馬乗りになっているこの裸の女を、自分は知っているはずだ。
 死んだ女。むしろ死んでいた女。
 豆球をバックライトに揺れる彼女に乗られて、自分は動けずにただその行為を受け入れている。
 どこか胡乱とした思考の中でそのとき考えられたのは、自分と彼女がしている事の意味と、これは俗に言うところの金縛りというやつなのではないか、ということだけだった。

「その発想はあってますよ」

 カオルは自分に向かってに語りかけた。

「けれどどちらかといえば、インキュバスとか、サキュバスだとか、そっちの方がより正確な表現になるんでしょうね…あん♪」

 眼球は自由には動かなかった。たぶん、まばたきも満足にしていなかった様に思う。
 視線は彼女の顔に固定されて、上下に動く彼女をただただ眺めていることしかできなかった。
 仄かに上気した彼女の頬は、男を欲情させるには過ぎて魅力的だった。
 そしてその事実は、不可思議なこの状況を理解しようという自分の思考を停止させる言い訳にするには、十分すぎるものだった。
 理性はフリーズして、ただ股下から感じられる快楽を楽しむことを選んだのだ。

「ふぅ…あん♪嬉しいですね。そう思って貰えると。なにせわたしは…」

 こちらの上体を抱えて、自身も少し屈む様にして、彼女はキスをしてきた。舌は動いた。
 おそらくは、彼女がそれを望んだからだ。
 体の自由も、セックスも、たぶん心も、その主導権は全て彼女が握っていた。
 騎乗位で腰を振り続ける彼女の美しさは、この世の者とは思えなかった。
 女はセックスをしているときが一番美しい。そんな言葉を思い出した。

「はぁ…、んはぁ♪まぁ、事実この世の者ではありませんからね」

 昂ぶる熱は互いを溶かしあって、今以外の時間の存在を忘れさせる。自分の知った様々な彼女の姿。
 短い間ではあった。しかし濃い日々だったはずだ。
 ゲームに命を張って臨んだあの異常な日々の中で、ネットの海で彼女と過ごした間に蓄積され続けた彼女の情報。
 脳髄に刻み込まれた自分のそれをはるかに越えた量の情報が、重なりあった体から自分に伝わってくる。
 オカルトテクノロジーの申し子。
 ワギリバッテリーの開発者。
 実は死んでいた人間。
 デウエス。
 寺岡薫。

「それは、マナー…んっ♪…違反ですよ」

 快楽のリズムに乗せて、彼女の髪は跳ねて踊った。

「女の子と寝るときは…はぁ♪…違う女の子の名前を出しちゃ、だめなんです。
…今ここにいるのは、研究者でもなければ、悲劇のヒロインでもありませんよ」

 カオル。

「そうです、嬉しいです。本当に、嬉しいです」

 彼女は泣いていた。けれどそこにあるのは悲壮感ではなかった。それ以上のことは自分にはわからなかった。
 このときの彼女が、その表情で語りたかったものは何だったのか。充足感だったのか、感動だったのか。
 それとももっと、泣かなければならないほどに、切羽詰まった何かだったのか。

「知ってますか?この世にはね、泣くことを許されない存在がいるんですよ。だから」

 だから、泣ける人間は泣かなくてはならいんですよ。
 そう言うと彼女は再びキスをして、今度はそのまま、動かない男の肩を抱き続けた。
 限界が近い。たぶん、終わりもだ。快楽の極点は間もなく訪れる。

「…はぁ♪…すみませんね。最後の悪あがきに付き合わせちゃって。どうしても、あいつには反論したかったんです」

 つむじからうなじまでを彼女に優しく撫でられる。
 蟲惑的なその仕草は、終わろうとする幸せなひとときを惜しんでいるように思えてならなかった。

『わたしはまだ、幸せになってないじゃないか!』

 あの言葉が、脳裏をよぎった。
 吐き出された快感は、彼女の中に吸い込まれていく。
 目の前にある彼女の首筋にキスをしたかったのだけれど、自分の首は動かなかった。
 薄らいで行く意識を繋ぎとめたくて、何より彼女に伝えたい何かがあって、必死にそれを叫ぼうとした。
 けれども足早に距離を離す自分の意識を、結局自分は、捕らえることができなかった。
 それでも最後に見た光景は、その顔は今でも鮮明に思い出すことができる。
 満たされた顔で優しげに俯いて、きっと彼女は、幸せな気分に浸っていた。

 飛び跳ねるように起きて最初に感じたのは、大きな疲労感と喪失感だ。
 今のは夢だったのか。
 衣服にも、布団にも乱れは見えなかった。
 何故、彼女がカオルだと思ったのだろうか。
 自分が知っているのはアバターの”カオル”であって”寺岡薫”ではないはずだ。
 どこかで写真を見たか?記憶を上手く引き出すことができない。
 とりあえずは自分を落ち着かせようと冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップ一杯を一気に飲んだ。

「どうしたでやんすか。うるさいでやんすねえ」

 そういえば自分にはルームメイトが居たのだということを思い出した。今が夜中だということも、そのとき初めて気づいた。
 あぁ、ごめん。そう友人に謝ろうと振り返ろうとする前に、

「…そういうことでやんすか。まぁ、今度からはせめて静かに帰ってきて欲しいでやんす」


 彼はそれだけ言って、自分の布団の中へと再び潜って行った。
 飲んだ麦茶は、何一つ自分の存在を主張しないままに胃袋の中に落ちてしまった。
 まだ残っているあの夢の興奮を鎮めようと、シャワーでも浴びようと思った。
 脱衣所で服を脱いで上半身を晒して、特に意味も無く背後の鏡を振り返る格好になったとき、それを見つけた。
 首筋に付いた小さな青い鬱血の跡。できることならば、この自分が彼女に残したかったキスマーク。
 気付けば既に服を着なおしていて、手には携帯電話が握られていた。
 そして必要なのはシャワーではなく、缶コーヒーと夜食だということにも気付いていた。



 アパートを飛び出してコンビニ向かいながら、知り合いのジャーナリストと連絡をとった。

「寺岡薫の思い人を探して欲しい?見つけてどうするんです?」

 伝えなきゃいけないことがあるんです。
 それだけ言って、一方的に通話を切った。
 知り合いの刑事にも連絡をつけようと思ったが、そういえば彼は妻帯者であることを思い出して、携帯をポケットにしまった。
 今の自分にはできるに違いない。妙な確信があった。協力してくれる仲間はまだまだいる。
 やらなければならないことがある。女としての幸せを、おそらくは遂に叶えることができなかったある科学者のためにだ。
 寺岡薫の片思いの相手、その彼を見つけ出して、彼の知らない寺岡薫を教えなくてはならない。
 彼女のために自分ができるのは、それしかないと思った。
 カオルもデウエスも、実は望んで彼女がネットに放ったものなのではないか。そう考える自分が居た。
 Webとは蜘蛛の巣の意味だと聞いたことがある。放たれた蜘蛛達は、巣の糸を辿っていずれどこかに辿り着く。
 そこは不毛の大地かもしれない。寺岡薫はそれを、そんな生き方を望んでいた。
 けれど中には、楽園に降り立った蜘蛛だって居たかもしれない。
 そしてそこで、遂にオリジナルの成しえなかった女としての幸せを知るのだ。
 そんなハッピーエンドが、あったっていいじゃないか。
 深く息を吐いて、空を見上げた。都市の夜空に星は少ない。
 頭の中で星の一つ一つを白い線で結んで遊ぶ。そうすれば、蜘蛛の巣の様に見えるかもしれないと思ったからだ。

『ふぅ…あん♪嬉しいですね。そう思って貰えると。なにせわたしは…』

 女なのですから。
 そんな声が、どこからか聞こえた気がした。

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