国内外の納豆情報総合サイト

はじめに

訪問したのは2018年の年末ぎりぎり30日のことでした。
仕事納めのあとで、工場ももう仕舞い。餅つきも終わったその後だったのですが、快くお迎えしていただいて、工場も隅からすみまでご案内いただいて、長年同社の代表を務められた武田博さんにもお話を聞かせていただきました。

創業、明治37年。
北大の半沢博士が編まれた大正15年発行の「納豆製造法 」にもその名が刻まれ、しかも、それどころではありません。戦後以降の納豆発展の礎を築いたのもかくた武田。
そして、今なお国内トップレベルのクォリティの納豆を作り続けているというとんでもない納豆屋さんです。。

近代的な納豆製造法の確立に挑んだ創業者

青森駅からほど近く。歩いてもそれほどかからぬ住宅街の中に、ひっそりと佇む納豆屋さんを見つけました。
正面には「なつとうや武田」の看板が。

そうか、ここがかくた武田の工場なのか。
右手に曲がるとそこは事務所で、声をかけると武田(充浩)さんがお出迎えしてくれました。

寒いですから、ストーブにあたってください。

そう言いながらも、いろんな資料を見せていただきました。
各種雑誌で取り上げられたもの。
数年前に青森県立郷土館での企画展で武田納豆が大きく紹介された話。
発酵をテーマとした企画展で、学芸員の方が何度もなんども足を運ばれて調べて行ったとか。。

今日はうちの母、社長からもお話をさせていただきますからね。

そういって、現社長の武田博氏を紹介していただきました。
まずは、かくた武田の歴史についてうかがいます。

創業者の名前は佐吉さん。
もともとは青森に出てきてお店(小売)を始めたが、親戚が青森にやってきてはただで品物を持って帰ってしまうので全然儲からない。これではだめだと考え、逆に親族に手伝ってもらって納豆作りを始めることにした。
最初は藁苞納豆で始めたが、良くできる時もあれば悪い時ともあって、あんまりそれがひどいから、なんとかならないかと考えて納豆菌の研究を始めた。
学歴は高等小学校卒だったけど、研究熱心で失敗もいっぱいしたけど、最後はうまくいって培養納豆菌をつかった納豆作りに成功したって聞いている。
だからね。昭和30年代くらいまでは、(研究に使った)孵卵器やフラスコが家の中にいっぱいあった。

佐吉のあとが真太郎で、うちの亭主の忠一が3代目だったけど早くに亡くなって、子供が小さいし(ほれこの子だと言って充浩氏を指差す)どうしようと思って私が納豆作りを引き継いだ。
それからもう50年も納豆作りをやってるんだから。
今は息子がやってくれるから楽になったけどね。

納豆作りの歴史は容器の歴史みたいなもの。
最初は藁づとで、次に経木になった。三角も四角もどちらもあったよ。

折り箱はやらなかったんですか?

折り箱もやったことあるけど、経木の方が良かった。
デラップスも使った。
でも、PSPになってからは、これが一番。
なにしろ使い勝手が良い。衛生的だし、保温性もいいし、失敗することがなくなった。
カップ納豆もやったことあるけど、やっぱりPSPの方が良くて、途中でやめた。

昔は悪い時がよくあった。
どんなにがんばってもなっとうができなくて。。何ヶ月もできないことがあったよ。
その時は、どうしたらいいんだか本当にわからなかった。

成瀬先生のところとか相談しても原因がわからなくてお手上げ。山形の高橋さんに相談したら親身にやってくれて、なんとかまた作れるようになった。

今思えばあれはファージだったんだね。

武田納豆100年の歴史を教えていただいた後は、いよいよ工場へと移動します。

60年経つという新工場をご案内いただく

だば、工場見に行くか。。

そう声をかけていただいて、ふたたび上着を身につけ工場へと移動します。

雪の中にひっそり佇む工場の雰囲気。おわかりいただけますか。
少なめの積雪でしたが、冬の青森といえば、どこに行ってもこんな感じです。

そして、こちらが工場の中。
工程でいうと、ムロに入れる前の盛り込み場に当たるわけですが。時期が時期だけについたばかりのお餅が並べられていました。


餅つきしたばかりだけど、ここが作業場。

前は長島に工場があったけど、手狭になってここに移って、もう60年程になる。

七転:充填機を使ってるんですね。

そう。豆をここでパックに詰めて、おりの中にいれる。
おりに入れるのは手作業になる。

これがそのおり。
不安定に見えるけど、地震(東日本大震災)の時も崩れなかったから、この積み方がいいんだと思う。

人の背くらいまで積み上げたおりの前で、武田さんは笑いながら説明してくれました。

奥にいこか。
そう言って、工場の奥へと向かいます。

こっちが釜。

七転:回転釜なんですね。これは鉄釜ですか?

こっちは鉄製の釜で、こっちはステンレス製。


使い込んでるから古く見えるけど、実は途中で入れ替えてるからそんなに古くはない。
圧力釜だから、もちろん検査も毎年やっているし。
いつ入れたか(入れ替えしたか)は銘板を見ればわかるよ。

固定釜だった時はな、鉄製の蒸籠を積み重ねて蒸していた。
それがこれだ。

作業場の床に無造作に置かれていたピカピカの円筒形の物体。すっかり道具置き場と化していましたが蒸篭だったんですね。

しかし、すごいですね。
鉄釜。
ステンレス釜。
固定釜時代の蒸篭。
さすが、近代納豆発祥から続く製造者だけあります。これはもう、近代納豆遺産として未来永劫残したいくらいです。
仙台の宮城野納豆を訪問した時もすごいな!って思ったけど、かくた武田も大変なものです。

ところで、豆を水につける浸漬タンクが見当たりません。
納豆製造における重要な工程の一つで、けっこうガサのはる設備でもあるのですが全く見当たらないのです。

七転:浸漬はどちらでされています

浸漬もこの釜でやってる。

えっ。。
そうなんですか?

そんなやり方は今までに聞いたことがなかったので、思わず驚いてしまった我らが探検隊です。

発酵が始まったら、あとはもう歌をうたうしかないな

こちらが室。

室の奥と手前、上と下で違うので、今は良いところだけを使っている。
制御盤のタイマーでコントロールしているし。

最初はお湯を撒いたりするけど、あとはいじらない。

入れ替えはしない。
手を掛けるとおこられる。

七転:どなたにですか。

いや、うちではそういう言い方するんだ。
誰におこられるんだろうね。

(発酵中は)温度計で監視はしてるけど、あんまりあてにはしてない。カンというか、もう任せるしかない。
歌を歌うしかないな。

七転:一つの室にどのくらいのオリが入りますか

実際にいれてみようか。

一段に4ケ入って、全部で14段。これかける4だから、200ケちょっとかな。
でも、全部使うことはないから。。

空いてる発酵室も色々使っている。

こっちは冷蔵庫に改造して冷熟に使っている。

今しまってるのは、年明けの初売り用だから、ちょっと少なめだ。

こっちは倉庫。
包材とか、大豆をしまってる。

使ってる豆はオクシロメ。
大粒はオオスズ。
この豆って決めて作ってるから。

昔は人も使ってたくさん作ってたけど、今は注文のあるぶんを作ってるだけだからこれで十分だ。

村上の智恵子さん、弘前の武田、仙台の小林も親戚。太子の工藤さんもよく来てた。

工場から再び事務所に戻り、ストーブにあたりながら、社長さんからまたお話をうかがいます。

七転:粒は赤。ひきわりは緑。いつからこのルールができたのでしょう。

知らないなぁ。
いつの間にか、標準になったんでないか。
元々うちの納豆は橙色の掛け紙だった。納豆だから変な色の掛け紙は使えない。紫とかだっら売れないでしょ。


【信太朗さんのこと、一族のこと】
この間、ネットで見つけた写真に信太朗さんが写っているのを見つけた。村松博士とか成瀬さんが写ってる写真。

七転:ひょっとしてこの写真ですか。
(納豆wikiの写真を見ていただく)


そうそう、この列の一番右端が信太朗さん。
盛岡の村上さんもうつてるんでないかって。。

村上の最後の社長の智恵子さんはお父さん(忠一氏)の姉で。
弘前の武田は信太朗さんの弟。
仙台の小林食品は妹の嫁ぎ先だ。

納豆屋は働き者じゃないとできないから。

【納豆の仕事】
三代目の亭主がなくなったのは41歳の時で、それから40年間ずっと働いてきた。子供の面倒もぜんぜんみれなくて、うちの子も勝手に大人になったようなもんだ。

仕事はずっと信太朗さんの言う通りにやってきて、それでもうまくいく時といかない時とがあって、なんで自分の言う通りやらないのかっていつも怒られてた。
うちではね、納豆を麹と塩で漬けた麹納豆を作ってたけど、一年くらい経つと糸が切れてたけど、ある日それが一年経っても切れなくなった。
それから口出しすることはなくなった。

・麹納豆
麹納豆はね。余った納豆を漬けてたの。
それをね、秋田からくる背負子さんたちが納豆を買っていくんだけど、その時サービスでつけてあげてたの。ご飯を食べる時のオカズがわりにして。
すごいしょっぱくて、大根おろしと和えたりsて食べたけど、私は苦手だった。

戦後の頃はね、大豆がなくて。政治家にお願いしてなんとか算段してたって聞いてる。

お弟子さんはそんなにいなかったよ。うちで仕事を覚えて納豆屋を始めた人はいたみたいだけど。根室の納豆屋さんとかはお弟子さんかな。

太子納豆の(創業者の)工藤さんも良く来てた。
勉強熱心で、質問の仕方が普通の聞き方じゃない。やっぱり、偉くなる人は違うなって言ってた。

販売はね。
社員が配達してたけど、引き売りの人たちも自転車で工場に仕入れに来てた。数で言ったらそんなでもない。

からし?
からしは工場でもつけなかったし、引き売りの人たちもつけてなかったな。

納豆菌は、山形のを使ってる。
そう、高橋菌。
納豆作りがうまくいかなかった時に、一番親身になってくれたのが高橋さんのところだから。三浦も成瀬も菌が悪い訳じゃないけどね。
ムラカミのところは、確か成瀬をずっと使ってたはず。

・納豆味噌
七転:納豆がうまくできなかった時は納豆味噌にすると言う話を聞いたことがありますが。

私が知ってる納豆味噌はそれとは違う
ニコニコしながら、そう答えてくれました。

お茶摘みの時とか忙しい時に食べるんだけど、あんたは知ってるかい?
納豆味噌は納豆に味噌を混ぜて作って、それをおかずにしてご飯を食べるんだ。納豆味噌以外は菜っ葉の漬物くらいかな。

間違えちゃいけないよ。納豆は薬じゃないからね。

七転:佐吉さんが納豆を始めた理由はお聞きになっていますか。

佐吉さんはね。浪岡から青森に出てきた時はお店を始めたんだ。小売店だね。

豆腐とか、タバコとか、日用品を売ってたらしいけど。武田の一族はみんなタダでそれを持っていくんで困ってしまって、それで納豆がいいんじゃないかって言って始めたって聞いてる。

※写真は武田信太朗氏と従業員による経木への盛り込み作業。

だけど、藁つとで始めたから、うまくいかない時がしょっちゅうで、それで納豆菌の研究を始めたんだな。

充浩氏:市内の石江にあった松岡病院というライの療養所なんですが、そこにいた方も同じ頃に納豆菌の研究をされてたそうです。

注記)武田家では納豆を研究していた成田巻之助氏のことも認識されていたようです。
成田巻之助:明治25年青森県五所川原市飯詰に生まれ、五所川原農業高校を卒業。青森市「松が丘保養所に就職し、農業指導に当たる。その後、看護師の資格を取得し、らい病治療の研究の一環で納豆についても調査を行う。
関連記事>成田巻之助氏と近代納豆

あとね。。うちの納豆が一番売れたのは、大湊の海軍さんが納豆はコレラとか赤痢に効くって発表した時。
海軍の軍医さんが東奥日報に発表して、そのせいでものすごい売れたって。

注記)艦船内の衛生状態に課題を抱えていた帝国海軍では、納豆菌の抗菌作用に着目。「海軍医誌」や「海軍軍医会雑誌」にその報告が多数残されています。たとえば、海軍最後の軍医局長=有馬玄氏も納豆を研究し博士号を取得しています。
関連記事>納豆の抗菌作用とコレラ菌

でもね。間違えちゃいけないよ。
私はいつも言ってるの。
納豆は医薬品ではなくて、食品です。って。

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