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95-04-12「電車でヘーゲルを読んできたけど」

 けっこう電車の中で本を読んでいます。でも帰りの電車なんか疲れていて、もうめんどうくさくないものがいいななんて思うときがあります。でもまたなんだか難しいそうだなという本しか持っていないときがあります。
 本日は仕事の打ち合わせが終って、午後6時に事務所に戻ってきました。それでもうその打ち合わせの仕事は明日にしようかなとも思ったのですが、なんだか取り掛かってしまいました。もうあっという間に9時半を過ぎていました。でもどうやらもっと時間かかるはずが、またたくうちに出来てしまいました。やっぱりコンピュータのおかげです。さてあとはもうプリントアウトしておこうと、そのまま連続紙をセットして帰宅します。私がいなくてもたぶん1時間半くらいプリンターは一人で仕事を続けています。
 でもさすが仕事の内容ばかりが頭に入っていて、疲れました。帰りの電車では、できたら推理小説でも読みたいなと思いましたが、ヘーゲル「哲学入門」しかありません。これは本日仕事で歩いているときに、ある古本屋で買いました。たしか岩波文庫では絶版だと思いましたが、たったの350円でした。私はこれを手に入れたことだけは嬉しかったのですが、「もうこんな仕事でいっぱいの頭のときは、せめて島田荘司あたりがいいんだけどな」なんて思いますが、島田荘司はもう出ている文庫は最新の「飛鳥のガラスの靴」まで読んでしまったので、どうにもなりません。

 とにかくなんでも読んでしまえと、ヘーゲル「哲学入門」をひろげます。9日の吉本さんの講演では、この「哲学入門」(武市健人訳岩波文庫)だけは、その訳をほめていました。

 本論の對象は人間の意志であるが、それも特殊的意志の一般的意志に對する關係から見たそれである。意志の面では精神は實踐的である。實踐的態度と精神の理論的態度とは分けて見なければならない。と云うのは、精神は實踐的態度をとるとき、自分の無規定性に或る規定性を與えるものであり、云いかえると精神のはたらきなしに精神の中に存在するいろいろの規定の代りに、他の規定が精神の中から立てられるものだからである。
 (「緒論」)

「ほらほらやっぱり面倒だわ、こりゃわかんないよ」んて思いながら、しかたないから読み進んでいきました。しかしちょうど北千住で席に座れたころから、どうにもこのヘーゲル「哲学入門」がそんなに面倒な本ではないということに気がついたのです。なんというか、ヘーゲルのものすごい息吹が感じられるようです。

 法と道徳とはちがう。法律から云えば、道徳が禁ずるものが許されるということがしばしばあり得る。例えば、法律は私が私の所有を處分することに對しては何の拘束もしないが、道徳にはそれを拘束するいろいろの規定がある。また道徳は法律が許さない多くのことを許すようにも思われる。
 しかし、道徳は他人に對して法律を遵守することを要求するにとどまらず、なおその上に法律を法律のために尊重する心情を附け加えるものである。
 道徳はそれ自身まず法律が遵守されることを要求するが、また法律が終るところに諸々の道徳的規定が入ってくるのである。(「緒論の説明二三」)

 法は各個人が自由な存在として他人に認められ、待遇されることを根本前提とする。なぜなら、ただそのかぎりにのみ自由意志は他人の中で對象とされ、内容とされるものだからである。(「第一節法理論三」)

 次のような財産は譲渡し得ないものである。すなわち、私の占有物または占有物でなくて、むしろ私の最も固有な人格を形成するもの、或いは私の本質の中に含まれているようなものがこれである。例えば意志の自由、人倫、宗教など。
 (「第一節法理論一三」)

 いやこれはいくらでも引用したい気持になります。これはすごいなと、段々電車の中で興奮してきました。このヘーゲルの言っていることの、1ミリたりとも現在の日本の法学者連は判っているのかなと思いました。
 いやはや、現在「オウム真理教」等々の問題で、このヘーゲルのいっている内容が判っている法関係者、およびマスコミ人は一人も見かけません。ちょうど電車の中で80ページまで読み進みましたが、なんだかますますヘーゲルが現在の日本の私たちに向けて当り前の原則を述べているような気がしてなりませんでした。
 できたら細かく引用して現状の日本の惨めな情況と照らしてみたいものだと思ったものです。
 でもこんなにヘーゲルって魅力あるとは、まったく知りませんでした。
 しかしこうして帰ってきて、もうこれはまだヘーゲルを読み続けようなんて思いこんでいても、自宅へ帰ってきてしまうと、つい食事の前に酒を飲んでしまうから、こうしてこんな夜中になってしまいますね。
 そういえば、先日同じように疲れた帰りの電車で読み始めた「エックハルト説教集」も、「どうせめんどうなことばかり書いてあるんだろうな」とばかり思っていたら、なんだかすっと入っていってしまったことを思い出しました。またこの本のことも書かなければと思っています。

 このことはオウム事件のときに、強く感じたことでした。そしていままた「安田弁護士の不当起訴に抗議する!」のことでも強く感じてしまいます。中坊なんて、こうしたヘーゲルがごく原則的に言っていることが理解できるのかな。判ってねえだろうな。(1999.02.25)


 


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2007年01月21日(日) 09:43:27 Modified by shomon




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