Wiki将門内検索
NEW!
LINKS
Wiki内検索
Menu

ALL
カテゴリー
タグ
1941年 1943年 1944年 1945年 1946年 1947年 1948年 1950年 1952年 1953年 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 <信>の構造 [敗北の構造 「ならずもの国家」異論 「反核」異論 <信>の構造(2) <信>の構造(3) <信>の構造(対話篇)「非知へ」 <知>のパトグラフィ <老い>の現在進行形 20時間完全討論解体される場所 j.ボードリアール×吉本隆明 n個の性をめぐって いまはむしろ背後の鳥を撃て・連合赤軍事件をめぐって いま吉本隆明25時 こころから言葉へ こころの全体性を求めて さまざまな刺激 だいたいでいいじゃない どこに思想の根拠をおくか なぜ、猫とつきあうのか ほんとうの考え・うその考え よろこばしい邂逅 わが「転向」 われらの文学22 アフリカ的段階について アフリカ的段階について<私家版> イザイホ カール・マルクス ダーウィンを超えて ハイ・イメージ論(?) ハイ・エディプス論 プレ・アジア的ということ ベストセラーを読む マス・イメージ論 マルクス………読みかえの方法 マルクス者とキリスト者の討論 ミッシェル・フーコーと『共同幻想論』 リンク 愛する作家たち 悪人正機 鮎川信夫論吉本隆明論 意識 異形の心的現象 異端と正系 遺書 隠遁の構造 宇宙 沖縄久高島 音楽機械論 夏を越した映画 革命 学校 学校・宗教・家族の病理……吉本隆明氏に聞く 漢詩 丸山真男論 丸山真男論<増補改稿版> 記号の森の伝説 擬制の終焉 吉本隆明 吉本隆明[太宰治]を語る 吉本隆明+出口裕弘 吉本隆明×吉本ばなな 吉本隆明のメディアを疑え 吉本隆明の文化学 吉本隆明ヴァリアント 吉本隆明講演集 吉本隆明歳時記 吉本隆明詩集 吉本隆明新詩集 吉本隆明新詩集第二版 吉本隆明赤坂憲雄天皇制の基層 吉本隆明全著作(単行本) 宮沢賢治 共同幻想論 共同体論と歴史的終末 教育 近代批評の展開 空虚としての主題 芸術的抵抗と挫折 見えだした社会の限界 幻の王朝から現在都市へ 源氏物語論 源氏物語論<新装版> 源実朝 現在はどこにあるか 現在をどう生きるか 現代における差異 現代のドストエフスキー 現代の文学25 現代詩文庫 言語にとって美とはなにか 言葉からの触手 言葉という思想 固有時との対話 固有時との対話、小伝 五の対話 幸福論 荒木経惟写真集「写真論」 講座日本現代文学 高村光太郎 高村光太郎<決定版> 高村光太郎<増補決定版> 今に生きる親鸞 根柢の出立に向けて 最後の親鸞 朔太郎の世界 三国志 三曹の詩 史観の拡張 思索的渇望の世界 思想 思想としての死の準備 思想と幻想 思想の基準をめぐって 思想の原像 思想の根源から 思想の流儀と原則 思想読本 死のエピグラム−「一言芳談」を読む 死の位相学 死の準備 私の「戦争論」 私は臓器を提供しない 詩の教室 詩の読解 詩人・評論家・作家のための言語論 詩的乾坤 時代の病理 自立の思想的拠点 写生の物語 社会党あるいは社会党的なるものの行方 呪縛からの解放 宗教の最終のすがた 宗教論争 重層的な非決定へ 初期ノート 初期ノート増補版 初期歌謡論 初原への言葉 書評 書物の解体学 書物の現在 諸葛孔明 少年 昭和16年 昭和18年 昭和19年 昭和20年 昭和21年 昭和22年 昭和23年 昭和25年 昭和27年 昭和28年 昭和29年 昭和30年 昭和31年 昭和32年 昭和33年 昭和34年 昭和35年 昭和36年 昭和37年 昭和38年 昭和39年 昭和40年 昭和41年 昭和42年 昭和43年 昭和44年 昭和45年 昭和46年 昭和47年 昭和48年 昭和49年 昭和50年 昭和51年 昭和52年 昭和53年 昭和54年 昭和55年 昭和56年 昭和57年 昭和58年 昭和59年 昭和60年 昭和61年 昭和62年 昭和63年 消費のなかの芸 情況 情況としての画像 情況へ 情況への発言 埴谷雄高・吉本隆明の世界 食べものの話 食べもの探訪記 心とは何か 心的現象論序説 新・死の位相学 新・書物の解体学 新装増補 親鸞 親鸞/不知火よりのことづて 親鸞復興 人間と死 人生とは何か 世界認識の方法 世界認識の臨界へ 世紀末ニュースを解読する 政治的知識人の典型・谷川雁論 戦後詩史 戦後詩史論 戦争と平和 全否定の原理と倫理 素人の時代 相対幻論 像としての都市 増補最後の親鸞 増補思想の流儀と原則 増補戦後詩史論 尊師麻原は我が弟子にあらず 対幻想 対幻想【平成版】 対話 大衆としての現代 大情況論 知の岸辺へ 著作 超「20世紀論」下 超「20世紀論」上 超資本主義 超西欧的まで 超恋愛論 追悼私記 定本 定本言語にとって美とはなにか(?) 転位と終末 転位のための十篇 都市とエロス 島尾敏雄 統合失調症と文学の表現世界 討議近代詩史 読書の方法 難しい話題 匂いを讀む 日本の原像 日本近代文学の名作 日本人は思想したか 背景の記憶 白熱化した言葉 悲劇の解読 不断革命の時代 不知火よりのことづて 父の像 文学と思想 文学の戦後 文学者の戦争責任 平成10年 平成11年 平成12年 平成13年 平成14年 平成15年 平成16年 平成17年 平成18年 平成2年 平成3年 平成4年 平成5年 平成6年 平成7年 平成8年 平成9年 平成元年 母型論 僕ならこう考える 僕なら言うぞ! 未来の親鸞 民主主義の神話 模写と鏡 模写と鏡<増補版> 夜と女と毛沢東 柳田国男論 柳田国男論集成 遊びと精神医学 余裕のない日本を考える 琉球弧の喚起力と南島論 隆明抄 隆明鈔 良寛 良寛論 恋愛幻論 老いの流儀 論註と喩 抒情の論理 漱石的主題 甦えるヴェイユ
タグ検索で昭和62年7件見つかりました。
自然とは
 天然自然というのは最高のものだっていうふうに考えるのはうそじゃないかと思います。例えば、人間だって自然の一部分だっていうことは、宮沢賢治だって云いますし、マルクスも云うわけです。それから、人間だって生物だし動物だ。それはもうそのとおりです。しかし、人間とは何なんだという問を発したとき、自然的な人間に対して抵抗することで、人間であるっていうような部分がたくさんあるわけです。云いかえれば、自然というのは、何が本質的かわかりませんが、本質的な自然を目指して人間は行くべきなんです。すぐにびっくりして、自然を守れ
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bc%ab%c1%b3%a4%c... - 2006年12月10日更新
りゅうめい
 子供の時は僕はなぜか友だちから「きんちゃん」(笑)とか「吉本」とか呼ばれて、親からも「きんこう」とか「きん」「きんちゃん」とか呼ばれていたので、「たかあき」と呼ばれるのは、学校の先生とか、特殊なときにしか呼ばれたことがありませんでした。だから両方とも日常的でない呼ばれ方だと思います。  僕はこれでもちゃんと正規に受験勉強をして、──あんまり正規じゃないか(笑)、ちょうど幸いにも戦争中で、配給(無試験)でもって大学に入ったので正規じゃないですけれど、──大学を出たということになっています。そういうところで
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a4%ea%a4%e5%a4%a... - 2006年12月10日更新
芸の無意識の自殺
 いろいろなことがあるでしょうが、僕の理解の仕方では、あの乱入事件はビートたけしの「芸の無意識の自殺」だと、僕は思っています。自分が無意識のうちに話芸のうえの自殺をしたと思います。あれだけの人が無意識の自殺行為をもってしたことだから──一見すると、どこかの出版社に押し掛かけていって撲りあいをしたんだ、そして向こうがバカで警察を呼んだりするから、こんなことになってしまった、そんなふうに見えるけれど、僕はそう思いません。それだったら、あれだけの衝撃を与えないはずなのです。そうではなくて、あの人の中に芸の自殺、
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%b7%dd%a4%ce%cc%b... - 2006年12月10日更新
ランドサットの映像
 僕らは都市論というのをやったわけですが、初期の天皇制の成り立ちや性質がどうだったのか、それから神武から崇神までは、実在していたのかどうか、そういうことについての関心も、ランドサットの映像みたいなもので、はっきりと目に見えるように映像として解けるはずだと思います。(1987.7河合塾名古屋校講演 「幻の王朝から現代都市へ−ハイ・イメージの横断」1987.12.1河合文化教育研究所に収録された) :| 考古学で苦労して掘っていく方法を宇宙からの視線で超えてしまったのだろうか。私は全国の天皇陵を公開発掘してい
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a5%e9%a5%f3%a5%c... - 2006年12月10日更新
人間が鳥であった時
 人間が鳥であった時は、どういう時であったかというと、一つには胎内にあった時であったに違いありません。それから、もう一つは死に瀕した時に、そこを通るに違いないということです。  人間が胎内に宿って、それから体外に誕生してくるまでの一〇カ月の間に、系統発生的に、アメーバから猿へ、そこから人間までのあらゆる段階を通過してくるのだという言い方がありますが、そういうものだとすれば、どこかで鳥の時代も通過しているかもしれません。それから人間が死ぬ時に、たとえば病気であろうと事故死であろうと、死にかけた時から死ぬ時ま
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%bf%cd%b4%d6%a4%a... - 2006年12月10日更新
鳥瞰映像
 人間が上から見る鳥瞰図、あるいは俯瞰図の映像をもつことができるのは、どんなときか考えてみます。するとすぐに二つのことが考えられます。  それはなにかと言いますと、人間が鳥であった時の記憶というものが、もし系統発生的に考えられるとするなら、ある瞬間には人間は鳥瞰する映像をもちうるはずではないかということです。  もう一つは、ランドサットの映像に匹敵するような、高度な映像技術を獲得したときには、人間は鳥と同じ、あるいはランドサットと同じような映像を視線のなかにもち得るのではないかということです。  この二つ
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c4%bb%e2%d7%b1%c... - 2006年12月10日更新
柳田国男の二つの中心
 柳田国男は、あからさまな言葉を使っているばあいも、それから象徴的な言葉をつかっているばあいも、それからメタファー、暗喩みたいな言葉をつかっているばあいもありますが、ほんとうの関心は、さいごまで農耕民でない人たち、つまり「山人」と柳田国男が呼んだ農耕以外のことにたずさわっていた人たちにあったのではないかなとおもいます。柳田国男のなかには、二つの中心があって、一つの中心は農耕共同体のしきたりとか、伝承とか、その頂点にある天皇の宗教・婚姻・神話などだったとおもいます。もう一つの中心は、農耕民以外の人たちのたい
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%cc%f8%c5%c4%b9%f... - 2006年12月10日更新



スマートフォン版で見る