うちのおやじは花巻の生まれ。
実家が稼業に失敗して、五〜六歳のころから丁稚奉公に出されて学校にも行けなかった。
大人になって仙台で会社員になったらしいけど。衛生納豆を見て、これからは納豆の時代だと思ったらしい。
宮城野納豆の
三浦さんところに弟子入りさせてくれっていって三ヶ月間毎日通った。
三浦さんもさすがに根負けして、うちの親父はそれこそ窯焚きから修行を始めたってきいている。
照井さんところもそのあと三浦さんのところで修行して納豆屋を始めた。
三浦さんは弟子をとらなかったことで有名だから、直系の弟子って言ったら、うちと照井さんとこくらいじゃないか。
花巻(花巻川口町)で納豆屋を始めたのはいつかって?
兄貴(孝一)が生まれたのが仙台だから、その後だな。
ここで、松井家一族の系譜を拝見しながら説明をうかがいました。
松岡納豆創業者の孝左右様が生まれたのが明治31(1898)年。
24歳の時、花巻で結婚。新所帯の真向かいが賢治さんの家。
修行に出たのが、結婚後すぐの大正10(1921)年頃。
仙台で修行中の大正11年に長男の孝一誕生。
修行を終えて花巻川口町にもどったのが大正14(1925)年。
長兄の守一氏が普請した工場兼住まいで商売を始めたのだそうです。
しかしながら、その後長兄の守一氏が事業に失敗し破産。松岡納豆ののれんは長兄に譲り渡し、自らは新天地を目指して旅立ったのだといいます。
昭和2年(1927年)孝左右様30歳。青森市という新たな場所で松岡納豆をあらためて開業します。
なんで青森だったか。
聞いたことは無い。
何でまた納豆屋にしたのか。
それも聞いたことは無い。
聞いているのは、このとき,盛岡(の銀行家)に嫁いでた(孝左右氏の)妹が1,000円の資金を出してくれたってこと。
今だとどのくらいの金額かな。
(1000万じゃきかない金額です)
すげな。
どっから、その金を用意したんだか。
でも親父は5年でその金を返した。しかも、同じくらいの金額の貯金もあった。
なんで知ってるかって。
ちょうど昭和の恐慌で、取り付け騒ぎとかあったころ。うちの店にも銀行の人間がやってきて、貯金をおろさないでくれって頼みに来たんだ。
昔の納豆屋ってなんぼ儲かったんだべ。
映画館で納豆の宣伝もしたって。
上映時間の合間に納豆持ってステージに立って。衛生納豆の口上でもをしたんでねえか。
夏場は納豆は売れなくて。仕方ないから、ところてんを作ってたころもある。
歳をとってからでも親父は頑固じじいで有名で。。
そういえば、ちゃぶ台ひっくり返したりしてたよ。
良く言えば職人気質だったのかな。