく思ってしまい、思わず笑い声をあげてしまった。
 スキヤキは、そっぽを向いて『にゃーん』と呟くのみだ。
 やがて、この行為はお互いの瞳を見つめ合うものと変わってゆき、ついには一方的な質問の投げかけとなった。
 
「スキヤキ。…お前はなんで、スキヤキなんだ!」

「…フシュッ」

 スキヤキはさも興味ないですよといった態度で、前につんのめってうつ伏せに手を前に置いた態勢から起き上がり右足で自分の首筋を掻き始めた。
 心がさもしく居た堪れなくなった俺は、誤魔化しの意味も含めてスキヤキにもふもふの刑を要求することにする!

「こら、スキヤキお前! 淋しいじゃないか、お前をもふもふしてやるからな〜!」

「にゃ、にゃーーん!」

「…、…何を、しているの」

 いきなりに、背後から声が聞こえた。
 女の子の、か細くて落ち着いた声だ。
 …いや、そもそもこの声の持ち主が誰なのかなどとうの前にわかりきっている事だけれど、それを認めてしまうと、その…!

「…はしたない。えっち」

「…、ま、真央ちゃん、あはははは…」

 真央ちゃんが、いつの間にか家に戻って来ていたのだった。
 今日の町内パトロールを終えて、俺と一緒に食べようと買ってきたのだろう、二人で分けるチューペットアイスが入ったポリ袋を片手にぶら下げていた。
 …居間、俺の下半身は見事に素っ裸で、挙句の果てに脱いだズボンは近くに放って置いたまま。
 もはや弁解の余地などかけらほどに残されていなかった。

「あ、あのさ真央ちゃん、…違うんだ! これはスキヤキが俺を引き止めてきて、俺はスキヤキのわがままに負けて仕方なく…。
 …あ、おいスキヤキ! どこに行くんだよ、逃げんなよ〜!」

「なおん」

 顔が引きつっていることが、自分でもわかる。
 いかにも苦しい言い訳だが一応事実には沿っているため、真央ちゃんにわかって貰おうと必死で説得していると当のスキヤキがどこかへぬっと消えてしまった。
 動物は危険といったものをいち早く察することが出来るものだとはどこかで知ったけれど、あの裏切り者め!
 もふもふされていた時、満更でもなさそうに体を動かしていたじゃないか!

「…パー三四がどういう考えをしているか、よーくわかった」

 真央ちゃんが俺に圧迫してくる物言いをして詰め寄ってくる。
 完全に息子を見られてしまった俺は真央ちゃんに対して縮こまることしか出来なく、ただ早く時間が過ぎるのことだけを考えていた…。
 ああ、誤解と不幸とは重なるものだなあ、なんでこんなことに、…スキヤキめえ〜!

「羨ましい」

「ええ!?」

 心から思うがままの叫び。
 無意識でも意識していても、どっちだとしてもきっと同じ音色である頓狂な声をあげていたことだろう。
 日本人にありがちな建前と本音の二つの気持ちですら、全く共存のものだった。

「…ふん。いいもん、パー三四なんて大嫌い」

 とうとうべそをかいていじけてしまった真央ちゃんが、足早に玄関へと歩いていってしまいそのまま外へ出て行ってしまう。
 あまりに唐突な出来事に、俺はただ廊下前で立ち尽くし、棒立ちになることしか出来なかった。
 …ぷらぷらと粗末な俺の息子が、一応主張だけでもしておこうという魂胆か、虚しくぶらさがっている感触が、した。



「…え、ちょっと待ってよ真央ちゃん、羨ましいって何がーーー!?」

 必死に叫んだ断末魔も、部屋にただ虚しく反響して自分に返るだけ。
 どこからか、現状を罵って馬鹿にしてくるかのようなスキヤキの鳴き声が、俺の耳に入ってきたのだった。




「…早く会いたいから早めにパトロールを切り上げてきたのに、パー三四のばか」

「にゃおん」

「…スキヤキ。チューペットがあるから、半分こにしよう」


終わり

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