武美の様子がおかしい。
小波がそう感じたのは、夏真っ盛りの七月の半ば――ビクトリーズが勝利を収めたころだった。
その様子を一言で表すなら「そわそわ」している。
 初めはたいして気にしていなかったのだが、
二週間もその状態が続いているともなると、
さすがの朴念仁でも心配になってきた。
 それとなく聞いてみても、彼女は『なんでもない』と屈託なく笑うだけ。
 何とか上手く理由を聞き出せないものか、考えて、彼がだした結論、それは。
「……と、いうわけでどうすればいいと思う?」
「…………なんでオイラに聞くでやんすか?」
 人への相談だった。 漢方薬屋でバイトしているカンタ君は、
呆れたように半眼で小波を見つめている。
 確かに子供に相談する内容ではないことは確かなのだが、仕方がないのだ。
苦笑しながら口を開く。
「いや、カンタ君は俺より武美との付き合いが長いだろ? 何かいい案が浮かぶかな、と」
 最初はチームメイトに相談しようと思ったのだが、
周りには女っ気が無い男しかいない。
しいて言えば城田さんだろうが、夏休みの間は、
お嬢様に付ききっりで旅行に出かけるとかなんとかで今は連絡が取れないのだ。
「そういうことなら母ちゃんに聞けばいいんじゃない?」
「それも考えたんだけど、最近カンタ君のお母さん、なんだか俺に冷たい気がして」
 小波もたまにカレー屋でバイトをすることがあるが、
最近、カンタ君のお母さんはどうにもそっけない気がする。
……その態度がちょうど武美と同居し始めたころからなのは、気のせいだと思うのだが。
「そういえばそうでやんすね」
 女心は理解しがたいものだ、二人揃って溜息を吐く。
「……何か悩み事があるとかじゃないの?」
 カンタ君は意外にも的確に聞いてくる、彼を選んだのは間違いではなかったかもしれない。
「うーん、最近大きなのを解決したばかりなんだが……」
 たぶん大丈夫と言っていたから、解決したとは思うのだが。……確証はない。
「そうでやんすねぇ、それなら…………海に行くっていうのはどう?」
「海?」
「そうでやんす、海は女を大胆にするっていうでやんす!」
「海、海か、良いかもしれないな、どうせならカンタ君も一緒に行くか?」
 大胆になるかはともかく、たまには気分転換もいいかもしれない。
日ごろ世話になっているカンタ君とカンタ君のお母さんにも楽しんでもらえそうだ。
「もちろん行く! 早速今日母ちゃんに話してみるよ!」
「ああ、楽しみにしてるよ、そうだ、俺の試合がない日は……」
 眼を閉じれば波の音が聞こえてきそうなほど、彼の心は期待に満ちていた。




「へ?…………海?」
「ああ、たまには遠出もいいかなって」
 あのあと軽く汗を流し、二人で夕食の時間。
机の上にはスクランブルエッグとケチャップライスを混ぜたもの、
……ようするにオムライスの出来損ないである。
前回はお好み焼きの形だったのだが、退化しているのは気のせいだろうか。
武美の様子がおかしいことに関係、はしてないと思うのだが。
「海…………海かあ…………へ? 海?」
「なんだ、聞いてなかったのか? 来週の土曜日あたりの予定なんだが」
「えっと、あたしたちだけで?」
「いや、カンタ君とお母さんも来る予定だけど」
「そっか、なっちゃんたちも海に行くのは久しぶりだろうね……えっ!! なっちゃん?!」
「さっきから何を驚いているんだ?」
「いや、えっと、その、だから…………」
 武美はそのまましばらくぶつぶつと何か呟いていたが、突然立ち上がって。
「ごめん! ちょっと出かけてくる!」
「どうしたんだ、急に」
「なっちゃんたちにはあたしはオッケーだって言っといて! じゃあね!」
「おい、こんな時間に……」
 そのままどたばたと走っていってしまう武美。止める暇もなかった。
(…………やっぱり何かおかしいな)
 疑惑はさらに深まる、だが原因はわからない。
結局武美は二時間後に帰ってきた、小さな袋を持っていたのだが、聞き出そうにも
すぐに部屋に閉じこもってしまったので、何を持っていたのかはわからなかった。
そしてあっという間に海に行く日がやってくることになる。


 遠前町から電車で小一時間、タクシーで揺れること二十分。
その海は武美曰く、穴場として有名な場所らしい。
なんでも駅のすぐ近くに大きめの海岸があるらしく、
多くの人はそっちへ行くから穴場になっているのだという。
有名な穴場というのはなんだか矛盾しているような気がして、
小波はあまり期待していなかったのだが。
 実際に海を目にして驚く。
「……いい場所だな」
「でしょ?」
 透明感のある青に染まった海。浜辺にゴミも散乱してないし、人の数も適度。
もちろん海の家や更衣室もあって、道路の向こうにはコンビニまである。
「海でやんすー!!」
 浜辺に付いた瞬間、元気に走り始めたカンタ君。
おいてけぼりになる大人二人+大きな子供一人。
「あ、ちょっと! もう……あの子ったら」
「うーん、子供は元気でいいねえ」
 呆れたように微笑むカンタ君のお母さんと、けらけらと笑う武美。
「…………とりあえず、俺とカンタ君は荷物を置く場所とかを取っておきます。
二人は更衣室へどうぞ。あ、なにか荷物があれば俺が持っていきますよ」
 武美の言葉に思うところがあったが、そこについては触れず。
別のことを口に出す小波。
「はい、ありがとうございます、荷物は……あたしは特にないですね」
「あたしもないかな、それじゃまた後でね〜」
 歩き出す二人、見送っていると背後から声。
「おじちゃーん! 早くきてよ!」
 振り返ると服を脱いで水着姿になったカンタ君の、元気な姿。
微笑みを浮かべて、小波は熱い砂浜へと一歩を踏み出した。


 とりあえずカンタ君と準備運動をしたあと、
小波は荷物を置いた場所で二人が来るのを待つことにした。
遊び道具を借りに行こうかとも思ったのだが、そのお金が今は無い。
「わーい!」
 視線の先には波打ち際で遊ぶカンタ君。
まだ海の中には入らないようにと釘を刺したので、問題は無いだろう。
「………………しかし、暑いな」
 現在太陽は絶好調、痛みを感じさせるほど強い陽射しが浜辺にいる人々をイジメている。
それでも、浜辺にいる人みんな楽しんでいることは間違いないだろうが。
「…………おまたせ」
 しばらくして背後に足音、同時に元気のない暗い声。
「お、武………………美?」
 小波の言葉が詰まったのは、武美の水着姿に目を奪われたから、ではない。
振り返って目に入った武美の瞳がどんよりと曇って今にも死にそうだったのだ。
初めて見る彼女の水着姿に小波が集中できないほどの負のオーラが漂っている。
武美はふらふらと小波に近寄り、倒れるように体育座りで座り込んだ。
地面を見つめながら『圧倒的戦力によるイジメ』がどうこうだとか、
『あっちょんぷりけ』などと意味不明な言葉なんかをぶつぶつとつぶやいている。
声をかけていいものかどうか少し迷ったものの、決心して口を開く。
「…………どうしたんだ? 元気がないぞ」
「……………」
 死んだ魚の眼で、こちらを向く武美。ぼそぼそとつぶやいてくる。
「いやさ、覚悟はしてたんだよ? あたしはワンピースの水着しか着ることができないけどさ、
ちゃんとおしゃれなヤツ選んだし、準備に準備を重ねてアンタを悩殺間違いなし、みたいな」
「あ、ああ」
 海辺の若い女性はビキニタイプ、もしくはそれに近い水着が多くて、
ワンピースタイプの武美は少し浮いているかもしれない。
だが、白を基調とした生地に薄い花柄やなんやらの模様は、結構おしゃれで
武美の持つ子供っぽさ(実年齢九歳だから当たり前かもしれない)とよく合っている。
一般的な視線から見て、かなり魅力的な女性に見えることは間違いない。
「でもさ、でもさ、圧倒的な戦力差ってのを目の前で様々と見せつけられるとさ、
流石のあたしも落ち込んじゃってもしょうがないと思わない?」
「戦力差?」
 振り返る気力もないのか、指で自らの後ろを指さす武美。
その先には…………
「………………」
 カンタ君のお母さん――週刊誌には「カレー屋を経営する美貌の未亡人」などと
書かれたこともある――が数人の男に囲まれていた。
困った顔で彼らとなにか話しているようだったが……
「あたしもね、それなりにスタイルに自信はあったんだけどさ……アレは反則だよねぇ」
「…………ああ、そうだな」
 少し濃い目の赤のビキニ、シンプルながら大人の魅力を引き出す水着。
それに包まれた身体は女性の理想の体型、よく言われる言葉で表すならボン、キュッ、ボン。
まさにそれを体現したスタイル、十人中九人、いや百人中九十九人の男が
海辺ですれ違ったら振り返るであろう肉体がそこにあった。
「まずさ、子ども一人産んでるのにあの腰は反則だね。いや、あたしも腰だけなら負けてはないと思うけど」
「…………ああ、そうだな」
 そのくびれは、なんだか陶芸家が求めていそうな曲線だなぁ、と小波が感じるほど美しい。
腰だけを見るなら十代と言っても通用する気がするだろう。
武美も同じくスラっとしているのは間違いないのだが、いかんせん水着で肌が隠れているのが
大きいマイナス点となっている。
「続いてお尻、むちむちばーんって感じで反則だよね」
「…………そうだな」
 若干水着が小さいのだろう、はみ出しそうな尻肉は遠目から見てもおもわず触ってみたくなる。
健康的な男子中学生が見たら股間を押さえてしまいそうだ。これは十代の小娘が持つのは難しい。
武美は…………スラっとしている。
「最後に…………あのおっぱいはもう凶器でしょ、有無を言わさず反則だね、反則三つだから退場もんだよ」
「…………そうだな」
 大きさも素晴らしい、が、窮屈そうに張り詰めていることでさらに色気を倍増していて
下手なヌードよりも魅力的に見える。
実際に男が群がっているのも胸の魔力にやられている男が大半かもしれない。
十代の小娘は逆立ちしても、あのような魔力を持つことはできないだろう。
武美はと言うと…………言わぬが花だ。
「ところでさ、さっきから適当に返事してない?」
「…………そうだな」
 適当に、というよりも機械的にといったほうが適切ではあったのだが。
それを気にすることもなく、小波は夢中になってカンタ君のお母さんを見つめていた。
(とりあえず、武美と同居を始めてから一人で処理できていなかったため、彼はかなり飢えていた。
ということは彼の名誉のために記しておこう。
普段の彼ならそんなことはしない、ナイスガイだからあたり前だと本人談)
 それを武美が面白くなさそうに見ていることには、もちろん気づかない。
「…………このスケベ」
「………………そうだな…………うん?」
 嫌な気配、ぼーっとしていた頭が警鐘を鳴らす。慌てて武美に視線を戻すと……
「…………あたし、カンタ君と遊び道具借りに行ってくる。
風来坊さんはなっちゃんを助けておいてね」
 激怒、いつか裸だとサイボーグとばれるのかと質問した時よりも数段怖いオーラ。
それを背負ったまま肩を震わせながら立ち上がり、武美はカンタ君のもとへと向かっていった。
「わ、わかった」
 小波がようやくまともな言葉を発するが、すでに武美には聞こえていないようだった。
脳裏にかすかに残っていた武美の言葉を思い出す、どうも非常にまずいような気がするのだが。
(……今は面前の問題を片付けるか)
 彼は立ち上がり、困った顔をしたカンタ君のお母さんへと足を進めた。




 しばらくしてカンタ君と一緒に戻ってきた武美は、特に機嫌を悪くした様子はなかった。
……少なくても、表向きには。
その後の遊んでいる描写は割愛するが、カンタ君と組んでビーチバレーをしたときに
対戦相手の武美とカンタ君のお母さんのフルフルと揺れる四つの果実により
(ちなみに揺れ方に大きな差があった)
小波が集中を乱し男二人が敗北したこと。
武美がいない隙に、カンタ君のお母さんが小波にサンオイルを塗ってほしいと頼み、
断りきれなかった彼の後頭部に
中身入り缶ジュース(350ml)が直撃したことを記述しておこう。



「まだ帰りたくないでやんすー!!」
「あっ! ……もう、またあの子ったら」
 日が傾き始めたころ、移動することを考えるとそろそろ家路につきたい時間。
帰宅したら、おそらく今日は出来合いのもので夕食を済ませることになるだろう。
その前に四人で外食してもいいかもしれない。……金を出すのは小波ではないが。
ふと、『家に帰る』という行為が自然になっていることに、小波は変な感覚を覚えた。
(…………)
 それだけこの生活に慣れたということなのだろう、だが彼はあくまでも風来坊、
今回の事件に決着がつけば潔くこの町を立ち去る。だがその時には……
「あの、すいません」
「……どうしましたか?」
 視界の端に入る水着姿、できるだけ意識しないようにしながら、小波はそっちを向く。
カンタ君のお母さんは、申し訳なさそうに喋ってきた。
「いえ、そろそろ帰る支度をしようと思ったんですけど、武美の姿が見当たらなくて……」
「? そういえば、少し前にどこかに行ったっきりですね。
……しかたありません、俺が探しに行ってきます」
「お願いします、あたしは……あの子に少しお説教しなきゃ」
 波打ち際で遊ぶ我が子を見て、軽く微笑むカンタ君のお母さん。
母親らしい、魅力的な笑みだった。
おもわず胸が高鳴る、……これ以上の感情を持つつもりはないが。
 軽く微笑んで、できるだけ平静を装いながら小波は歩き出した。



「……何をしているんだ?」
「…………」
 海岸の外れ、テトラポッドが積み重なっている場所。
そんなところに武美はいた。海に沈む夕日をじっと見つめている。
「………………」
「………………」
 なんとなく、彼は武美のすぐ隣に移動して、彼女の視線の先を見た。
赤とオレンジの奇麗なグラデーション、自然と感傷的な気分になる。
どうしたものかと思案していると、武美がポツリとつぶやいた。
「……頭、大丈夫?」
「ん?……………ああ、コブもないしな」
 一瞬、言葉の意味をつかみ損ねて面食らったが、
どうにか昼の缶ジュース直撃のことだと気づく。
いつもならこれを利用してからからかってきそうなものだが、そんな様子もない。
「えっと……ごめんね、ちょっとやりすぎたかも」
「気にするな、デッドボールに比べれば何倍もマシだ」
「……そうなの?」
 ざざんと、一際大きい波がしぶきを飛ばす。
その音で会話を続けるタイミングを見失い、再び無言で海を見つめる二人。
(……何をしてるんだ俺は)
 今頃親子二人は待ちくたびれているかもしれない、おかしな空気を壊すために言葉を投げる。
「なあ」「あのさ」
 ハモった、きょとんと見つめあう、……どうにも気まずい。
青春真っ只中の子供じゃないんだからと、小波は無理やり口を開いた。
「なにか言いたいことでもあるのか?」
「ん〜、小波さんからでいいよ」
 視線を逸らし、再び海を見つめる武美、哀愁漂う横顔。
「いや、俺はただそろそろ帰ろうって言うつもりだったんだが」
「……へ? もうそんな時間なんだ。
……さっさとなっちゃんたちのところに戻らないとね、早く行こ!」
 振り返って、なにもなかったかのようにすたすたと歩き始める武美。
小波もあわててその後を追う。
「……さっき、何を言おうとしたんだ?」
「なんでもないよ、さて、この後どうしようか?」
 明らかに話を逸らされて、小さな苛立ちを覚える小波。耐え切れずに質問した。
「……なあ、最近様子がおかしいぞ? 何かあったか?」
「…………」
 振り返った武美の顔、それがまるで泣いているかに見えた。
「…………なんでもないよ?」
 それはもちろん錯覚、だけど彼女の声は震えていた。
「………………まさか、タイマーが解除できていないのか?」
 小波が怪我をしてまで入手したデータ、それが役に立たなかったのなら、
武美の様子がおかしいことも説明がつく、だが。
「……それはたぶん大丈夫。予定時刻になって、
何も起こらないって確信するまで百%とは言えないけどね。
……ただ、ちょっと悩みごとがあるだけだって、大したことじゃないよ」
「……そうか」
 タイマーのことで嘘を言っているようには見えなかった、ただ、『大したことじゃない』と
言った時に、彼女の眼がわずかに泳いだ。
……嘘をつくのが下手なヤツだなと思う。
苛立ちは呆れに変わり、小さなため息が出た。
「…………心配かけて、ごめんね」
「いや、謝る必要はない」
「………………」
 お互い無言になり、熱い砂浜を踏みしめて歩く。
……今日は本当に楽しかったのだが。
(……このままは良くないな)
 そうは思うのだが、どうすればいいのかはさっぱりわからない。
と。
「……やっぱり覚悟を決めないとね」
「うん?」
 武美がなにか言ったようだったが、小波にはよく聞き取れなかった。
「さーて! ……なっちゃんたちのとこまで競争でもしよっか! いちについて〜、よいドン!」
 彼が問いただす間もなく、彼女は明るく元気な声でそんなことを叫んで走り始めた。
「…………は?」
「負けたらジュースおごりだからね〜」
 遠くからそんな声が耳にはいる、さっきまでの沈んだ態度が嘘のようだった。
それはともかく。
「…………ジュースおごり、だと?!」
 今はあまり支出がないとはいえ、お金は大変貴重である。
……さすがに十円の粉ジュースでごまかせるとも思えない。小波も全力で走り始める。
「くそっ!! 待てー!!」
「あははははは〜」
 二人は子供のように笑いながら、砂浜を駆けた。




 その頃残っていた二人はと言うと。
「……なんか楽しそうでやんすね」
「…………そうね」
 お説教も終わって二人を待っていたのだが、今は走り寄ってくる二人を観戦中。
『負けるか!』とか『こっちだってー!』なんて音が耳にはいってくる。
「あ、おばちゃんがこけたでやんす」
「……あら、あの人武美に手を貸してるわね。……勝負してるんじゃなかったのかしら?」
 じゃれあいながら仲良くこちらに駆けてくる二人、その姿は……
「ああいうのをバカップルっていうの、覚えておきなさい」
「…………よくわかったでやんす」
 油断したのだろう、武美の足払いがクリーンヒットして小波が地面と熱い抱擁を交わした。
さらに『恩を仇で返すな!』『あはははははっ』と言う言葉が聞こえてくる。
……本当に見ているこっちが恥ずかしくなる光景。
「…………はぁ」
「? 母ちゃん、どうしたでやんすか?」
「なんでもないわ、さあ、着替えに行きましょう」
 ……少し期待した、自分が馬鹿だったのだろうか。だけど。
(武美は幸せそうだし……この子のいい思い出にはなったから、まあいいかしら?)
 きっとカンタは今日みんなで海に来たことを忘れないだろう、それだけでも十分のはずだ。
……少し悔しいけれど。
「……ふふ」
 なぜか自然と笑みがこぼれる、それを何か勘違いしたのだろうか。
「? おいらちゃんと一人で着替えれるでやんすよ!!」
 的外れなことを言うカンタ。叱ったばかりなのだから、無理もないかもしれないが。
「はいはい」
 カンタの手を引き、奈津姫は歩き始めた。背後から
「あ! ゴールが遠のいた! 待ってよなっちゃん〜!」
「よし! これなら俺の勝ち……うぉ!!」
「へへ〜ん、油断大敵!」
 馬鹿な二人の声が聞こえたが、聞こえないふりをすることにした。




 四人で適当に食事を済ませて、すっかり暗くなった商店街。
漢方薬屋とカレーショップの分かれ道まで来て、四人は立ち止まる。
カンタ君は少しうとうとしていた。さすがに疲れたのだろう。
「それじゃあ、ばいばいでやんす…………ぐぅ」
「こら、こんなところで寝ないの! ……二人とも、今日はありがとうございました」
「いえ、俺もいい気分転換になりました」
「あたしも楽しかったよ。……ところでさ〜カンタ君、帰る間際におばちゃんって言ってなかった?」
「ぎくっ…………ぐぅ」
「あ、寝たフリは卑怯だって! もう!!」
「うわぁ?! 暴力反対でやんすー!」
 がくがくとカンタ君を揺らす武美、
子供どうしの争いはほほえましいな。そんなことを考える小波。
「…………あの、お耳を貸してくれませんか?」
「?」
 それを見て苦笑していると、カンタ君のお母さんが真剣な声で話しかけてきた。
言われたとおりに耳を差し出す。
「……武美のこと、よろしくお願いしますね。……あの子、なんだか危なっかしくて」
「……はい、俺にできる限りは」
 まるで武美の母親のようなことを言うカンタ君のお母さん。
……案外それも間違っていないのかもしれない。
「それと……これは今日のお礼です」
 頬に温かいものがぶつかって、
何が起こったかも理解できずに――いや、理解して、固まる小波。
「それじゃあ、武美。……頑張るのよ?」
「へ?! な、なっちゃん、何を言って……ちょっとなっちゃんってば!」
「ふふふ……」
 なにか音が耳に入ってくるが、脳が働いていない。
「ほらカンタ、行きましょう」
「うぅ……もうおばちゃんのこと、おばちゃんなんていわないでやん」
「ちょっぷ! ぺしぺし!」
「す! …………(ガクリ)」
 ようやく意識を取り戻し、ぎぎぎ、と体を動かしてカンタ君のお母さんを見る小波。
一瞬だけ視線が交わり――微笑みを送られて、再び身体が固まる。
「それじゃあね、ばいば〜い。……ところでなっちゃん、さっきの言葉は」
「……さあ、なんのことかしら? ……そういえばカンタ、宿題はどうなの?」
「大丈夫でやんす! 夏休みが終わる直前に頑張るでやんす!」
「そう…………って、駄目じゃないの」
「なっちゃーん! 逃げるなー!」
 そのまま仲良く遠ざかっていく親子を、小波は見送ることしかできなかった。
「……ふぅ、あたしたちも帰ろ……どうしたの?」
 武美の言葉で我に返って、咳払いを一つ。
「い、いや、なんでもないぞ、早く帰ろう」
「? まあいいけど…………」
 スタスタと歩き始める小波、追いかけてくる武美の瞳に、
強い意思の光が宿っていることには気づかなかった。




「風来坊さん、風来坊さん。これをあげる!」
「ん? それは?」
 家に帰った後、小波が居間でくつろいでると、武美が陽気に声をかけてきた。
「へへ、今日一日疲れたでしょ? これはあたしからのプレゼントその一」
 目の前に置かれたのは、泡立つ黄金色の液体。ホップの香り。
「ビ、ビール?!」
 今まさに一杯やりたいと思っていたところに望み通りのものが出てきて、小波は少し驚いた。
「あれ? もしかして嫌いだった?」
 慌てたことで勘違いしたのか、武美がそんなことを言う。
「いや違う。あまりに久しぶりだったから少し驚いて……本当にいいのか?」
 全力で否定して、つばをごくりと飲み込む。武美は基本的に普段の食事は用意してくれるが、
今までこのような嗜好品はあまりだしたことがない。
「うん、あたしは飲めないしね、ささっ、ぐぐっと!!」
「それじゃあ遠慮なく、…………(ゴクゴク)………くはぁ!」
「おおっ、いい飲みっぷりだね〜。イッキ、イッキ!」
 武美が手拍子を叩いてはやし立てる、
だが、小波はあくまで落ち着いて飲むことを心掛けた。
「いや……(ゴクゴク)……イッキは………
(ごくごく)………駄目だろ……(ゴクゴク)……ぷはぁ!」
 心がけた意味はまったくなかった。
熱帯夜にキンキンに冷えたビール、一秒たりとも我慢できるはずがない。
「そんなこと言いながら、ほとんどイッキだったじゃん。
……そんな飲み方だったら、もっと欲しくなったりするんじゃないの?」
「いや、十分満足したぞ…………しかし、少しおかしな味がしたな」
 口元を撫でる。ビールの苦みとは違う苦さが、口の中に残っていた。
ほんのわずかなものではあったが。
「……そう? あたしは飲まないからわかんないや。……それじゃあ先にお風呂に入るね」
「ああ、わかった……………ん? その一ってどういうことだったんだ?」
「うーん、もう少し後でね、おとなしくここで待ってて」
「?」
 質問には答えず、武美はすっと姿を消す。
しばらく待つことにするかと、小波は床に寝そべった。




 小波の身体に異変が起きたのは十分ほど過ぎたころだったか。
いつのまにか体が熱くなり、息が荒くなってきて。気づけば全身が燃えていた。
「…………くっ…………」
 ぼうっとする頭、理性ではなく、本能が行動の主導権を握ろうとする。
このままここにいて武美と出会うとまずい、そう思い体を動かそうとする。
だが、向かおうとしたドアが開いて、声。
「あれぇ? どうしたの、小波さん」
「た、武美……」
 目に入ったのはバスタオル一枚だけの武美、
普段の小波なら『そんな恰好でうろつくな』とでも言っているだろう。
だが今の彼は……
「うーん、熱でもあるの?」
 暖かくて微かに湿った手が、小波の額に当てられる。
さらに顔をのぞきまれると同時に、
タオルで隠されたふくらみが目の前に来た、小波の心臓が大きく高鳴って。
 ――この胸をしゃぶり、揉み、犯したい。そんな考えが浮かんだ。
「!」
「わっ!」
 それでもなんとか手を払いのけて、後ずさりする。
地面に白いタオルが、はらりと落ちるのが見えた。
「……う……あ……」
「あー!! もう、スケベなんだから」
 武美がタオルを拾おうと屈んで、一糸まとわぬ裸体が小波の視界に入ったとき。
彼は耐え切れずに武美を引き寄せた。そのまま床に押し倒す。
「ん……」
 強引に口づけ、舌を無理やりねじ込み、手を胸と尻に伸ばす。
武美は抵抗しなかった、目を閉じて、
ただなされるままに――いや、むしろ自ら体を擦りつけてくる。
「んん〜!」
だが尻を揉んでいた手が、股間に伸びたときに、
武美は少し体を引いた。足を閉じて進入を拒んでくる。
それでも小波は無理やりに手を差し込んだ、湿った陰毛が指にまとわりつく。
「あ…………」
 そのままズボンを脱いで、犯そうとした時。
 武美の瞳が小波の目に映った。
 ぼやけて、虚ろで、生気のない瞳だった。
「っ!!」
 小波の意識が急速に冴えた、舌を噛み切り、本能を押さえつける。
「はぁ……はぁ……」
 ……そのままゆっくりと武美から体を離す。
まだ身体は武美をもてあそびたいと叫んでいたが、どうにか耐えることができそうだった。
「…………しないの?」
 うつむいていると、なぜか残念そうな声が耳にはいる。
だがまだ返事をする余裕はない。
武美は沈黙を肯定と受け取ったのか、悲しそうにつぶやいてくる。
「…………あたしとは、できない?」
 そんなわけがない、そんなわけがないのだが、
武美はそうは思ってくれないようだった。
「……あたしがサイボーグだから……えっちはしたくない?」
「馬鹿な、ことを」
 ようやく反論しても、武美は言葉を止めない。
今までせき止めていたものを爆発させてくる。
「だってもう一緒に暮らし始めて三か月以上も過ぎたんだよ?
……あんたはまだ早いっていうかもしれないけどさ。
でもタオル一枚でうろついたり、
あんたの上に寝てみたりしても、怒るだけで反応ないから……
あたしを抱きたくないって考えるのが自然じゃない?」
「そんなわけ……」
「別に駄目なら駄目でいいんだけどさ、それならはっきり言ってくれた方が」
「武美!」
 飛びつくように抱きしめた、再び熱い身体が重なる。
心臓の音が聞こえてくるほどに強く抱きしめる。
熱く、柔らかい肌。かすかなシャンプーの香り……震えている身体。
「そんなわけないだろうが! ただ俺は……俺は」
「…………ただ?」
 言うべきか迷う、だが理由をはっきりさせないと武美は納得しないだろう。
血のつばを飲んで、言葉をぶつける。
「ただ、そんな眼をした女は、抱けないだけだ」
「へ……?」
 理解できなかったのだろうか、きょとんとした武美の声。
身体を離して眼を覗き込む。今は普通の瞳だが……
「気づいてないのか? さっきのお前は……無理やりにされて、反抗を諦めたように見えた」
「…………ああ、そうなんだ」
 武美が目を閉じる、泣いてはいない。
泣くはずはないのだが。眼の端に涙が見えたような気がした。
かすれた、小さな声が聞こえてくる。
「あたしさ、その、研究所にいたときに……………………………いろいろあってね。
……頑張って覚悟は決めたつもりだったんだけど、顔に出ちゃったか……ごめんね」
「…………」
 うつむく彼女の、頭を撫でる。
いつもなら子供扱いするなと怒りそうなものだが、そんな気力もないらしい。
「あー、嫌だなぁ、なんかぐちぐち言っちゃったね。あたしらしくもない」
 笑顔、痛々しい笑顔を武美は浮かべた。
笑っている顔に向けて、辛そうな顔を向けるわけにもいかずに、
小波も笑う。
「たまにはいいさ、らしくなくてもお前はお前だ」
「……ありがと…………ん、小波さんの身体、あったかいな」
 小さく震える身体を、強く、強く抱きしめる。
もはや肉欲などどうでもよかった。
ただ、このまま一晩中でも武美を抱きしめていたかった。
それが少しでも彼女の傷を癒すのなら、この想いが届くのであれば。
「……うん、もう大丈夫だよ」
「…………」
 武美が小波の体を押す、だが小波は話そうとしない。
諦めたのか、武美も小波の背中に手を回してきた。耳元で小さな声。
「…………あのさ、一つ聞いていい?」
「なんだ?」
「小波さんは、あたしとしたいってことでいいんだよね? ……えっち」
 再び心臓が大きな音をたてて、小波の本能が武美を襲えと叫んだ。
口の中の痛みと、理性がそれを抑える。
「……まあ、そうだが」
「だったらしようよ、あたしのことなんか気にしないでいいからさ。
案外やってみたらなれるかもしれないし。
……それにさっきのビールにいろいろ入れたからもう限界でしょ?」
「……これはお前の仕業だったのか」
 視線を向けるとズボンの上からでもはっきりとわかるほど膨らんでいる。
小波としては少し情けなくて悲しい。
「うん、ちょっと卑怯だけど、これくらいしないと駄目かなって思って……ごめん」
「…………好きな人の傷口を抉るなんて無様なマネを
するところだったからな、今の謝罪は受取ろう」
「あははは、そうだね…………どうする?
どうしても気になるなら手とか口でってのもあるけど。
あたし結構上手いんだよ。文字通り百戦錬磨だからね」
「……自虐はやめろ」
「あ、そういう風に聞こえた? そんなつもりはないんだけどなぁ。
だってそのおかげで小波さんが気持ち良くなれるんだったら、
それでいいじゃん。好きな人に気持ち良くなってもらうのって幸せだからね」
「………………」
 それは本心なのだろう、ずいぶんと可愛らしいことを言うものだ、少し呆れる。
「ああ…………でも、そうだ」
「?」
「初めてを好きな人に捧げるってのはちょっと憧れたかも、女の子のロマンだからね。
……あたしの初めて、小波さんにもらってほしかった、かな」
 時が止まった。
「………………………………」
「あれ、どうしたの?」
 武美は自分の言った言葉の破壊力に気づいてないのか、きょとんとした声。
小波はどうにか意識をもどし、武美の顔を見つめ笑いながら囁く。
「……困ったな」
「え?」
「武美があまりに可愛いことを言うから、今すぐにでも抱きたくなってきた」
 本心をストレートにぶつけられて少し動揺したのか、顔を赤くして視線を逸らす武美。
「……そ、そうなんだ、じゃあ……しよっか?」
 再び小波と目を合わせたときには、武美は柔らかな微笑みを口元に携えていた。
非常に可愛らしい、暖かな笑顔だった。
「今すぐしたいのはやまやまなんだが…………やはり無理はしてほしくないな」
「? 男の人って泣いてる女を無理やりってのが興奮するんじゃないの?」
「まあ、興奮するのは確かだな。だが面白くないだろ」
「ああ、そっか。面白くないってのは駄目だもんね」
 それにたとえ武美が望んでいるにしても、さらに傷つけるようなマネは絶対にできない。
この問題は時間をかけてゆっくり解決するべきだ、そう思う。
「…………ん、はぁ」
 すると、武美が荒い息を吐いてさらに身体をこちらに預けてきた。
そのまま恥ずかしそうにつぶやく。
「ところでさ……あたしもその、我慢できなくなってきたんだけど」
「ん?」
「いやさ、さっきお風呂浴びた後にあたしも同じ薬飲んだから、そろそろ効いてきたみたいで」
「……馬鹿だな、お前は」
「なんで?」
「…………まあいい、とりあえず場所を移動しよう……よっと」
「うわぁ?!」
 両腕で抱きかかえ、歩き始める。腕の中でもがく武美。
「ちょ、ちょっと! この抱え方は恥ずかしいって!」
 ドラマや物語でたまに見かける、お姫様だっこという形。
さすがに全裸の女性をお姫様だっこすることはあまりないだろうが。
「……こういうのも、女の子のロマンじゃないのか?」
「え? そ、そうなのかな? ちょっと待って! 今ネットでアンケートす「運ぶぞ」
「わわわ! ……うぅ……」
 暴れるのをやめて、ぎゅっとしがみついてくる武美。
腕の中にある暖かな体温は、なによりも大切なもの。そう思える。
「あいたっ!」
「……あ」
 運んでいる途中に武美の足を壁にぶつけたことは……
 まあ、どうでもいいことだった。


続く

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