第7話「」

軍神山本
第7話「」

 1937年 12月8日
 大分県大神海軍工廠 第二番船渠

 静かに祝詞が読まれ、台に据えられた竜骨に御神酒が注がれる。参列した海軍将官は、静かにその竜骨を見上げた。全長370m、全幅57mにも及ぶ鉄の竜骨は、それがどのような船になるのかを如実に示していた。

『ここにこの鉄の艨艟を、慎みて『大和』と命名す……』

 伊勢神宮から派遣された神官が、巻紙の最後の言葉を読むと共に、静かにくすだまが割られた。ここ、大神海軍工廠で建造される連合艦隊、いや、世界最大の戦艦は、『大和』と命名されることとなったのだった。
 既にロンドン第二次海軍制限交渉を、日本の空母二隻の建造を許したイギリスに対してアメリカが反発した事で流産し、そしてワシントン海軍制限条約が来年の一二月で期限切れになること。そして、先頃成立した『第二次日本改造計画』の中に含まれた『予備予算』。その金で『大和』は建造される事になったのだった。
 既に呉の海軍砲兵工廠において秘密裏に実験された五〇口径56cm主砲は日本の鉄鋼生産技術の果てしなき高まりと共にその能力を安定して発揮し、また砲身命数においても十分な耐性を持っていた。そして同日、日本において戦艦四隻が同時に建造を開始したのだった。無論、既存艦艇の改修、そして他の艦艇の生産計画も含まれている。
 これは『予備予算』だの、『機密費』、はては『皇室費』や陸軍予算から密かに捻出され、陸軍が対中国の兵器輸出で得た金で強化されるのと、軌を一にしていた。日本は、戦本の指導と共に、本格的な戦時体制へと移行しようとしていた。

 日本海軍が大神工廠の第二番船渠で建造しようとしている戦艦『大和』は同級艦艇の第一番として建造される艦である。既に設計、起工は前年度から始められている『駿河』級の建造で発生した問題などを勘案し、できるだけ『作りやすく・強く・安く』を主眼に作られている。『大和』級は十万トンを越した『駿河』級を大きく凌駕する、二十一万トン級の戦艦として起工された。これは、日本の船舶建造能力の全て、その粋を集めて建造されるものとされたからである。
 その装甲厚は最大に設定されている司令塔の部分で、およそ1400mmに達する。それは、大和自体に装備されている56cm主砲でも、余程の近距離に近づかなければ貫通できない距離だ。既にこれに連動する形で二番艦『武蔵』が建造を始められており、続く三番艦『信濃』、四番艦『尾張』も既に竜骨の建造が始められている。
 もともと大和、駿河を始めとする戦艦建造計画は、アメリカで認可された大海軍建設法、一般に言うスターク案の認可による。これはパナマ運河をギリギリ通行できる全幅33mの戦艦を建造しようとするアメリカ海軍の計画であって、『駿河』はこれを三艦同時に相手にしても耐えられるだけの能力を持つことが求められた。大量生産で来る相手には、質で戦い抜くしかない事を戦本は認めていたからだ。
 とはいえ、航空主兵を脅かすものではない(生産そのもの、と言う意味ではなく、兵力運用上のドクトリンとして、は)。
 日本における戦艦の建造は、この駿河級二隻、大和級四隻の建造を持って終了し(戦況及び諸事情によっては建造数低下をも視野に入れている)、それ以降は空母中心の航空機動艦隊の建設に力を入れることになっているからだ。また、この戦艦の建造には、ある意味での含みも存在した。日本において、戦本の指導によって航空機でも戦艦を撃沈できる事を知った海軍の航空主兵を主張する者達による、真珠湾攻撃計画が持ち上がったからだ。

 戦本は、真珠湾の攻撃には賛成であったが、問題はその方法だった。史実において、真珠湾攻撃により、アメリカが航空主兵に転換したとされている。しかし、それは主たる理由ではない。撃沈されたのは旧式戦艦が主体であり、また、それらは停泊状態にあったからだ。論理としてはタラントという前例がある。

 それでは、どうして転換したのか?

 それは、真珠湾攻撃に続く南太平洋での日米の激突において、戦艦の戦略的価値が減少の一途をたどったからだ。日本軍の快進撃は、空母機動部隊の効率的運用によるものである、つまり、『戦力の戦略的運用』を実現させ得る兵器こそが空母なのである、そのことを、日本軍は自らをしてアメリカに教えてしまった。ここに、真の問題がある。

 であるならば、アメリカにそのことを気付かせずに、航空戦力を戦略的に運用するためには何が必要か。それは、『戦艦の後ろ盾を受け、安心して行動する空母による、戦力の戦略的運用』と言う誤った定義をアメリカに押しつける事である。戦艦が加わっただけじゃないか、といわれるかもしれないが、これは意外に大きい効果を持っている。アメリカは、日本に押し付けられたこの定義を実行するためには、まず持って後ろ盾たる戦艦を建造せねばならないからだ。言うまでもなく海軍の兵器において、資源・人員を大きく消費する兵器は戦艦である。であるならば、戦艦を作らねば反抗は行なえない、とするアメリカに対し、日本は優位に立てることになる。
 つまり、張子の虎としての戦艦を欲していたのだった。

 とはいえ。

 海軍の兵器であり、戦艦であるからには、そして、何よりも張子の虎であるためには、それなりの武装と印象が必要だったのである。その要求によって大和級と駿河級は建造が開始された。強敵(敵戦艦)を多数撃破出来る能力、統一管制された対空火器群、主砲弾に対空用砲弾を採用等々。しかし、この二つの級に属する戦艦達は、意外な活躍を見せる事となる。上の定義をより強くアメリカに押しつけるために、彼らにはある行動が必要とされていた。

 大神海軍工廠で、豊後水道を根拠地とする海軍第二艦隊司令長官である藤田弘史中将は、現在連合艦隊司令長官を務めている米内光政海軍大将の訪問を受けていた。もちろん、それと取られないために会食を口実としている。

「すると、対米戦は不可避なのですな?」

 藤田は前に並べられたパンから一つ取り、それにバターを塗りながら言った。バターは東北及び北海道にて展開された酪農新法(新酪農村及びパイロットファーム事業による)で生産されたもので、小麦粉も北海道産だ。史実では外地に向かった人口の半分が第三次北海道開拓事業に参加している。現在、満州、朝鮮への入植は行われていないことになる(もっとも、過剰人口の行き先をどうするかについては、工業化による都市の吸収が考えられていた)。

「ああ、そうだ。既にアメリカ西海岸などでは、日本人移民排斥の明確な動きが出ている。それにもかかわらず、政府はそれを止めようとしない。政府が自国民を差別しようとしているのだ。時間がたてば、国民自身が何をしているのかに気付くだろうさ。しかし彼らは、その差別が問題とならない状況を作り出そうとしている。となれば、彼等が何を考えているかは即座に結論が出る」

 米内は一枚の写真を取り出した。数隻単位で船団を組んでいるらしい貨物船の写真だ。

「これは?」

「ベーリング海を航行、間宮海峡を通ってウラジオストクに入ったアメリカの輸送船の写真だ。このところ急増している。それと共に、共産軍にトラックだのを用いた奴等が出てきた」

「奴さん、やってくれますな」

「ああ、全くさ」

 米内は紅茶を口にした。

「抗議はしたのですか?」

「もちろんした。しかし、政府はこうよこしたよ。『我々は『民間』の業務内容には一切関与しない』、とな」

「そうきましたか」

「連中、蒋介石を我が国とドイツががっちりと抑えた事がよほど気にくわんらしいな。冤罪で共産主義者だと決めつけた罪もない人を何人も死刑やら重刑に処した国とは思えんよ」

 これは1920年代のサッコ・ヴァンゼッティ事件を指す。

「……長官、私に何を言いに来たのですか?」

「現在大神工廠では、四隻の戦艦が建造中だ。空母は短期間で建造できるが、戦艦はそうもいかない」

「はい」

「空母の起工は戦争開始直前になるだろう」

「……間に合いますかね?」

「まぁ、大丈夫だろう。まさか、建造に四年かかった長門の十倍にもなろうかという戦艦を、三年で建造できるとは思ってもみなかったがな……。まぁ、それは良い。君に言う事は、だ、中将。連合艦隊は司令部を呉鎮守府に移す」

「!」

「戦本の決定だ。連合艦隊の第一線級戦艦は、以後、第一艦隊として編成される。もちろん、大神工廠で建造中の戦艦が完成した場合、それらをくわえ、二線級になるだろう扶桑級と伊勢級を外す。これらは第二艦隊へ移管される」

「………」

「君がやるのだ、中将」

 藤田は口元に笑みを浮かべた。

「相手は?」

「アメリカ太平洋艦隊。それ以外に何がある?」

 藤田はコーヒーを口に運んだ。それを一息に飲み干し、言った。

「今から楽しみですな、それは」




 1937年 3月18日
 スペイン グアダラハラ

 二月の終わりから、スペイン南部のカディスから始まった王党派の攻勢は、ここ、首都マドリードの北西にある都市、グアダラハラをその焦点としようとしていた。
 コンドル軍団の爆撃は、例えその傘の下を進むのがイタリア歩兵であっても、効果的にスペイン共和政府軍を圧倒していた。しかし、ここに一つの転機が訪れる。元々共産主義政府であるスペイン共和政府を快く思っていないスペイン人は多い。であるからこそ、スペイン共和政府軍の士気は低かった。しかし、それはスペインに半ば押しかける形で来寇した国際旅団とソ連義勇軍は違っていた。
 国際旅団は、共産主義の現実が本当はどういうものであるかを知らなかった。少々誇張した(むしろ皮肉に近いが)言い方をさせて頂くならば、彼らは、そこがマルクスに予言された桃源郷だと思い込んでいた。そして、ソ連もそのような状況を巧みに彼らの前に提示した。もちろん事実は歴史が証明している。ソ連はマルクスではなく、レーニンによって作られたのだから。これを説明するには、マルクスとレーニンについて説明せねばならない。
 
 一概にマルクス・レーニン主義とされる共産主義は、実は完全な、そして誤った理解のしかたによるものである。
 マルクスが考えた共産主義は、現在我々がイメージするものとはずいぶん違う。マルクスの革命は、資本主義が爛熟し、社会に極端な貧富の差が広がった結果発生するはずだった。当然その主役は資本主義社会における貧しい多数者、プロレタリアート(労働者階級)である。よって、革命政権は多数者に支配されるものとなるはずだった。民主主義が成立するはずだったのである。
 ところが、実際に革命が発生したロシアの革命政権は、民主主義どころではなかった。レーニンが革命を起こした其処は、まともな資本主義さえ成立していなかったのである。当然、革命政権は少数者が支配するものとなった。そして、彼らは官僚化した。無論、官僚のほとんどは共産党員である。
 これは何故か、マルクスの考えた共産主義は、資本主義を前提としたものだったからだ。
 マルクスは、共産主義のような考え方を理解するためには、国民一人一人が高度な教育を受けていなければならないと考えていた。もちろん、能力ある人もない人も働いて同じ賃金、というのだから、これには余程その理念に対して理解を示した国民で無いと成立し得ない。民度が高いこと、之が共産主義(本来の意味での)の前提だった。
 しかしロシアでは違った。そこで行なわれたのは高度な知識を持ち、共産主義という理念に共感している国民などではなかった。ロシアにいたのは、中世から延々と続く農奴だった。そして、ソヴィエト成立後もそれは同じだった。

 そう、マルクスとレーニンの主義主張は全く異なったものだった。共産主義=マルクス・レーニン主義と言う理解の仕方は全く違ったものに他ならない。
 しかし、大方のものはそうした事を無視する傾向にあるようだ。共産主義=地上の楽園と勘違いし、そしてその楽園を世界中に広げようというのである。まさに迷惑以外の何物でもない。
 さて、以上な次第であるから、共産主義の現実を少し味わったスペイン人の士気が低いのも納得できるだろう。それではなぜロシア人はそうではないか、と聞かれる方もいるので一応一筆。彼らには、そうした状況を理解するだけの頭がなかったのである。差別的に聞こえるかもしれないが、これは全くの事実である。頭がないとは、つまり教育を受けていないことを意味する。もちろんレーニン的共産主義において、労働者はただ働くだけの存在であるから、必要最低限の事だけを知っていれば良い。まぁ、これもある種の楽園と言えば楽園だ。
 そんな事はともかく、これら士気の高い国際旅団とソ連義勇軍の戦闘参加によって事態は変った。グアダラハラ近郊にまで進出したイタリア歩兵部隊は、コンドル軍団がバスク地方で開始された共和政府の攻撃に対し、航空阻止を行なおうとした事によって航空機の傘を失い、そして崩壊した。グアダラハラにおいて、共和制府は最終的な敗北はのがれ得ないにしても、それなりの名声を残すはずだった。もちろん、史実において。
 しかし、史実にはない部隊がここに存在した。

「前方よりイタリア歩兵、後退してくる」

「前方、イタリア歩兵の後方二十キロにソ連機甲部隊確認」

 次々と司令部に入る報告に、第101軍第三連隊長の長勇大佐は口元を歪めた。やはりイタリアの程度は低いな。

「第一戦車大隊、前進開始。砲兵中隊は砲撃準備」

「第101戦闘機大隊より連絡。ソ連機全機撃墜」

「第101爆撃機大隊、敵後方、歩兵、砲兵部隊に爆撃開始」

長は通信員に向って聞いた。

「敵の前進は止まったか?」

「敵、今だ前進を継続中」

 馬鹿野郎。内心でソ連兵に向って罵倒を投げかけると、長は自分の九七式指揮戦車から命令を下した。

「全軍攻撃開始。敵を撃滅する!」
 
 数時間後、グアダラハラに攻勢をかけてきた国際旅団は『国籍不明』の装甲部隊と交戦、撃破された。これに続く形でこれと交戦したソ連義勇軍も突破され、グアダラハラはスペイン王党派の旗を掲げる事となる。各国ジャーナリストはこぞってこの部隊の正体を暴きたてようとしたが、結局のところ、ヒトラーの(より詳しく言うならばゲッペルス)宣伝工作により、独逸軍であろうと言う結論に落ち着いた。
 もちろん、陸軍の第101軍をこのスペイン内戦において直接指揮する事となった戦本は、ノモンハン事変前に、ソ連を刺激する事は避けたかったのである。

 これより先、スペイン内戦は日本軍などの後の枢軸諸国に貴重な実戦体験を与えつつ、一九三九年、第二次世界大戦の直前にフランシス=フランコ将軍率いる王党派の勝利によって終わりを見せる事となる。




 さて、それでは一九三七年の世界情勢の動向を見てみよう。

 五月一日、中国共産党は国民党と日本の間に亀裂を入れるべく、日本軍と国民党軍が共同で駐屯している北京効外の盧溝橋において日本軍に対しての銃撃を敢行した。いわゆる盧溝橋事件である。
 しかし日本軍(関東軍)を指揮する石原莞爾大将はこれに対し冷静に対処、中国国民党の何応鈞上将と会談を持ち、これを共産党の陰謀である事を確認した。これにより日本軍は中国共産党に攻勢に出る大義名分を得る事となり、国民党の各部隊に日本軍軍事顧問が派遣され、これを指導する事となった。もちろん、これに対しアメリカは『日本の中国侵略の第一歩』とする声明を発表。この問題に関与する事を表明した。もちろん、言いがかりである事に間違いはない(第一、中国人が侵略だと思っていない)。

 七月一七日、中華民国総統蒋介石と日本特命大使近衛文麿が会談を上海にて行なった。ここにおいて、日本軍は内蒙古方面を担当する事が決まり、内蒙古に独立歩兵第二旅団が派遣されることとなった。

 八月九日、中国共産党の大攻勢のための陽動作戦が上海にて行なわれた。コミンテルンのテロ指導を受けた共産党部隊が、上海の租界にある各国大使館を襲撃したのだった。これにより、今まで共産党を援助する姿勢を見せていたアメリカ、ルーズベルト大統領に非難が集まった。しかし、ルーズベルトはこれを日本の侵略が、中国人の心に我々まで達する悪影響を及ぼしたと声明、事態は更なる混乱を向えた。

 十月五日、これまでの事件を受け、ルーズベルトは日本、中国国民党、ドイツ・ヒトラー政権などを『世界平和を乱す元凶』と位置付け、これらを『隔離』するべきだという主旨の演説、いわゆる『隔離演説』を行った。これには現実にドイツの重圧を受けているフランス、ドイツに対して病的なまでの反感を持つイギリスのウィンストン=チャーチル上院議員に強く支持される結果となる。

 一二月十日、日本戦本諜報部により、中国共産党の大攻勢を察知した日本と中華民国は、これに対する軍事同盟『日華防共協定』を成立させた。これにより、日本は黄河以北に共産党の攻撃が行われた場合、中華民国防衛に対しての協力行動をとる事が可能になった。

 十二月三一日、この日、ついにワシントン海軍軍縮条約が失効を迎えた。これにより、各国は海軍力の拡大を開始する。日本では『駿河』、『大和』級戦艦、アメリカでは『ノース=カロライナ』『サウス=ダコタ』級戦艦が、イギリスでは『キング=ジョージ五世』級戦艦が、そしてフランス、イタリアではそれぞれ『リシュリュー』級、『ヴィットーリオ=エマヌエレ契ぁ抖蕕それぞれ起工され、海軍力の拡大が始まる事となる。




 あけて一九三八年一月、共産党は河北省を中心に大攻勢を開始した。その実勢はソ連から給与されたT−26型戦車とアメリカから給与されたトラックを使用したおよそ一〇〇万人に及ぶ大攻勢である。
 これに対し、近衛文麿日本特命大使は『共産政府を相手にせず』と演説を行ない、日本の姿勢を明らかにした。
 一月二八日、上記の『ノース=カロライナ』『サウス=ダコタ』級の建造に始まる海軍大拡張案がアメリカ議会を通過した。これにより、ニューディール政策の停滞による不況に陥りかけていたアメリカは、軍備拡張により再び景気が向上し、そしてそれに伴い、ルーズベルトの支持率は急増した。
 二月四日、漸く国家体制の整った満州国が日独防共協定、日華防共協定への参加を表明した事により、ドイツ総統ヒトラー、国民党総統蒋介石は満州国を正式に承認した。これにより、満州国の国際的地位は一応の安定を見せる事となる。
 これに伴い、それまで輸出用の粗鋼生産を行なっていた満州の各鉄鋼所では中華民国向け戦闘車両の生産を開始、満州国経済を大きく潤す事となる。

 三月十二日、ドイツ総統ヒトラーは念願の『全てのドイツ人の統合』の一つの目標であったオーストリア併合に成功する。これはオーストリア国民の大多数が賛成すると言う、世界各国にも反対の出来ない完璧なものだった。
 三月十三日、日本政府は第一次海軍整理計画を承認。これにより、非公式に行なわれてきた海軍拡張計画は、一応の承認、予算的裏打ちを受けた事となった。
 四月一日、日本において国家総動員法が議会を通過した。史実のそれとは違い、これは戦時における国家総動員を可能ならしめる法律であり、戦時以外には適用されないと言う原則が付加された。これにより、日本は戦時動員における法的定義を確立し、迅速な動員が可能となったのである。

 五月二六日、日本軍と中華民国軍により、中国共産党の河北省大攻勢は頓挫した。日本軍の投入した九七式中戦車により、彼らのT−26は各所で交戦・撃破された。この後、日本軍機動歩兵、中華民国軍歩兵による総攻撃が開始され、中国共産党はその本拠地延安をうしない、中国奥地へと放逐される事となった。

 九月十二日、ヒトラーはドイツ人多数の生活するチェコスロバキア、ズテーテンラントへの干渉を開始した。これは同地区のドイツ人が迫害を受けているとの報告が元である。真偽の程は定かではないが、ドイツ人が迫害されていたのは事実のようだ。スペイン内戦において、チェコスロバキアは共和政府に対しての援助を行なっており、また、国民も共和政府に対して同情的であった事から、共和政府放逐の原動力となったとも言えるドイツ、そしてドイツ系住民に対する反感があったとも思われる。
 これに対し二九日にあのミュンヘン会談が開催され、チェコスロバキアは分断、そして保護国化される。
 日本はこれに対して抗議行動を行なった。これにより、ドイツは『状況の終了』を持ってチェコ・スロバキアの独立を保障することとなり、一応の解決を見る。
 しかしこの抗議行動は世界には『本当の事』として伝わらず、ドイツと日本は国際的に孤立への道を歩む事となる。

そして、運命の年、一九三九年が到来するのである。
2008年02月08日(金) 23:57:26 Modified by prussia




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