ゆうなぎ鉄道社長のページ - 経済危機に動じるな、公共交通の未来を描き続けよう
平成21年1月20日
経済危機に動じるな、公共交通の未来を描き続けよう

今回の経済危機は百年に一度の経済危機だと、政界も財界も大騒ぎだが、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」との平家物語の一節をちょっとでも知っていて、人間の業というものを理解していれば、そんなに動揺することはないはずである。
 私が大学のゼミで会計学を学んだ昭和50年、経済のグローバル化に向けてアメリカの証券取引委員会が「国際会計基準」を制定しようとしているというので、日本の企業の英文財務諸表を収集して分析したことがある。つまりグローバルスタンダードなどというものはなく、手探りで経済のグローバル化を想定して会計制度が作られたのである。
 その当時初めて連結決算だの、時価会計だのという言葉を知り、会計制度というのは考え方によってどうにでもなるものだなと感じたものだ。会計学を学問と言えるのかとも思った。その予感は今日の経済危機を生んだ「金融工学」といううさんくさい手法に、全世界が惑わされて金融危機、経済危機を引き起こしたことにつながる。
 私はマルクス経済も学んだ。経済は農業の余剰生産力が基本であるという。人間が動物である以上、食べなければならないから、その安定が経済活動拡大の原点なのである。ところが金融工学などと言っている連中は、そもそも自分が動物である事を忘れているとしか思えない。そうでなければ、とうもろこしをガソリンにしたりはしないだろう。
 経済がフラフラと景気変動を起こすのは、人間が動物から進化して、心というものを言葉で表現できるようになったからである。言葉によって心を端的に表現し、言葉によって味方を増やそうとする。もともと心というものは、気分が良かったり悪かったり、それに体調にも左右されてフラフラするものである。不安になれば萎縮し、自信があれば増長して消費を拡大する。いくらでも食糧があればいつでもタラフク食べようとするであろう。もともと人間は動物なのだから、貪欲になるようにプログラムされている。
 「神の見えざる手があるので、経済はできる限り市場に任せた方がいい」という新自由主義の金融マンたちは、自信がないものだから「工学」という言葉をつけて、あたかも客観的であるようなふりをしただけのこと。リスクヘッジだって、分散すれば安全なのでなく、分散によって全滅もありうるということは、ちょっと文学や歴史学を勉強していればわかるであろうにと思う。

しかしそうは言いながら、人間が文明を進歩させたのは、すべてを貨幣換算し、数字の拡大という目標を作ったことによって、生産性の拡大や効率を考えるようになったからである。経済というものは、ややバブルにコントロールし、気分を盛り上げるようにしなければならない。人間は気分がよければ、お金も使うし、喧嘩もせず仲良くやれるものだから。
さてこれから自動車産業の猛烈な落ち込みが起こるかもしれないが、もともと自動車というものは、住宅に続いての高額商品であり、気分が委縮したらたちまち買わなくなるものである。しかも日本国内の自動車生産は最近どんどん落ち込んでいたのを、無理やり輸出で数字を叩きだしていた。日本はこれまで自動車と自動車の走る道路に産業の基軸を頼りすぎた、というのが物事の本質。規制緩和でバス路線がどんどん廃止され、いつまでたってもLRTが建設できないというのも、こうした産業構造のいびつさによるものだった。
もう20年前、私が「日本の建設業も六百万人を半減させて回る経済構造にしなければいけない」と言ったら、国会の新交通システム推進議員連盟の会長の逢沢議員は「せめて四百万人ではいけんかな」と言った。この頃は岡山市の中心市街地の活性化のため、路面電車の環状化を打ち出したころであった。私と逢沢議員は共通認識として、日本は道路建設と自動車中心の産業構造から、都市の文化産業を育成して、構造転換しなければならないと考えており、それがその後の議連結成につながる。そして岡山商工会議所において路面電車の環状化を打ち出したベネッセ会長の福武總一郎氏は、そうした我々の理解者であった。
 都市文化の活性化によって産業の一部を担うということは、もちろん内需の拡大である。都市をコンパクト化して、自動車だけに頼ることなく、エネルギーもできる限り使わず、経済成長する体制を作るというのが、日本の将来の方向である。だから我々は経済危機に惑わされず、公共交通の未来をあくまでも言い続けようと言いたい。