京菓子の歴史

京菓子の歴史


諸説、様々な見解があるようだが、一番古い説によると、太古の昔、
食物として『木の実』『果物』が食べられていた事から『木菓子(きがし)』
として、呼ばれるようになった所から生まれてきたと言われている。

但し、現在のような御菓子のような物の始まりとなったのは、奈良
  • 平安時代からである。このことについては、後ほど触れていきたい。


では、具体的に『御菓子』の事について語られる様になったのは、
いつの頃なのか。

それが、第11代垂仁天皇の御代『田道間守(タジマモリ)』が、常世国
(トコヨノクニ)に渡り、「非時香菓(トキジクノカクノコノミ)」を
持ち帰ったが、すでに垂仁天皇は崩御していた。

田道間守は、垂仁天皇の墓前に持ち帰った非時香菓を供え、
自らその場を動かず、そのまま絶食して、命を絶ったが、
その心に人々が、持ち帰った実に『橘』と呼び、
聖武天皇が「橘は菓子の長上、人の好む所」と賜れたと言われている。
このことから上代の菓子が「果物」とされていた事が窺える。

この話から御菓子が、すでに貴重な権力者の食べ物であった事が分かる。
更には、この「田道間守」の伝説は歌にもなって伝えられている。



『田道間守』作詞・作曲者不詳

1.
かおりも高い たちばなを
積んだお船が いま帰る
君の仰せを かしこみて
万里の海を まっしぐら
いま帰る 田道間守
田道間守

2.
おわさぬ君の みささぎに
泣いて帰らぬ まごころよ
遠い国から 積んで来た
花たちばなの 香とともに
名はかおる 田道間守
田道間守



次のようなことからも菓子に関する歴史は古いことが分かる。

また、この後の応神天皇が幼い頃には、『桂姫』が天皇を育てる為に
飴を作った事が伝えられており、これを『桂飴』といった。



さて、奈良時代に入ると、いよいよ現代の『御菓子』の原型が外国から
遣唐使によって入ってくることになる。

それが『唐菓子(からくだもの)』と呼ばれる品々である。
(本来伝えられた物は『8種の唐菓子(からくだもの)と14種の果餅
(かへい)』とその製法が合わせて、伝られたとされている。)

唐菓子とは『米粉、小麦粉などを色々な形に作り、水あめ、蜜、あまずらなどの
甘味や塩味をつけ、また油で揚げたりしたもの』の事を指し、神饌や供饌として、
宮中や貴族社会において、口にする物が豊かになっていく。
(唐菓子の具体的なものとして『粉熟(ふずく)・餅餤・椿餅』がある。)



鎌倉時代に入ると、茶の文化が本格的に入ってくることになる。
この頃は、1191年(鎌倉時代)には栄西上人よって茶文化が入ってくる。
このときに、中国から伝えられた「点心」という文化が、茶文化とともに
日本の菓子文化に大きな影響を与える事となる。
ここから生まれてきたのが、点心料理による饅頭や羊羹の御菓子である。

この時代辺りから、味覚的な向上や視覚的な部分での美しさが発展して
きたとされる。



そして、室町末期。
いよいよ町人文化としても広まる要素となる白砂糖が入ってくるのである。
これは、鉄砲・キリスト教伝来の南蛮文化と呼ばれるものの渡来のことだ。

この時、これらの文化と共に伝えられたのが、カステラ、ビスカウト、
ボーロ、コンフェト(金平糖)、アルヘイト(有平糖)などの南蛮菓子。

これらが、日本の菓子文化に大きな影響を与えることとなる。



では、実際に『京菓子』と言われる菓子がいつ頃、生まれてきたのだろうか。

具体的には『京菓子』というモノ自体が生まれたのは『江戸時代』とされている。
それは、江戸・寛永期に記された「茶会記」に『京菓子』という名称を見ることが
出来るようで、この頃から定着してきた物だそうだ。

この頃と言えば、上生菓子や干菓子の打ち物(らくがんなど)が現れ、
江戸にも京菓子所と呼ばれる『御菓子司』が多数生まれてきた。


今ある「鶴屋**」や「亀屋**」などの京菓子司は、
この頃から生まれた店であることから、その培ってきた技術が現代でも
京文化に深いつながりが見出せることは、現代の我々として興味深い事である。
2006年01月26日(木) 22:27:58 Modified by st_kyoto




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