俺は監督に頼まれた野球用具を買うために外に出ていた。
 空は赤く染まり、一日の終わりを告げようとしている。視界に入るのは学校帰りの学生やサラリーマン、頼りなく明かりを放つ街灯に、道路を永遠と走り続ける車の数々。なんら変わりのない夕方の風景だった。
 俺はパンパンに膨れ上がったリュックサックを背負いながら、屋上で出会った少女、芳槻さらのことを思い出していた。
「あなたでも信じる事はできません」
 彼女の言葉が脳裏によぎる。二日前、学校の屋上で彼女に言われた。その時の彼女の表情は、呆然とした俺の表情をあざ笑うったものでなく、悲痛そのものだった。
 信じていない。否、信じることが出来ない。そういった表情だった。
 俺の肩に重みのようなものがのしかかる。それはリュックサックの重さだけではなかった。
 俺は彼女に信じてもらうことが出来るのだろうか?
 そのためには俺はどうすればいい?
 彼女にできることとは一体何なのだろうか?
 ぼんやりと浮かぶ夕日を背にして、俺ずっと考えていたのだった。

 親切高校に戻ってきたのは、辺りが暗くなってきた頃だった。
 野球部は既に練習を切り上げたらしく、グラウンドは綺麗に整備されていた。俺は部室の鍵を開け、購入してきたものを棚の上に並べ、昇降口に足を運んだ。
 先程まで重いものを背負っていたためか、肩がジンジンと痛む。人使いが荒いんだよな、あの人は。俺はそんなことを考えつつ、昇降口に足を運ぼうとした。
 その時、俺はあることに気づいた。
 昇降口に前に誰かが立っている。そしてその人物には見覚えがあった。確か同じクラスの高科奈桜という子だったはずだ。クラスのムードメーカー的な存在で彼女はクラスの人気者だ。しかし、そんな人気者としての彼女の面影はどこにも無く、憔悴しきった表情を浮かべていた。


「あの、高科さん?」
 俺は彼女に声をかけてみた。
 その瞬間、彼女はどん、と、俺に体当たりするように抱きついてきた。そのまま押し倒されてもおかしくなかったが、小柄の彼女では無理だったようだ。突然の状況に俺は開いた口が塞がらない。
「なんでよ!小波君、どこに行ってたの!?」
「えっ?」
 彼女の声が涙ぐんでいた。
「なんで、なんで!?なんで!!」
 彼女は叫ぶように、嘆くように、声を出す。
「何かあったの?」
「さらが、さらがっ!」
「!」
 彼女の名前を聞いたとき、ざわっとした風が俺の頬を伝った。

 さらは自殺した。
 今日の夕方頃に、屋上から飛び降りたそうだった。
 俺は言葉が出なかった。高科さんは泣いていた。
 だけど、俺は泣くことができなかった。


 俺が寮の部屋に戻ると、二つ後輩の真薄が、
「先輩、何かあったんですか?」
 と、聞いてきた。よほど俺の表情が青ざめていたのだろう。
 呆然としまま答えない俺に、真薄が心配そうな表情を浮かべている。
「小波君、ちょっといいでやんすか?」
 荷田君が俺の耳元で囁くと、俺の手を引っ張って部屋から廊下に出た。
そして、荷田君は俺に一通の封筒を差し出してきた。
「これを小波君に渡して欲しいと、言われたでやんす」
 俺は荷田君から封筒を受け取る。
封筒を裏返してみると「芳槻さら」と書かれていた。
俺の手が震えた。荷田君は頷いた。
「……ありがとう、荷田君」
 事情を知ってか、深くは追求してこない親友の優しさを感じながら、俺はトイレへと足を運んだ。 

 手紙に書いてあったのは、自殺の動機のことだった。
 さらの父親が突然倒れたらしく、意識不明の重体だったらしい。
たった一人の肉親を失う事に相当恐れていたのだろう。
彼女の震えた文字を見れば一目瞭然だった。
そして俺に対する感謝の文も添えられてあった。最後の一文は
「今までありがとうございました」
 と、共に一枚の写真が添えられてあった。
 それは、彼女と初詣に行ったときの写真だった。
確か、屋台のおじさんに無理言って撮ってもらったんだっけ。
彼女は笑っている。俺も笑っている。
 俺は泣いた。
 それは、監督の厳しさや先輩の嫌がらせ、ライバルへの力の差で泣いた感情的なものとは違う、
心にポカンと開いた空洞を埋めるための涙だった。

トイレから出た後、俺は屋上に行った。
 空を見上げれば星が輝いている。
以前にも夜にさらと会ったことがあり、一緒に星空を見ていた。
だが、今は彼女はいない。
 同じ空でも、何でこんなに見え方が違うんだろう?
 君がいないだけで、何でこんなに儚く見えるんだろう?
 君はあっちで見えているの?この空が?
 俺は一つの柱に近づいた。そこには油性マジックで文字が小さく書かれている。
さらと俺の唯一の連絡手段。
監督生に見つからないようにこそこそと書いていたっけ。
俺はその文字を見ながら手でなぞる。
 「うん?」
 俺は柱に傷が付いている事に気づいた。
鋭利なもの、つまりカッターか何かで付けたような傷が出来ていた。
その傷は一つでなく曲がりくねっていたり、傷同士が重なったりしていた。何かの文字だろうか?あるいは絵か?
 一体、誰がやったのだろう?
そんなことを考えたが、今の俺にはどうでもいいことだった。
俺は夜遅くまで、空を眺め続けていた。

 その後、高科さんからさらのことについて教えてもらった。
 高科さんはさらと血の繋がった姉妹である事。
 彼女に嫌われた理由。
 家の事情。
 その話を聞いて、ようやく俺はさらの事情を知ったのだった。
 それはさらが亡くなって3週間後の梅雨の季節のことだった。
「私じゃ駄目だったみたい」
 高科さんは自虐的に笑う。あの日以来から、彼女の笑みは作り笑いにしか見えなかった。
今の彼女はムードーメーカとしての、人気者としての高科菜桜ではなく、
妹を失った一人の姉の姿だった。
「私じゃ、さらを説得できなかったよ」
 高科さんは独り言のように呟く。
 あの時、俺が説得したならば、さらは助かったのだろうか?
「俺は……」
「ごめん。小波君」
 俺の言葉を遮るように高科さんは言葉を挟んだ。
 そして、彼女が持つポーチから一つのナイフを取り出した。
「これね、さらが死ぬ時に持ってたナイフ」
「じゃあ、これで…」
「結局は飛び降りちゃったけど」
 俺は高科さんからナイフを受け取る。
 その辺で売っていそうな果物ナイフだった。
 うん?何だこれ?
先端部分の刃がこぼれている。
刃の先には白い粉のようなものが付いている。
これは、まさか――
「どうしたの、小波君?」
「あ、いや、なんでもない」
 俺は高科さんにナイフを返すと、屋上を後にした。

 数日後、俺は一人で屋上に来た。
 左手にはさらと一緒に使っていた油性マジックを持って。
 俺は無言で、屋上の奥にある柱へと足を運んだ。
 空を見上げる。今日も空は晴れていた。
 柱へとたどり着くと、俺はマジックのキャップを取って、
傷ついた部分を中心にして、塗りつぶした。
 すると、傷ついた部分が一つの言葉として浮かびあがった。あまりにも崩れた文字だったが、今の俺には理解できた。


「ごめんなさい」


     〜 fin

管理人/副管理人のみ編集できます