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対馬忠行ソ連論の弱点
対馬「ソ連論」の最大の弱点は、レーニン軍隊論を鵜呑みにしたその軍隊論にあった。というよりも対馬がレーニンと(部分的にはトロツキー)に依存してスターリン以後のソ連の実現を批判するという非自主性を脱却しえないところにあった。
(「情況への発言−ひとつの死に関して」1979.12「試行」53号掲載 「追悼私記−対馬忠行−駈けぬけた悲劇」1993.3JICC出版局に収録された)
:| 対馬忠行のやった仕事は、現在の世界の情況をみるとき、かなり先駆的な意味があった。だがどうしてこんな模範にもなりえない国家の考察に
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c2%d0%c7%cf%c3%e... - 2006年12月10日更新
対馬忠行の死
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かれは革命家にはじぶんの死をじぶんの掌中にもっている権利があると述べたトロツキーにならって死を択んだのであろう。レーニンは普通の生活者がたまたま不可避的に革命家となった存在だが、トロツキーははじめから革命家とでもいうよりほかない存在だった。このことはふたりの記述の文体が語りかけてくる含みだといってよい。トロツキーの文体と思想にはそう緊張する必要がないのに緊張しているところがある。革命家でないことは死を意味するという発想が当然のようにおもえた。対馬忠行はじぶんが学問的な研鑽をつむことができない衰えを感じた
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死
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死はひとの存在が共同幻想に出会うことだ。わたしたちの存在は共同幻想の今に出会おうとして時間のふちをたどりながら、けっして時間の内側に陥ちこまないように駆けぬけていく。あるばあいは共同幻想の今に出会うことがあるかもしれない。けれどもたいていはその今はわたしたちの存在とすれちがい、ゆきちがいをうみ、そのためにいやおうなくその存在の死の貌を情況から外らしてしまう。死はどんな死であっても異和、関心を惹きつけづにはおかない。わたしは情況今と過不足なく出会った死よりもゆきちがいや齟齬をきたした死にたくさんの思いをい
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空海
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ぼくは空海ってのはぜんぜん知らないんですが、ちょっとイメージが違いますけど、福沢諭吉みたいなところがありますね。もう万能万学で、みんな向うのもの持ってきちゃ焼き直して、広汎にやっているように思います。
(「意志と自然」1979.10鮎川信夫との対談「現代思想」に掲載「思想と幻想」1981.7.15.思潮社に収録された)
:| うーんなるほどなと思ってしまった。空海はとてつもなく超人なように思うが、だがまた魅力を感じない人である。それはこうしたところなのだなとけっこうよく分かりえた気がしている。
[[隆
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靖国神社というのは納得できない
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戦犯を靖国神社にひそかに祭ったのはけしからぬ、けしかるという議論があるでしょう。ぼくはその論議は、けしからぬという論議も、やったってしょうがないじゃないかという論議も、両方とも納得できないのは、たった一つ簡単なことで、靖国神社というのは納得できない、ということなんですよ。つまり、あそこは余りいいところじゃないんだから、そういう人を祭った方がいいじゃないか、現実にそう思うのです。(笑)
だから、祭るのはけしからぬという人は、あれはいいところで、死んだ兵隊さんを祭ってあるんだ、だから、そういうところに戦争
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ヴェイユの生涯
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ヴェーユの生涯をかんがえますと、ヴェーユの生涯以外のものを含んでいることがわかります。現実の動きはのとおりとかのとおりとかいくものではないのは、ある意味で当然です。いくらかでもそのギャップを埋めるかどうかは別ですが、現実がのとおりにいくわけがないからといって、現実を否定するのはの浅はかさだという考え方もあります。また、いやのとおりいかないのはおかしいんじゃないかとこだわる考え方もあります。その問題のなかには、ヴェーユがとことんまでつきつめた課題がこめられています。
(「シモーヌ・ヴェーユについて」197
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いったん獲得された人間の精神の範囲は
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''いったん獲得された人間の精神の範囲は逆に戻ることはありえない''
時代が最大限に獲得させた、あるいは感受性は、それが退廃的にみえよう何であろうと、いったん獲得された人間の精神の範囲は逆に戻ることはありえないのです。は、科学技術よりもある意味でもっと確かなものです。科学技術というのは、人間が統御すれば、わざとシンプルな機械を使ったりすることができます。そういう社会をつくることもできます。しかしだけは、人間が長いあいだにかかって獲得したその範囲をせばめることはできません。
(「シモーヌ・ヴェーユについ
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ヴェイユの戦争についてのもうひとつの指摘
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もうひとつ、戦争についてヴェーユが指摘したことがあります。それはコンピューターみたいな管理機械とか生産手段である機械に人間は使われることが管理機構の特徴とすれば、戦争とは、いわば兵器という物や機械に、人間が使われて生命を落とすことだということです。管理する機械に人間が使われ、抑圧され、極端な形で生命を抹殺されるというようにあらわれてくるのが戦争です。だからあらゆる戦争は全部だめだ、正義の戦争があり、不正義の戦争があり、あるいは労働者大衆を解放する戦争があり、抑圧する戦争があるなんていう、そういう戦争観は
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ヴェイユの戦争の考え方
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ヴェーユの考え方では、あらゆる戦争は、それが革命戦争であれ民族解放戦争であれ、国家権力あるいは国家を管理し、国家の機関を牛耳っているものと、大衆との闘いなんだということです。もっと具体的に云いますと、ある国が他の国と戦争するというばあいには、それがどんな国家権力であろうとと、つまり社会主義国であろうと資本主義国であろうと、その国家の権力を握っている勢力と、その国家のなかにいる大衆との闘いなんだ、その国家の機関がその国家の中にいる大衆を抑圧する手段が戦争なんだということです。もっと別の云い方をしますと、あ
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親鸞
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親鸞は好きですし、この人は偉い人なんじゃないかという気はするんです。それは修行していくと悟りを開けるのだなんていうことを、自分自身が信じていないというところがあるでしょう。自分が信じられないならば、ほかの人も信じられないに違いないというところから始めているところがあるでしょう。そのときの風潮をピタッと押えて、そこから考えを進めているところがあるでしょう。それはやっぱり重要なんじゃないか、この人の優秀なところなんじゃないかな、という気がするんですね。はじめから、もう仏教というのは命題としていえばこう悟りを
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