放たれたボールが風を切り、ミットに吸い込まれる。
急速自体はそれほど速くないが、なかなかキレのあるスライダーだ。
「ふぅ・・・これくらいでいいでやんすかね」
ボールを放ったピッチャー、湯田浩一は被った帽子を整えた。やや冷たい風が彼の汗を拭う。
「湯田ー!今日はもう終わるかー!?」
球を受けていた東洋が立ち上がり大声で訪ねてきた。湯田も大声で答える。
「付き合ってくれてありがとうでやんす!またよろしくでやんすー!」
小波がこのホッパーズを去り、1ヶ月余りが過ぎようとしていた。来たるべき親友との対決に備え、湯田は変化球練習を重ねていた。
はじめ小波が他球団とトレードされると聞いた時は勿論寂しかったが、直接戦うことが出来るのだと考えるとうれしさもあった。
かつて甲子園に出場し、晴れてプロ入りが決まった後でもマニアなグッズを集めることに尽力していた湯田にとって、それは新鮮な感覚である。
「小波くんは反射神経が抜群でやんすからねえ・・・速球で抑えるより変化球を中心に・・・」
ぶつぶつと親友を討ち取るための策略を練る。が、イメージの中でも小波は強敵である。どう投げても最終的に打ち込まれてしまう自分が容易に想像できる。
思わず弱気のバッドステータスが付きそうになってしまう。
「・・・おや?なんだか騒がしいでやんすね」
練習球場を後にしようとしたとき、湯田は出入り口に人だかりを見た。何事なのか気になったりもしたが、元々帰るにはそこを通るしかない。
遠目に人だかりの中心を覗いてみると、ひときわ背の低い人が囲まれているのが見えた。あれが騒動の元だろうか。
「んー、誰でやんすかね?背の高さからして女の子みたいでやんす。赤毛のショートヘア・・・見たことない・・・いや、ある・・・?それも身近な・・・」
――――!!
30メートルほど近いてその女の子の正体に気づくと湯田は弾かれるように人だかりへと走り寄った。
そしてその女の子もまた湯田を見つけたようで、驚きと喜びの入り混じった目で湯田の事を呼んだ。
「お兄さあーん!」
出来れば正体は気のせいであって欲しかった。しかしこれが現実。
彼女は湯田の義理の妹、まゆみだった。
「ま、まゆみ・・・なんで、というかどうやってここに来たでやんすか?」
「えっと、バスで来たんです。お兄さんにお祝いの言葉を言いたくって・・・その・・・」
「お祝いってなんでやんす?」
「日本一おめでとうございます!」
がっくりと肩が落ちる。一体いつのことを言っているのやら。そもそもそんなことでわざわざ来ずに電話で話せばよいのだが、湯田はあえて何も突っ込まなかった。周囲からの視線が痛かったのも理由の一つである。
「と、とりあえずここは関係者以外入っちゃいけないんでやんす!送ってくから早く帰るでやんす!」
「え、でも・・・」
「すぐに支度するからまゆみは外で待ってるでやんす!」
戸惑うまゆみの背中を押して練習場から追い出そうとする。まゆみは少し寂しそうに、それでいてどこか嬉しそうに、湯田に従った。
湯田もまたその場にいたコーチやチームメイトに対して軽く謝罪をし、練習場を後にした。


そして今、湯田はバスの中で振動に揺れている。隣ではまゆみが笑顔で湯田の腕をしっかり掴んでいる。
「・・・まゆみ、ひっつぎすぎでやんす」
「だって、お兄さんと二人きりなんて久しぶりですから」
何度か離れるように言ったのだが、そんな気は全く見受けられない。
まゆみの表情はそれはもう本当に本当に幸せそうであった。それとは対照的に湯田の心は決して明るくない。この笑顔が『本来の』まゆみのものでないことを知っているからだ。
「まだ何も思い出せないんでやんすか?」
その一言を聞いたまゆみは、それまでの表情を一変させ、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「・・・ごめんなさい」
4年前に起きたあの悲劇はまゆみから一切の記憶を奪った。家族のことや恋人のこと。そして好きだった料理の仕方や文字の読み書きすらも。
今日、まゆみは立ち入り禁止の練習球場に入ってきた。だがまゆみに悪気があったわけではないだろう。読めなかっただけなのだ。『立ち入り禁止』の文字が。
だから今もこうしてわざわざ直接家に送って行っている。こんな状態のまゆみを夜遅くに一人で帰すわけにはいかない。
あせる事はない――失われた記憶はゆっくりと思い出していけばいい――かつてはそう言い、まゆみの事を元気付けていた。
何より湯田自身もそう思っていた。だが今は何も言葉が浮かばないでいる。
(もう、この子の記憶は戻らないんでやんすかね・・・?)
顔を伏せたままのまゆみの頭をそっと撫でてやる。掴まれた腕が少し痛い。
しばしの静寂の中、先に口を開いたのはまゆみの方だ。
「お兄さん・・・あの・・・たまには家に帰ってきてくれませんか?」
そう言えば去年の年末は家に帰ってなかったことを思い出した。もしかして今日わざわざ来たのは直接会いたかったからなのだろうか。
「悪かったでやんす。でも今年はもうシーズンが始まってしまうでやんす。今年はちゃんと帰るでやんすよ。」
「今年の・・・年末・・・」
歯切れの悪い言葉。なんとなく言いたいことは伝わってくる。確かにやや気の長い話になるがどうしようもできない。
「・・・絶対ですよ」
「絶対でやんす!」
まゆみの願いににハッキリと答える。彼女の不満と不安を払ってやるためだ。
「だからまゆみは家でオイラのことを応援しておいて欲しいでやんす」
そう言ってやるとまゆみは笑顔を取り戻し、今日の騒動はめでたく終わりとなる・・・湯田の中ではそうなる予定だった。
実際はと言えばまゆみはまるで物をねだる子供のような目で湯田を見つめてくる。
「な、なんでやんす?」
「・・・言っておきたい事があります」
いつにない妙な空気が二人の間に流れ、湯田は背筋が急に寒くなる感覚に襲われた。まゆみが頬を赤らめていることとは関係ないと思いたい。願わくば。
「あの、その、久しぶりに会ったことですし・・・いや、そうじゃなくて・・・えっと、えっと、だから、その・・・私・・・お兄さんの事、が・・・す・・・」
『間もなく〜○○に止まります。お降りの方はお忘れ物にご注意下さい。』
まゆみのしどろもどろで今にも消えそうだった声を簡単に遮った運転手の声。湯田はこれをチャンスと捉えた。
「着いたでやんすね。まゆみ、降りるでやんすよ!」
「ええ!?ちょ、ちょっと待って・・・!」
まゆみの手を強引に引っ張って席を立ち、バスを降りる。その手が汗で熱く湿っているのが分かると、やはりさっきの言葉を遮ってくれて助かったと思う。
あの言葉の続きをまゆみに言わせてはいけない。そしてそれを聞いてはいけない。


バス亭から実家までの距離は徒歩15分というところでさほど遠くはない。それでもさっきの言葉の続きを言うだけなら時間は有り余る。
そうされたらどうしようもないのだが、どうやらまゆみは完全に気が抜けてしまったのだろう。顔は赤いままでも視線はどこか遠い。
程なくして湯田にとっては懐かしき家の前まで二人は帰ってきた。未だポケーっとしているまゆみの肩を軽く叩いてやる。
「ほらまゆみ、着いたでやんすよ。・・・明日も練習があるからオイラはもう帰るでやんす」
踵を返し、来た道を戻ろうとする。と、まゆみが湯田の背中に言葉を投げかけてきた。
「頑張ってくださいね」
飾り気のない言葉。一瞬緊張したが、徒労だったようだ。
背に目線をうけたまま、湯田は答える。
「・・・まかせるでやんす!」
今日、『この』まゆみを見た他の選手やコーチたちはどう思うだろうか。ちょっと無茶だけど兄思いの良い妹だとでも思うのだろうか。
・・・母親が再婚し、まゆみは父方の連れ子だった。かつては顔をあわせる度に喧嘩をしていたものだ。
出会ったばかりの頃はお互いを警戒しあい、会話も全くなく、時には殴り合いの喧嘩をしたこともある。(その時は確か負けた。)
そしてまゆみが事故で記憶を失い、彼女との繋がりが喧嘩の事ばかりだったことに後悔を感じた自分が、まゆみの看病を精力的にするようになってからまるで別人のように自分にべったりとくっつくようになってしまった。
・・・だからこそ、まゆみには自分に恋心なんて抱いて欲しくない。
「オイラにも彼女がいれば違ったかもしれないでやんすけどね・・・」
ふと、毎年クリスマスは彼女と過ごしていた元同僚の笑顔が頭をよぎった。それに加え、いつも一人で寂しいクリスマスを過ごしていた自分の事も。
「・・・あぁ、もう!ぜーんぶ小波くんが悪いんでやんす!絶対ボッコボコにしてやるでやんすー!」
湯田はとりあえずは目の前の事に集中し、思考を切り替えることにした。
・・・小波にとっては非常に理不尽なことだが。


月日が経つのは早いもの。気がついてみればペナントは終了。昨年は栄光の日本一だったが、今年はリーグ優勝にも届かなかった。
まあAグループ入りしただけでもよしとするところか。
また湯田の個人的な目的であった対小波戦であるが、こちらはものの見事に惨敗であった。何度スタンドに球を運ばれたか知れない。
「やっぱり球速も鍛えておくべきだったでやんす」
そしてもう一つ、湯田にとって億劫なことがある。帰省である。
今、湯田は実家の目の前で途方にくれている。何故自分の家に入るのにこうまで躊躇わないといかんのだろうか。
「いやまあしかし・・・大丈夫でやんす!多分!」
何が大丈夫か、湯田自身も分からないがとりあえず踏み込んでみることにした。このまま外にいるだけでは風邪を引いてしまう。
「ただいまー!でやんす」
静まり返る玄関。出かけているのだろうか。少々複雑な気持ちにもなったがとりあえずはホッとした。・・・その時である。
ガタッ!ガタン!!
何かが倒れたような派手な音が響いた。何が起こったのか、そう考える間もなく今度は廊下を騒々しく走ってくる音がした。
「お、お帰りなさい、お兄さん」
先ほどのは壮大にこけた音だったのだろうか、ボロボロになった状態のまゆみが湯田の帰りを迎えた。

「はい、お茶ですよ」
「ありがとうでやんす」
ソファに腰を掛け、麦茶が注がれたガラスのコップをまゆみから受け取る。その表情は相も変わらず笑顔だが、それなら尚の事警戒せねばなるまい。
まだ自分に想いを寄せてきてるのならハッキリ『付き合えない』と言わなければならないのだから。
(・・・我ながら自意識過剰でやんす。あの日のことはきっと一時の気の迷いに違いないでやんす。)
ちょっと自分のことが嫌になりながら湯田はコップを口につけた。
「私、お兄さんが好きです」
ブゥーーーーーーーッッ!!!
飛び散る水しぶき・・・いや、茶しぶき。また、気管にいくらか入ったらしく軽くむせてしまう。
スローボールを投げてくると思って完全に不意を付かれた。まさか160キロの剛速球を放ってくるとは。
「お口に合わなかったですか・・・?」
そのボケはワザとなのかと怒鳴りたくなるがグッとこらえ、話を返す。
「・・・いきなり何を言うでやんす!」
少々強い口調になってしまったが以外にもまゆみはひるまない。いや、むしろ瞳には固い、強力な意志が見て取れる。
「・・・実は、前に会ったときも私、告白しようとしてたんです。その時はなかなか勇気が出なくて・・・でも今ならハッキリ言えます。
私が入院した時、学校を休んででも私にずっとついててくれた、優しいお兄さんの事が、私・・・大好きです!」
まゆみの告白に湯田は全く反応が出来なかったのは、予想以上にまゆみの剣幕に迫力があったからである。
加えて、その時のまゆみの目つきはまゆみが記憶を失う以前のそれによく似ていたためでもある。
(剛球+重い球でやんす・・・)
恐らくあの日から時間を置いたことによって、まゆみに長い長い心の準備期間を与えてしまったのだろう。
ひるむ湯田にまゆみはさらなる追い討ちをかけてくる。
「お兄さんは私のこと、好きですか?」
「なっ・・・?」
湯田の隣に腰掛けて正面からジッと見つめてくる。さり気に手を握って逃がさないようにすることも忘れてない。
「まゆみ・・・それは」
「好きなのかそうでないのか、二択で答えてください!」
ぴしゃりと言い切る。ダメだ、目線を逸らしたり下手に誤魔化すとやられる。湯田自身の本能がそれを教えている。
(好きか・・・嫌いか・・・)
確かにかつては毎日が喧嘩の日々だった。でも嫌いではなかった。過去はああでも、なんだかんだでまゆみの事を気にしていたと断言できる。
でなければ、まゆみが事故に遭ったあの日、好きなアニメの予約録画を忘れてまで病院に駆け込んだりしなかった。
「好き、でやんす・・・」
嘘では、ない。・・・が、この台詞をこの場面で言うべきではなかったと後悔したときには、もう遅かった。
「ほ、本当に・・・?」
まゆみの真剣な表情は、信じられない。といった驚きの色に変わり、更に喜びの色も添えられていく。
「た、ただそれはきょうだ――――ッ!?」
兄妹として好きという事。惜しくもその言葉を言い切ることは出来なかった。やさしく暖かい感触が湯田の唇に重ねられていたのだ。


目前には視界いっぱいに目を閉じたまゆみの顔。
唇とはまた別に、柔らかい物体が体を心地よく圧迫してくる。見た目は控えめに思っていたが結構サイズはあるらしい。そんな事を一瞬でも思い浮かぶ自分を憎らしく思う。
(・・・や、やばいでやんす・・・!)
いつ理性が飛んでもおかしくないこの状況。一歩間違えればピッチャーにして弾道が上がってしまいかねない。
寸でのところで理性を保ち、まゆみの体を強く、それでいてゆっくりと引き剥がす。
まゆみは明らかに不満げな顔をしていた。
「あの・・・お兄さん?」
「オイラはまゆみの事、好きでやんす。・・・でも、こういうのは受け入れられないでやんす」
「兄妹だから、ですか?」
まゆみは顔を伏せ、湯田から目線を逸らした。声のトーンも明らかに下がっていく。
「・・・そうでやんす」
「血は繋がってないんですよ?」
「そういう問題じゃ・・・」
「・・・どうして」
「・・・どうしてもでやんす」
「どうしてよ・・・」
「まゆみ・・・」
「答えてよッ!!」
部屋中、いや、家中にまゆみの声が響いた。先ほどまで逐一敬語を使っていたのが嘘のような大きな声にさすがに湯田は戸惑う。
「元はと言えばあんたが悪いんでしょうが!あんたが、入院してる私に付っきりで優しくするから!どうして優しくしたの!?事故に遭う前はずっと冷たくしてきたくせに!そんなのずるい!」
「まゆみ・・・?お、思い出したんでやんすか!?」
「やんすって言うな!・・・・・・全部思い出したわけじゃない。最近夢に見るの・・・最初は一ヶ月に一回くらいの悪夢だったのに、今はもうほとんど毎晩。
大好きなお兄さんと大喧嘩する夢・・・馬鹿とか、消えろとか、死んじゃえとか、平気で言い合っちゃって・・・おまけに私は兄さんじゃない、知らない男の人と付き合ってるし・・・」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら溜まっていたものを吐露し続けるまゆみ。いたたまれず、まゆみの涙を拭こうと手を差し伸べる。が、今度はまゆみの方からその手を払い、また言葉を続けた。
「やっぱりあれ、私の記憶なんだ・・・知らないほうが良かったよ。私、お兄さんのこと・・・本当に好きだったもん・・・兄妹だから結ばれることはないって分かってた。
で、でも・・・あんな夢・・・毎晩見てたら、気がおかしくなりそうで・・・記憶が戻ったら、また、あんな風に大喧嘩するんだ・・・って思・・・」
言葉が途切れ、嗚咽だけが残った。湯田は今度は払われないよう、強引にまゆみの体を抱き寄せた。震える肩を力ずくで抑える。
「い、痛い・・・放せよぉ・・・」
「まゆみの事が好きと言ったのは本当でやんす。オイラが悪かったのは、まゆみが事故に遭った後でそれに気づいたということでやんす・・・
まゆみの記憶が戻ったら、最初に謝って、思ってたことを全てを話すつもりだったでやんす。・・・まゆみ・・・ごめんでやんす」
「記憶なんて・・・いらないよ・・・全部思い出したりしたら・・・もうお兄さんと、今までどおりに顔あわせる自信が・・・ない・・・よ」
「例えそうなっても、まゆみの事はオイラが守ってやるでやんす!・・・それが、兄としてのオイラの義務で、責任なんでやんす」
「・・・馬鹿兄貴・・・」
そのまま、まゆみは湯田の腕の中で泣き続けた。湯田もまゆみのことをずっと抱きしめていた。


どのくらいの時間が経っただろうか。まゆみはすっかり落ち着きを取り戻しているのだが、湯田に引っ付いたまま一向に離れようとしない。
だが湯田自身も今はこのままでいたいと、そう思っていた。
二人は抱き合ったまま今までのことを振り返っていた。
「まゆみ、夢を見始めたのは去年からでやんすか?」
「ううん、もっと前から。その頃は一週間に一回は見てた。その後シーズンが始まってテレビでお兄さんを見るようになってからは、どんどん間隔が短くなっていって・・・」
「・・・辛かったでやんすね」
「そんな夢から逃げたかったから、お兄さんに愛の告白しようって思ったのかもしれない。」
「・・・それって結局気の迷いだったって事でやんすか?」
「失礼だな。愛してたのは本当だよ!」
「あはは・・・いや、悪かったでやんす・・・でもさっきの質問は酷いでやんす。好きか嫌いかの2択で嫌いだなんて言えないでやんすよ」
「私は好きか『そうでないか』で答えてって言った筈だけど?」
「・・・あれ?」
この時のやり取りは湯田にとってとても楽しかった。こうやって心から笑ってまゆみと話をするなんて初めてのことだったからだ。こんな日が来ることをきっとずっと前から望んでいたに違いない。
「ねえお兄さん、一つ聞きたいんだけど」
「ん?」
「私の前いた彼氏ってどんなだったの?」
「んー・・・同じチームメイトだったでやんすよ。まゆみの事故の後で分かったんでやんすけどね」
「今どこにいるか分かる?」
「・・・さあ?どこかで普通に暮らしてるんじゃないでやんすか?会ってないから分からないでやんす」
「・・・・・・」
まゆみは神妙な面持ちで湯田の顔を覗き見た。
「お兄さんはその人の事、嫌いなの?」
「へ?何故でやんす?」
「顔に書いてあるもの」
しょっちゅう顔を会わせているわけでもないのに本当に兄のことをよく見ている。これには流石に参った。
「嫌い、というのはちょっと違うでやんすね。むしろ甲子園に出場できたのは彼のおかげ、という所もあるし尊敬もしてるんでやんす。ただ・・・」
「ただ?」
「・・・大喧嘩しちゃったんでやんすよ。まゆみが事故に遭った後、いろんな人に話を聞いて彼がまゆみと付き合ってたことが分かったんでやんす。
それで、オイラは彼にまゆみと会うように頼んだんでやんす。彼と会えば、まゆみは直ぐに記憶を取り戻すだろうって考えたんでやんす。
・・・でもあいつはまゆみに全然会ってくれなかった。高校を卒業した後も何回も何回も頼んだのに決して首を縦に振らなかったんでやんす。
理由を聞いても『約束を守れなかったから』とか『会わせる顔がない』だとかの一点張り。・・・それでオイラはとうとう我慢できなくなってこう言ってやったんでやんす。
『ならもう二度と、アンタをまゆみと会わせたりしない。例え記憶が戻ったとしても、絶対に』・・・って」
「・・・・・・あ、あの・・・ごめんなさい」
湯田を抱くまゆみの力が少し強くなった気がした。
「謝らなくても・・・まゆみが願うなら別に会ってもいいんでやんすよ」
「・・・ううん。いい・・・だって私、お兄さんのほうが好きだもの」
「まゆみ・・・」
「そんな顔しないでよ。分かってる。・・・でも今はいいでしょう?しばらくこのまま・・・」
それっきり二人の会話は終わった。その後はただひたすらにお互いの体を抱き合い、今日という日を幸せに感じていた。
・・・まあその日はそれ以上のことは無かった。と付け加えておこう。


ホッパーズが消滅した。いや正確には名前が変わったのだ。名はナマーズ。そうなってもまだ湯田はそこに所属していた。
古澤新監督の指揮の下、今日も湯田はマウンドに上がる。そんな彼に対し、様々な言葉が投げかけられた。
「頑張れ具田ー!」
「え?あれって凡田じゃないの?」
「ばっか凡田はとっくの昔に引退したろ?あれは荷田だよ」
「いや、荷田はプロ行ってねえよ」
「亀田ぁぁぁーーーー!!!」
全部違う。なんなんだあいつらは。一体この世界にはどれだけ自分のそっくりさんがいるのだろうか。もうドッペルゲンガーも怖くない。・・・というかウグイス嬢は何をしている。
そんな中、迷い無く彼のことを呼ぶ者が居た。自分にとって、大切な大切な家族。愛しき妹の声。
「浩一ー!負けるなぁー!!」
もう彼女はほとんどの記憶を取り戻し、後遺症の心配も無いようだ。
彼女はかつて記憶が蘇るのを拒んだが、最後には全てを受け入れた。その上で自分に好意を寄せてくれている。
そしてその言葉は湯田に大きな力を与えてくれるのだ。
(相変わらず彼女は出来ないでやんすけど、まゆみの言葉が何よりも励みになる・・・今日の試合は、勝てるでやんす!)

「ストライィィィィク!!!」
景気の良い審判の声が球場に響いた。

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