第2話「Audience」

軍神山本
第2話「Audience」


1931年9月20日
大日本帝國 帝都東京
皇居
「今上天皇陛下にあらせられる」

 侍従武官の東條英機大佐の紹介の元、御簾越しではあるものの、天皇の姿を馬渕と山本は見た。椅子に座った、小柄な体躯。しかし、其処からは2600年にわたって連綿と続く天皇家それ自体が其処に居るような、威厳と威光が彼らを押し包んでいる。
 山本は口をパクパクさせるのみだ。何事かを口に出そうとするたびに、口を噤んで下を向く。それを数回繰り返したあと、困ったように馬渕を見た。
 馬渕はそれを苦笑して返すと、前に立って口を開いた。

「恐れ多くも陛下に置かれましては御健勝の御様子、未来から来た者とはいえ、日本人として喜びに耐えませぬ」

「言いたいことがあるのではないか」

 馬渕は詰まった。流石。流石だ。この方だからこそ、日本はアメリカの植民地にもならずにおられたのだろう。

「それではこの場にて無礼なる口を持って、全てを語らせていただきます……」

 息を飲む。こんな事は久しぶりだ。言葉を口から出すのに、まるで自ら火のなかに飛びこむような感覚を受けるとは。クソ、気圧されているとでも言うのか。

「関東軍によるこのたびの事件……私の世界では『満州事変』と呼ばれ、この後一五年にわたって続く中国との戦争、その幕開けとなります」

 周囲の要人たちが息を飲む音が聞こえた。満州事変の勃発により馬渕の言葉が裏打ちされているとはいえ、この事件が一五年にわたる戦争の幕開けになるとは思っていなかったに違いない。馬渕は心の中でおいおいと落胆しながら要人たちを眺めた。日本人と言うのは、昔から危機管理に関しては異常に甘いようだな。業病なのかもしれないが。

「それで……その戦争は日本の勝利に終わるのか?」

 辛うじて東條が口を出すことに成功した。首相以下の要人は口も利けずに呆然と彼らを見ている。

「いえ、日本は負けます。大日本帝國は崩壊し、アメリカの占領下に置かれます」

「何故其処でアメリカが出てくる!それに、神国日本が負けるとは貴様、何を言っている!」

馬渕はそれまで天皇の前で跪いていた体躯を立ちあがらせた。馬渕の身長は180cm。この時代の日本人からすれば、異常なほど大柄の男だった。

「貴様達のそのような考えが、日本を滅ぼしたのだと言う事がわからんのか!神国日本?何処に神がいる!?いいか、近代戦争じゃカミカゼ吹こうが何が吹こうが、強いやつが勝つ!そして日本は弱かった。だから負けた!弱くしたのは、貴様らのその無定見さが原因ではないか!第一こんな重大事件を察知できなかっただけで、その無定見さを暴露している事がわからんのか!」

 火を吹いたような馬渕の言葉に、要人たちは詰まった。既に満州事変が勃発しているだけではなく、朝鮮駐留軍司令官林銑十郎がそれに援軍を送っている。ちなみにここで弁護させていただくと、林銑十郎はなにも好き好んで援軍を送ったわけではない。関東軍から届いた「ワレラ苦戦」と言う電文に、『義に於いて忍ず』との言葉を持って援軍を派遣した。つまり、関東軍の暴走に付き合わされている日本軍兵士たちの命を救うための援軍派遣だったのである。しかし、結果としてそれは事変の収拾を不可能にさせた。
 林の行動には多くの非難が寄せられる。あまりにも短絡的。軍中央の、政府の不拡大方針を無視した独断。しかし、馬渕はそれを否定しない。無論、かれも林が罰せられなければならないことに異論はない。しかし、好んで見捨てることに慣れてしまったものの醜悪さとそれによってもたらされる悲劇を考えるならば、林の行動には一線―――ただ一線だけ、弁護の余地があると考えてしまうからだ。


「馬渕……と申したな。そちの存念、全てここで言うがよい。気にする必要はない。朕が願うのは日本国国民全ての幸せである。そのために必要であるのならば、朕はそれに躊躇いを見せる事はない」

「陛下……」

 馬渕の両目からは既に滂沱と涙が毀れていた。山本は仰天した。何時も感情を殺しているような馬渕がここまで激情し、しかも涙までも見せている。それだけで驚くに値する事だ。勿論、馬渕にとっては演技だ。今ココでの彼の役割は憂国の志士。平静ならば何を狂ったか、とでも言うだろうが、最小の投資で最大限の成果を得ようとするのは、なにも経済に限った話ではない。そのために手段の是非を無視する感覚ぐらい、彼も持ち合わせている。

「事ここに至っては、既に満州事変を阻む手立てはつきました。ならば、関東軍が欲で起こした事変を、欲ではない事にしてしまうほかありません」

「欲では……ない、と?」

「はい。それには、まず軍内部における強烈な人事断行が必要とされます。これに関しての全権――統帥権を頂きたい」

「なんだとっ!」

 東條、そして陸軍参謀総長や軍令部総長が激発した。

「下がれ!」

 御簾ごしに断固たる声が聞こえた。そちらに目を向けると、御簾をくぐりながら、一人の男が彼らの目の前に現れた、誰もがその姿に平伏する。

「朕は馬渕に意見を聞いておる……意見は馬渕の言葉が終わってからにせよ」

 馬渕は一礼した。

「御配慮ありがたく。では申し上げます。陸軍においての改革は、人事面だけでは済まないものになります。宇垣閣下」

 それまで黙って馬渕の方を向いていた宇垣一成陸軍大将が立ちあがった。

「陸軍は、現在幾つ師団を持っていますか?更に、独立部隊も」

「現在陸軍は内地に二二個師団。関東軍に九個師団を派遣しておる。更に、独立部隊として騎兵旅団を十個、砲兵連隊を五個持っておる」

「ならば、それを半分に減らすことになります」

 陸軍関係者が激発しようとするが、先ほどの天皇陛下の御言葉が効いているのか、誰も怒鳴り声を上げることはない。

「理由を聞こう」

 そのなかでただ一人冷静な言葉を出したのは宇垣だった。

「日本は海洋国家です。大陸国家ではありません。そして、これからの戦争の相手はアメリカだからです」

 その言葉に海軍の連合艦隊司令長官、山本英輔海軍大将が言葉を発した。

「しかし我等はそれに対し、完璧な作戦を立てている。別に、気にする必要はないのではないかな?」

「長官、貴方はアメリカにいった事はおありですか?」

「いや……ないが」

 馬渕はため息を吐いた。

「いったところでイギリス、ですか?」

「そうだ。第一、アメリカ海軍は二流海軍。イギリスのような一流海軍こそ、我らが見習うべきではないのか?」

「一度デトロイトを見て御覧なさい。アメリカの五大湖周辺の工業地帯を見て御覧なさい。それに、アメリカ海軍を二流海軍と言いますが、それならば何故、秋山中将はアメリカ海軍に留学したのですか?現在、世界の海軍を主導する理論的源泉はアルフレッド・マハンに他なりません。であるならば、彼を産んだのは何処の国なのか。言うまでもありません」

 馬渕は日露戦争における連合艦隊参謀であり、日本海海戦を完璧に演出した秋山真之のことを言った。山本大将はその言葉に詰まる。

「アメリカの生産力は膨大で無限です。それが戦争になった場合、如何に日本といえども、その奔流に押し流されてしまう事は明らかです」

「……君はアメリカが日本に対して戦争をしかけるような事を言っているが、そんな事がありうるのかね?」

「有り得ます。今日、この日から十年と三ヶ月後、アメリカと日本は四年にわたる太平洋での戦争を開始。それにより、日本は滅亡の道を歩み始めます。戦争は一九四五年八月一五日、日本の敗退に終わります。日本が被ったものは、およそ1000万にも及ぶ死と、敗戦と言う現実。そして日本は辛うじて、アメリカの政治的植民地としての生存を得るのです」

「!!」

 室内に衝撃が広まった。誰もがつきつけられた未来に起こる現実に呆然となっていた。

「ならば、何故君達はあのような強力な海軍を持っているのだ?アレほどの海軍部隊が、政治的植民地にあるとは思えないが」

「あれは、我々の日本における艦隊戦力、そのほぼ全力にあたります。そしてアメリカは、その五倍もの海軍を、全世界に展開しているのです。それに、我々があの艦隊をそろえたのはココ10年の話。アメリカが全世界を背負うことが出来なくなった時代だからこそ、持つことが必要となり、また、出来たのです」

 一座が静まった。誰もが言葉を出せずに、そして口を噤んでいる。

「策は……あるのか?」

 天皇陛下の声だった。目には使命感に燃える輝きがあり、1000万にも及ぶ死を招き寄せてはならないという思いがある。

「あります。幸運にも、10年と言う時間がありますから」

 馬渕は室外で待機していた佐藤二佐を呼ぶと、室内に太平洋地域の地図をかけさせた。

「アメリカは現在、恐慌の真っ最中にあります。これに関しては1933年、民主党からフランクリン=ディラノ=ルーズベルトと言う政治家が現れ、彼が行なった政策により、一応の小康状態をもたらします。しかし、それはあくまで一時的なものであり、早期に根本からの状況変更、つまり、世界貿易体制の流動が必要になります。しかし、アメリカには植民地がない」

「フィリピンがあるではないか」

「フィリピンでは、アメリカの膨大な生産能力を吸収しきれません。そして、彼等が新しく狙う市場が……ここです」

 馬渕は中国の上に指揮棒を置いた。

「アメリカは、日本、そして欧州諸国から中国を奪うべく、策動を開始します。彼らはまず、今回の満州事変を使い、日本の孤立化を図ります。これは、日本が満州を完全な植民地と化そうとする動きを見せる事で説得力を増し、日本は国際的に孤立化への道を歩み始めます」

「確かにそうだ………ワシントン軍縮の様子を見ても、それはありありとうかがえる」

 高橋是清が頷いた。

「そうです。しかし、我々は彼らを非難することは出来ない。彼らは彼らの国民がい、そしてその国民に安楽な暮らしを享受させ、享楽の日々を過ごさせねばならない。さらにまた、正義を重視する彼らはその正義を持って、世界に対していくでしょう。これに対し、我々は満州を、大義名文通り満州族のための、いや、中華民国に於いて、孫文氏が提唱した五族協和の大地に作り変えなければなりません。これにより、幾らかでも日本の悪名を減らさなければなりません。幸いにも蒋介石は、満州に関しては傍観の姿勢を見せます」

「対策に関してはそち達に一任できるよう、朕からも動こう」

「ありがとうございます。それでは、まず」

 馬渕は宇垣のほうを向いた。

「繰り返す事になりますが、閣下、貴方は陸軍の軍縮を考えていますね?」

「そうだ……」

 陸軍関係者が裏切りものめ、という目を宇垣に向けた。

「まず、それを万難を配して断行する事と、現在、歩兵第一旅団長をされているを永田大佐を軍務局長に配置し、そして彼に護衛をつけてください。すぐに。これが、一つの救いとなります」

「わかった。ちょうどよい男を一人知っている」

「出来れば小隊程度の護衛が必要です」

「それに関しても取り計らおう」

 馬渕は其処で天皇陛下の方を振り向いた。

「それでは陛下、三軍を我らの指揮下に置く事を、勅命として発行していただきたいのですが」

「それはかまわぬが……三軍とは?」

「陸軍、海軍、そして、空軍であります」

 馬渕は地図に近寄り、ドイツとイギリスを指差した。

「既にドイツ、イギリスにおいては空軍の創設が行なわれています。航空機はこれからの戦争において大いなる威力を秘めたファクターです。これを有効に活用できるか否かで、戦争の将来を決めると言っても過言ではないでしょう」

「具体的には?」

「陸軍から近接航空支援を除いた全航空兵力を。海軍からは基地航空隊をすべてもらいます。同時に、教育に関しては陸軍からは全てを、海軍からは空母に配置される搭乗員のための航空学校を除いた全てを。それに、日本国民に広く呼びかけてください。航空青年育成、などの題目と共に。これにより、豊富な航空機搭乗員の予備が確保できます」

「しかし、それでは陸海軍の間の折衝が困難になると思われるが?」

「そうです。其処で、通常は戦時だけとされている大本営を、常時設立します。全ての軍事行動は其処を通して行なわれます。軍令部と参謀本部は、これにより作戦立案機関としてのみ、存続します」

 既にぐうの音も出ないのか、誰も馬渕に対して言葉を出すものはいない。

「更に、これまで陸相、海相とわかれていた軍事担当大臣を、『国防大臣』に一元化します。これにより、帝國海軍、帝國陸軍ではなく、『日本帝國軍』としての運用が可能になります」

「……わかった。ここにいる全ての者に言う」

 天皇陛下は粛々と言葉をつむぎ出した。

「朕は命ずる。これより一五年の間、我が帝國における全ての軍事行動に関しては、常に彼らの参与を必要としなければならない。正式な書類は追って発行する。よいな」

 この勅令に基づき、この年の十二月八日、市ヶ谷に『統合戦略指揮本部』が発足した。日本帝國の歴史は、これよりその歩みを急速に転じて行くのだった。
 しかし、この動きに反対しないものがいないわけではない。それは陸軍、海軍の中で一つの動きとなり、ある方向へと歩みを進めて行く。

 十月に入っても満州事変は終わりを見せなかった。現地陸軍部隊は参謀本部、陸軍省の意見を無視する形で暴走し、その戦火を満州全土に広げて行った。十月八日には錦州が爆撃され、二四日には国際連盟の撤退勧告を拒否せざるを得ない状況に追いこまれる。中央は勧告を受けたいが、現地軍がそれに従わない。そして、こんな事態を世界に広めるわけになどもっと行かないからだ。
 こんな中、陸軍のある意味粛清とも言える人事が断行された事は脅威として全ての者達に受けとめられた。それは特にいまだ未開拓地息が多く残る東北地方出身者において強かったが、昭和七年度から緊急に『五ヵ年日本改造計画』が実行され、東北地方を重点として開発される事が発表され、それは急速に収まる気配を見せて行った。
『五ヵ年日本改造計画』は、馬渕達未来組(これより後戦本と呼称)の初の仕事となった。蔵相高橋是清の力を借り、日本を根底から変える政策として発動される事となったのだった。なお、これにより三月一三日に採択された第一次海軍補助艦補充計画は縮小され、海軍にしこりを残す事となる。

 以下、世界の動きを見る。
 十一月八日、天津において日中両軍が衝突。これは本格的戦闘に発展する事もなく終了した。
 そして一月二八日、運命の上海事変が起こるのだった。

 さて、ここで上海事変について説明しよう。

 上海における武力衝突のもともとの原因は、とある襲撃事件だった。
 昭和七年一月十八日のことである。
 托鉢寒行に回っていた日蓮宗日本山妙法寺の上海布教主任である天崎啓昇は、引き連れていた僧侶四名とともに、上海楊樹浦にある日本の東華紡績工場付近において、中国人の無頼漢にいわれなき暴行を受けた。
 すぐさま上海総領事の村井倉松は上海市長にむけて厳重な抗議を行なったが、取り付く島もない。

『日本側の策謀であろう』

 というのが、上海市当局の回答であった。
 領事館としては、そのような回答に満足できるはずもない。また当時、上海に派遣されていた第一遣外艦隊司令官の塩沢幸一少将も烈火の如く怒り、『馬鹿なことをいうなっ』とばかりに足を踏み鳴らしたという。

『何を証拠にそんなでたらめを言うのか。暴行を受けた五人の内、一人は死亡しているのだぞ。同胞を殺めるような事件を引き起こして、わが国に一体何の得があると思うかっ』(領事の手記より)

 ところが、まったく悲しむべき事に、この襲撃事件は関東軍の策謀によるものだった。関東軍の高級参謀である板垣征四郎大佐が、上海駐在武官の田中隆吉少佐に話を持ちかけたのが発端だった。当時、田中は「男装の麗人」として夙に知られていた間諜の川島芳子に命じ、上海の無頼漢を使って、日本人への襲撃を画策させた。計画の成否だけを言えば、関東軍の策謀は間違いなく成功したといえるだろう。
 だが、しつこく繰り返すようだが、これは陸軍の独断である。派遣されていた海軍の上層部も、上海にある領事館の職員達も、誰一人として、この陸軍の狂奔を知っているものはいなかった。関東軍の狙いはただ一つ。満州事変の拡大だった。

 彼らは遮二無二山海関(万里の長城)を越え、大陸を席巻する事だけを熱病のように夢見つづけたのである。完全に蚊帳の外におかれていた塩沢少将は不幸というほかないだろう。彼はひたすら日本人が殺められたという事実だけを認識し、市当局に対して怒りをぶつけるばかりだった。そうした怒りは、何も塩沢少将に限ったことではない。海軍陸戦隊指揮官の鮫島大佐、第一遣外艦隊主席参謀の山県正郷中佐も、同様の怒りにかられていた。
 だが、塩沢はぐっと堪えた。
 ここで我が軍が率先し、余分な戦闘を始めるべきではない。歯噛みしながらも、彼はそういいきった。そして村井総領事と相談の上、幕僚の山県、鮫島を引き連れ、居留民の大会へ赴いた。彼らにできることは、ともかく上海居留民と上海市民が衝突しないように、『軽挙妄動は控えるように』との説得を執り行なう事だけだった。しかし、満州事変の勃発以来、日支双方の感情は悪化の一途を辿っている。膨張しきった風船は割れるより他にない。その時点で両者は、正にそうした破裂寸前の状態にあった。塩沢達の説得ぐらいでは、とても居留民の怒りを静める事は出来そうになかったのである。
一方、支那側も強烈な排日姿勢をとり始めている。既に上海駐屯の第十九路軍は、上海付近へ35000の兵力を集中しており、すぐにでも日本の租界を襲撃できるように、市の内外へ兵を進め。万事怠りなく戦闘の準備を進めていた。

 やがて、その先鋭集団ともいえる彼らによって、一月二十四日夜、日本公使官邸に放火された。続いて二十八日朝には総領事館に爆弾が投げ込まれ、事態は一挙に緊迫の度合いを深める事となった。
 上海共同租界当局も二十八日夕刻には戒厳令を布告し、一触即発の危機に対処する為、日、英、米、仏の各国軍隊は共同防備計画に基づいて担当警区の警備についた。もはや日支の武力衝突は回避できないまでになろうとしている。
 塩沢少将は海軍陸戦隊に警戒警備につくように命令、鮫島大佐はそれに従って行動を開始した。そしてついに、一月二九日正午、突如として中華民国第十九路軍は日本租界に向けて攻撃を開始し、また塩沢少将も、『速やかに自衛行動を取れ』と、応戦を命ずるに至った。

 これが上海事変の勃発である。以来、日本海軍は、旧式の砲艦戦隊を率いて、何とか戦いつづけている。そうこうする内に、白川義則陸軍大将を軍司令官とする上海派遣軍司令部、善通寺第十一師団、および宇都宮第十四師団が、重巡『妙高』を旗艦とする第四戦隊、第二水雷戦隊および軽巡『木曾』の護衛によって、内地から増派されてきた。時に、満州国が独立宣言を行なった昭和七年三月一日早朝の事である。
 白川大将は、一つの思いとともにここに派遣されてきた。

『陛下は、戦乱を望んではおられぬ』

 彼は、昭和の陸軍軍人にしては珍しく、戦争を好まない人物だった。
 現在、大陸では抗日運動が激化している。すべては、満州という複雑怪奇な響きを持つ広大な平原が原因だった。かの大地に、満州事変なる、およそ白昼の悪夢としか思えないような武力衝突が噴出しなければ、今日ほどの排日運動は展開されなかっただろう。いや、現実に国民政府は昨年の十一月に抗日運動禁止令を発布している。両国政府の首脳陣は、誰一人として全面戦争など望んではいない。

『あの時、しっかり説得しておくべきだった』

 白川の言う『あの時』とは、昭和六年の十月十八日をさしている。
 そのころ、誰が言い出したのか、関東軍が日本からの独立を画策しているという風聞が、まことしやかに東京で流れた。政府並びに陸軍は、青ざめるほどに狼狽した。関東軍の独立は、すなわち満州の独り立ちに他ならない。

『石原莞爾の独断専行に他ならない』

 陸軍省内部は色めきたってそう叫んだ。
 当時、陸軍中佐であった石原は、関東軍作戦主任となっていた。つまりは満州事変の張本人の一人と言い切って構わない。
 彼はどういう訳か、満州の地に限りない情熱を持っていた。だから、陸大を卒業後、三年間の独逸出張を終えてからというもの、何処の部署にも所属せず、ひたすら戦史の研究に没頭し、やがて海外駐在武官の席をけって、満州行きを自ら志願した。
 それはちょうど奉天において張作霖が爆死させられたころで、彼は爆破事件の首謀者である河本大作大佐に迎えられて旅順にある関東軍参謀部に赴任した。そのころから、石原は一つの持論を胸に秘めていた。
 満蒙領有案である
 石原はそれらの広大な地域を日本直轄の占領地域にしようと考えていた。これは、彼が最終的に到達する独自な終末論の『はしがき』のようなものであったが、論の全貌についてはおいて置く。
 彼はまず、この満蒙領有計画を参謀の花谷正中佐に打ち明けた。二人は議論の末、翌年になって新任高級参謀として着任した板垣征四郎を引き込み、計画の主任たらせる事とした。
 やがて張学良顧問府補佐を勤めていた今田新太郎大尉、朝鮮軍参謀の神田正種中佐、参謀本部の橋本欣五郎中佐、予備役大尉の甘粕正彦大尉、そして奉天特務機関長の土肥原賢二大佐並びにハルビン特務機関長百武晴吉中佐などの協力を取り付けた。
 こうして満州事変の種は撒かれてゆき、ついに昭和六年九月十八日の柳条湖事件を迎えるにいたる。要するに、この事変は、参謀本部を含む陸軍の上層部すら感知し得ないままに勃発した。
 だが事変を引き起こした関東軍自身としても、満州事変が欧米列強を激しく刺激し、それによって日本が世界中からの批判を浴び、国際連盟を脱退した後、身動きが取れないほどの窮地にまで追い込まれてゆく事までは予見できていなかったに違いない。
 ともかく、満州事変を勃発させた後、石原は次なる画策に出始めた。
 満州国の独立である。
 だが、このとき陸軍としては最大の恐怖に陥っていた。満州が関東軍の武力を背景にして支那から独立するのは致し方ない。だが、それに乗じて、関東軍そのものまでもが、日本から独立されてはどうしようもない、内地に流れていたのは、そうした噂だった。
 石原は常々、『東京の奴らは頼みにならん』とか、『奴らごときに満蒙問題が解決できるか』などとなじり飛ばしていた。
 陸軍が怖れおののいたのも当然の事であったろう。
 東京ではすぐに総理の若槻礼次郎、外相の幣原喜重郎、陸相の南次郎、海軍の安保清種らが協議し、ともかく関東軍の独走だけは食い止めねばならぬという事に意見がまとまった。
 問題は誰を派遣するかということであったが、これもまた陸軍の長老である白川義則を置いては他にないと一決した。白川大将は、参謀本部作戦課の今村均大佐とともに満州へ急いだ。
 結局、関東軍は独立などしなかった。
 だが、旅順において、白川がどれほど懸命に説得しようとも、戦火は途方もなく拡大されていった。政府はすでに不拡大方針を取っている。しかし、関東軍が全軍を挙げて鯨波を挙げたため、これに天津軍が呼応し、さらには支那軍の反撃が始められるにいたって、関東軍はまた一つの陰謀を策動した。
 寡勢を持って吉林への出撃を敢行し、今にも全滅せんばかりの打電を朝鮮へ向けて発したのである。
 当時の朝鮮軍司令官は、後に首相となる林銑十郎だった。彼は悲鳴にも似た電文をじっと見つめ、やがて軍を独断越境せしめる決意を固めた。

『義において忍びず』

と、林は参謀総長宛に電報を発信した。
 彼は事変に介入するつもりなどまったくなかった。統制の取れていない陸軍の状況に歯噛みもしていた。だが、同胞が全滅の憂き目に遭っているのを見捨てて置けるような人物でもなかった。
 それを、関東軍は利用した。
 朝鮮から派遣されたのは混成第三十九旅団だった。彼らは鴨緑江を渡って対岸の安東を通過し、吉林に入って関東軍の指揮下に入った。
 こうして、満州全土に渡って繰り広げられていった満州事変は、やがて増援を受けた関東軍が万里の長城を越えて河北省への侵攻を試みた事で、抜き差しならない展開となった。そしてついに、侵攻作戦の炎は天を越えて、この上海まで飛んできたのである。

 それだけではない。
 石原莞爾は現在、満州国を成立せしめた後も参謀本部へ打電し、対ソ関係を考慮する為に、弘前第八師団、姫路第十師団、宇都宮第十四師団の増援を嘆願している。

(だが……わしが軍事参議官である限り、これ以上の戦火拡大は絶対にさせん。どうしても関東軍が大陸を攪乱しつづけるというのなら、再び奉天へ乗り込んで、今度こそ参謀どもの首を挿げ替えてくれる)

 悲壮なまでに、彼はそう決意していた。
 しかし、わずか二ヵ月半の後…………
 白川義則大将は、無念の死を迎える。




昭和七年四月二九日
上海 虹口新公園

 悲劇は、晴天の中に勃発した。
 上海の新公園において催された天長節祝賀会の席上の事である。天長節とは、言うまでもなく天皇誕生日のことだが、当日は日本居留民もこぞって祝いの席に参加していた。公園の真ん中あたりには紅白の幕を垂らした雛壇が設けられており、その上に賓客らが招かれ、式典を眺めていた。
 その時のこと。
 突然、群衆の中から、一人の男が飛び出してきて、壇上めがけて爆弾を投じた。それほど強力なものではなかったが、壇にある賓客たちを殺傷する為には充分な効果のあるものといえた。爆弾を放り投げたのは朝鮮独立党の党員で、名を尹奉吉と言う。
 何より、彼は逆上していた。『日本の軍人なら、誰でも構わない』とばかりに、会場へ踏み込んだのである。
 爆弾にさらされたのは上海派遣軍司令官の白川義則陸軍大将、第三艦隊司令長官の野村吉三郎海軍中将、第九師団長の植田謙吉中将、特命全権大使の重光葵、上海総領事の村井倉松、居留民行政委員会委員長の川端貞次などであった。
 この爆破事件によって、野村は右目を失明し、重光は左足を失った。また翌日になって川端は死んだ。白川は危篤状態となり、それから一ヶ月、ついに看病の甲斐もなく、彼は世を去った。五月二十六日のことである。
 以下は余談だが……。
 この不幸な事件よりちょうど1年後の朝、昭和天皇は白川大将の事をふと思い出した。そして入江皇太后宮大夫を呼び、詠じられた一首を代筆するように命じた。歌は、次のとおりである。

『おとめらが雛まつる日に戦をばとめしいさおを思ひ出にけり』

すぐさま、この歌は、鈴木貫太郎侍従長が使者となり、白川大将の遺族へ贈られた。
 昭和天皇は、明治という時代を生き抜いてきた武人を、殊のほか愛されていた。それはつまり、日清、日露の戦役を戦ってきた武人達の事である。かれらは、侵略思想など毛頭持ってはいなかった。また、軍部の独走など念頭にも置いてはいなかった。白川は、そうした武人達の生き残りといってよい。
 白川は明治三年、伊予松山に生まれた。松山といえば日露戦争を勝利へ導いた秋山好古、真之兄弟の出生地でもあるが、教員から兵卒になっていった過程は、ちょうど秋山好古と似ている。
 彼らの生きていた時代は、たとえ一兵卒から始めても、その努力次第によっては大将にもなる事が出来た。
 白川は、努力の人だった。
 彼は日清を大隊長、日露を師団参謀として戦い抜き、やがて陸軍大臣までになった。その時、関東軍参謀の河本大作大佐らによる張作霖爆殺事件がおきたが、白川は彼らを断罪できなかった。

『強引にでも、河本を投獄すべきだった』

彼は死ぬまで悔やみつづけた事だろう。
 もし、白川が河本以下のもの達を弾劾し、かつ、このたびもまた関東軍の参謀たちを諌めきっていれば、歴史はまったく違った方向へ向かって行ったに違いない。
 彼は頑固な軍人ではあったが、わずかに優柔不断な面も見られた。それが、彼を後悔させるものへと結び付けてしまったといえる。

 さて、上海停戦協定である。
 この協定は、白川が生死の境をさまよっている間に成立した。昭和七年五月五日のことで、以下のことが定められた。

 第一条:日中両国軍隊の上海周囲における敵対行為の停止
 第二条:中国軍は本協定により取り扱われるる地域における正常状態の回復後において、追って取り決めのあるまでその原駐地点にとどまる事。
 第三条:日本国軍は昭和七年一月二十八日の事変前の位置まで撤収
 第四条:相互撤収確認の為、参加友好国代表委員を含む共同委員会の設置
 第五条:本協定はその署名の日から実施

 ちなみに、これらの行動に関して戦本は何ら行動を起こさなかった。厭、行動を起こさなかったのではなく、彼らの言葉がいまだ信じられていない状況であったからだ。塩沢少将にしろ領事にしろ、そして白川大将といえども、いくら陛下の信任を受けて戦本が成立し行動しているからといって、いまだその能力が定かではない状況において、彼らの言葉を信じるわけにはいかなかったのである。
 これにより、戦本の行なう状況判断は説得力を増し、戦本の権能は確立された。

 そして、戦本は更に秘密裏に、陸上自衛隊第三戦闘団、現在は近衛独立装甲団として帝都に駐留している部隊に命令を発していた。彼らは十式戦車に乗車し、皇居正門前、NHK、警視庁に五月一四日夜、展開を完了した。更に、犬養毅首相、高橋是清蔵相などを確保し、各所に特殊部隊を配置した。

 五・一五事件の勃発である。
2008年02月08日(金) 23:50:51 Modified by prussia




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