第9話

軍神山本
第9話「」

1939年 8月27日

 ドイツ、ヒトラー政権はこの日、世界を震撼させる発表を行なった。そう、『独ソ不可侵条約』の締結である。奇しくもこの日、日本とソ連の間でノモンハン停戦文書が発効し、ウラジオストクと北樺太が日本側の手に渡った瞬間、この情報は世界を駆け巡った。
 この情報に日本政府が大憤慨を示したのは当然と言えるだろう。これによって、ソ連は西方の安全を確保し、その総力を持って日本への侵攻を開始するに違いないのだから。いくら日本軍が機械化の面で優れているとはいえ、数百万の軍勢を持っているだろうソ連の脅威はなお健在であり、その重圧は満州国に重くのしかかっていた。
 しかし戦本はヒトラーとスターリン。この独裁者達が手を組んだ情勢を余り重く見ていなかった。既にこの条約の締結を受け、平沼騏一郎内閣が『欧州情勢は複雑怪奇』との言葉を残して総辞職し、新たに海軍大将米内光政を首班とした米内内閣が成立した。米内内閣は海軍部の反対を押しきり、まず樺太の大陸側(つまり間宮海峡に面している部分)とウラジオストクの要塞化、日本陸軍の装備の充実を為した。これにより日本軍は全師団に九七式戦車が行き渡り、更には満州国・中華民国への大輸出を開始する事でその財布を大きく潤す事となる。
 そして運命の日が、目前に迫ってきた。




1939年 9月1日
ポーランド回廊 国際自由都市ダンツィヒ

 突然、市内に爆発が起こった。誰もが爆発の方向を見、次いで、その爆発の前に、砲声が沸きあがった方向を見詰めた。

 戦艦。

 いや、戦艦ではある。しかし、どう見ても。

 どう見ても、今のものではない。主砲を納めるべき砲塔は、ドレッドノート登場以降、3つ以上が基本となっている者からは程遠い、二つしか存在していないし、戦艦と呼ぶには大型巡洋艦と呼んだ方がしっくり来るような大きさしか、それはもっていなかった。

 そうだった。ポーランド人の懸念は正しかった。彼らを砲撃していたのは、数日前から親善を目的にダンツィヒの港に停泊していた、ドイツの練習戦艦『シュレスヴィヒ=ホルシュタイン』であった。
 シュレスヴィヒ=ホルシュタインの砲撃は港の出口にあるヴェステルプラッテに駐留するポーランド軍に対して行なわれた。ダンツィヒにある近世プロイセン王国の城郭から少し北に行った水路から、シュレスヴィヒ=ホルシュタインは砲撃を開始したのだった。
 これは、ドイツのポーランドへの開戦理由が、ドイツ第二帝國の領土であったポーランド回廊に対する領土権の主張にあったことに始まる。
 であるからには、何としてでもダンツィヒを確保する必要がある。そうでなければ、戦争の勝利の凱歌を挙げることが出来ないからだ。そこから、作戦の第二段階が始まるのだから。
 しかし、国際連盟によって『国際自由都市』とされているダンツィヒには、ドイツ軍は配備出来ない。そこが最大の問題点だった。既にヒムラーによって市内にSS部隊が編成され、戦闘能力を有する国家警察部隊を配置したが、所詮は義勇兵に警察であり、軍隊の重火力には対抗出来ない。
 そこで、折からダンツィヒで開催される第一次世界大戦時のドイツ巡洋戦艦『マルデブルグ』の追悼式典に乗じ、旧式戦艦を配置し、その艦砲射撃を持ってポーランド軍を制圧する計画が建てられた。
 そして払暁のこの時、砲撃を開始したのだった。
 未来を見る事が許されるならば、ダンツィヒ駐留のポーランド軍に待っているのは、五日後の壊滅だった。
 かつてオーストリアとドイツが組んで戦争を行ない、デンマークから奪った領土の名前を冠されたその戦艦が、ポーランドにおける惨禍を始める、ヘイムダルの持つギャラホルンとなったのであった。
 誰もが、始まりを予感した。
 そして、あるものは逃げ、あるものは銃を取った。全ての歯車は、バルト海に面したこの街から始まったのだった。

 ドイツ軍のポーランド侵攻作戦は、作戦名『白』のもとに発動され、北方軍集団(ボック)、南方軍集団(ルントシュテット)による南北からの挟撃に始まる。フォン=クルーゲの第四軍が、ブラスコヴィッツの第八軍の支援を受け、ポーランド回廊を攻撃、東プロイセンのキュヒラーの第3軍と、チェコスロバキアに展開したリストの第14軍による南北からの挟撃。
 まさに全方向からの包囲殲滅攻撃に他ならない。

 さて、これに対するポーランド軍のほうはどうだったのであろうか。

 ポーランド軍の兵力を明記するならば、歩兵師団三十九、騎兵旅団八、機甲旅団一である。この他にも多数の民兵が参加しているが、装備の面で不充分で、とてもではないが前線にはたえられない。
 その兵力は概ね西側に五個軍、東側に三個軍、そして首都ワルシャワに総予備が置かれている。これは防衛のための配置と言うよりも、むしろ攻撃―――積極的な―――を意図しているとしか思えない配置である。
 ドイツ軍の能力を考えるならば、首都ワルシャワ前面に数多く存在している要塞で防衛したほうがよさそうなものだが、そうはできない理由が、そして考え(ドクトリン)がポーランド側には存在した。
 まず、彼らの基本的な考えは、自分たちが攻められれば即座に英仏が攻撃してくれるであろうという物だった。であるならば、ドイツ軍はいずれ、西方に主力を展開させなければならなくなる。そして、ポーランドは東欧でドイツに代わる地位を得るためにも、英仏が西方で展開するであろう作戦を支援するために、大きな犠牲を払おうともドイツ本土への道を残しておく必要性があったこと。
 そしてもう一つ。彼らポーランドの主要産業地帯は、ドイツ帝国の崩壊によって得た、旧ドイツ領土に集中していた。無理もない、ロシア帝国は中世的な農奴の帝國であり、産業と言う言葉とは無縁の土地だったからだ。これを放棄し、首都ワルシャワ防衛のための要塞線―――ヴィスワ河まで撤退する事は、産業経済の中心をみすみす敵に渡す事になり、戦争継続の面で支障が出る。

 とはいえ。

 ドイツ軍の実施した電撃戦は余りにも圧倒的だった。以下、ポーランド軍、そしてポーランドと言う国家の崩壊過程を見てみよう。

9月1日:ドイツ、ポーランド開戦。ポーランド回廊にて交戦開始。
  3日:英仏ドイツへ宣戦布告。回廊部のポーランド軍壊滅。
  4日:ポーランド回廊、ドイツ軍の完全占領下に
  6日:ダンツィヒ駐留の最後のポーランド軍、全滅
  7日:ドイツ軍ワルシャワ外延部へ到達。
     ポーランド軍総司令部、ブレスト=リトフスクに待避。
  9日:ドイツ軍、モドリン以北を制圧
  13日:ブレスト=リトフスクにドイツ軍到達。交戦開始
  15日:ポーランド軍総司令部、イースト=リトルポーランドへ撤退
  17日:ブレスト=リトフスク陥落、ソ連邦参戦。
  27日:ワルシャワ陥落、ポーランド滅亡

 さて、改めてみてみると、十七日までのドイツ軍の快進撃とは対照的に、ワルシャワの陥落に十日もかかっている事がわかる。
 これはドイツ軍の攻撃に、上級司令部に見捨てられた形となっているポーランド軍が、いかに勇戦奮闘したかと言う事の証に他ならない。
 しかし歴史上において、しばしば記録に残るほどの優先奮闘する軍隊は、負けが込んでいる国家の方が多い。この例に漏れず、九月二七日のワルシャワ陥落を持ってポーランド共和国はドイツ第三帝國の軍靴に踏み躙られたのだった。

 これに対して戦本は即座に東欧諸国に駐在する大使館に向け、ユダヤ人の満州国への受け入れを開始した。既に受け入れを行なう施設に関しては、満朝国境、関東州に施設が完成しており、東欧に散在する多数のユダヤ人に対しての行動は可能となっていた。史実において杉原千畝、樋口中将に見られるユダヤ人受け入れの行動は、その規模を倍するまでに拡大して行なわれた。
 戦本は来るべき日米開戦に備え、合衆国内で大きな力を誇るユダヤ人の力を利用しようとしたのであった。

 また、これに関してドイツ側からの抗議がもたらされた(発は親衛隊長官ヒムラー)が、これに対しては戦本は既に秘密裏にラインハルト=ハイドリヒと連絡をつけ、またヒトラー自身とも馬渕が交渉を持っていたことで事態は沈静化した。ハイドリヒ自身も、ヒムラーが考えているようにユダヤ人の撲滅などを行なえば、世界各国からの批判を受けることは必死であったし、また、ゾーリンゲン産れの小男、カール=アドルフ=アイヒマンSS少佐とヒトラーの要請により、ポーランド国内、また東欧諸国のユダヤ人の財産の一部と引き換えに満州国への出国を認めるに至った。

 ワルシャワ陥落から三日後の九月三〇日、ドイツ軍が西部戦線への移動を開始したその日、戦艦『駿河』が竣工した。同日、戦艦『大和』も進水を迎えている。普通ならば、GF旗艦である『長門』から『駿河』にGF司令部が移るはずであるが、戦本からの強い要請により、戦艦『長門』から司令部は呉にある海軍の鎮守府の方へと移った。
 また、この日、海軍指令一号が各鎮守府、それに寄港している艦隊指令部へと伝達され、日本海軍は以下の様に編成される事となった。

連合艦隊司令長官:山本五十六大将:呉
直轄艦隊:伊藤整一中将:呉
第一艦隊:藤田弘史中将:呉
第二艦隊:南雲忠一中将:横須賀
第一機動艦隊:小沢治三郎中将:大湊
第二機動艦隊:山口多聞中将:佐世保
支那派遣艦隊(第三艦隊):近藤信竹大将:高雄
南方派遣艦隊(第四艦隊):鮫島具重中将:トラック
北方艦隊(第五艦隊):細萓戌子郎中将:豊原
日本海艦隊(第六艦隊):志摩清英少将:浦塩
第七艦隊:三川軍一中将:釜山
第八艦隊:大川内伝七中将:海南島
潜水艦隊:醍醐忠重中将:呉
第一海兵軍:太田実少将

海上護衛総隊:古賀峰一中将:横須賀

 日本海軍はこの命令により、以上のように編成された。第一、第二の艦隊、機動艦隊の他は、編成の言葉から見ると拠点防御用の艦隊に見えるが、これは隷下の艦艇を入れ替えるだけで即座に戦闘用へと転換する事が可能だった。また、特筆されるべきは潜水艦隊と第一海兵軍の創設であろう。潜水艦隊はドイツUボートの活躍に感化されて設立されたもので、現在は便宜的にそれまでの伊号大型潜水艦によって編成されているものの、既に造船所では通商破壊作戦に特化した『伊二〇〇』型潜水艦が建造されているから、開戦までにはそれなりの通商破壊能力を備えるはずであった。
 これに対して海兵軍は、アメリカ海兵隊に範を取ったもので、上陸作戦に特化した、上陸用艦艇、上陸支援のための航空部隊、空母を持った軍である。指揮官が少将なのは、まだその規模が小さいためと、専門家である太田少将が中将に任官するには期数が低すぎたためだった。太田少将は、この地位に任命されるまでは中佐だったのである。二階級特進という訳であるが、流石に専門家と言えども三階級を一気に特進させるわけにはいかなかった。
 第一海兵軍は太平洋に存在する各種の島嶼、そして南方において幾つかの島嶼を迅速に占領するために、陸軍から兵士を融通してもらい、これにそれまで海軍に存在した陸戦隊を基幹にして編成された軍隊で、やはり今日のアメリカ海兵隊を知っている戦本からするならば、陸・海・空に続く第四の軍隊として位置付ける事を狙っていたと見るべきだろう。
 ついに日本は編成上の戦闘態勢を確立した。あとは、各種装備の完成を待つのみ、となったのである。

 しかし、他の方面は問題が幾つか発生していた。

 まず、戦闘機の方で問題が発生していた。
 従来、日本の戦闘機は軽戦闘機・格闘戦の重視の方向で動いていた。これはいうまでもなく、それまでの戦闘機で高速を生かした戦闘など行おうものならば、機体が空中分解する恐れがあったからに他ならない。
 しかし、戦本は戦闘機――いや、航空機全体の高速化を知っていた。であるからこそ、高速による一撃離脱戦法を取れる重戦の採用をしつこく迫っていたのである。
 しかし、ここに現場の方から意見が出された。言うまでもなくその主張は空軍に無理矢理移籍させられた形となった源田実大佐から出ていたもので、戦闘機は格闘戦こそ重視するべきだというのである。
 かつて九九式陸攻の登場とともに、戦闘機無用論を唱えた男の変節に、海軍、そして空軍の内部はいきり立った。とはいえ、現場指揮官の指示を受けた源田の言葉は無視できなかった。日本軍は、戦本の指導により、現場の言葉を無視する事のない体制に移り変わっていたからだった。結果、現在実動可能な試作機、制式機を使用しての統合運用試験が開催される事となった。

 次に問題が発生したのは、アメリカとの戦争が起こった場合の統合作戦指導である。
 戦本の指導によって作戦が立案、実施される事が既に不文律となっていたにもかかわらず、山本五十六率いる連合艦隊司令部、陸軍参謀本部、そして海軍軍令部では、幾つかの私案がまかり通っていた。
 まず、山本五十六率いる連合艦隊司令部の原案は、史実通りの真珠湾奇襲作戦だった。史実において真珠湾奇襲作戦は、一九四〇年の九月から策定がはじまったことになっているが、この世界においてはこの時期から基本的な研究が開始されていた。
 もちろんその中心となったのは先任参謀の黒島亀人、第一機動艦隊の小沢治三郎、空軍の太平洋航空軍司令の大西瀧次郎中将などで、彼らはまず、太平洋に存在するアメリカ海軍、航空兵力の無力化こそが戦争遂行の第一原則とする方向で動いていた。
 次に海軍軍令部の方は、戦本によって一度は廃案となった漸減邀撃作戦の復活を狙っていたものだった。心情的には理解できる。彼らはそれだけを研究して青春を過してきたのだから。
 とはいえ、それが無理な作戦である事は疑いがなかった。
 日本軍のアメリカに対する作戦の根本的意図は、防御にある。防御とは言っても二種類あり、これには攻勢防御と防勢防御が存在する。つまり、攻撃を持って防御に代える、または防御のみに固執する、という方法である。
 しかし戦本は、アメリカと言う国家がロシアと同じ様に、それらの一辺倒によって排除できるような国家とはみなしていなかった。それらを取り混ぜた、千変万化の戦法によってしか、敵を倒す事はできないと考えていた。
 さて、最後に陸軍の方である、こちらの方は何とも無責任な作戦であった。理由は言うまでもないが、一応の説明を付け加えておく。参謀本部総長として石原莞爾が、陸軍大臣として永田鉄山が、そして戦本陸軍部司令として岡村寧次が着任した現在、既に日本陸軍が史実で見せたような暴走を見せる恐れはない。とはいえ、参謀本部と言う作戦立案のためだけに存在する組織につきものの、無責任さと無定見さだけは付きまとった。
 陸軍参謀本部の案とは、海上に関しては海軍の方に一任し、ひたすらインドを目指す、という作戦だった。
 論外だった。太平洋の早期占領、維持に陸軍部隊が必要とされる現在、陸軍独自による無定見な戦力の消費は何としても避けたいところが戦本の指導案にある。
 さて、以上を受け、戦本はこれらの案を叩き潰す戦略計画の立案を始めなくてはならなかった。それは、まさに戦本の能力、その限界に挑戦したもの、といっても過言ではないだろう。
 戦本は直ちに統合戦争計画『星号』を策定にかかった。その焦点は、必然的に日本を維持・拡大するために必要な資源の確保と、アメリカとの衝突に備えたものとなる。
 ここで統合戦争計画『星号』を紹介する事にしよう。

 日本軍の策定した統合戦争計画『星号』は、太平洋方面作戦域と、南方方面作戦域の二つに大別される。言うまでもなく、太平洋方面は海軍、南方方面は陸軍がその主力となる。空軍はその後ろにつき、それらを支援すると言う形になる。
 太平洋方面作戦域は戦本の海軍部が実行指揮にあたる。まず、最初に策定された作戦はアメリカ太平洋艦隊への攻撃計画である。この攻撃計画に関しては、今だ秘密の部分が多いため公開はされていない。しかし、早期に太平洋艦隊を無力化、またはそれに類する大損害を与える事はその至上命題であった。
 この第一段作戦は『星一号』及び『星二号』作戦とよばれ、参加艦艇の訓練計画が立案、来年度から開始されることになっている。
 第二段作戦は『星三号』作戦と呼ばれるもので、目標はニューギニア方面への敵兵力の誘引である。日本が果てしなく戦域を拡大していると言う印象を敵に与え、ここで敵の戦力を磨り潰す事が作戦目的となる。その焦点はニューギニア最大の港湾を保有する、ポートモレスビー。ここを確保するために、早期にウェワク、ラエ、ラバウルの占領と基地化を為さなければならない。この理由から、海兵隊に設営連隊というブルドーザー、パワーショベルを装備した基地化部隊が設立された。
 第三段作戦は、『星の屑』作戦と呼ばれる豪州包囲作戦である。中部太平洋を横撃できる位置にある豪州を中立、または無力化することにより、南太平洋を確保すると言う作戦である。
 この第三段作戦が成功した時、まだ豪州が中立を行なわない場合、東南アジア方面からの豪州上陸作戦が執り行われる予定になっていた。目標はポートダーウィン。
 以上が戦本海軍部の策定した作戦計画である。

 次に、南方方面作戦域を見てみよう。南方方面作戦域の第一段作戦は、来るべきフランス崩壊とともに行なわれる。つまり、戦争準備段階からの行動となる。
 第一段作戦『龍』号作戦は、フランス領インドシナの早期確保である。既に日本はドイツに多大な援助を行なっており、フランス第四共和国の崩壊を持って、インドシナの日本への譲渡計画を確約させた。これは陸軍所属の南方総軍によって行なわれる。インドシナにおける民族自立の援助を目的としており、対ゲリラ戦部隊が多く配備され、また、ベトナム、ラオス、カンボジアの王室とも連携を取り、共産主義排除の方向で動く事を目的としている。このため、既に幾つかの特務機関がタイのバンコクを拠点に活動し、現地で共産主義を信奉する者達の位置を確認し、これらの身柄を早期確保する事を目的として動いていた。
 第二段作戦は開戦後、早期のマレー半島の確保、インドネシア、フィリピンの確保である。これには海軍の護衛を受けた陸軍本土総軍が担当する。本土総軍は開戦劈頭、ルソン島の北部に上陸し、第二艦隊の支援を受けてマニラへ向けて進撃を開始する。目標は陸軍大将・フィリピン総督のダグラス=マッカーサーの捕縛である。
 ルソン島攻略作戦、マレー占領作戦の終了と共に、それらの部隊はインドネシア戦線へと投入され、南方資源地帯の早期確保を完了する。これが終了したならば、本土総軍はニューギニア戦線へ、南方総軍はビルマ戦線へと投入され、戦本直属の軍政統括のための部隊がこれらの地域に派遣され、民族自決の準備と、投入されるであろうアメリカ軍の潜水艦、それらに対するハンター=キラーを行なう予定だ。
 ビルマ戦線は不用意に密林が生い茂る北部への攻撃を行わず、ビルマ南部、ラングーン近辺を占領した時点で攻撃を終了する。来るべきインド戦線への攻撃をそこで待つ事が目的となるのだ(とは言っても、実際戦本ではインドへの攻撃は考えていなかった)。
 第三段作戦は、セイロン島の占領を目的としている。セイロン島を占領し、既にこの時点でペナンに展開しているであろう潜水艦隊の基地をセイロンへと移し、本格的なインド洋における通商破壊作戦を行うことが目的だ。これに対抗するべきなのは南方戦域から脱出した各国の海軍部隊と、インド洋を本拠地とするイギリス東洋艦隊だ、とされている。
 しかしこれらの海軍部隊は脅威となるには程遠いと思われている。
 何故ならば、欧州におけるドイツ海軍は既に日本の援助によってH級戦艦がすでに進水を迎えているし、また、空母『グラーフ=ツェッペリン』、『エーリヒ=レーヴェンハルト』が起工されているからだ。これらのドイツ海軍、また、地中海において存在感だけはあるイタリア海軍がある以上、東洋艦隊からも引きぬきが行なわれる事は明確だったからだ。
 セイロン島の確保が終了した時点で、この方面における作戦は終了となる。あとはセイロンからインドに存在する反英勢力を援助し、内部混乱を起こすだけで良いからだ。
 陸軍や海軍の一部には、欧州にも軍を派遣するべきだ、との声があったが、さすがに戦本や海軍、陸軍と言えども、果てしなく拡大する戦線を何処かで縮小しなければならないことは熟知していた。

 以上のように作戦計画の基本方針が策定され、後に開戦直前、統合戦争計画第一段作戦『星号』として修正される計画の草案が産声をあげた日、追浜の海軍練習飛行場では時代の戦闘機、その設計ドクトリンをめぐる一大喧嘩、『航空機実用試験』が行なわれようとしていた。
2008年02月09日(土) 00:03:08 Modified by prussia




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