「あれ?」

典子がアパート一階の集合ポストを開けると、
近所のスーパーや商店のチラシに混じって、
見慣れない白いボール紙の箱が入っていた。

箱の表には、典子でも知っているツナミ系列の有名家電メーカーのロゴと
「精密機械在中」の文字が印刷されている。
引っ繰り返すと、宛て先として典子の住所と、父親の名前があった。
父の名を見ると、今でも微かに胸が痛んだ。

(間違って、お父さん宛てに届いたのかな?
 だったら、送り返さないと)

やけに軽いボール紙の箱を買い物用のバッグに落とし込み、
典子はそのままアパートの階段を上がった。

「……あ、典子ちゃん、おかえり!」
自分の部屋の前まで来ると、
ちょうど隣の部屋の小波も帰って来たところだった。

「お久し振りです」典子は軽く頭を下げた。





典子の部屋の隣に住んでいる小波は、去年までは大学生をやっていた。
そして今年からは社会人になる予定だったが、
内定していた会社が不況の煽りで潰れてしまい、
今はバイトで食い繋ぎながら仕事を探している。
いわゆる、就職浪人というやつだ。

そんな身の上を、アパートの花壇に植えたヒマワリの手入れや、
共同清掃作業の時に交わす挨拶のついでに聞かされるうちに、
いつしか、典子は小波と親しく打ち解けるようになっていた。
一生懸命仕事を探し続けている小波の姿が、
今はもういない父親の姿とダブって見えたのかもしれない。

ある日思い切って、
「わたしのうち、よくおかずが余ってるから、
 もったいないから貰ってくれません?
 ひとつ作るのも、ふたつ作るのも手間は一緒ですし」
と、声を掛けたところ、
翌日本当におかずを受け取りに来たのは驚いた。

でも、嬉しかった。

短い時間とはいえ、小波と二人きりで話ができるのが楽しかったし、
自分以外の誰かが食べてくれてるというだけで、
食事を作るのにも自然に張り合いが出た。
毎日、小波がおかずを受け取りに来るのが待ちきれなかった。

「就職が決まったら、フランス料理をごちそうになりますから」
どちらかと言えば引っ込み思案な典子が、
そんな軽口を叩けるまでの仲なっていた。

――しかし、それも先月ぐらいまでの話だ。

七月に入る頃から、小波が典子の部屋を訪れる間隔はだんだん疎遠になり、
ここ一ヶ月はほとんど顔を見せていない。

それでも、典子は余分におかずを作り続けるのをやめなかった。
――だって、また小波さんがいきなりおかずを貰いに来た時、
渡す物が何もなかったら、困るじゃない――

食べきれないおかずは、翌日の朝食やお弁当に使った。
いつしか典子の朝食やお弁当のおかずは、
小波のために作った余分なおかずの残り物ばかりになっていた。

いっそのこと、自分から小波の部屋におかずを持っていこうかと思ったものの、
中学生の典子にとって、十歳も年上の男性の部屋に
いきなり押し掛けていくというのは、ハードルが高すぎた。





アパートの部屋の前で久し振りに小波と顔を合わせた時、
今がチャンスなんだ、と典子は思った。
「ここ最近、小波さんごはんを貰いに来てませんよね?
 バイトで忙しいんだったら、わたしの方から持って行こうか?」
って言ってみよう。そうすれば――

典子が思い切って口を開きかけた瞬間、背後から別の誰かの声がした。

「小波さん……」

典子が振り向くと、黒髪でロングヘアの女性が立っていた。
年齢は、多分小波と同じくらい。
腰のあたりまで届きそうなほど長い黒髪なのに、
丹念に手入れされているようで枝毛一本無い。
頭の天辺では、キューティクルの輪が光っている。
そして本人もその黒髪に劣らず、すごく綺麗な人だった。

「……れ、漣? こんな時間に一体どうしたの?」
典子の時と違い、小波は挨拶も抜きにして、
親しげな様子で女性に声を掛けた。

「……」
漣と呼ばれた女性は小波と目を合わせたまま口ごもっていたが、
典子に気付くと、軽く頭を下げた。

「あ、お話の腰折っちゃってごめんなさい……お先に、どうぞ」

美人な上に、性格も良い人のようだった。

ようやく典子は、この場では自分の方が邪魔者である事に気付いた。

「なんでもありません。こちらこそ、お邪魔しました!」
典子はぶっきらぼうに言い残して、自分の部屋に入った。

部屋のドアを閉める間際にちらりと小波たちの方を見たが、
二人はもう、典子の方は見ていなかった。





(小波さんの分のおかずを作るのは、今日で終わりにしよう)

夕食の支度をしながら、典子はそう考えていた。

一人きりで夕食を食べていると、寂しさばかりが募ってくる。
今頃隣の部屋では、小波があの美人さんの手料理を食べているんだろうか。

食事を終えた後、今日の分の家計簿を付けるために
レシートをまとめた財布を求めて買い物バッグを探ると、手が何かに触れた。

ポストに入っていた、あのボール紙の箱だった。

軽く振ってみると、中にはボール箱よりも更に一回り小さな物が入っているようだ。
箱の表面をあちこち眺めてみたが、中に入っているのが
小型の精密機器だという以外の情報は書かれていない。

典子は、箱の中身が何なのかが知りたくて我慢できなくなった。
ボール箱の蓋には、典子の好奇心を誘惑するようにミシン目まで入っている。

(――間違えて、送ってくる方が悪いんだ)

典子はボール箱の蓋に指をかけてミシン目を破り、箱の中身を床に落とした。
数枚の説明書と、ボール紙の台紙で保護された四角い黒い物体が、
カーペットの上に散らばった。

(……携帯?)

ボール箱の中から出てきたのは、最新式の携帯電話だった。

取り扱い説明書と一緒に入っていた書類によれば、
携帯電話のメーカーが、モニター用に無償で配布しているものらしい。
向こう一ヶ月間は、接続料金もなしで使えるとのことだった。
一ヶ月後に継続して使用する意思がない場合は、
そのまま会社に送り返せばいい、という意味のことが書いてあった。

典子は、携帯を持っていなかった。
中一の時に、父親の就職が決まったら、
自分専用の携帯を買ってもらう、という約束をしていたが、
結局、その約束は果たされることはなかった。

そして今頃になって携帯が手に入るとは、なんという皮肉だろう。

(……でも、どうせなら、もっとかわいい色のが良かったな)

黒いボディは、よく見ると微かに赤みを帯びていた。
なんだか、禍々しい印象さえ与える。
血の色みたいだ、と典子は思った。

携帯の中央部には大きな液晶タッチパネルが付いていて、
メッキされた電極が携帯の周囲をぐるりと取り囲んでいる。
説明書によれば、この最新式携帯は掌の神経を通じて使用者の脳波を読み取り、
思考による入力が可能になっているそうだ。

典子は携帯電話の電源を入れてみた。
無料だというのなら、ちょっとだけどんなものなのか試してみたい。
バッテリーは既に充電されていたらしく、そのまま画面が明るくなった。

携帯の初期画面が液晶パネルに映し出された。
いくつものアイコンが表示されているが、その意味が典子にはわからない。

(これって、なんのアイコンなのかな?)

典子がそう考えていると、画面の隅にヘルプが開き、アイコンの意味が表示された。
ああ、思考による入力ってこういう意味なんだ、と典子は納得した。

(ネット、ネットに接続してみたい)

そう念じると、Webブラウザの画面が液晶に表示された。
思考入力による操作は非常に快適であり、
典子がこういうページを見てみたい、と曖昧に考えるだけで、
適切なページに案内してくれた。
ベッドに寝転がって携帯でのネットサーフィンを楽しむ内は、
少しばかり寂しさを紛らせることができた。

(……これだけたくさんのページがあるんだから、
 願い事をかなえてくれるページがあったらいいのになあ)

ふとそう思った途端、いきなりぱっと新しい画面が開いた。

本当にあるの!?と、思わず典子は身を乗り出した。

そのページのトップには、顔のない女性の画像が表示されていた。

『ここは、あなたの願いを可能な範囲内で叶える《顔のない女》のページです。
 ただし、願い事に対してはそれに応じた代償を受け取らせていただきます。
 そして、一度叶えた願い事は取り消せません。
 このページを使用する際には、以上の点をご確認の上で次のページにお進みください』

その説明文を読んでいる内に、典子はすぐに察しが付いた。
――ああ、これは、こういう冗談をやってるページなんだ。
そもそも願い事をなんでも叶えてくれるページなんて、
そんな都合の良い物がこの世に存在する筈がない。

そう思いながらも、典子はそのページに興味を持ち始めていた。

次のページには、より詳細な免責と注意事項が数十行にわたって記されていた。

長い。典子は最初の二、三行だけいい加減に読み飛ばすと、
後の数十行は一気にスクロールさせた。
一番下まで注意事項をスクロールさせると、
『同意する』のボタンがアクティブになった。

典子は思考入力で『同意』のボタンをクリックすると、そのまま次の画面に進んだ。

最後の画面はシンプルだった。

画面の上端に『願い事』の入力欄、
下端にはその願い事の『代償』として要求される物。
そのすぐ下には『承諾する』のボタン。

そしてその間には、例の顔のない女性の画像。

入力欄に注意を向けると、自動的に典子の考えていた通りの文章が入力された。

『願い事:お父さんに戻ってきてほしい』

『願い事』欄にテキストが入力されると、
『その願い事は実現不可能です』という文字が『代償』の欄に表示された。

典子はやや失望した。
どうせ冗談なら、もう少しこっちの悩み事に付き合ってくれてもいいのに。

きっと、このページではどんな願い事を入力しても、
『その願い事は不可能です』と表示されるようになっているんだろう。

(じゃ、これならどう?)

典子は別の願い事を考えてみた。

『願い事:あの人にわたしも見てほしい』

『願い事』欄のテキストが変化すると同時に、
『代償』欄のテキストも自動的に書き換えられた。

表示されたテキストを見て、典子はぎょっとした。
典子の予想に反して、それは、『その願い事は不可能です』という文章ではなかった。

『代償:あなたの父親との思い出・八歳から十一歳までの三年分』

典子は、反射的に携帯を投げ出した。
いくら冗談とはいえ、悪趣味すぎる。
興味本位でこんなページを開くんじゃなかった。

典子は携帯の電源を切ると、封を切られたボール箱にしまい込んだ。
この携帯は、明日にでもさっさと送り返してしまおう。

ボール箱を枕元に放り出したまま、典子は天井を見つめた。

時計をちらりと見ると、もう深夜に近い時刻になっていた。

(明日で、もう夏休みも終っちゃうな……
 結局、今年の夏は何もなかった。
 楽しい思い出と言えば、
 何度か小波さんに食事に連れて行ってもらったことくらい)

ふと、死んじゃおうかな、という考えが典子の頭に浮かんだ。

(どうせわたしが死んでも、もう悲しむ人は誰もいないもの)

――そんな事を考えていると、どこからか、微かに女性のすすり泣く声が聞こえた。

典子は、思わずベッドから身を起こした。
すぐ隣の、小波の部屋からの声だった。

あの、漣と呼ばれていた女の人の声らしい。
思わず壁のそばに身を寄せて耳を澄ませると、女性の泣き声に混じって、
小波のものらしき荒い喘ぎ声も聞こえる。

(ケンカでも、してるのかな?
 でも、あの優しい小波さんが、
 女の人を泣かせるなんて、信じられないし……)

――次の瞬間に、典子は自分の勘違いに気付いた。
典子とて、小学校高学年の時に一通りの性教育は受けていた。

こんな夜遅くに、大人の男の人と女の人が同じ部屋にいるのだ。
何をやっているのかは、わかりきっている。

全身から、血の気が引いていくような気がした。
自分の座っているベッドが、ぐるぐる回っているような気がする。
こんな気持ちになったのは、父親の悲報を知らされた時以来だ。

今になってようやく、典子は自分が小波を愛していたという事に気付いた。

異性を好きになったのは、典子にとって初めての経験だった。

そしてその初恋は、気付いた瞬間に終ってしまっていた。

典子はベッドから飛び下りると、部屋の反対側でうずくまって耳を塞いだ。
自分が何をしているのかも、よく分からなかった。
ただ少しでも、小波と漣が愛しあっている場所から離れていたかった。
けれども漣の声は、塞いだ耳にも容赦なく入ってくる。

(やめて……もう、やめてよ……)
典子は泣いていた。

なんで、自分はこうなる前に、思い切って小波に告白しておかなかったんだろう?

……いや、どうせそんな事をしても、無駄だったに決まってる。
小波にとって、自分は「隣に住んでいる、かわいそうな子供」でしかない。
そもそも自分は、小波から異性として見られてないのだ。

月日が経てば、きっと、この悲しみにも耐えられるようになる筈だ――
典子は心の中で必死にそう念じ続けた。
交通事故で父が亡くなった、あの時のように。

でも、今は耐えられない。心が張り裂けそうだ。

典子はふっと思った。今から小波の部屋のインターホンを鳴らして、
「声が丸聞こえですよ? ちょっとは、隣近所の迷惑も考えてくださいね」
って言ってやろうか……。

そして、自分がこんな卑しいことを考えられる人間だったという事実に、
愕然とした。

もうイヤだ。幸せは全部自分から逃げていく。幸せは全部自分を避けて通る。
こんな場所には、もうこれ以上いたくない。
典子は逃げ場を求めるように、部屋の中を目で探った。
しかし、どこにも逃げ場がある筈がなかった。

――いや、あった。
ベッドの枕元に置きっぱなしになっている、白いボール箱。

典子は震える手で、白いボール箱から黒い携帯をもう一度引っ張り出し、
電源を入れた。

携帯には、電源を落とした時の画面がそのまま保存されていた。

『願い事:あの人にわたしも見てほしい』

入力フォームには、さっき典子が入力した文章がそのまま残っている。
典子はその文章の一部を書き換えた。

『願い事:あの人にわたし“だけ”見てほしい』

願い事が書き換えられたことで、『代償』欄のテキストがまた変化した。
変化した代償の内容は、典子の激情を押し止めるのに充分だった。

『代償:あなたの父親との思い出・すべて』

けれどもその時、再び隣室から漣の声が聞こえてきた。
もはや聞き間違えようのない、セックスの際の声だった。

自分の意思のありったけの力を込めて、典子は『承諾する』のボタンを選択した。





「ん……朝、ですね」

カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、
漣は裸のままベッドから身を起こし、軽く背伸びをした。

隣では、裸の小波が安らかな寝息を立てている。
漣はそんな小波の寝顔を感慨を込めて見つめた。

(しちゃった……小波さんと。
 でも、これでもう、どんな結果になっても悔いはないよね)

小波が目を覚まさないように、漣は静かにベッドを出た。

下腹部のあたりには、処女を失った名残りの疼痛が微かに残っている。
けれでも、その痛みが自分が小波の物になれた証であると思うと、
決して不快ではなかった。

漣は、昨晩に脱ぎ捨てたままになっている自分の衣服に袖を通した。
少々皺が寄っていたが、目立つ程ではない。

(小波さんが起きる前に、朝食でも作っておいてあげよう)

漣は冷蔵庫を開けたが、目ぼしい物は残っていなかった。
昨日の夕食を作った時に、材料はほとんど使い切っていた。
近所にコンビニがあったのを思い出し、漣は寝ている小波を起こさずに
買い出しに出ることにした。

漣がアパートの廊下に出ると、中学生ぐらいの女の子が
階段の前の壁に背を持たれかけさせて立っていた。

昨日小波と一緒にいた、隣の部屋の女の子だった。

どことなく蔭のある様子が気になったので、小波に聞いてみたところ、
隣の部屋に住んでいる小波の知り合いの男性の娘さんという話だった。
父子家庭で父親が失業して大変なのに、健気に主婦代わりを務めているらしい。
基本的に、漣は小波が他の女性と仲良くしているのをあまり喜ばないタイプだったが、
その子の境遇を聞いた時は、さすがに同情を禁じえなかった。
――そもそも、子供相手に嫉妬する理由もないけれど。

小波の知り合いの子供なら声でもかけておこう、と思い、漣は女の子の方を向いた。

しかし、昨日会った時は、素っ気ない感じはあるものの、素直そうな女の子だったのに、
今日は、その素直な印象が微塵も感じられない。

どうにも声を掛け辛い雰囲気に、漣は軽く会釈しただけで女の子の前を通り過ぎようとした。

――次の瞬間、漣は後頭部にチクリと微かな痛みを感じた。
頭に手をやって振り返ると、女の子が漣の長い黒髪を一本引き抜いたところだった。

女の子は抜き取った髪の毛を握り締めたまま、漣の方を睨んで走り去り、
自分の部屋に戻って、ドアを勢い良く閉めた。
その一部始終を、漣は呆気に取られて見守るしかなかった。

(……変な子)

漣はアパートの階段を下り、コンビニに向かう頃には女の子の事はすっかり忘れていた。

今の漣は、昨日の晩のことと、そして今夜のデウエスとの対決のことで、頭が一杯だった。





『レンお母さーん、レンちゃんver1.1は、今日も元気ですよー』

漣が見つめるノートパソコンのデスクトップでは、レンそっくりのアバターが手を振っている。

あの最後の戦いから、一ヶ月が過ぎた。

デウエスから確保したデータの大部分は、漣にとってはちんぷんかんぷんだった。
処理自体が高度に暗号化されており、逆コンパイルは完全に不可能だった。
それでも、処理の一部をコピーして、理解できないままに実行テストを行う内に、
漣はデウエスに使用されていた処理のほんのごく一部を、
ブラックボックスのままで使いこなせるようになっていた。

そして生まれたのが、この『レンちゃんver1.1』だ。

知能レベルはせいぜい3〜5歳児並だが、
明らかに意味のある会話が交わせるようになっている。
最近では幼児が家の近所をうろつき回るように、プログラムごとネットに外出して、
漣の知らない情報を仕入れてこられるようになった。

(ふふ、愛いやつ……)

漣が自分の分身と戯れていると、玄関のインターホンが鳴った。

A.I.の設計作業という、漣にとっては小波とのデートの次に楽しい時間を邪魔されて、
やや不機嫌になりながらもインターホンに出ると、
どこかで聞いたような女の子の声が受話器から響いてきた。

「こちら、漣さんのお宅ですよね?
 わたし、田村典子っていいます。
 小波さんのことで、大事な話があってきたんです」

田村典子。漣はすぐに小波の隣に住んでいる女の子の事を思い出した。
ドアの魚眼レンズ越しに除くと、いつか会った中学生ぐらいの女の子が、
歪んだ視界の中で佇んでいた。

「お上がりなさい、立ち話もなんですから」

典子の表情に真剣な物を感じ取った漣は、
チェーンを外して女の子を部屋の中に迎え入れた。

「で、話ってなに?」

点けっぱなしだったノートパソコンをスタンバイに切り替え、
典子をテーブルの向かい側に座らせた。

典子は漣の目を見返したまま、話を切り出した。
「小波さんと別れてください」

「は?」漣は一瞬、典子が何を言っているのか分からなかった。

「わたし、小波さんが大好きなんですよ。
 彼女にして欲しいと思ってるくらい、
 結婚したいと思ってるくらい、好きです――」
典子は構わずに続けた。
「――でも、今は漣さんが小波さんの彼女でしょ?
 小波さんはあの通り真面目な人だから、
 漣さんとわたしと同時に交際するなんて、できるわけないですよね?
 わたしだって、二股かけられるのはいい気分じゃないですし。
 それじゃ、漣さんが小波さんと別れるしかないじゃないですか」

「あのね……典子ちゃん、だったよね?」
漣は動揺しつつも、年長者の威厳を取り繕い、
こんな事なら教職課程も取っておけば良かったと後悔しながら、
典子を教え諭そうとした。
「わたしもあなたみたいな時期があったからわかるんだけど、
 今のあなたは、周囲が見えなくなってるんだと思う。
 でもね、自分の気持ちだけじゃなくって、小波さんの気持ちも考えないと。
 それが出来て初めて、本当に人を好きになったって言えるんだと、わたしは思うの。
 それに、あなたぐらいの年頃に人を好きになることは、
 たとえ失恋に終っても、決して悪いことばかりじゃないはず――」

「――もういいですよ。
 そんな話を聞きたいんじゃないんですよ」
漣の言葉の途中で、典子は溜息をついて首を振った。
「わたしはただ、あなたに小波さんと別れて、
 そのまま二度と会わないでくれって言ってるだけなんですよ。
 大学行って、こんな簡単な話も理解できないくらいばかなんですか?
 ま、漣さんの行ってる二流大学じゃ、そんなもんですかね」

そのあまりにも無礼な態度に、さすがに漣も腹を立てた。
「いい加減に、しなさい!」

漣はテーブルの脇に置いてあった自分の携帯を取り上げて、典子に突きつけた。
「……今すぐ謝って、おとなしく帰るのなら、
 今日典子ちゃんが来た事や、典子ちゃんが今言った事は、
 小波さんには黙っておいてあげます。

 でも、これ以上自分勝手な事を言うんだったら、
 わたしだって、本気で怒りますからね!
 
 今から小波さんに電話して、
 『典子ちゃんがうちに来て、小波さんと別れてくれって言ってる』
 って言いますよ! あなたは、それでもいいんですか?」

怒れば怒るほど丁寧な口調になるのが、漣の癖だった。

そんな漣の様子を冷ややかに見ながら、
典子は悠然と漣の淹れたお茶を飲んでいる。

「なんだかんだ言って、結局小波さんに頼るのね。
 どうぞ、お好きなように」

もう、この子には実力行使しかない。

漣は小波の携帯番号を選択した。

繋がらない。

携帯の画面を見ると、『圏外』の文字が表示されていた。
そんな筈はない……。漣は焦った。
漣の部屋で、携帯のアンテナ表示が二本以下になった事など、
一度もないのだ。

「その携帯は使えませんよ」
慌てて携帯を弄り回している漣の様子を、典子は楽しそうに見つめた。
「――なんだったら、わたしの携帯貸してあげようか?
 小波さんと別れるって約束すれば、すぐに貸してあげるわよ」
そう言いながら典子は、ポケットから黒い携帯を取り出した。

典子が何かの方法で電波を妨害しているのだと気付き、
叱り付けてやろうと思って携帯から顔を上げた漣は、
典子の黒い携帯の液晶画面に表示されている待ち受け画像を見て、
思わず目を見開いた。

顔のない女。

「――漣さん、これが誰だかわかりますよね?
 いくら頭の悪い漣さんでも、一ヶ月前のことぐらい覚えてますよね?」

「デウ……エス?」
漣は思わずその名前を呟いていた。
「典子ちゃんに、取り憑いてるの? どうやって?
 でも……でも、消滅した筈なのに!」

「もちろん消滅しましたよ。
 デウエスに関連する情報生命体は、デウエス本体も、
 そのバックアップ全ても、そしてデウエスの超自我だったカオルも含めて、
 完全にエントロピー無限大のノイズの中へと、消去されました」

「じゃ、あなたは誰なの!」

「さっきも言ったじゃないですか。
 小波さんの隣に住んでる田村典子ですよ」

「わたしはあなたが取り憑いてる女の子の名前じゃなくて、
 あなた本人が何者なのかを聞いてるんです!」

「だから、誰にも取り憑かれていない田村典子。
 漣さんにも分かるように言うと、田村典子の《デウエス》です」

「……典子ちゃんの、《デウエス》?」

「寺岡薫の《エス》であったデウエスは消滅しました。
 カオルがデウエスに掛けた呪いは、完璧なものだった。
 デウエスのいかなる構成要素も、消滅を免れなかった。

 ――でもね、カオルにより消滅の呪いを掛けられたのは、
 あくまで自分のデウエス、つまり《寺岡薫のデウエス》だけだったんですよ。

 デウエスは自分が最後の戦いに九割九分まで勝てると思ってたけど、
 それでも自分が敗北する一分の可能性のことも真剣に考慮してました。

 自分が消滅してしまえば、自分は好きな人とも結ばれず、
 しあわせになれないままだったのに、
 他の人類は好きな相手と結ばれて、
 自分が手に入れられなかった幸せを手に入れられる――

 それは、デウエスにとって許し難いことでした。

 だから、デウエスは最終決戦の直前に、
 もしもの場合の人類に対する嫌がらせとして、
 自分の《ミーム》をばら撒いておいた。

 ――二流大学でも情報学科の漣さんなら、
 《ミーム》とは何か聞いたことはありますよね?」

「情報の伝達によって媒介される、人間の思想の基本単位……」

「言ってみれば、思想の遺伝子みたいなものですね。
 寺岡薫のデウエスは、寺岡薫の負の面が抱いていた怨念を、
 ミームの形でネットのあちこちに撒き散らしておきました。

 ある時は、悪魔の姿をしたアバターの形を取って、
 ある時は、人間の欲望を助長するネットゲームの形を取って、
 ある時は、願いを叶えるページの形を取って。

 そして寺岡薫の怨念のミームは、
 田村典子という、次世代のデウエスのまたとない母体を見出したんです。

 わたしは、消滅する前のデウエスと契約したわ……。
 デウエスはわたしが差し出した代償と引き換えに、
 わたしの《エス》を抑圧していた《超自我》を抹殺してくれた。

 《超自我》とは、いわば人間の心の中にあって、良心、倫理、道徳を司り、
 《エス》の求める動物的な性衝動や破壊衝動を抑圧する機能。
 その《超自我》を抹消してもらったことで、
 わたしは普通の人間なら目を背けるような欲望でも、
 なんの良心の呵責もなく心に抱けるようになった。

 更にわたしは寺岡薫のデウエスが持っていた
 記憶と知識と技術の一部を継承することで、
 その欲望を実行できる能力も手に入れた。

 寺岡薫のデウエスが消滅した今、
 このわたしは世界で最も自由で、最も神に近い存在になりました。
 いわば、今のわたしが《神のエス》、デウエスなんです」

「そして……典子ちゃんを操って、デウエスを倒したわたし――
 わたしや小波さんに復讐する気なのね?」

漣の言葉に、典子は笑い出した。

「復讐とか、そんなことするわけないじゃない。

 ――だって、わたしは田村典子の《デウエス》なんですよ?
 そのわたしが、どうして寺岡薫の《デウエス》の復讐を考えなくちゃならないの? 
 エスの存在意義は、性欲と破壊衝動の追求。
 そして、神だから何にも束縛されない。
 わたしはただ、目的もなしに自由にやりたいことをやるだけ」

典子はにっこりと笑って、漣を見た。

「そして、わたしが今一番やりたいことは、
 あなたが痛めつけられている様子を見ることだから」

天使のように曇りのない瞳で見つめる典子を前に、
漣は絶望的な気分になった。
この子は、自分が寺岡薫のデウエスの望んだ通りに
動かされていることにさえ、気付いていない。

「……わたしに、何をする気なの?」

「わたしが何かするんじゃなくて、漣さんがするんですよ。

 そうですね……じゃ、とりあえず手始めに、
 漣さんの携帯を使えるようにしてあげますから、
 今ここで、小波さんに絶縁メールを送信してください。
 なるべく小波さんを傷つけるような、酷い言葉を使ってくださいね。
 小波さんが一日も早く、あなたの事を忘れようとするように」

「わたしは、いやです!」漣はキッと典子を睨みつけた。
「自分が何をやっているか、わかっているんですか?
 あなたのお父さんやお母さんが、今のあなたを見たら、
 どんな気持ちがするでしょうか――」

その言葉を聞いた瞬間、典子が初めて激しい表情の変化を見せた。
まなじりを吊り上げて、漣を睨み返した。凄まじい、怒りの形相だった。

「うるさい。黙れ!」

典子は漣を怒鳴りつけると、片手で握り締めていた黒い携帯をかざした。
携帯の液晶画面に表示されていた顔のない女の画像が、
髪の長い若い女性姿のアバターの画面に変化した。

あれは……わたし? と漣が訝しむ間もなく、
液晶に表示された漣そっくりのアバターの左腕のあたりを、
典子は親指でぐい、と力任せに押し付けた。

漣の左上腕の半ばで、何かが弾けた。
左腕から脳天目掛けて、激痛が走り抜ける。
生まれて初めて体験する、意識が遠のくほどの痛みだった。
漣は悲鳴を上げながら床の上をのたうち回った。
左腕の骨を折られた、と漣は確信した。

「……漣さん、なかなか面白いもの作ってるわね。
 寺岡薫のデウエスが漣さんのPCをハッキングしたデータから教えてくれたの。
 『レンちゃんver1.0』だっけ? わたし、感心しちゃった。
 わたしもデウエスから受け継いだオカルトテクノロジーの応用で、
 似たようなオモチャを作ってみたの――」

痛みに朦朧とする漣の頭に、どこか遠くから典子の声が響いてきた。

「――この漣さんを模したアバターは、
 この間もらった漣さんの髪の毛を憑代(よりしろ)として使うことで、
 漣さんと身体感覚を同調させてあるの。
 この漣さんのアバターをいじれば、
 わたしは漣さんの体に、どんな感覚でも自由自在に送り込める。

 言ってみれば、丑の刻参りのワラ人形みたいなもんですね。

 今のはね、あなたの左腕に骨折の痛みを送り込んだのよ。
 ……残念だけど、痛み、だけ。
 このアバターでは、まだ物理的な影響を及ぼすことはできないわ」

気が付くと、漣の左腕の痛みはすっかり薄らいでいた。
漣はおそるおそる、自分の上腕をさすってみた。
どこも折れていないし、触って痛む場所もない。
さっきの痛みの後で、腕の骨にヒビ一本入っていないというのが、
とても信じられなかった。

「……でもね、痛みでだって人間は殺せるのよ?」

ここは、この子に調子を合わせておこう、と漣は考えた。
小波には、後で事情を説明するしかない。
左腕には、まだ激痛の余韻が残っているような気がする。
あんな激痛をもう一度味わわされるのは、絶対にご免だ。

それに、自分と小波は充分に理解しあっているという確信があった。
この子の言うような酷い内容のメールを送れば、
逆に、むしろその酷さのために小波は怪しむに違いないのだ。

典子の見守る前で、漣は手早くメールを打った。

「なかなかの出来ばえですね、……じゃ、送信、と」
漣が小波に宛てた別れのメールの内容を確認すると、
典子は満足げに頷いて、無造作な手つきで送信ボタンを押した。

すぐに誤解を晴らすつもりだとは言え、
あんなメールを読まされる小波の気持ちを考えると、
漣は心が痛んだ。

「小波さんからのメールは、すべて着信拒否にしてください」

漣は典子の命じるままに、着信拒否の設定をした。
こんなものはいつでも解除できるし、
そもそもメールになんか頼らなくても、
小波と連絡を取る手段はいくらでもある。

「それから漣さん、ワギリ製作所に就職が内定してましたよね?
 おめでとうございます。
 ――でも、せっかく喜んでるところ悪いんですが、
 ワギリに内定辞退のメールを送ってください」

「何ですって?」漣は絶句した。「わたしが、どれだけ苦労して――」

「漣さんの苦労はどうでもいいんですよ。
 それとも、もう一回骨折の感覚を体験してみます?
 今度は、両腕一緒にやってみましょうか?」

漣は泣きそうな思いで、内定辞退のメールを送信した。
こちらは小波の方と違って、もう訂正は効かないだろう。
また就職活動を一からやり直さなければならないのかと思うと、
漣の心は暗澹たる思いに包まれた。

「……これ以上、なにをさせる気なの?」

「漣さんが確保したデウエスのデータは、
 そちらのノートパソコンに保存してあるんですか?
 ああ、バックアップ用のディスクはそっちですね。
 それ、パソコンごと一緒に叩き壊してください。
 ついでに、漣さんの携帯も。全部、今すぐ、わたしの目の前で」

「ファイルを削除するだけじゃ駄目なの?
 これ、卒業研究の大事なファイルとかも……」

「あなたには、もう、そんな物は必要ないんですよ」

ここは従うしかない。
漣は自分の携帯を液晶が割れて反応しなくなるまで、
何度も何度も床に投げ付けた。
次に愛用のノートパソコンを持ち上げると、
レンちゃんver1.1がネットのどこかに退避してくれていることを願いながら、
勢い良く机の角に振り下ろす。
ノートパソコンは携帯よりもずっと頑丈だったが、
それでも汗だくになりながら何十回も叩き付けることで、
キーボードは飛び散り、ケースが割れて内部のボードがむき出しになった。
むき出しになったボードをへし折り、
最後にハードディスクをバックアップ用のディスクと一緒に、
ほとんど原型がなくなるまで破壊した。

「ずいぶん、手間がかかりましたね」

慣れない重労働に肩で息をついている漣に、
典子はねぎらうように声を掛けた。
もう、何か言い返す気力もなかった。

「じゃ、残ったのは漣さん本人の始末だけですね」

「わたしを……どうする気なの?
 あなたの言う通り、小波さんとは別れました。
 ワギリへの就職も白紙になりました。
 命懸けで確保したデウエスのデータも、全部破壊しました。
 わたしには、もう何も残ってないのよ?
 これ以上わたしを痛めつけて、何の得があるっていうんです?」

「だって、あんなメールだけで小波さんが漣さんのことを
 諦めるわけないじゃない。
 わたしだって、それくらいの事はわかるもの」

漣はぎょっとして典子の方を見た。漣の考えは見透かされていた。
では、典子はどうやって自分と小波を別れさせるつもりなのか。
さっきの「痛みでだって人は殺せる」という典子の言葉が、脳裏に蘇った。
あの方法で殺されれば、心臓麻痺と区別は付かないだろう。
まさか――まさか――。

「殺したりなんかしないわよ。
 そんなことしたら、小波さんは一生漣さんのこと忘れられなくなるじゃない。
 ――そうじゃなくて、これから漣さんには、
 小波さんが一日も早く忘れたいと思うような存在になってもらうんですよ」

典子は黒い携帯に、再び漣のアバターを呼び出した。

「これってね、感覚だけじゃなくて、漣さんの心もいじれるんですよ?

 ……大体、中学生の女の子とは言え、
 いきなり押しかけてきた見ず知らずの相手を、
 自分の家に上げたりしますか?

 それに、わたしが正体を明かしてからだって、
 漣さんがその気になれば、わたしの携帯を叩き落したり、
 わたしを突き飛ばしてこの部屋から逃げようとしたり、
 抵抗しようと思えば、いくらでも抵抗できた筈ですよ。 
 
 でも漣さん、そんなこと考えもしなかったでしょ?
 わたしが出したどんなめちゃくちゃな命令にも、
 自分の心の中で理由を作って、最後には従ってましたよね?

 ……漣さんは気付いてなかったでしょうけどね、
 この部屋に入る前に、漣さんの心をいじっておいたんですよ。

 『田村典子には一切危害を加えてはならない。
  また、田村典子の命令には必ず従うこと』
 この二つの命令を、漣さんの無意識に書き込んでおいたんです。

 最初から、あなたには自由意志なんてなかったのよ」

そんな事はありません、と漣は言い返そうとした。
自分は、その気になれば今からだって逃げられる――
――しかし、逃げられなかった。
それが恐怖で竦んだ足のためなのか、
典子にされた精神操作のためなのかは、漣にはわからなかった。

「漣さんって、セックスが大好きなんですよね?」

「……な、なに、変なこと言い出すんです!」

「わたしぐらいの子供の頃から、ずっとずっとセックスというものを
 体験してみたくって、仕方なかったんでしょ?
 なにしろ、処女のままで死ぬのは嫌だったから、
 自分から、男の人の家へ抱かれにいったぐらいだもんね」

漣は真っ赤になった。
「そんなこと……そんなこと、ありません!」

「カッコつけなくっていいわよ。漣さんの深層心理の事は、
 わたしの方が漣さんよりもよく知ってるんだから。
 だから、そんな淫乱な漣さんに、ぴったりの仕事を紹介してあげるよ。
 ――よかったわね、最高の就職先が決まったじゃない」

不安と恐怖に震えながらも、
どうやら自分に対して取り返しのつかないことをされるらしい、
という事だけは漣にもわかった。

「漣さん、怯えてますね? 意識のレベルじゃ、確かにそうよね。

 だけど漣さんの《エス》は、
 『淫乱な自分にぴったりの仕事』ってどんな仕事なのか、
 どんないやらしい事を強制的にさせられるのかって、
 期待にわくわくしている筈よ。

 今からわたしが、漣さんの《エス》を抑えつけている、
 邪魔な上位自我を抹消してあげるわ。
 そうすれば、漣さんも倫理観とか羞恥心とか貞操観念とか、
 そういった物に一切煩わされずに、
 自分の性欲だけに忠実に生きていけるようになる。
 そして、わたしがこの仕事を紹介してあげたことを、
 きっと、泣いて感謝するようになるわよ。
 
 ――漣さんが女として、いえ、人間として最低のところまで堕ちきったら、
 その時のあなたの浅ましい姿を、小波さんに見せてあげるね。
 その頃の漣さんなら、そんな姿を小波さんに見られているという事さえも、
 快楽に変えられるはずよ?」

「や、やめて……やめて! そんなの絶対にいやです!」

「そうですね――小波さんをわたしから横取りしたことを、
 漣さんが土下座して謝ってくれたら、考えてあげてもいいわ。
 土下座するかしないかは、漣さんの自由意志に任せてあげる」

「……どうせ、土下座したって……許す気なんかないんでしょ?」

「それが漣さんの答なのね?
 じゃ、そういうことで――」

「待って!」

漣は典子の前に跪くと、自分の部屋の床に両手を突いた。
そして、数秒間その姿勢のままでためらった末に、深々と頭を下げた。
漣の黒髪が、典子の足元に広がった。

「それだけじゃ、何で土下座してるのかわからないわ。
 謝罪の言葉はどうしたの?」

「……小波さんを……典子ちゃんから……横取りしたことを……
 どうか……許して……ください……」
一言一言を搾り出すようにして、漣は謝罪の言葉を述べた。

「うふふ。漣さんみたいなプライドの高い人が、
 本気で中学生に土下座するなんて、思わなかったな。
 よっぽど、小波さんに嫌われたくないのね」
漣の耳に、典子の朗らかな笑い声が響いた。
「――でも、やっぱりダメ」

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