高橋一(はじめ)氏は宮城県出身で昭和の初めに北海道に渡りました。色々商売をしたのですが、最終的には納豆製造で地位を固めました。「青印」は当時「○○印」というネーミングが流行っていたのと、信号で進め(ます)の色なのでそのように決めたそうです。さて。。
青印(本店)の納豆はイトが丈夫で箸でかき回すと「ミリミリ」と特有の音がします。味も若干辛めの味で豆の風味が美味でした。本当に「力強い古風な納豆」といった感じでした。これって、青森かくた武田の納豆を彷彿させますね。
青印納豆は添加物などは一切使っていませんでした。そのため、一番問題となるのは「納豆のイトの質が変化しやすい」ことでした。当時は納豆の粘り気を出すために「丈夫なイトがたつ添加物」入れていました。(中略) 青印ではこのような添加物は使わなかったのでこういった工夫をしていました。
僕が小中学生で函館に住んでいた頃、「高橋市次郎商店」のパッケージが「経木」の「青印電子なっと」、正方形の発泡スチロールに入った納豆が2個入りの「ペアー納豆」を朝飯て良く食べていました
本家の「青印食品」の納豆は殆ど食べてませんでした(青印食品には「ペアー納豆」と同じような商品で「アベック納豆」という商品がありました)
僕の中では納豆といえば「青印なっと」です
STVテレビの「青印電子なっと」のCMが懐かしいです
小学生位の女子の声で「青印の工場へ、行ってきました、とても綺麗な工場です、大好きです、青印の、電子なっと」
納豆売りのおじさんの声で「なっとなっとー♪」
青印本店は夏には「ところてん」「煮豆」を製造しました。 この2つは納豆を作るラインをほとんど流用できました。さらに材料はなぜか大豆を扱う卸からも供給できました。
納豆作りで日中国交回復は非常に大きな意義がありました。 旧満州産の小粒の大豆が安価で大量に入ってました。旧満州の大豆は油分が少なく加工用に向いていました。(中略) なんでも、満州開拓に行った方のお話によると「戦前に日本人好みに品種改良した種がそのまま残っている」とおっしゃっていました。これによって「小粒納豆」の原価が大幅にさがり、しかも品質が大幅にアップしました。
ところがオイルショックの後は品不足のためスーパー側から納豆を工場まで取りにくるようになりました。そのため、立場が逆転してスーパーの店長が本社を訪れて頭を下げる光景がとっても印象的でした。この頃が地方の中小納豆メーカーの最盛期だったという証言も興味深いものです。
PC管理の生産ラインが「多品種少量生産」を可能にして大手が地方へ進出しました。ある会社は傘下にそしてある会社は廃業と追い込まれました。全国チェーンのGMSが全国共通の商品を求め、それに応える形で全国に生産ネットワークを広げてきたナショナルブランドのメーカー。
経木入りは手間もかかるし、ごまかしもできない。利益も少ないが本来の味がでる。
市議会議員をしていた時、函館には貧しい人がたくさんいた。 視察で、ある子供に『何を食べたいか?』と尋ねた時に『腹いっぱい納豆ご飯を食べてみたい』と答えた。自分の家も貧しかったので自分の子供時代とオーバーラップした。こういった子供たちが毎日食べられるように安い値段の経木入りの納豆だけは残したかった
生前、「なぜ、市議会議員になったのか?」と聞いたことがありました。すると一氏は「小学校の学芸会でリンカーンの役をやった。非常に立派な人物だったので担任の先生に『ニッポンでリンカーンに一番近い職業は何ですか?』と聞いたら先生は迷わず『村議会議員ですよ』と答えたそうです。そこで小学校の時からいつかは市議会議員になって世の中のためにがんばろう」と思ったそうです。