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shinkaiakikazu 2016年01月20日(水) 05:25:00履歴
政治主体:行政・立法・司法、経済主体:政府・企業・家計このバランスがうまく取れていればいいのであるが
政治主体の行政と経済主体の政府が主導動的な役割を果たさねばならぬように
頭の枠組みがインプットされていることが問題。
政府というのはホッブスの万人の万人に対する闘争を調整するために生まれたという説がある。
であるならば現在でいうのところの民事裁判のようなかたちで和解を促す調整機関だったことになる。
しかし実際の政府は現在でいうのところの刑事裁判のようなかたちになっており、
政府が起訴した者は99%以上有罪と決まっているという状況で、
上からの命令、統制の面が強くなってしまっているのだ。
政治主体:行政・立法・司法、このバランスはモンテスキューの法の精神から提唱されている。
つまりチェックアンドバランスで均衡と抑制が保てていれば絶対的権力は絶対的に腐敗することはない。
しかし現代の政府を見てみるに立法権と司法権が行政権に一体化されてしまっている状況にあるのだ。
イギリスの歴史は王族側の行政権に対する貴族側の立法権という関係でマグナカルタのような
行政側の徴税権に対して貴族側が会議の場を持って賛成するか反対するか、改変するか先延ばしにするかである。
私自身20歳の頃に新聞配達をしているなかでチェックアンドバランスということを考え続けており
法の精神だけでなく、ローマ帝国盛衰論・ペルシャ人の手紙を読破してしまった。
配達自体は単純作業であるが雨や嵐のような過酷な状況で、自分の中に思索という熱い思いが
溶岩のマグマのように沸き起こった感覚を何度も体験しており、非常に力になった。
法の精神のすごいところは政治権力を行政と司法にまで分けていたのは歴史的に認められる社会科学であったが
司法権という新たな権力を想定しそれぞれに強みと弱みを含めてじゃんけんのような関係を想定したことにある。
この第三の権力の担い手は宗教裁判などをしてきたキリスト聖職者とそれに準じていた、神学者、大学関係者であった。
高等法院 (フランス)というかたちで第三の権力はフランスにおいて社会的な実効性を持ちえてもいた。
つまり王族-貴族-学者という担い手が三権分立するということは一見すると王権が一番数も少なそうで弱そうに見える。
しかし近代国家の成立のための条件とされている官僚制と常備軍を備えた行政権は拡大の一途をたどることになる。
ローマ帝国盛衰論でなぜローマが当時のフランス以上の領土を保てたのか?
またそれ程の強国が滅んだのかを分析した書もつである。このなかでモンテスキューは国家の領土について
フランスぐらいの大きさがちょうどいいと述べており、自然の山脈や河川によって国境を策定するのがよい
ということも述べていてなかなか興味深い記述が多かったと記憶している。
ローマ時代においては共和制をとっており立法権の元老院のなかで皇帝権につながる執政官、すなわち軍人
カエサルやオクタビアヌスから帝政の時代に始まるとされ、この元老院と皇帝権のバランスの良さを保つためには
新たな権力機関がローマにはなかったことが滅んだローマ帝国が原因とされている。
ちなみに私見だが東ローマは西ローマ滅亡後も1000年以上存続し、首都がローマでないことから
ビザンティン(現イスタンブール)を首都としたビザンティン帝国と呼ばれ、皇帝教皇主義をとったこと
また元老院を廃止してしまったこと、(これらは1000年もの間ゆっくりと行われた改変であったらしい)が
ビザンティン帝国盛衰私論でも共著・対談でネタにしようかと考えているw
ペルシャ人の手紙というのはローマ人の手紙の体裁を真似て作ったものであり
ヨーロッパ以外の強国として知られたイスラム勢力のペルシア人が
モンテスキュー(1689年1月18日 - 1755年2月10日)の生きていた当時の
フランスとペルシア差異を政治的な見解から述べたものである。
この中で私が印象にあるのは中国に関するもので、科挙制度による行政組織
中央集権体制とそこを結ぶ地方整備など広大な地域を統治していることに対する
当時のヨーロッパ人の驚きと分析であった。確かに中国のどの時代でも
だいたい当時のフランスよりは当地領域は広いのである。
このことをモンテスキューが認識していたのに今度は私のほうが驚いた。
ちなみに私見だが中後kの広大な領土を統治できたのは漢字の力とそれを操ることのできる
人材登用すなわち科挙である。科挙は隋から清に至るまで断続的に行われ述べ1000年以上にも渡る。
4つの喜びの意味の一つに「久旱逢甘霖」長い干天に慈雨ありは、誤りであると思います。他の3つがすべて個人的な問題であるにも拘らず天候を喜びとするのは不自然。確かマジャンの本には家を新築したりとか蔵を増設して富ませたということが喜びのひとつ書かれていたと記憶しています。--shinkai★(会話) 2012年8月9日 (木) 10:28 (UTC)
お手元にその書籍はございますでしょうか。もしお持ちでしたら、そこに書かれてある記述を元に、ご懸念の該当部分に加筆修正をお願いできませんか?--Nazki rhetorica [履歴|会話] 2012年8月10日 (金) 11:07 (UTC)
現在その本は持っていませんから出典が不明瞭ですが、残り三つはだいたい一致している(友人との再会だけではなく、自分が苦しいときに友人に助けてもらうというようなことを含んでいたような気はしますし、また結婚初夜とその後の後継男子誕生とかも含んでいたような気はしますが)と記憶しているので、4つのうちの3つは問題ないと思います。特に個人的に印象深いのは科挙合格(親戚縁者含む)の喜びで、他の3つが中国以外でも通じる喜びなのに対して、広大な地域を統治するためなのか(モンテスキューが驚愕している)、いかに役人天国なのかということです。ただ本文を訂正するんしても「久旱逢甘霖」のような中国語の一文がないと説得力に欠けるので、ノートに記載しただけなのです--shinkai★(会話) 2012年8月18日 (土) 15:28 (UTC)
そうですか、では今後その書籍を入手されました折には、ぜひ加筆修正などお願いいたします。とは言うものの、それがいつになるかわかりませんので、今できる対処として、典拠が発見されるまで問題の節全体を非表示にしておくという手もあります。--Nazki rhetorica [履歴|会話] 2012年8月21日 (火) 12:11 (UTC)
三角形の頂点に行政が立ち、右左に立法と司法という構図。
行政関連予算とは、立法と司法を除いた予算であり、立法については国会議員700人と公設秘書3人で3000人、
地方議員都道府県47x50=2350人と地方自治体1700x20=34000
政治主体の行政と経済主体の政府が主導動的な役割を果たさねばならぬように
頭の枠組みがインプットされていることが問題。
政府というのはホッブスの万人の万人に対する闘争を調整するために生まれたという説がある。
であるならば現在でいうのところの民事裁判のようなかたちで和解を促す調整機関だったことになる。
しかし実際の政府は現在でいうのところの刑事裁判のようなかたちになっており、
政府が起訴した者は99%以上有罪と決まっているという状況で、
上からの命令、統制の面が強くなってしまっているのだ。
政治主体:行政・立法・司法、このバランスはモンテスキューの法の精神から提唱されている。
つまりチェックアンドバランスで均衡と抑制が保てていれば絶対的権力は絶対的に腐敗することはない。
しかし現代の政府を見てみるに立法権と司法権が行政権に一体化されてしまっている状況にあるのだ。
イギリスの歴史は王族側の行政権に対する貴族側の立法権という関係でマグナカルタのような
行政側の徴税権に対して貴族側が会議の場を持って賛成するか反対するか、改変するか先延ばしにするかである。
私自身20歳の頃に新聞配達をしているなかでチェックアンドバランスということを考え続けており
法の精神だけでなく、ローマ帝国盛衰論・ペルシャ人の手紙を読破してしまった。
配達自体は単純作業であるが雨や嵐のような過酷な状況で、自分の中に思索という熱い思いが
溶岩のマグマのように沸き起こった感覚を何度も体験しており、非常に力になった。
法の精神のすごいところは政治権力を行政と司法にまで分けていたのは歴史的に認められる社会科学であったが
司法権という新たな権力を想定しそれぞれに強みと弱みを含めてじゃんけんのような関係を想定したことにある。
この第三の権力の担い手は宗教裁判などをしてきたキリスト聖職者とそれに準じていた、神学者、大学関係者であった。
高等法院 (フランス)というかたちで第三の権力はフランスにおいて社会的な実効性を持ちえてもいた。
つまり王族-貴族-学者という担い手が三権分立するということは一見すると王権が一番数も少なそうで弱そうに見える。
しかし近代国家の成立のための条件とされている官僚制と常備軍を備えた行政権は拡大の一途をたどることになる。
ローマ帝国盛衰論でなぜローマが当時のフランス以上の領土を保てたのか?
またそれ程の強国が滅んだのかを分析した書もつである。このなかでモンテスキューは国家の領土について
フランスぐらいの大きさがちょうどいいと述べており、自然の山脈や河川によって国境を策定するのがよい
ということも述べていてなかなか興味深い記述が多かったと記憶している。
ローマ時代においては共和制をとっており立法権の元老院のなかで皇帝権につながる執政官、すなわち軍人
カエサルやオクタビアヌスから帝政の時代に始まるとされ、この元老院と皇帝権のバランスの良さを保つためには
新たな権力機関がローマにはなかったことが滅んだローマ帝国が原因とされている。
ちなみに私見だが東ローマは西ローマ滅亡後も1000年以上存続し、首都がローマでないことから
ビザンティン(現イスタンブール)を首都としたビザンティン帝国と呼ばれ、皇帝教皇主義をとったこと
また元老院を廃止してしまったこと、(これらは1000年もの間ゆっくりと行われた改変であったらしい)が
ビザンティン帝国盛衰私論でも共著・対談でネタにしようかと考えているw
ペルシャ人の手紙というのはローマ人の手紙の体裁を真似て作ったものであり
ヨーロッパ以外の強国として知られたイスラム勢力のペルシア人が
モンテスキュー(1689年1月18日 - 1755年2月10日)の生きていた当時の
フランスとペルシア差異を政治的な見解から述べたものである。
この中で私が印象にあるのは中国に関するもので、科挙制度による行政組織
中央集権体制とそこを結ぶ地方整備など広大な地域を統治していることに対する
当時のヨーロッパ人の驚きと分析であった。確かに中国のどの時代でも
だいたい当時のフランスよりは当地領域は広いのである。
このことをモンテスキューが認識していたのに今度は私のほうが驚いた。
ちなみに私見だが中後kの広大な領土を統治できたのは漢字の力とそれを操ることのできる
人材登用すなわち科挙である。科挙は隋から清に至るまで断続的に行われ述べ1000年以上にも渡る。
4つの喜びの意味の一つに「久旱逢甘霖」長い干天に慈雨ありは、誤りであると思います。他の3つがすべて個人的な問題であるにも拘らず天候を喜びとするのは不自然。確かマジャンの本には家を新築したりとか蔵を増設して富ませたということが喜びのひとつ書かれていたと記憶しています。--shinkai★(会話) 2012年8月9日 (木) 10:28 (UTC)
お手元にその書籍はございますでしょうか。もしお持ちでしたら、そこに書かれてある記述を元に、ご懸念の該当部分に加筆修正をお願いできませんか?--Nazki rhetorica [履歴|会話] 2012年8月10日 (金) 11:07 (UTC)
現在その本は持っていませんから出典が不明瞭ですが、残り三つはだいたい一致している(友人との再会だけではなく、自分が苦しいときに友人に助けてもらうというようなことを含んでいたような気はしますし、また結婚初夜とその後の後継男子誕生とかも含んでいたような気はしますが)と記憶しているので、4つのうちの3つは問題ないと思います。特に個人的に印象深いのは科挙合格(親戚縁者含む)の喜びで、他の3つが中国以外でも通じる喜びなのに対して、広大な地域を統治するためなのか(モンテスキューが驚愕している)、いかに役人天国なのかということです。ただ本文を訂正するんしても「久旱逢甘霖」のような中国語の一文がないと説得力に欠けるので、ノートに記載しただけなのです--shinkai★(会話) 2012年8月18日 (土) 15:28 (UTC)
そうですか、では今後その書籍を入手されました折には、ぜひ加筆修正などお願いいたします。とは言うものの、それがいつになるかわかりませんので、今できる対処として、典拠が発見されるまで問題の節全体を非表示にしておくという手もあります。--Nazki rhetorica [履歴|会話] 2012年8月21日 (火) 12:11 (UTC)
三角形の頂点に行政が立ち、右左に立法と司法という構図。
行政関連予算とは、立法と司法を除いた予算であり、立法については国会議員700人と公設秘書3人で3000人、
地方議員都道府県47x50=2350人と地方自治体1700x20=34000
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