納豆wiki - 「松岡納豆」問わず語り

はじめに

青森県青森市と岩手県花巻市に近代納豆の痕跡を残す松岡納豆。
創業者である松岡孝左右(こうぞう)氏は仙台の三浦二郎氏に師事して近代納豆製法を学び、まずは花巻で創業。後に青森に拠点を移し改めて納豆製造を始めます。
時代はまさに近代納豆の発展期。
戦前から戦後昭和にいたる納豆作りのお話を、青森市松岡納豆の二代目=松岡孝二氏からうかがいました。

1. 納豆作りは子供の時から手伝ってたよ

おやじが青森で松岡納豆を始めたのは昭和2年で、おれが生まれたのが昭和10年。

小学校に入った年に学校が国民学校になったから、国民学校の一期生だ。
かぞえで80歳になる。

納豆作りは、子供の時から手伝ってた。
朝一番の仕事は水さらい。釜の焚口が地面より低くなってるせいで、朝になると水がわいてきて溜まってるんだ。

釜はもちろん固定釜。
三浦さんところと同じ煉瓦積みの固定釜だ。

※図版は宮城野納豆旧工場の釜場

太いボルトが何本もついてて、金物の蓋をとめる。
中に蒸篭(せいろ)を五段ぐらい積んだかな。蒸篭は金物。トタン製。

豆が煮えたら、木の樽みたいな道具で納豆菌をつけて、そのあと、へらをつかって豆詰めする。
6人程度で作業して、昼前にはつめ終わった。

うちは折箱。
50匁入りで、15センチ角くらいの大きさ。ちょっと、底上げになってる。

どこで作ったかって?
うちは、北片岡の西澤さんに頼んで作ってもらってた。
もとは仕出し屋さんに卸してたらしい。でも、納豆屋と仕出し屋じゃはける量がぜんぜん違うから、だいぶ儲けたんじゃないか。

室?
もちろん文化室。
おが屑が保温材で、室の内側にトタンを貼ってた。
仕込みを入れたら、なら割の木炭を焚いた。
焚くのは最初の5〜6時間だけ。
発酵が進むと納豆から熱が出てくるから、そこまでいけばもう大丈夫。

そうそう、室の温度を見に行くのもよくやらされた。
一時間おきくらいに室の温度を見に行って、37度より高かったら(排気調節のための)棒を動かす。低かったら反対のほうに動かす。
はしごに上ってね。棒には一寸刻みで印がついてた。

翌日の朝の4時とか5時くらいには室出しだ。

掛け紙は花巻の松岡と同じもの。

※図版は半澤コレクションに残る花巻松岡商店の掛紙
この絵の意味?
なんなんだか。
おやじからそんな話は聞かなかった。

冬になるとそりの上にリンゴ箱を載せて(貨物駅だった)浦町駅まで納豆を運んだ。夏はリヤカーに乗せて駅まで行った。
送り先は下北半島のほう。大湊とかだ。

昭和20年に入ると青森も毎日のように空襲があって、花巻に疎開した。
結局花巻でも空襲があって青森に戻ったけど。青森は大空襲の後で、駅を降りると町が真っ暗だったな。

戦前は満州の豆が良く入ってきてた。小粒の豆で、悪くはなかったけど。でも、内地の豆のほうが美味しかった。

戦後はもう豆なんか全然ないから、もう闇で手に入れるしかない。背負子(しょいこ)さんにお願いしたり、米屋から買ったりした。
三戸とか行くと、あっちは産地だから豆があるんだ。
背負子さん一人で2〜3斗は運んでた。

闇をやってれば、もちろん摘発もある。
福田納豆のところに、突然米軍がやってきて摘発された。
大豆だけじゃなくて、炭まで取上げられて、商売できなくなった。

後から聞いた話だけど、福田は三沢で米軍相手の仕事を始めたって話だ。
商売がだめになったのも、新しい商売が始められたのも米軍のおかげ。

まぁ、そういう時代だったんだな。

2. うちのおやじは仙台の三浦さんとこで修行した

うちのおやじは花巻の生まれ。
実家が稼業に失敗して、五〜六歳のころから丁稚奉公に出されて学校にも行けなかった。

大人になって仙台で会社員になったらしいけど。衛生納豆を見て、これからは納豆の時代だと思ったらしい。
宮城野納豆三浦さんところに弟子入りさせてくれっていって三ヶ月間毎日通った。
三浦さんもさすがに根負けして、うちの親父はそれこそ窯焚きから修行を始めたってきいている。

照井さんところもそのあと三浦さんのところで修行して納豆屋を始めた。
三浦さんは弟子をとらなかったことで有名だから、直系の弟子って言ったら、うちと照井さんとこくらいじゃないか。

花巻(花巻川口町)で納豆屋を始めたのはいつかって?
兄貴(孝一)が生まれたのが仙台だから、その後だな。

ここで、松井家一族の系譜を拝見しながら説明をうかがいました。
松岡納豆創業者の孝左右様が生まれたのが明治31(1898)年。
24歳の時、花巻で結婚。新所帯の真向かいが賢治さんの家。

修行に出たのが、結婚後すぐの大正10(1921)年頃。
仙台で修行中の大正11年に長男の孝一誕生。
修行を終えて花巻川口町にもどったのが大正14(1925)年。

長兄の守一氏が普請した工場兼住まいで商売を始めたのだそうです。

しかしながら、その後長兄の守一氏が事業に失敗し破産。松岡納豆ののれんは長兄に譲り渡し、自らは新天地を目指して旅立ったのだといいます。

昭和2年(1927年)孝左右様30歳。青森市という新たな場所で松岡納豆をあらためて開業します。

なんで青森だったか。
聞いたことは無い。
何でまた納豆屋にしたのか。
それも聞いたことは無い。
聞いているのは、このとき,盛岡(の銀行家)に嫁いでた(孝左右氏の)妹が1,000円の資金を出してくれたってこと。
今だとどのくらいの金額かな。
(1000万じゃきかない金額です)

すげな。
どっから、その金を用意したんだか。

でも親父は5年でその金を返した。しかも、同じくらいの金額の貯金もあった。

なんで知ってるかって。
ちょうど昭和の恐慌で、取り付け騒ぎとかあったころ。うちの店にも銀行の人間がやってきて、貯金をおろさないでくれって頼みに来たんだ。

昔の納豆屋ってなんぼ儲かったんだべ。


映画館で納豆の宣伝もしたって。
上映時間の合間に納豆持ってステージに立って。衛生納豆の口上でもをしたんでねえか。

夏場は納豆は売れなくて。仕方ないから、ところてんを作ってたころもある。

歳をとってからでも親父は頑固じじいで有名で。。
そういえば、ちゃぶ台ひっくり返したりしてたよ。
良く言えば職人気質だったのかな。

3. ライバルは武田に間山

そのころの青森の老舗といえばなんといっても武田納豆。
うちのおやじと、武田の二代目が同い年でずいぶん競い合ったって聞いてる。

※図版は半澤コレクションに残る青森武田商店の掛紙

他にも、毎日納豆の間山納豆とか、旭町の福田納豆とかいた。

間山納豆はもともとこんにゃく屋で、納豆のほうが儲かるって聞いて商売替えをした。
納豆菌は最初三浦さんところにお願いしたらしいんだが、二郎さんはうちと付き合いがあるからって断った。
仕方がないので山形の高橋から納豆菌を卸してもらったらしいよ。

武田が納豆菌を売ってたって?
聞いたことねな。

弘前の野田食品は(青森)武田の親戚。
でも、武田とは仲が良くなくて、いつも俺のところに相談しにきてた。

太子が出て(伸びて)きたのは、おれが30歳を越えたあたりだから、昭和40年代くらいだ。

折箱から経木へ

もともとは、うちが折箱で、武田がわら苞だったけど。
そのうち、折箱はやめて経木になった。
四角い経木の納豆。
青森にはね、三角の経木納豆はなかった。

どういう形かって?
細長い経木をぱたんパタンと右から折って左から折って、下の端っこのところをちょこっと折り込む。
上の空いてるところから豆を詰める。
豆を詰めたら上も折り込む。

経木は北海道から送ってもらってた。
その頃の納豆屋の朝一の仕事は、経木をお湯に漬けるところから始まった。

4. 掛紙の色はおれが決めた

ひきわり納豆を始めたのは昭和30年代に入ったぐらいの頃だ。
もともと、青森(市)にはひきわりは無かったから。

あれは、五所川原の(向こうの)もの。
能代とかに向かう五能線ってあるでしょ。
あっちの方の食べ物。

うちと武田で納豆の競争してて、差別化しねばまいねって作ったんだ。

豆を煎って、挽き臼ですって皮をとばして仕込むから、最近の生煎りと違って芳ばしさが全然違う。

赤が粒で緑がひきわり?
青森も秋田もか?

掛紙の色は、おれが決めたんだ。

作業してる時とか、お店で売ってる時に間違いがないようにってな。
赤地に白い文字で「マツオカ納豆」って入ってるのが粒納豆。
緑地がひきわり。

青森も秋田もみんな赤で緑になってるなんて知らなかったよ。
他の納豆屋にそうしろって言ったことは無いし。
まさか、秋田もか。。

たまご納豆やクロレラ納豆も

たまご納豆もやったよ。
業者が粉を持ってやってきて、これを使ってくれって。

そうそうこの納豆。

最初の頃は粉を入れてつくってたけど。最後のあたりは粉も入れなくなった(笑)
入れると納豆の調子が良くねえし、なんてったって粉が無くなると金を取られたからな。

しかし、いつまで経っても粉を頼まねえから、業者も困ったんでねえかい。

デラップスも来たな。

※図版は根室食品が今なお作るクロレラデラップス納豆

いろんな販促品がもらえて、これは良かった。母さんに上げたあの手鏡もそうだ。

母さん、まだ使ってるかい?
(このあいだの引っ越しのときに捨てちゃいました)

えっ。七転さんに見てもらおうと思っていたのに。。

5. おれも仙台の三浦さんには随分お世話になった

回転釜になったのはいつ頃かって?
ボイラーの免許を見てみたら23才で資格を取ってた。
昭和33年ってことになる。

筆記試験の後は実施があって投炭試験をさせられた。
粉の炭=粉炭をショベルで掬って、それを的に向かって投げいれる。
すくう量と、狙いの正確さの両方が必要だったけど、狙いの正確さは納豆屋にはあんまり関係なかったんじゃないかな。

会場は青森市内。
一緒に試験を受けたのは国鉄とか、大湊の自衛隊とかだ。


回転釜は仙台の三浦さんに発注して作ってもらった。
もっともお願いしたのは一台だけ。

※図版は宮城野納豆製造所サイトに掲載の回転釜

もう一台は、今まで使ってた固定釜を改造して作った。
蓋のボルトのところはそのまま使えるから、釜を切ってつなげばできあがり。

ボイラーも新しいのを入れた。
(単管式じゃなくて)横置多管式のボイラーだ。
(回転釜になって)仕事は楽になったな。


納豆作りもだいたいはオレの仕事になってきて、今度はもやしをやりたいと思った。
おやじにそんな話をしたら、仙台の三浦さんに相談したらしくて、仙台のもやし屋で修行することになった。

それで三浦さんちに下宿したんだ。

※図版は宮城野納豆製造所前に立つ筆者

ある日な。
三浦二郎さんが釣りに行って、鮒が釣れたって。
夕食になったら三浦さんのところにだけ、その鮒のお皿がついてて。
そしたら、三浦さんがオレに鮒喰うかって聞くのさ。
自慢そうにそう言いながら分けてくれたのがおかしかったな。


うちは三浦さんところの弟子だから、やっぱりよそとは違う。
(青森の)間山が納豆を始めるときも、三浦さんはことわってるしな。

だから、一夫(三浦一夫氏)さんが会社を作った時は、名前だけだけど、うちも照井さんも役員になったくらいだ。

6. 仕事を広げすぎたんだろうな

なして、納豆屋がもやしをやるかって?

原料の大豆が一緒でしょ。
ボイラーとかの設備も共用できて、温度湿度を管理するという基本技術が一緒だから。
納豆作りだと、ボイラーなんて朝の一回しか使わないけど、もやしなら何回も使うから効率がいい。

お湯をかけるのは一日4回くらい。
一定時間毎にお湯かけしないといけなかいから大変。
仕方ないから飲みに行って帰ってきてからお湯かけしたことも何度もある。
酔っぱらって途中で寝ちゃって、ボイラーが壊れそうになったことも実はある。

(お父さん、そんな話初めて聞きました)

でもさ。
水道代が高くてさ。
月に2〜3万じゃきかなかった。

それで、300万の借金をして井戸を掘ったんだ。
それが(1968年の)十勝沖地震のほんのちょっと前。
すごいタイミングで井戸をつくったせいでずいぶん助かった。

あの時は、水道なんて一週間も止まってたんだから。
それでも仕事ができたんだから、井戸さま様だ。
近所の人も水を借りに来たよ。

妙見にもやしの工場を建てたのは昭和45〜46年くらい。
ピカピカの機械がずらりと並ぶ工場で、自動散水機能もついてたから本当に楽になった。

あのころはもやしは儲かったんだよなぁ。

納豆はどうしたかって。
毎日納豆の間山から一緒にやらねえかって声をかけられた。

間山は卸団地に新工場の用地を確保したんだが、工場建設の資金が用意できなかったらしい。
それで、間山とうちと、弘前の野田の三社の事業ってことで新工場を作ったんだ。

今思えば、これが良くなかった。
電気室をいれたけど。電熱ヒーターを熱源にした室だ。
上と下とで温度が全然違うから、手間ばっかりかかって苦労したよ。

そのあとも「桃ちゃん餃子」を販売したり、土建業めいたこともやったりしたけど。
景気が悪くなって全部やめた。

納豆屋はな。
遠縁の者がやりたいって言ってきたので、暖簾を全部渡したんだ。
松岡の家が関わらなくなっても松岡納豆は昭和60年くらいまで続いてたよ。