「どうしよう……」
 真島涼子は自宅に帰りつくなり、溜息をついた。
「会わないって言ったのに……私が言ったのに……」
 カバンと買い物袋を玄関に放り投げ、ゴミ袋に囲まれたベッドに身を投げ出す。
「会いたい……小波選手に会いたい……」
 顔を伏せたまま、涼子はシーツを敗れそうなくらい握り締めた。

 事の発端は10月の終わり。
 彼女が恋人のホッパーズ選手、小波と交わした『約束』である。
『涼子は奇妙な体質――食べ過ぎるとすぐに太り、食べないとすぐに痩せる極端な体質を改善し、小波は日本シリーズで優勝する』
 何故そんな約束を交わしたのか、涼子は忘れてしまっていた。
 多分、自分の体質を『気にしない』と言ってくれた小波に対する想いのベクトルが変な方向へ向かった結果であろう。
 当然というかなんというか、彼女は自分の奇怪な体質の改善に努めた。
 しかし、カウンセラーの治療を受けたりせず、単に断食を続ける彼女の努力は、単に彼女自身を傷つけるだけとなった。
 体質が変わる気配は一向になく、逆に、約束してから三ヵ月経とうとしている現在に至るまで、彼女は太って痩せてのサイクルを6回は繰り返していた。


 そして、彼女を襲うのは断食の苦しみだけではなかった。
『打ったー! 大きい、大きい……入ったーっ! 満塁サヨナラホームラン!』
 テレビに映っていたのは、件の小波だった。
「小波……選手……って、どうしてテレビが点いて……っ!」
 無論、彼女自身で点けたのだが、無意識によるものだった。
 満面の笑顔で塁を回る小波の姿がアップで映り、急いでテレビを消そうとするが、今度は体が言う事を聞かない。
「やだ……やだぁ……まだ治ってないのにぃ」
 ベッドの上でリモコンを動かすだけで、彼女の右手の指がボタンを押すことはなかった。
――そう、彼女を苦しめているのは誰であろう、小波だった。
 いや、正しくは彼を欲する彼女自身なのかもしれない。
 涼子の体質を知り、太った彼女と痩せた彼女で、それぞれ別の人間と偽られていた事を知り、ストーカーされていた事を知り、二人の間の年の差の事を知り……その上でしっかりと涼子を受け止めた小波は、今や彼女にとってなくてはならない存在だった。
 だが、自分の体質改善が一向に上手く行かない涼子は、無理やり小波を自分から遠ざけようとした。
 小波を自分に対する人質としたのである。
 小波が出る試合をチェックする事や彼の記事のスクラップをやめた。
 彼女がストーカー時代(?)に勝手に持ってきた彼の衣類はすべて捨てた。
 こうして断食と並行して断小波をしていたが、とうとう我慢に限界が来たようで、涼子は涙を浮かべながらテレビに釘付けになっていた。


 リモコンを手にしたまま腕をおろし、それとは逆の手を彼女の豊かな胸へと伸ばす。
「小波選手……小波せんしゅぅ……」
 涼子は息を荒げながら、まるで覚えたてのような拙いオナニーを始めていた。
 瞳をとろんとさせ、でも、テレビに映る小波の姿を必死に追いかける。
「会いたい……会いたいよぉ……小波選手……!」
 いつのまにか、彼女はロングスカートの中にテレビのリモコンを潜り込ませ、下着越しに自分の秘所に押し当てていた。
「好き……好きぃ! 愛しています、小波、選手…………!」
 愛しい人の名前を、涼子は泣きながら呼び続けた。
 体を小さく丸めて、ひたすらに自分を慰める。
「ひぃっ、ひゃぅっ!」
 上着が肩から滑り落ち、白い肌があらわになる。
 そしてさらけ出された彼女のブラジャーを下にずらして、直接胸を執拗に攻め始めた。
「う、っく! ひゃあ……!」
 今や、彼女の顔は涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
 束ねられた長い髪を振り乱し、ただ、欲望のままに快感を求め続ける。
「こな……み……ふあっ、あああぁぁぁ!」
 背中を弓のように反らせ、涼子は思い切り絶頂に達した。

「ふぅ、ふぅ、ふぅ……」
 涼子は乱れたままの姿でベッドに倒れこんだ。
『……今日のヒーローはもちろんこの人! 最終回サヨナラホームランでナマーズを日本一に導いた小波選手です!』
 テレビではお立ち台に上った小波選手にレポーターがマイクを突き出しているところだった。
「あっ、小波選手だぁ……………………え?」
 子猫のようだった涼子は多少のラグをはさみつつ、レポーターの台詞に反応した。
『小波選手、今のお気持ちは?』
『いやぁ、やりましたよ! やっちまったよ! ……みたいな感じですね!』
 陽気に笑う小波の右上、テロップの部分には『ナマーズ、三年目にして優勝!』と出ていた。
 彼の後ろの客席からは風船やら紙吹雪やらなんやらが舞い、マスコットのナマピーがいつもよりも激しくくねくねしていた。
「嘘っ!」
 唖然とする涼子の事なんて知らない小波は次々と寄せられる質問に笑いながら――ときどきチームメイトに小突かれながら答えていた。
 そして『それでは小波選手。今日の出来事を一番分かち合いたいのは?』と、レポーターが質問した。
『そうですね……ちょっと名前は出せないんですが、知り合いの女の子ですね』
 臆面なく、小波は答えた。
 あっけにとられるレポーターを無視して、小波はカメラに向かって手を振った。
『涼子ちゃん、見てる? 俺、やったよ』
 とても嬉しそうに微笑む小波を見て、涼子は静かに立ち上がり、テレビの電源を消した。
「……多分、祝賀会やらなんやらでちゃんと寮に帰ってくるのは夜遅く。もしかしたら明日かもしれないけど、明日は明日でちゃんとした祝賀会があるか……」
 ブツブツと呟きながら、涼子はシャワールームに向かった。
「もう我慢出来ない。めいいっぱいおめかしして、めいいっぱい甘えよう……ちゃんと謝れば分かってもらえる。彼はそういう人だもの」
 さっきまでのぐちゃぐちゃな顔をシャワーで洗い流すと、その下には狂気にかなり似ている、形容し難い表情が浮かんでいた。
「心から……心から愛しています、小波選手」

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