ゆうなぎ鉄道社長のページ - 吉備邪馬台国説
コラム  平成24年1月30日
 岡山大学出身の文献史学者・小林惠子さんは、独特の論理で古代史全体を通史で書いている。この人は「聖徳太子は突厥の王・達頭だった」という趣旨の本を書いて衝撃的にデビューし、中国史やシルクロード史を詳細に検討して、日本の天皇家を含めた支配者階級はすべて単に大陸からの影響を受けているわけでなく、頻繁に日本列島と大陸の間を行き来していたというのだ。

 たとえば欽明天皇と百済の聖明王は同一人物だったりするのだが、なかなか魅力的な説が多く、ヒントになる事も多い。ただ通史で書いている「興亡古代史」を読んでみると、やはり考古学の積み上げた事実をやや無視している感もあり、さらには強引に決めつける部分も見受けられる。それでも「興亡古代史」は面白く、私は線を引き引きもう5-6回読み通した。

 さて邪馬台国については小林惠子さんは、172年に中国三国のうちの呉に討伐された巫術者集団の許氏勢力が伊都国に亡命し、卑弥呼が共立されたとする。卑弥呼の墓は平原墳丘墓で、伊都国に住んだとする。ただ彼女の説では楯築墳丘墓の価値や、弧帯文から埴輪の流れは一切無視されている。

 ところが中国史については随分詳しく、たとえば諸葛孔明と戦った司馬懿が、孔明没後に遼東の公孫氏を攻めるとわかって、卑弥呼があわてて魏に使節を送る場面などの説明は、実に当を得ている。それまで邪馬台国卑弥呼は公孫氏を通じて魏と付き合っていたのだが、公孫氏が魏の皇帝・明帝の命令で毌丘倹将軍に攻められると今度は毌丘倹と付き合う。この毌丘倹は明帝の若いころからの側近であり、その後魏政権を簒奪する司馬懿とは対立していくのである。結局毌丘倹は255年に晋の司馬師に対して反乱をおこして殺される。

 また小林惠子は晋書に出てくる東倭という国を重視する。この対立の図式は以下である。

(晋―司馬懿―太守弓遵)===(高句麗・東川王)===(大夫の伊声耆と掖邪狗―東倭王、倭王)
(魏―毌丘倹―玄莬郡太守・王頎)===(大夫難升米・次使都市牛利―邪馬台国・女王国・卑弥呼)

東倭というのはどうも日本海沿岸の政治勢力だが、丹波国や狗奴国こと大和であると考えた方が、邪馬台国吉備説に立ってもわかりやすい。結局小林節が素晴らしいのは、人間の対立というものをリアルに見ているということだろう。考古学的アプローチでは、経済は語れても、複雑な人間の心、権力欲、人の心の裏切りは語れないということである。

平成24年2月4日 コメント
今日は吉備歴文会の例会があり、柳瀬先生の説明で特殊器台を実際に見せてもらった。いよいよ特殊器台再現プロジェクトのスタートである。さてこのプロジェクトの狙いは、もちろん吉備邪馬台国説の確立にあるのだが、家にある350冊ほどの古代史関係の本を昨年秋以来読みあさっている。吉備邪馬台国説のつもりで読んでみると、色々な発見があるものだ。

今日はそういう流れの中でも、歴史的な日になるかもしれない。広畠輝治さんの吉備邪馬台国説に基づく「箸墓物語」では、邪馬台国の卑弥呼の後継者台与が吉備津彦の狗奴国軍に敗退し、そののち大和狗奴国に迎え入れられるという筋になっている。だがどうしてもこれだと吉備の祭祀、特殊器台などが大和に出現することをうまく説明できないように思う。

そこで小林惠子さんの著作がヒントになった。魏の明帝とその側近の毌丘倹を窓口に折衝していた邪馬台国卑弥呼に対して、魏志倭人伝では240年に倭王が朝貢してきた事が書いてあるのがポイントだ。これが晋書倭国伝では東倭が朝貢したことになっている。邪馬台国については女王国と書いてあるがから魏志倭人伝ではあきらかに区別してある。魏志倭人伝はあくまで魏を主体に書いているのだが、この時期既に魏の実権は晋のもととなる司馬懿に移ろうとしていたのである。司馬懿とはあの諸葛孔明と争っていた作戦の名人である。

236年孔明が死去し、三国のバランスが大きく魏に有利になった。237年明帝の側近の幽州刺史・毌丘倹は遼東の公孫淵を撃つのに失敗し、結局237年12月に明帝は司馬懿に公孫淵討伐を命じた。これを見た卑弥呼はあわてて魏の明帝に使者を出すというわけである。景初2年6月、倭の女王は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、天子に献上品を申し出、帯方郡の太守・劉夏が窓口となっていた。この直後の九月司馬懿は公孫淵を殺害。11月明帝は卑弥呼に詔書をもって「親魏倭王卑弥呼」と金印紫綬を仮授、大夫難升米を卒善中郎将、次使都市牛利を卒善校尉に任じ、銀印青綬を仮授。

240年正月、東倭(狗奴国、丹波、出雲?)が晋に朝貢(「晋書」宣帝紀正始元年)、鮮卑、焉ぎらと朝貢、正始元年、太守の弓遵が使者を倭に遣わして倭王に任命。243年にも倭王朝貢の記事があるが、おそらく東倭であって大夫の伊声耆と掖邪狗ら8人を遣わし、と書いてある。

邪馬台国の使者はいつも難升米である。247年王頎が帯方郡太守に着任、邪馬台国は難升米を派遣し、狗奴国との調停を頼む。王頎は軍事顧問の張政を邪馬台国に派遣する。このとき卑弥呼が亡くなる。倭に男王立つも、国中服さず、相互に千余人が殺される。卑弥呼の宗女13歳の台与を王として治まる。張政は檄文で台与を教え諭した。台与は倭大夫の掖邪狗ら20人に張政を送らせたと。

掖邪狗は東倭の使者だったはずだが、今度は邪馬台国の使者として魏に行っている。東倭とは丹波かあるいは狗奴国・大和のはずで、もしかすると出雲投馬国だったかもしれないが、ともかく台与の政権は狗奴国を含む連合体だったのかもしれないと気がついた。それならば当然吉備の特殊器台が連合政権の祭祀として採用されてもおかしくない。ただしここで首都移転が行われる。なぜかといえば軍事的には狗奴国が優位に立ち、もともと司馬懿との接触のあった東倭の掖邪狗が使者になったのだから。

邪馬台国は狗奴国に征服されたのでなく、魏の軍事顧問・張政が間に入って台与に大和に移ることを檄文で教え諭した、つまり説得したということだ。この部分、どなたも気がついていないだろう、僕も今気がついた。邪馬台国は魏の調停により東遷したのであろう。

平成24年2月6日 コメント
弧帯文は吉備邪馬台国の王家の紋章
「王家の紋章」という漫画は古代エジプトと現代を行き来する物語らしい。特殊器台が吉備邪馬台国のレガリアなら、楯築遺跡の弧帯石から始まる弧帯文は、まさに吉備邪馬台国の王家の紋章だ。代々続いたという邪馬台国王家が絶頂期を迎えたのが楯築王の時代であり、その直後に倭国大乱、卑弥呼擁立がある。卑弥呼の時代は40年続き、その間力を蓄えた大和狗奴国は、イサセリヒコ=吉備津彦が針間の加古川から吉備邪馬台国征服に乗り出す。

247年卑弥呼は狗奴国との戦争で苦戦し、悲鳴をあげて魏の楽浪郡に救援要請を行う。魏は軍事顧問・張政を派遣したが、そのさ中に卑弥呼は亡くなる。もう高齢だったから必ずしも交戦で死んだとは考えられないが、その可能性もなくはない。卑弥呼の死は邪馬台国にとって大打撃、とにかく親族の男王を立てるも混乱は収まらず、連合政権間でも内乱状態となる。当時千人が戦死したというのだが、ここで狗奴国が勝って邪馬台国が占領されたとは魏志倭人伝には書いていない。なぜなら狗奴国も疲弊していたのであろう。

張政は卑弥呼の王族の13歳の台与の擁立で混乱の収拾を図る。この前、台与は東倭の掖邪狗を張政の送迎使に任命したと書いたが、掖邪狗は東倭の外交使節だった。しかしながら東倭とは狗奴国だとは言い切れない。むしろ丹波の可能性が一番高いとも思った。しかし東倭が丹波なら、いくら晋でも倭王と認めるだろうか。ここが一番の謎。東倭とは狗奴国と丹波の魏に対する外交連合みたいなものだったのだろうか。崇神天皇の時代にようやく丹波は大和朝廷の配下になると日本書紀に書いているのだ。

ただ吉備邪馬台国が動揺するなかで、邪馬台国連合の強国丹波は二股をかけていたかもしれない。張政と掖邪狗が狗奴国との一定の同盟関係を提案し、台与には一応邪馬台国連合を代表させるものの、狗奴国との講和融合を強要し、都を吉備から大和に移すという決断を台与に迫ったのではないか。当然台与や王家の連中は抵抗するだろうが、ここで張政は檄文をもって告諭し、首都移転、それも狗奴国への移転を強行したのではないだろうか。

狗奴国としても疲弊の極致にあり、しかも崇神天皇のはじめは疫病で人口減にも悩んでいたのだから、狗奴国にとっても停戦は渡りに船だ。吉備邪馬台国のレガリアである特殊器台とその祭祀を受れ入れたとしても不思議ではない。台与はヤマトトトビモモソヒメとなり、祭祀女王として男弟王崇神との連合政権なのだ。オオモノヌシを勧請し、埴安彦の反乱を予測し手を打つなど、大和狗奴国にとっても役に立つ存在だった。その死後箸墓が台与のために築かれた。当然箸墓には王家の紋章・弧帯文を刻んだ弧帯石が埋まっていることだろう。

天皇陵や陵墓参考地を掘って、我々の国の歴史を明らかにするべきであろう。それがいま日本の自信を取り戻す一番の近道かもしれない。自国の歴史にあきらかな偽りを残すというのは、あまりに自国の文化の軽視になるのではないだろうか。

平成24年1月29日       吉備邪馬台国説統合年表             岡 將男

主要参考文献   広畠輝治「『邪馬台国』岡山・吉備説から見る古代日本の成立」神無書房
            ■部分の歴代天皇の業績については、広畠説を利用
小林惠子「興亡古代史」文藝春秋、中国史のほとんどは小林説を利用★
上垣外憲一「古代日本謎の四世紀」学生社、忌部氏については利用
浅井荘一郎「古代製鉄物語『葦原中津国』の謎」、湖沼鉄製鉄について利用
近重博義のパワーポイント資料、東倭について、投馬国出雲説を利用

101年    巫術者・許聖、長江で反乱、漢に討伐され、降伏し江夏に強制移住
107年    倭国王帥升、漢の安帝に使者、生口160人を献じる
■吉備邪馬台国は107年の倭国王帥升頃までには成立していた。(広畠説)
  魏志倭人伝には、「世世統をつなぐ」と書いてあるから、楯築王までに数代あった
   特殊器台をレガリアとした緩やかな連合体。楯築王の時に弧帯文出現、元々は華僑系の商業資本
既に在地勢力として、豊かな農業基盤を背景に祭政一致の平和国家
■神武天皇は湖沼鉄からの製鉄技術を持つ、日向の鍛冶業者であった(浅井説)
  ニニギノミコトの物部氏が大和の登美国を建国しているのを知り、東征を決意
  湖沼鉄原料(葦原のある所)を求めて、宇佐、岡田、安芸、吉備(高島宮・岡山市高島駅)、枚方と移動
    高島の宮は、旭川東岸の百間川遺跡周辺の大集落なのではないか、近辺に葦原も多い(岡説)
  製鉄技術は火を扱うことから、水銀朱取り出し、埴輪焼きなども周辺の技術だった
  卑弥呼の好物は水銀朱、楯築などにも大量の朱、神武天皇は宇陀の水銀朱を目指した(上垣外説、浅井説)
■神武天皇の大和制圧、宇陀の水銀朱を抑え、橿原に都する、100年ごろ狗奴国成立(広畠説)
物部氏の協力、当初は邪馬台国連合の一員として、水銀朱で利益を上げたのではないか
■5代 孝昭天皇  170-190年頃 伊勢・美濃・尾張に進出
★楯築王全盛期、楯築弥生墳丘墓に葬られる、弧帯文成立、弧帯石による儀式
★出雲の西谷弥生墳丘墓に、特殊器台を使用
172年    許昌・許詔の反乱を孫権討伐
          ★小林説では、亡命した許氏勢力が伊都国に入って邪馬台国卑弥呼になったとする
173年 倭の女王卑弥呼、新羅に使者派遣(新羅本紀・阿達羅尼師今20年)
184年 黄巾の乱勃発、阿達羅尼師今(背高、鼻高、異相、加羅国王首露混同)死去
新羅伐休尼師今(巫術者)即位
東北の雄・檀石槐死去で遼東で公孫度が遼東太守となり、高句麗・烏丸を攻める
  公孫度は襄平(遼寧省遼陽市)で自立し、遼東候・平州牧を自称
■6代 孝安天皇  195-215年頃 大和制圧、淡路島進出・垣外遺跡の鍛冶遺跡、庄内式土器成立
            淡路島進出は垣外遺跡の鍛冶遺跡で証明(上垣外説)
204年    公孫度死去、息子の公孫康が後継
207年 魏の曹操、袁尚を追って遼西遼東、烏丸を攻めた。公孫康は袁尚を殺し首級を曹操に送る。
          公孫康は後漢の左将軍襄平候に任じられる
          公孫康、百済北方に帯方郡設置。倭韓は帯方郡・公孫康に属する。
       公孫康死去、弟の公孫恭が後継となる
220年 曹否、禅譲により魏文帝となる、公孫恭を車騎将軍とする。
■7代 孝霊天皇  215-239年頃 阿波制圧、水銀、鍛冶
                  萩原墳丘墓→ホケノ山古墳、石積木槨墓(上垣外説)
                  近江・越前・丹波進出、阿波の一部が安房(房総半島)へ逃亡
228年 句麗東川王即位、高氏のため初めて国号を「高句麗」とする
公孫恭の弟、公孫淵が地位を簒奪、魏の明帝は淵を遼東太守に任命
229年6月  孫権、呉王になり、蜀と協議して幽州を呉の領地とする
230年    孫権、夷州(★九州)と亶州(★種子島)に兵1万出兵、失敗し将軍2名を処刑
          公孫淵への牽制で日本列島を支配下にというもくろみか
233年3月  孫権、公孫淵を燕王に任じる使者派遣
       公孫淵は使者を殺して首を魏に送り、使者持参の兵士財宝を奪う
       魏の明帝は公孫淵を大司馬に任命し楽浪公に封じたが、孫権は怒り狂う。
       呉の使者の一部は玄莬郡に幽閉され、逃亡して高句麗の東川王に匿われる。
       東川王は使者を手厚くもてなし、贈り物をして呉に帰国させる。
       呉の答礼の使者は遅く、その上、東川王が魏の毌丘倹と内通していると邪推し使者を捕える。
          毌丘倹は魏の明帝の側近で、司馬懿とはライバル関係
          東川王は謝罪し、呉の使者に馬数百をあがなった。
234年    東川王が魏に使者を送る

■8代 孝元天皇  239-247年頃 吉備津彦が「針間の氷河のさきにいわいべを据えて、
針間を道の口として吉備国をことむけやはしたまいき」古事記
播磨の加古川に前線基地を置いて、吉備制圧に着手
魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の戦闘の模様はこの時期のもの
★邪馬台国卑弥呼は魏の皇帝明派と組み、東倭(狗奴国?、丹波?)は晋の司馬懿、高句麗東川王と組む

235年 青竜3年銘の方格規矩四神鏡、丹後半島の京都府弥生町太田南5号墳出土(東川王→東倭?)
          同型鏡が狗邪韓国の大成洞18号墳からも出土
236年 司馬懿は、諸葛孔明が死去したので、公孫氏討伐に向かう
          幽州を自領とする呉は東川王との連合を模索するも、東川王は使者を斬って魏に送る
          東川王は孤立し、東倭との連合を重視
237年 魏の明帝、幽州刺史・毌丘倹に命じて公孫淵を魏都に召還。
          公孫淵は毌丘倹に勝利し、燕王と自称
   3月  魏は暦を改定して、4月とする(239年景初3年の11月12月に二回を12月として戻した)
   12月  景初2年1月、明帝は司馬懿に公孫淵討伐の詔勅を下した。
238年5月  景初2年6月、倭の女王は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、天子に献上品を申し出
          帯方郡の太守・劉夏は護衛をつけて都まで送らせた
       司馬懿。遼東に到着。卑弥呼は公孫淵滅亡を予期して魏に使者を送ったか。★
8月  景初2年9月、司馬懿は公孫淵を襄平で包囲し、父子を殺害
          東川王は司馬懿に千人の救援を派遣
          慕容氏、司馬懿に同行して遼西に定着、勢力を拡大し始める
   11月  明帝は卑弥呼に詔書をもって「親魏倭王卑弥呼」と金印紫綬を仮授
          大夫難升米を卒善中郎将、次使都市牛利を卒善校尉に任じ、銀印青綬を仮授
          献上品は男生口4人、女生口6人、班布二匹二丈
          絳地縐粟罽(ペルシャ絨毯)十張、青絳五十匹、紺青五十匹、
          紺地句文錦三匹、細班華の毛織物五張白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚
          真珠、鉛丹五十斤
   12月  魏の明帝死去、政権の実権は完全に司馬懿に移る、邪馬台国はピンチか★
          この結果、邪馬台国連合や狗奴国、あるいは出雲・丹波等諸国の外交は混乱したはず
239年    景初3年銘三角縁神獣鏡が出雲神原神社古墳から出土(東川王→東倭?)
240年正月  東倭(狗奴国、丹波、出雲?)が晋に朝貢(「晋書」宣帝紀正始元年)、鮮卑、焉ぎらと朝貢
       正始元年、太守の弓遵が使者を倭に遣わして倭王に任命。金や錦、刀、鏡を下賜
          邪馬台国の場合は女王国と書くから、別の国★
242年    東川王、鴨緑江下流の西安平(丹東市東北)を攻める
243年 正始4年倭王(東倭)は(帯方郡太守弓遵を通じて)大夫の伊声耆と掖邪狗ら8人を遣わし★
生口・倭錦・絳青縑・布帛・丹・短弓矢を献上、掖邪狗らは卒善中郎将と印綬を拝した
          この年、少帝元服、各国はお祝いの使者を派遣は当然
          この頃、極東では毌丘倹と高句麗東川王が熾烈な戦闘中、列島も影響を受ける
       12月、倭の女王卑弥呼が(毌丘倹を通じて)魏に使者を遣わして献上品を奉じた

対立の図式  (晋―司馬懿―太守弓遵)===(高句麗・東川王)===(大夫の伊声耆と掖邪狗―東倭王、倭王)
       (魏―毌丘倹―玄莬郡太守・王頎)===(大夫難升米・次使都市牛利―邪馬台国・女王国・卑弥呼)

244年 毌丘倹は玄莬郡太守・王頎と兵1万で高句麗攻略、沸流水で合戦し丸都攻略落城。
          東川王は妻子と嶺東の濊の不耐王の元へ逃げる
245年5月  王頎は濊の不耐王城を攻め、勝利の銘文を残す
東川王19年条(高句麗本紀)に「東海の人が美女を献じて後宮に入れた」(東倭、出雲、丹波?)
   東倭は東川王に援軍も送ったのではないか★
濊を追われた東川王は竹嶺に南下、買溝の北沃祖に逃亡、王頎軍は追跡し記念碑を残す
魏志倭人伝に「倭に詔を賜り、難升米に黄幢が郡(王頎★)に付して仮授された」
   魏志倭人伝は王頎が毌丘倹のために邪馬台国と連絡を取って、連携を図った★
   難升米に旗を与えたということは、軍を動かす将軍という意味でもある★
245年10月 東川王、辰韓(毌丘倹側)の北辺を攻撃。毌丘倹と難升米は同盟の確認★
       東川王は辰韓の于老を破り、南平壌(長寿山城)に城をつくり定着(「高句麗本紀」247年2月)★
          半島に詳しい弓遵は東川王を軍事的に支援しただろう★
          毌丘倹は司馬懿と親しい東川王が半島に定着することに危機感を感じた★
          楽浪郡太守劉茂は楽浪郡が半島を支配した事を根拠に、辰韓8国を分割して楽浪郡に編入
            (「魏書東夷伝」)毌丘倹側は半島南部の確実な支配をもくろんだ★
          辰韓の臣智たちが楽浪編入に反発して、劉茂・弓遵に反乱し弓遵は殺害されたというが、★
246年8月  毌丘倹と楽浪郡太守・劉茂が太守・弓遵と馬韓の臣濆沽国を攻め、弓遵は殺害される。★
          「百済本紀」によれば実は劉茂は毌丘倹側だったという★、辰韓でなく馬韓の臣濆沽国
          実際には馬韓8国を楽浪郡に編入しようとしたか★
          弓遵を殺したのは毌丘倹ではないか★
       毌丘倹、楽浪郡太守・劉茂が半島南部の東川王を攻める「百済本紀」★
247年2月  東川王は南平壌を去る
       正始8年、王頎が帯方郡太守に着任。(帯方郡太守・弓遵殺害の結果の就任)
          王頎は遼東半島土着の漢人で、その子孫は五胡十六国時代に活躍
倭の女王と狗奴国が交戦。載斯・烏越等が帯方郡に来て報告。
塞曹掾史の張政等らを派遣して、詔書と黄幢を仮に拝受した難升米に檄文で教示
       「以って(既に★)卑弥呼死す」。径百余歩の大塚、葬礼使役の奴婢百余人
       倭に男王立つも、国中服さず、相互に千余人が殺される
       卑弥呼の宗女13歳の臺與を王として治まる。張政は檄文で臺與を教え諭した
          臺與は倭大夫の掖邪狗(東倭)ら20人に張政を送らせた、
男女生口30人・白珠五千・孔青大句珠2枚・異文雑錦20匹を献上
■9代 開化天皇  247-267年頃 邪馬台国卑弥呼死亡での混乱でも吉備征服できず
248年2月  新羅は高句麗に使者を派遣して講和した。「高句麗本紀」「新羅本紀」
          この頃高句麗は滅亡しているのでは(東川王は列島を支配、卑弥呼後の男王★)
248年9月  「高句麗本紀」東川王死す、ただし墓地が書いていないのは亡命ではないか★

コメント: 掖邪狗は晋・東倭側の将軍なので、臺與が張政を送らせたということは、邪馬台国が既に東倭・狗奴国側に事実上征服されたという事になるので、臺與はある種傀儡状態にあることになる。崇神天皇時代のヤマトトトビモモソヒメ=台与・臺與とすれば、むしろここで邪馬台国が事実上狗奴国に征服されたと考えた方がいい。

253年 倭国から辰韓への使者・葛那古(葛城氏?)が于老の客館に滞在中、これは東倭か
于老は「近いうちにお前の王を塩奴にしてやる」と放言
倭王は于道朱君を大将に攻撃。于老は倭軍に謝罪するも柴を積んで焼殺した。
当時既に毌丘倹は司馬師によって対呉戦のために配置転換
255年 毌丘倹、司馬師に対して反乱して殺される、高句麗再興か。
259年12月  高句麗中川王、魏と鴨緑江の支流で戦って勝利。晋と高句麗は以後国交断絶
264年2月  新羅王未鄒(金氏)は東部に行って海を見た
   3月  未鄒は千部の黄山に行って馬韓方面を慰撫
265年 司馬炎が晋を建国、魏からの禅譲
266年11月  太始2年、晋書本紀に「倭人が来て貢物を献じた」邪馬台国か東倭かわからない、出雲・丹波?
■10代 崇神天皇  268-300年頃 台与の大和招聘、倭国・邪馬台国と狗奴国の統合
                  台与は狗奴国の疫病対策や反乱防止に努力、箸墓に葬られる
                  崇神天皇は埴安彦を破って大和を統一
                  特殊器台、弧帯文、オオモノヌシの導入、狗奴国は九州進出
                  古墳時代の成立、大和朝廷の成立
■吉備津彦は邪馬台国制圧後、在地勢力となり、吉備を統治
   一方将軍としても、西国などに派遣される
■大和朝廷とは、湖沼鉄製鉄・鍛冶・水銀朱生産の業者であり、神社は各地に進出したときの出先市場のような存在ではなかったのか。少数の人数で交易を主体として武力進出するが、相手が合意しなければ暗殺し、合意すれば神社を建てて市場での交易で利益を得る。
280年 呉、滅亡
286年 慕容廆、晋の武帝(司馬炎)に反抗して夫余に侵攻。夫余王自殺、一族は沃祖に逃亡。
          高句麗は夫余を保護し、以後100年間に渡って鮮卑の慕容氏と対立
          慕容氏は百済を支配
298年     晋の武帝(司馬炎)が死去、素九室の子・孝恵帝が即位するも、皇后の賈氏一族に実権
9月  百済に漢(劉氏・劉曜か)が貊人(高句麗人か)と侵攻して、責稽王は防戦したが死去。「百済本紀」
       百済の王子・温羅(出雲の振根)は救援のため半島に出陣(小林説)
この頃    飯入根が神宝を崇神天皇の命で献じたのを、出雲振根が怒り、飯入根を殺害
       崇神は武渟河別と吉備津彦を派遣し、出雲振根を討伐(吉備津彦、温羅を討伐)
          ヤマタノオロチの韓
       劉曜は北九州に上陸、伊都国を支配、怡土の県主五十跡手(長門の穴門を支配)小林説
299年     司馬氏一族が反乱し、賈氏を幽閉
300年     賈氏一族を誅殺(八王の乱)
306年 孝恵帝は八王に追われ、鄴から長安など流浪、この間周辺民族が対等し侵入。匈奴の劉氏大単于に。
          武帝の25番目の子・孝懐帝が洛陽で即位
308年    匈奴の劉淵、平陽で新王朝・「漢」を建国、中国皇帝を名乗る、年号・永鳳
310年 劉淵死去、後継は劉聡
311年 劉聡は一族の劉曜と王弥(毌丘倹の部下、王頎の孫、山東半島)を洛陽にやって陥落させ、大略奪。
孝懐帝と妃、一族と伝国六爾を奪う。実質晋は滅亡 「永嘉の乱」、孝懐帝殺害される
          洛陽では武帝の孫・孝愍帝が即位
316年11月 洛陽を劉曜が包囲。孝愍帝を降伏させ、翌年殺害。
318年 劉聡死去。一族を排して劉曜即位。国号を「趙」と変更。胡族の出身と思われる
          劉曜は趙襄子を自認し、半島に関係があるはず、半島の殉死の風習を踏襲(小林説)
       崇神天皇没、古事記没年干支