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納豆研究の嚆矢:矢部矢部規矩治が一般紙の「日本農業新誌」に寄稿した納豆なる記事。
明治期東京における納豆の姿がいきいきと伝わってきます。

七転納豆掲載の記事をここに転載します。

明治27年の納豆作り

明治の大豆は

吾人の食物中には奇態なるもの種々ありといえども納豆の如きはその最たるものなるべし。
あらあら、そう来ましたか。
世界で初めて納豆を科学の視点で分析した矢部規矩治氏のエッセーです。

で、矢部さん的には、納豆は麹で醸す寺納豆が本来で、糸引き納豆はそれがいつしか簡略化されたものと認識していたようです。

まぁ、そんな前置きに始まって、大豆のこと、納豆の作り方、納豆になった後の化学的変化、生物学的変化を取上げていくわけですが。。

この大豆の項がまたおもしろいですよ。
なんといっても、明治中期に流通していた大豆ですから。
さっそく引用してみましょう。

まずは、黄大豆。(普通の大豆です)
いたち大豆、赤莢、長五郎、千成、麹いらず、久助大豆、水潜大豆、比丘尼、錫杖、鶏頭大豆

赤莢、千成はどこぞで見かけた記憶がありますが、後は全くの初見!
みずくぐりって、こんな字(水潜)だったんですか!
近江地方の水潜は青豆のはずですし。。。

青大豆
青鉄砲、菓子大豆、市右衛門大豆、御膳豆、青金剛院

黒豆
黒鉄砲、その他

茶豆
茶大豆、鼠大豆、等

黒奴、赤奴、その他

とあり、うち黄大豆、青大豆は普通に納豆の製造に用いるが、黒豆、茶豆、斑は使用しないと。
さらに東京では、「地廻(ぢまわり)」と称する近傍生産種の他、主として仙台から入ってくるものを使うという。

東北地方産の豆は、四国九州地方のものよりその品位善良なるがごとしとまで言われています。
宮城県に大豆卸が今も残るのは、このあたりが遠因なのかも知れません。

納豆作り:沸煮

いよいよ、気になる納豆作りに迫ります。
今みたいにPSP容器も無ければ、培養菌も無い。烝煮釜も、圧力釜も無い。室だってサーモコントロールなんてついてませんって。
今東京において商人が行うところの操作を挙げんに まず洗浄せる大豆を大なる鉄釜にいれ適量の水を加えて五時間沸煮すれば適当の度に達す。 薪材は主として闊葉樹を用い決して針葉樹を用ゆること無し。

沸煮した大豆を発酵させるだけだから簡単だと言っておきながら、意外に細かなtipsがあるようです。
ところで、矢部先生。
釜で煮る場合は、浸漬は不要なんでしょうか?
「沸煮」って言葉も初めて聞いたんですけど。
焚火は初めは激しく行いてすでに沸煮するに至れば蓋を取りて徐々に続くるものとする。 斯くの如くして五時間に及べば水は大概尽きて大豆は適当の度に達する

先生!
五時間沸煮すれば適当の度に達す
水は大概尽きて適当の度に達す
なんか、先生。いい加減じゃないですか。

しかし、釜炊き五時間ですか。
新宿納豆の高橋さんから昔話を聞いたことがありますが、これは大変な作業なんだそうです。

昔の人って、こういうのはあんまり苦に思わなかったんでしょうね。

納豆作り:発酵編

今日は明治27年頃の納豆屋さんに迫る三回目です。
大豆は適当の度に達するを以て藁苞と為し、暫時立て置きて後、窖内(こうない)に入れ発酵せしむ。

藁苞にいれ、ちょっと冷やしてから入れる。
で、室ではなく「窖」で発酵させると。
窖ですから、当然土を掘り込んだ穴蔵なわけで。
窖は六尺ばかりの立方形にして土にて塗(ね)り半ば地下にあり。 一方に小なる口を有し、内には両側に棚ありて藁苞を置く所とす。
矢部先生の記述によれば、半ば地下という表現になっています。
土を掘り込み、その掘った土で上屋を作ったのでしょうか。

六尺ばかりの窖という大きさは、作業するにもほどよい大きさじゃないでしょうか。
もっとも、これが外寸だとしたら。。
しかし、このような記録を残していただいた矢部先生に感謝です。

さて、続けましょう。
而して窖内の温度は適当の度ありて宜しきを得ざれば失敗の恐れあるを以て、予め焚火を為し適度に達すれば藁苞を入れて棚上に密立せしめ残燼と共に密閉す。

なんと、窖の中で焚火をしたと!
これでは、まるで土室の作り方じゃないですか。
なるほど、もとを正せばそういう作り方だったと!

現在も各社に残る炭火製法のご先祖様は、こんな姿をしていたようです。

そして、
「残燼と共に」
「密閉す」
矢部先生のこの生なましい記述がすごいです。

焚火の燃えかすはそのままにして!
そしておそらく扉を閉めたら土を塗って密閉するのでしょう。
良い納豆ができるかどうかは、後はもう神に祈るしかありません。

後代まで残る室への信仰。
室にこそマジックが宿るという思いは、このあたりから生まれたのかも知れません。

納豆作り:完成編

斯くの如くして廿四時を経過すれば十分の発酵を為し、多量の粘出物を生じ、直に食用に供するに足る。 然れども時として失敗して粘質物を生ぜざる時あり。斯くの如き大豆は之を味噌の原料とす。

「時として失敗して。。」
このあたり、頻繁に発酵不良を起していたことが伝わってきます。
とある納豆屋さんから伺ったお話ですが、(近代以前の納豆作りでは)不良事故はえてして連続して起きたとか。味噌にするどころではなく、裏山が不良納豆でいっぱいになったというお話をうかがったことがあります。

こちらの話がまた興味深いですよ。
東京にては本郷に於いて多く之を製造し、市中に販売するのみならず、日々汽車の便に依りて遠く横浜、横須賀、八王子等に輸送す。

本郷で多くを製造する!
やっぱりそうなんですね。。
今なお神田に残る天野屋三河屋の姿が偲ばれます。

そして、横浜、横須賀、八王子に汽車の便で送る!
横浜、横須賀はおそらく海軍で、当時の一大需用家だったことがわかります。
八王子は陸軍でしょうか。

しかし、明治28年で、汽車で輸送ですか。
近代納豆前史ではありますが、納豆が日本で普及するに当って軍隊と鉄道が果たした役割は以外に大きなものがあるかもしれません。
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このページへのコメント

私も納豆好きですがこんなあるとはしりませんでした
頑張ってください!

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Posted by テレビみた 2017年08月29日(火) 21:13:31 返信

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