愛宕神社

祭神:伊弉冉尊・埴山姫神・天熊人命・稚産霊神・豊受姫命

歴史:大宝年間(701年-704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって創建され、天応元年(781年)に慶俊僧都によって中興され、和気清麻呂に愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺を建立したと伝える。9世紀には神仏習合の修験道の道場となっており、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現在の若宮)に愛宕山の天狗の太郎坊を祀っていた。

平安時代に近衛天皇が亡くなった後に、院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて天皇を呪い殺したという噂が広まり、これに激怒した法皇は重仁親王の代わりに後白河天皇を即位させ、これがきっかけに保元の乱が発生したとされている。

天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。

明治の神仏分離により白雲寺は廃絶されて愛宕神社となった。勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。明治14年に府社に列格した。第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。


★愛宕神社
京都市右京区嵯峨愛宕町1
http://kyoto-atago.jp/
2007年01月06日(土) 12:50:19 Modified by st_kyoto




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