第八話「ムチ」
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staygoldlady 2007年05月23日(水) 16:21:10履歴
「今度ね、群馬の乗馬クラブで働くことになったんだ。」
半年振りの再会の冒頭、いきなり、そして楽しそうにマチコはこんなことを告げた。温泉旅館の仲居はもう辞めたのだという。
「やっぱりあたし、お馬さん好きだし。」
マチコの大胆な行動の動機はいつも単純だ。素直というべきなのか、直感に正直とでもいうのか。本人が深く考え込んでいる様子はとても想像もできないが、慎重になりがちな決断を、彼女の場合いとも簡単に下してのけ続ける。そういや、まだ会社にいた頃、夏休みに自転車で北海道の牧場巡りをしたこともあるって言ってたっけ。いちいち、どうしてと聞く気にもなれず、ショータはただ感心するばかりだった。
ステイゴールドの帰国第一戦、宝塚記念では、先行から会心の抜け出しを成功させたメイショウドトウが、仕掛けにもたついたテイエムオペラオーを出し抜いて、遂に念願のＧ�犠〕�を達成した。直線勝負になったこともあり、ステイゴールドは４勝ち負けにはならず４着の結果だった。遠征帰りはまあこんなものかと、いきなり世界最強馬へ変貌したわけではないステイを確認して、ショータは秋の本格的なローテーションに期待しなおした。
２００１年秋に入り、陣営から年内引退、つまりステイゴールド最後の秋であることが発表された。緒戦はいつもどおり京都大賞典（Ｇ�供砲�らだった。休養明けのレースはいつもどおりだろうと、テイエムオペラオーやナリタトップロードらの載っている出馬表を見てから、３着あたりに滑り込む様子をイメージして、一人で競馬場にヴィジョン観戦にきているショータは何も心配していなかった。
だから、異変に気づくのが遅れた。ふと京都競馬を実況中継している場内テレビを見上げると、大賞典のレースはもう直線に入ったあとで、ナリタトップロードをかわしてステイゴールドが先頭に立っている。信じ難い光景にショータは、オペラ、トップの２頭が巻き返してくるはずだというおかしな期待を抱いたが、それは頑として先頭を譲らないステイにまた徐々に裏切られていく。後藤騎手が最後の右ムチを入れ、ステイがさらに少しだけ伸びて、ショータのまさかが確信に変わったのはしかしその瞬間だけだった。ステイが伸びた方向が左にヨレて、すぐ右隣りにまで巻き返しつつあったトップロードの正面に踊り出てしまったのだ。接触！明らかな進路妨害に審議の心配をする間もなく、脚が絡まったのかトップロードがひどく前のめりになり、渡辺騎手が大きく投げ出された。うぉっという黒い歓声と共に、気まずい雰囲気が場を支配した。そのままステイ、オペラの順にゴール。その光景すらも、ショータには気まずそうに演じられているように映った。
やってくれた、これは伝説になるだろうとショータは直感した。あの２頭を力でねじ伏せるというフェアな栄光を犠牲にしてまで、ステイが「伝説」を勝ち取った瞬間なのだと思えた。やがてレース結果が発表され、ステイゴールドは失格だった。ショータは、伝説にふさわしい結果だと正義感からそう考え、一番手に入線したという記録に残らなくなった結果を見つめていた自分を誇りに思った。二度とこないかも知れないチャンスを逸したという思いは、諦めとは少し違う印象で、しかしいつも以上にもどかしく感じられた。
次走は本番、秋の天皇賞。騎手は武豊になっていた。去年武騎手が騎乗したときは、マチコは「お手馬がいないもんだから、『ボク、どの馬に乗ればいいんですかね？』とか言ったんだよ。」と熊沢騎手のこともあって、イヤミっぽく冗談を言ったものだが、今年はそんなことはない。もうこの天才騎手しか「残っていない」のだと二人とも理解していた。そして今年もこのレースをショータは狙っている。
２年前と同じ３階席の階段で、去年のような不利がないことを二人は並んで見守る。ステイはスタートも第二コーナーでも問題がなかったが、逃げるはずの１頭が出遅れ、メイショウドトウがかわりにスローペースで馬群を引っ張る格好となった。ステイが２〜３番手を内側で走ってくれるので今回はその姿をずっとターフビジョンで追いかけることができる。大きな動きがないまま、第四コーナーへ。一瞬他馬に隠れたその姿が直線に入って、ぐい、と伸びるのが見えた。
「あっ、ステイがいくよ！」
マチコの言葉だ。ショータはレースの最中はただ黙って行方を見守ることが多い。ただ今度ばかりは「いけえっ！」という心の中の言葉が、右手の握りこぶしとなって、彼女の言葉と同時に二人の間に突き上げられた。それをマチコが小さな両手で包んでくる。彼女なりの握力で、ちからいっぱい。彼がもう一方の手を添えようとしたその瞬間、しかしステイの勢いが衰えたのがわかった。左にヨレる悪い癖がまた出て、内側のラチにモタれかかってしまい、いくら武豊騎手が左ムチを入れてももう手遅れだった。まともに走れないステイは徐々に後退、前のほうにはドトウとオペラオー。二人の両手は力を失って下のほうへと解け、ステイのレースは終わるのを見届けるしかなかった。結果７着。
１着争いのほうは、直線抜け出すかに見えたオペラオーを、目一杯の大外から一気に追い込んだアグネスデジタルが勝利。朝からの小雨で重くなった馬場を逆手にとり、誰も走らない脚抜きのいい馬場を確保したのが勝因だった。内側を選んで失敗したステイが対照的にショータには映った。
４週間後、ステイゴールドの国内ラストランは、得意コースで得意距離なのになぜか苦手のジャパンカップである。前走の教訓から、ステイに左眼だけにブリンカーが装着されたという。レースは最後の直線コースこそブリンカー効果もあってか、ラチを避けた外を回っての武騎手の必死のムチ追いに応えてまっすぐ走ったのだが、やや早いペースにもかかわらずオペラオーやジャングルポケットの末脚に屈服し、４着というそこそこの結果に終った。第四コーナーでは勝ち負けに持ち込めそうな場面もあって、特に欠点もみあたらないレース振りに、ショータは逆にステイゴールドの限界を見せられたような気がした。もう７歳も末、ここまでか。ステイの次走、ラストランは香港遠征なのだというが、相手強化、遠征、ハードスケジュールとさらに悪くなる条件に、勝利の見込みはもうないもの。ショータはそう信じ、波乱万丈の数々のレースの思い出で、自分を満足させようとした。いつものもどかしさがこの日はもうこみ上げてこなかった。
「ステイ、とうとうＧ�犠，討泙擦鵑任靴燭諭�」
「そうね。でもよく走ったわ。」
さすがのマチコも、ステイの姿を見るのが最後と思うと感慨深そう。ただ、少し悲しそうな目は、心残りを訴えているようにも見える。
「有馬記念も行くよ。ステイは出ないけど。いい？」
彼女はショータの意図をもう分かっているかのようにそう告げ、彼も頷くだけでＯＫを返答した。ラストチャンスが有馬記念。失敗すれば、最後のデートだ。
そのときは、彼はそう思った。そして、マチコへの告白のことだけで満ちた彼の心の中から、ステイゴールドはもはや分離されてしまっていた。
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