最終話「気まま」
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staygoldlady 2007年06月05日(火) 02:17:13履歴
２００１年暮れの有馬記念（Ｇ�機砲蓮△修稜�の３歳菊花賞馬マンハッタンカフェが完勝、世代交代を印象付けて５歳のテイエムオペラオーに引導を渡した。その頃になると、ショータの後遺症はようやく癒えてきたが、ステイゴールドの「奇跡の末脚」は不可解なショックとして残ったままだった。仕事納めも終えたある日、彼はふと思い立って、手元の香港レースのビデオを見返しはじめた。あの夜のことを忘れるかのように、一心に、何度も、何度もレース部分だけを繰り返し再生した。
注目したのは「奇跡の末脚」にギアチェンジする瞬間。残り２００ｍでエクラールまで５馬身差に追い詰めたところ、ここまではいい。最後の１１秒間、ここからステイが見せた次元の違う加速は何だったのか。武騎手はステイに何を指示し、そしてステイに何が起きたというのか。
あれっ？おかしい。加速する直前の地点ではステイは内側のラチ沿いを走っている。右回りを終えてラスト４００ｍの直線に入ったときは確かにラチから離れたところを走っていたのに。もう一度見てみる。ややっ、こいつ斜行して内ラチにもたれてしまっている！ラスト２００ｍという大事な場面にきて、ステイが進行方向右側にヨレて、同じラチ沿いを走るエクラールの真後ろに潜りこんでしまうというハプニングが起こっていたことにショータは気がついた。
内ラチにへばりついて減速していくステイの姿の記憶が蘇る。秋の天皇賞だけじゃない、かつて何度も犯しているステイゴールドの失敗だ。当時はいつもヨレるのは左側だったが、ここに来て右側にモタれるなんて。ここで悪い癖が出るのは、エクラールの真後ろでなくても一見致命的だ。
武騎手は両手で持ったままだから、手綱で左側に向け直したはずだ。確かに左方向へ進路変更している。もう一度見てみると、確かにこの左に向いた頃から加速がはじまっていることが発見できた。なぜだ？今度はもう一度、少し視線を落としてこの進路変更の瞬間を見てみる。もう一度、もう一度見てみる・・・。もしや！
手前、つまり馬が走るときの前脚の左右順、これがキーワードになった。手前が変わっているのだ。スローで見てみるとよくわかる。手綱で左側へ行くよう指示されたため、それまで道中ほとんど右手前ばかりだった走りが、ここで左手前に変わっている。左に向いたのだから自然なことだ。そう言えば、ステイはよく左にモタれたし、左回りの府中競馬場のレースが得意だった馬だから、ステイの利き脚は左脚だったのだろうとショータは想像した。そして、ラスト２００ｍの走路で見せた加速は、フレッシュな左脚という必然とステイの気ままさという偶然の組み合わせが産み出した「奇跡の末脚」だったのだ。
「ヤロウ、大事なレースで好き勝手に走りやがって。」
ゴール前のさらなるひと伸びも、捕らえるべきライバルに並んだことで闘争心に火がついたのだろう、と理解できた。武騎手がムチを使わなかったのも、ステイが嫌いだったとしたら───きっとそうなのだろう───むしろ好結果に繋がったのかもしれない。
彼の推論が確信として固まり終えた頃、流したままのビデオから、レースを終えて誇らしげなステイの姿があらためて映し出されていて、調子に乗ンなコラ、とショータはこづくフリをした。
２００２年が明けると、感動のラストランで締めくくられたステイゴールドの競争生涯がマスコミ界を中心に異例のセンセーションを呼んでいたのが明らかになった。書籍やビデオが続々と発売されはじめ、ＪＲＡ賞は特別賞を捧げて、この馬の海外２勝という偉業を称えた。ドバイで破ったファンタスティックライトが昨年は世界的レースで６戦４勝２着２回と絶頂期であったことも、ステイゴールドの評価を大いに押し上げた。そして香港のＧ�犠〕�は、この馬の持て余さんばかりの能力を証明する揺るぎない記録となったばかりでなく、その奇跡がステイゴールドをこれまでの競馬史上有数のスターホースの座に到達させた。負け続けた苦しく長い日々が「黄金旅程」の香港名と重なって、ラストランで昇華する物語に多くのファンが涙したという。
あの重賞初勝利した目黒記念の頃だったか、ＪＲＡのキャッチコピーで使われた「愛さずにいられない」ステイを正面から写した、こう白い文字で書いてあるポスターのフレーズが今、この馬の感動の物語のテーマとして再度大きく取り上げられている。当時も今も、確かにふさわしいとショータは感じた。これこそ、まさにステイの魅力を表した形容だと。しかし、今はこういう思いも重ねて、あらためて受け入れることができる。
着順も、レースの距離も格付けも関係ない。向けられたほうに走り、せかされたらその気になってから走り、走りやすい方向に傾いてみたり、嫌いなムチを入れられたらヨロけて、ライバルへの闘争心の分だけ全力で走る。この馬は、人間たちの冷ややかな笑いや賞賛、切ない思い入れや愛情さえもよそに、その活力溢れる日々をただただ気ままに走って過ごしていただけなのだと。
２００２年もすっかり春になり、マンハッタンカフェが天皇賞・春で３つめのＧ�犠〕�を収めたゴールデンウィークのさなか、不意にマチコからのメールがショータのパソコンに届いた。件名は「結婚しました」。現在はロンドンに住んでいるのだという。本文は短く、最後に過ごしたあの日以降の経緯にも触れられていない。
彼女が真っ赤な乗馬服と黒い帽子姿で、鬣（たてがみ）の長い白馬に跨っている写真が添付されている。ペンキの真新しいコテージと曇り空がバックで、休日の風景なのか、新婚旅行で立ち寄ったところなのか。本人はカッコよくキメているつもりなのだろうが、彼女ひとりのニヤけ過ぎた笑顔で台無しになっている。馬の脇で手綱を持っている日本人男性がダンナだという。優しく笑っていて目がパッチリしているヒトなのかどうかはよくわからないが、その穏やかさから包み込んでくるような雰囲気がにじみ出ていて、あの彼女に「ついて行く」と言わしめたことを納得させられる。
どんな言葉が交わされているのだろう、何がそんなに可笑しいのだろう・・・写真を見れば見るほど、彼女の満ち足りた様子だけが間近に伝わってきて、逆にイギリスよりもさらに遠くの存在にショータには思えてくる。わずかばかりの未練に気が付いて、彼は写真から目をそらした。
メールの一番下に一言「種付け済み」と書いてあり、デキちゃった結婚かよオイ、しかたねぇなぁ・・・と彼はすっかり呆れてしまうと、「最後は笑うところですよね。」と一言だけ書いてメールを返信し、同時に彼女からのメールも閉じた。
「見せつけてくれやがって、まったく。」
正直、うらやましかった。彼女もまた、ステイと同じように気ままに生きて、そしてさらにその先にある幸せさえも掴んでみせたのだ。
…そうか。
そうだ、あの人はとうに見抜いてたんだ！
そんなステイがいとおしく、憧れでもあったのだ。
目黒記念の時の電話も、いや最初に声をかけてくれたときにはすでに、もしかするともっともっと前からなのかも知れない・・・とショータは時間を逆戻しするように彼女との思い出を振り返ると、確かに彼女がステイの気ままなクセっぷりをずっと直視していたように感じられる。逆に時間を順に追って、ステイゴールドの足跡を追いかけていく彼女の心情の変化を想像すると、気ままなあの馬の高まっていく魅力を受けて、確かに彼女が憧れをますます強めていったように思えてくる。彼はそう考えていくと、あの馬を追いかけた日々から、もどかしく、悔しかった数々の想いだけが溶けていくのがわかり、そこはもう忘れていけるのだという自信からくる爽快感に、なのになぜかしばし震わされ続けた。
その後、ショータがただのステイゴールド女と思うようになったあの人からの連絡はない。
〜終〜
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