会社名 | 高橋食品工業株式会社 |
代表 | |
創業 | 1929(昭和4)年 仙台市河原町にて創業 1964(昭和39)年 株式会社に改組 |
住所 | 宮城県仙台市若林区若林4-1-4 |
電話 | 022-286-7100 |
HP | |
概要 | 創業者高橋三雄次は生家である新庄の丸亀八百清商店から独立、仙台にて納豆製造業を始める。 丸に亀のマークの仙臺納豆で知られる。 その後、こんにゃく、もやし、豆腐などの製造を手がけ、病院経営など事業の多角化をはかるが、 関連会社「アール・ビー」の事業不振の余波をうけ廃業。 ![]() ![]() ※左画像は創業者の高橋三雄次。右画像は同社若林工場。現在はゼライス(株)の若林工場として使用されている。 |


このページへのコメント
当時は大型スーパーの値引き強要で薄利ではあったものの、本業で倒産するほどの状況ではなかった。
三代目社長能高橋雅樹と弟、高橋信次の放漫経営が全ての原因の様です。
ご教示ありがとうございます
新聞等の記事からすると、新規事業への投資がかさむ中、トラブルにより運転資金が枯渇したと理解しておりました。
ご教示ありがとうございます。
日本の納豆生産技術をリードし続けた仙台。その中でも最先端だった高橋食品さんで、もやし生産の開発に取り組んだお父様の話、もっと聞かせていただきたいです。
納豆生産やもやし生産を習得するために日本中から修行に集まったと聞いております。
高橋食品の倒産も本業ではなく、新規事業の失敗に巻き込まれての廃業だとも聞いています。
そのあたり、ご存知のことがありましたらご教示いただけないでしょうか。
父は戦前宮内省大膳部に勤務し応召、関東軍に従軍しシベリア抑留後、昭和22年に仙台に帰還しました。実家が空襲で焼け、領地の使用人宅に寄宿していたおり、養子の話が有り、土建業の母の家に入りました。朝鮮特需後の不況で父が取締役だった社は倒産。父は胃潰瘍で入院、その後、高橋さんの誘いで高橋食品に勤務しました。父はもやしのタンク生産の開発を担当し夜間何度も社に行き、何年か後に自動でタンク生産が出来るようになりました。43年前くらい前でした。ダイエーから誘いがあったが断りました。昭和30年頃にも、宮内庁からまだ席が空いてるから戻ってはどうかと言われ断って後養子先が倒産。ついて無い人生です。まさか、今や高橋食品が無いとは夢にも思わないでしょ。