紺碧の艦隊プライベートエディッション パナマ奇襲1



 その日は冬の欧州らしくどんよりとした曇空だった。
 欧州の冬にはあまりにも暗い天気が続くので精神病にかかるものもいるという話だったが、確かに毎日こんな天気が続くとしたら嫌になるだろうと醍醐忠重中将は思った。
 生まれ育った東京の冬空を思いうかべてふと、自分がいつになく感傷的になっていることに気付く。自分はそんなにセンチメンタルな人間ではないと思っていたので、醍醐にはそれが大変な驚きだった。
 冬の東京の空は、塵1つおちていないように思えるほど清く深い。その色を思い出し、醍醐は郷愁に襲われていたのだった。
 日本を経って5ヶ月が経とうとしていた。
 イ400号潜水艦艦隊、通称「紺碧艦隊」は今地球を半周する航海を終えて北フランスのブレストにいた。
 ブレストは1940年の西方電撃戦とフランス降伏の結果、ドイツ軍の占領下に置かれるところになりUボートの有力な根拠地となっている。
 醍醐は気付いていなかったが、今日はいつもよりも多くのドイツ“海軍航空隊”のMe109が上空を旋回し、英本土からの爆撃に対する警戒にあたっていた。高射砲部隊も臨戦態勢で空を睨んでいる。
 そうした特別な警戒のもとで粛々とドイツ海軍の威信をかけた歓迎式典は始まった。
 最初にこの日のために練習に練習を重ねてきた軍楽隊がドイツ海軍の「吾が海軍」を完璧に吹奏し、続けて帝国海軍の「軍艦マーチ」が流れた。
 軍艦マーチが終ると続けてドイツ海軍のサービスにより、「海ゆかば」が吹奏され、軍艦旗を掲揚すると同時に「君が代」が流れた。
 フランスのどんよりとした空に日の丸を戴いた軍艦旗がはためく。
 それを見て式典に参加した乗員の1人が感極まって泣き出した。
 それも当然といえた。彼らは夜の横須賀を誰にも知られることなく寂しく出港し、完全な孤立状態でマーシャル諸島を経由して、マゼラン海峡を通過して中南米を北上し、パナマ奇襲を成し遂げた。さらに英米海軍の執拗な追撃を逃れて、大西洋を横断して今日ここにブレストに行き着いたのだ。
 航海した距離は既にマゼランのそれを超えていた。マゼランが英米艦隊の追撃を受けていないことを考えれば、それ以上の困難な大航海だった。マゼランは深深度潜行で圧壊の恐怖に襲われることはなかったし、爆雷の爆圧が齎す恐怖も知らない。
 日本人として、彼らほど遠く、しかも困難な航海をしたものは歴史上存在しないかもしれなかった。それほどの大航海だったのだ。
 泣声はいつしか唱和となり、誰もが滝のような涙を流していた。
 先任下士官は式典をぶち壊しにするそれをナントカして止めようとしたが、艦隊司令の醍醐が男泣きに泣いているのを見て自分も泣くことにした。
 彼らは式典が終るまで泣き続けた。彼らにはまだ北フランスから大西洋を縦断して希望岬を回り、インド洋を横断して日本まで帰るという大航海が残されていたが、この瞬間だけはそれを忘れていることができた。
 




 パナマ運河破壊なくして対米戦は成り立たない。
 それが山本と『勉強会』のメンバーの下した結論だった。少なくとも1941年12月8日から最低1年間はパナマ運河が使用不能にならなければ大日本帝国の敗戦は確実だった。
 パナマ運河はアメリカという巨人のアキレス腱だった。
 この時代の主要な工業地帯は東海岸及び五大湖周辺に集中している。西海岸が東海岸や五大湖周辺の工業生産に匹敵するようになるには電子産業(シリコンバレー)の成長をまたなければならない。五大湖周辺で生産されるあらゆる兵器はパナマ運河を通過して西海岸を経て太平洋戦線で使用される。
 ならば、その元栓であるパナマ運河を破壊することができれば対日戦に必要な物資を東海岸から運ぶことができなくなる。もちろん大陸横断鉄道があるのでパナマ運河が破壊されたところで即座に物資の流れが止るわけではない。しかし、輸送効率からいって大陸横断鉄道やトラック輸送で全てを賄うことは不可能だろう。大型艦艇は特にそうだった。
 結果として、船舶輸送を行なうならマゼラン海峡を通過するしかなくなり、その間に発生する様々な妨害(日独の潜水艦艦隊)による損失を考えればとても割にあうものではない。また、輸送手段そのものが膨大な資源を食いつぶす。結果として前線で使える物資の量は少なくなる。
 40年代の西海岸の生産力は決して高いものではない。石油以外の目ぼしい資源もなく、主要な工業地帯もない。西海岸の産業の主力が農業だ。日本人移民が従事したのも農業であり、工場労働ではなかった。綿花栽培や穀物生産に必要な人手が日本人移民の受け皿になっていたが、これは農業の機械化によって消滅する。農業が経済の主力ということはは西海岸との経済的な結びつきが破壊された場合、経済活動の停滞を意味している。生活に必要な物資の生産を東海岸に依存しているからだ。
 逆に東海岸ではカルフォルニア油田が使えなくなる。カルフォルニア油田がなくてもアメリカにはテキサス油田があるので即座に致命傷にはならないが、アメリカ経済全体にとっては大きな混乱を意味している。
 東海岸と西海岸を結ぶ大動脈を破壊できれば、アメリカの戦時経済は大打撃を受けるだろう。その膨大な生産力の発揮をかなりの期間にわたって先送りにすることができる。
 その間に日本は占領した東南アジアの植民地経営を行い、本格的な反攻が始まるまでに防備を調えるのである。
 そうした戦略的必要性からイ400号潜水艦は建造された。
 そして1941年12月8日。イ400号はカリブ海に潜行していた。
「電探室より司令塔へ。対空、対水上電探に感なし」
 海面に突き出した電探のアンテナをぐるりと一周させてイ400号は電子の目で周囲を捜索した。
 続いて潜望鏡が海面に姿を現し、全周を警戒する。
 夜明け前の暗い空だった。360度全て海だ。夜空には星が瞬いている。それ以外には何の明かりもない。仮にそこに何かが潜んでいたとしても、肉眼で見つけるのは不可能に思えた。
 無駄とは知りつつも周囲の警戒を終えたイ400号潜水艦艦長、賀唐昭二少佐は発令所に立つ醍醐に向けて報告した。
「対空、対水上異常なし」
 潜望鏡を下りる。
 代わって醍醐は組んだ腕を解き、顔をあげた。
「諸君、始めようか・・・・全艦浮上せよ。攻撃隊は発進準備にかかれ。準備完了次第発進せよ」
 艦隊司令の命令を受けた倉本はイ400号を浮上させた。
 醍醐の命令は他の艦にも音波探信儀をモールス信号代わりにして伝えられている。
 メインタンクに圧搾空気が充填され、タンクを満たしていた海水が追い出される。浮力を得たイ400号、イ401号、イ402号、イ403号、イ405号はコロンビア共和国カルタヘナ沖にその姿を現した。
 艦橋に上った醍醐はむっとした熱気に顔をしかめた。
 熱帯の海の風がねっとりと肌に絡みつく。しかし、新鮮な空気を吸えるのはありがたいことだった。
 真っ暗闇の中で晴嵐の発進作業は続いている。同時に補気充電が行なわれ、艦隊の各艦は潜行のための準備にも余念がない。艦内にも送風機で新鮮な空気が送られる。AIP機関搭載型潜水艦のイ400号は1週間浮上せずに潜行を続けることが可能だが、いつかは換気をしなければならなかった。
 浮上前から既に晴嵐にはパイロットが乗り込んで発進準備を終えている。艦から電熱機で暖めた潤滑油と冷却水が供給されるので暖機運転は無用だった。
 こうした装備は水偵搭載型のイ号潜水艦や多数の艦載機を同時に発艦させなければならない空母にも搭載されている。
 攻撃隊の指揮官は相良宗助大尉だった。一応、艦隊の航空参謀も兼ねている。
 醍醐は艦隊と飛行隊の指揮を任されたときにその人選に細心の注意を払った。特に飛行隊の搭乗員は全員面接して選抜したので全員の顔と名前を覚えている。たった15名しかないのだから覚えているのが当然ともいえたが。
 相良大尉は些か融通の利かないところがあるが、与えられた仕事は決して手抜きしない優秀なパイロットだった。特にその冷静さには舌を巻くほどだ。飛行時間は長く、その判断には信頼がおける。
 相良は元水上偵察機のパイロットだったから航法も得意だった。故に“単座”の晴嵐でも無事に晴嵐奇襲攻撃隊をパナマまで連れて行けると思われた。
 イ400号潜水艦には各3機ずつ特殊攻撃機晴嵐が搭載されていた。合計15機の攻撃隊だ。それぞれが航空魚雷、250kg爆弾2発を抱えている。搭乗員の全てがベテランである。攻撃力は極めて高い。
 史実のそれと違ってイ400号に搭載されている特攻(特殊攻撃の役)晴嵐は水上攻撃機ではなく、完全な使い捨て式だった。フロートはないので着水はできない。
 また、特攻晴嵐は新規製造ではなく既存機体を改造したものを使用していた。攻撃はただ一度きりなので新規生産する意味もあまりない。小数の使い捨て専用機なら既存機を改造した方がコスト面で有利だった。
 暗闇の中で組み立てられていく機体は水冷エンジン機特有の尖った機首に小さな逆ガル翼を組み合わせたスマートなスタイルの戦闘機だった。
 いかにも高速機らしいそのスタイルは既存のあらゆる日本機と似ても似つかない。それはそのはずで、それは日本製ではなくドイツ製だった。
 最初の特攻晴嵐が火薬カタパルトの力で飛び立つ。
 醍醐は飛び立つ特攻晴嵐を帽振れで見送る。
 緩く上昇していくその姿は最高速度世界記録機として名高いHe100そのものだった。
 He100は開発国であるドイツではMe109との競合に敗れて制式採用されなかったものの、デモンストレーターとしてドイツ空軍のプロパガンダとしてニュース映画に度々登場しており知名度はMe109よりも高い場合があった。
 また、ドイツの先進的な科学技術の誇示するために航空機の世界速度記録にも挑戦しており、時速747kmを達成して最高記録を塗り替えたタイトルホルダーでもあった。結局、その直後にMe209V1によってその記録は更新されるわけだが、それでも素晴らしい速度性能を誇る名機である。
 しかし、反ナチスのハインケル社に対する風当たりは強く、空軍省に取り入ったメッサーシュミット社の政治力、空軍省の硬直的なメーカーの住み分け政策によって制式採用されることなく輸出専用機としてのみ命脈を保っていた。
 もっとも、そうした政治的な理由だけではなくHe100にはさまざまな欠陥があることも確かだった。例えば速度性能の追及のために有害抵抗の発生源であるラジエターを廃止し、表面蒸気冷却式という特異な冷却方式を採用していた。
 これは主翼に網目状の冷却用配管を施し、高熱で蒸気化した加圧水を機体表面の機体外板で冷やして再利用するという凝った冷却方式で、ドイツ空軍もレーサー機用の特殊な冷却方式として兵器として実用性の低さからHe100の採用を見送った難物だった。
 ハインケル社は冷却方式を通常のラジエター式に変更したD型を開発して空軍にアピールしたがそのころにはMe109の性能向上の目処がついていたためにまたしても採用を逃している。
 結果として、He100は研究用として日本に輸出され、海軍航空隊空技廠がその性能にほれ込んで研究用として20機程度を各種の研究に利用していた。時速700km以上の高速が発揮できる実機が手元にあることは高速軍用機の必要な様々な基礎データを計測するうえで大きな意味がある。
 そうして得られた様々なデータは空技廠でまとめられて民間各社の新型機開発に多大な貢献をしていたが、必要なデータを採取したあとのHe100も倉庫の片隅で埃を被るままになった。
 潜水艦から発進して要地を奇襲する使い捨て攻撃機の開発を依頼された空技廠が既存機からの改造という制約の中でHe100の存在を思い出すのにさほど時間はかからない。
 晴嵐はHe100を徹底的に改造して造られた特殊高速攻撃機だった。
 主翼はイ400号の狭い格納筒の中に収容できるようにヒンジ式で途中からZ字型に3分割折り畳みが可能なように改造され、慣れた者なら30秒以内に主翼を展開できるようになっていた。尾翼と補助翼は根元から折り畳めるように改造されている。
 発艦には火薬式カタパルトが予定されていたが、途中からRATOの使用が可能になり、カタパルトは単純なレールに変更されている。
 胴体のフレームに鋼管を溶接することで機体強度を無理矢理補強し、航空魚雷1発の搭載が可能になっている。250kg爆弾なら主翼下に2発搭載が可能だった。発艦に使用するRATOは胴体下面に4基装備され、離着陸速度の早いHe100でも短距離で発艦できるように考慮されていた。
 RATO4基を同時点火させた場合、理論上はその推力は晴嵐の自重と等しいことになり、非武装ならば晴嵐を垂直離陸させることさえ可能だった。
 完全武装状態でも晴嵐は時速630kmを超える高速速力を発揮する。重要拠点の近海に浮上したイ400号から発艦し、レーダーの探知を避けるために低空を高速接近して奇襲攻撃をかける。事後は機体を捨ててパイロットだけを回収する、というのが晴嵐の基本的な運用だった。
 そのために機体は捕獲されることを前提として、射爆照準器などは既存のものか、或いは簡単なアイアンサイトに変更されていた。猛特訓を重ねたパイロットはそれさえ外してしまっている。無線機も重量軽減のために搭載していないので一度発進したら相互の連絡をつけることは不可能だった。
 これは片道攻撃であるが、攻撃目標の戦略的重要性を考えれば反復攻撃など絶対的といえるほど不可能に近い。ならば、機体を使い捨てにして短時間でも高性能を発揮できるようにして、一撃必殺を狙うのが利に適っていた。
 どのみち、アメリカ合衆国はこの種の攻撃がそう何度も通用する相手ではない。
 晴嵐がパナマを狙う機会があるとするならば、それは1941年12月8日以外にはありえなかった。
 奇襲攻撃隊の全機が発艦するのに必要な時間は15分足らずだった。
 星以外に何の灯火もない夜の海の上で、RATOに点火して発艦していく晴嵐は海から夜空に向かって落ちていく流星に似ていた。
 真っ暗闇の中でRATOから青白い炎を引いて発艦し、緩やかに上昇していくさまは幻想的でさえあったが、紺碧艦隊にとって最も危険な瞬間といえた。
 艦隊は沿岸にかなり接近しており、沿岸で操業する漁船に発見されていてもおかしくなかった。単座の特攻晴嵐が確実にパナマ運河までたどり着くには沿岸伝い飛行するより他なかったからである。
 もちろん、そうした場合は目視やレーダーによる探知を受けやすいという可能性がある。そうした危険性と航法ミスを天秤にかけた結果が航法ミスに傾いていた。航法に専念できない単座機では夜間を含む長距離飛行は危険すぎた。
 全ての晴嵐を発艦させた艦隊は急速潜行し、可能な限りの全速力で離脱することになっていた。
 艦の補気充電も既に終っている。この場に留まる理由な何もなかった。
 醍醐は最後に晴嵐の飛び立った空を見上げた。晴嵐の姿はすでに闇に紛れていた。ただエンジンの低い爆音だけが星の海から響くだけだった。
2007年07月11日(水) 07:08:03 Modified by ID:+MlOOvkmvg




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