紺碧の艦隊プライベートエデッション 運命の開戦4

2年前の、とある雪のちらつく寒い日のことだった。
「失礼ですが、醍醐大佐ですか?」
 醍醐忠重大佐は声のした方に振り返った。
 そこに見覚えもない男が立っていた。階級章から中尉であることが分かる。しかし、面識はなかった。しかもいつからそこにいたのか、まるで気がつかなかった。
 醍醐はその日、侍従武官として天皇に支那方面の戦況を奏上するための準備に軍令部を訪れていた。軍令部に渡した奏上の文面の草案に一部からクレームがついたからだ。その修正と調整を図る打ち合わせが今まで続いていた。
 それがやっと片付いて、肩の凝りをほぐしていたところで呼びかけられた格好だった。
「そうだが、何の用だ?」
 僅かに苛立ちをこめて醍醐は言った。打ち合わせが予定よりも長引き、醍醐は疲労を覚えていたからだ。もちろん醍醐の仕事はまだ終っていない。今日は定時には帰れそうにない。
 醍醐忠重大佐はその名の雅な響きから推察されるように五摂家に縁のある名門貴族の出身だった。
 といっても、名門と呼べるだけの経済力があったのは先代までであり、その先代も相続問題で甥に殺害され、スキャンダルになってしまったことから醍醐家は没落して久しい。
 醍醐はさしてたる意味もない家柄ではなく、自らの才覚と努力でのし上がって来た生え抜きの海軍軍人の1人だった。本来なら海軍大学校を出た者でなければなれないはずの侍従武官を務めるほどだから、その才能は非凡といえた。
 それにも関らずそのキャリアの大半をあまり人気のない潜水艦畑で過ごしてきたというのだから、大艦巨砲主義や水雷襲撃原理主義が幅を利かせる帝国海軍においてはある種の異教徒といえるかもしれない。
「大佐にお会いしたいと申される方がいらっしゃいまして、申し訳ありませんがご足労をお願いできませんでしょうか?」
 慇懃無礼を絵にかいたように軽く頭を下げた中尉は言った。
「誰が私を呼んでいるのか?」
「それは、会っていただければ直にわかります」
 醍醐は軽く頷いた。
 軍隊において丁寧な言葉遣いはしばしば命令を意味するからだ。
 軍人というよりは事務員のような中尉に連れられて歩く内に、醍醐は軍令部の奥底の今まで立ち入ったこともないような場所に来ていることに気がついた。
 階段を下りたことから地下室であることは分かる。しかし、部屋の外に実弾を装填したライフルを持った衛兵が立っていることは理解の苦しむ話だった。
 一体誰がこの先で自分を待つのか?
 その答えは扉の向こうにあるはずだった。案内の中尉が心の準備もできないうちにドアを開ける。
 そこにいたのは、
「やあ、突然呼び出してすまなかったな」
 稲妻に撃たれたように醍醐は硬直し、即座に敬礼を返した。
 聯合艦隊司令長官山本五十六は何気ない調子で醍醐に椅子を勧めた。
 この時確か山本から椅子のついでにコーヒーを勧められたはずなのだが、醍醐はそのコーヒーの味をまるで覚えていなかった。
 興奮のあまりコーヒーに一度も口をつけていないことを思い出すのは、随分後になってからのことだ。
「実は君に頼みたいことがあるんだ」
 山本は醍醐の緊張が適当にほぐれるように世間話をした後、そう切り出した。
「新型の潜水艦に乗って、とある場所に行ってもらいたい」
「とある、場所ですか?」
「そうだ。とある場所だ」
 醍醐は新型潜水艦のことが気になったが、それよりも自分が行かされる場所の方が気になった。山本の口調はくだけたものだったが、目は真剣だった。その行き先がとてつもない場所であることは間違いないように思えた。
「行き先はドイツですか?」
 ドイツがポーランドに侵入し、英仏が宣戦布告したことで既に第2次世界大戦は始まっていた。開戦と同時に英仏がドイツを海上封鎖していたので、日本とドイツの海上連絡線は既に途絶している。
 今のところドイツとソ連が不可侵条約を結んでいるおかげで、シベリア鉄道経由で人と物の行き来は辛うじてできているが、日ソの外交関係は良好とはいえず、常にシベリア鉄道の利用には躊躇いが付きまとう。ソ連の秘密警察が何をするか分からないからだ。
 そこで英仏の海上封鎖を突破できる可能性がある潜水艦がクローズアップされる。水上艦は不可能だが、隠密性の高い潜水艦なら何とかなる可能性はある。
 そうした話が潜水艦部隊の第6艦隊を中心に噂話となっているのを同期から聞いていたので、醍醐は真っ先にその可能性が思い浮かんだ。
「いや、それもある」
 しかし、山元は軽く首を振ってそれを半分だけ否定した。
 醍醐は軽く混乱した。
 それもある、ということはどういうことなのか咄嗟に分からなかったからだ。
 それも、という言葉を額面どうりにうけとればそれはドイツ行きを否定する言葉ではなかった。ドイツにも行く、しかし、何か他に別に行かなければならない場所があることを山本は暗示している。しかも、それもという口ぶりからしてドイツ行きは山本にとってそれほど重要なことはないことが読み取れる。
 醍醐には地球を半周してドイツに行くことよりも、さらに重要な何かが潜水艦でいける場所に存在するとはどうしても思えなかった。
 山本は醍醐の表情を読み取り軽く微笑んだ。
 2人の間に置かれたテーブルの上に一枚の世界地図がある。山本は事件の真相を語る探偵のようなしぐさでその一点に指を落とした。
 それはマーシャル諸島のクェゼリン環礁だった。そこからさらに南東へ山本の指は伸びていった。赤道を越えて南半球に、米海軍の哨戒線を抜けるように南下を続ける。やがてマゼラン海峡を通って南大西洋へたどり着いた。
 醍醐は信じられないものを見る目つきで山本の指の先を追う。
 山本の指先は南アメリカ大陸を沿って再び赤道を越えて北半球にいたり、そこから大きく西に舵を切った。カリブ海だった。
 山本の指先は地図上のある一点を指して止った。醍醐は目を見開く。
 そこにはこう記されていた。
 パナマ運河
 




 2年後の、とある雪のちらつく寒い日のことだった。
 アメリカ合衆国国務省が野村吉三郎全権大使の訪問を受けたのは午前1時という遅い時刻だった。
 そんな時間に国務長官コーデル・ハルが国務省の彼のオフィスにいたのは彼が特別に職務熱心であるというわけではなく、その日が特別な一日になることを知っていたからだ。
 米国は日本の外務省暗号を既に解読しており、ワシントンの日本大使館に伝送された文書が最後通牒、事実上の宣戦布告文書であることを掴んでいた。
 当然ながら、ハルはその内容を既に把握していた。しかし、それが現実に突きつけられることは恐怖でしかなかった。
 野村も同様の理由とそれ以外のある理由によって恐怖していた。
 応接室にかけられた時計を苛立たしげに睨みあげる。
 時計に何の罪もないことは知っているが、どうしてもそうなる。その視線には時計に命があれば即死しかねないほどの殺気が篭っていた。
 東京の外務省から送られてきた暗号文を翻訳したところ、それが最後通牒であることが判明したのはほんの数時間前の話だった。しかもそれを現地時間の午前1時に手交せよというオマケ付きだった。
 ワシントンの日本大使館はパニックに陥った。14分割されて送信された最後通牒の半分も清書できていない有様だったからだ。
 これは完全に大使館の怠慢だった。彼らは日米間の緊張の高まりに対してあまりにも楽観的な見通しを抱いており、その日も平時となんら変わりない勤務体制をとっていた。史実においては、文書作成担当の書記官が同僚の送別会に出席し不在だったほどだ。
 しかし、それもある意味無理のない話と言えた。世界最大の国力を誇るアメリカ合衆国を相手に、その10分の1、計算方法によっては30分の1の国力しか持たない大日本帝国が戦争を仕掛けるなどありえないと考えていたからだ。アメリカに滞在経験の長い彼らは日米の国力差を誰よりも痛感しているからなおさらだった。
 例え、ハルノートによって日米交渉が暗礁に乗り上げていたとしても、どこか妥協が成立するだろう。そんな見方が大半だったから、大使館は全く緊張間に欠けていた。
 また、外務省も最後通牒という重要文書の送信と手交について思慮が足りなかった。
 電送技術の限界から最後通牒を分割して送信するのは技術上の制約で止む得ないとして、最も重要な14部(宣戦布告について書かれていた)を最後に送信するのは首を傾げるところがある。残りの13部がなくても14部だけあれば宣戦布告の形を整えるには十分間に合う。しかも、その14部の後に手交時間を指定する電文を送っていた。大使館の不手際があったとはいえ、それはあまりにもタイトなタイムスケジュールと言えた。大使館が手交時間を把握したのは指定時間のほんの数時間前だったのだ。
 外務省は、駐米大使館が東京の外務省のように戦争前夜の緊張感を以ってことに当たっていると考えていたので、そのようなタイトなタイムスケジュールでも対応可能だと考えていたのかもしれない。しかし、ワシントンの大使館はそうではなかった。
 東京で軍部と直接向き合って宣戦布告までのタイムスケジュールを組んだ外務省とワシントンで安穏としていた大使館の意識の差は致命的なまでに大きく広がっていた。外務省はそれに気付かず、大使館はそれを自己修正できず、幾つかの怠慢と偶然が積み重なって史実では宣戦布告が攻撃開始後になるという失態を演じることになったのである。
 もちろん山本はそれを把握しているし、しかるべき手も打ってある。
 もっとも仮に宣戦布告が予定時刻どおりに行なわれたところでどれほどの意味があるのかは疑問だった。
 9・11事件とその後のアメリカの対応を遥か未来から逆行してきた『大蔵大臣』から聞いていた山本は宣戦布告文書の手交の遅れは程度の問題に過ぎないと考えていた。アメリカの国内世論は本土を攻撃されたことで沸騰するだろうし、ルーズベルト大統領もそれを煽れるだけ煽るだろう。
 同胞の死を悼み、報復を叫ぶ大統領の支持率は上がることはあっても下がることはない。特に開戦初期はそうだ。大統領の支持率が下がるとしたらそれは泥沼の長期戦になったときだけだろう。
 しかし、何もせずに奇襲攻撃の汚名を着るのはできれば避けたいものだった。
 山本の密名を帯びた大使館付きの海軍武官が軍刀を振り上げ、同僚の送別会に出かけようとする職員を一歩も外に出させなかったのはそういう理由があった。
 しかし、それでも宣戦布告は予定時刻に間に合いそうになかった。
 文書作成を担当する奥村一等書記官が同僚の送別会に出ずに翻訳と清書に専念していても不可能だった。分割されて送信されてくる文書の結合、翻訳作業だけで十分に難事業だったからだ。しかも、外務省は機密漏洩防止のためにタイピストを使うことを禁止していた。文書を清書するタイピストは現地雇用の日系人だったが、タイピストに文書の清書を任せきりにしていたことが仇になって文書のタイピングは遅々として進まなかった。 
 全ての文書の暗号解読が終了したころには、文書の清書していては何をどう考えても予定時刻に間に合わないことが明らかになっていた。
 どうしてこんな重要文書をこんなややこしい方法で送ってくるんだ!
 野村は撃発しそうになるのを抑えて必死に考えた。しかし、どう考えても本国が指定していた時間には間に合いそうにない。
 諦めかけたところで大使館付きの武官が呟くように言った。
「それなら、手書きで渡せばよかろう」
 大使館職員は頭を抱えた。この素人め!と誰かが毒づいた。
 この種の外交文書はタイピングして清書することが外交の常識だったからだ。
 そのことを回りくどく説明すると、その武官はさも不思議そうにこう言った。
「なら、タイプライターがなかった時代はどうしていたんだ?」
 もちろん手書きだったに決まっている。
 嘗て、海軍士官だった野村は武官の言葉に救われたように顔を上げ、外務省指定のレターセットと万年筆をもってくるように命じた。
 奥村一等書記官は断固反対した。手書きの宣戦布告文書など末代までの恥だと叫んだ(まさにそのとおりである)。
 この書記官は少々教条的なところがあり、一字一句間違いなく清書ができていないと我慢できず、一からタイピングをやりなすといったことを繰り返していた。そのために作業が随分と遅れていた。
 野村は男なら一度は言ってみたいセリフで書記官を黙らせた。
「全ての責任は私がとる!」
 野村吉三郎直筆の手書きの宣戦布告文書が完成したのが午前12時過ぎだった。そこから国務省に電話をいれてアポイトメントをとり、道路の速度規制を無視して国務省に駆け込んだのが午前12時40分だった。
 そこからさらに30分も野村は待たされていた。予定の時刻は過ぎていた。
 野村の我慢の限界もここに来て尽きようとしていた。
 応接室で待たされている野村はハラワタが煮えくりかえる思いだった。応接に一杯のコーヒーも出ていない。そして、人を平然と待たせるハルの態度に我慢ならなかった。用事があるなら話が分かるが、ハルが野村を待たせるのは人種差別政策によるもの、黄色人種には極端に横柄な態度をとるというアメリカの伝統的な外交政策によるものでしかない。
 どうして日本人であるというだけでここまで差別されなければならないのか!
 野村は思った。そもそもこの戦争の原因はアメリカの人種差別政策が根本にある。アメリカが排日移民法を制定しなければ、日本は大陸に進出することもなかっただろう。大日本帝国の大陸への進出は移民が禁止されたことで捌ききれなくなった余剰人口のはけ口を求めてのものなのだ。
 野村は外交に携わるものとして、100%の正義も100%の悪もこの世には存在しないと考えていた。外交の場では特にそうだ。だから、大日本帝国に全く否がないとは考えていなかった。常に善も悪も相対的なものだ。いや、そもそも善も悪も外交交渉で優位に立つための方便過ぎない。
 それでもハルのこの傍若無人な仕打ちには我慢がならない。
 故に、ハルがさらに10分ほど野村を待たせてから応接室に現れたとき野村は微笑みを浮かべてこう言った。
「国務長官閣下、私は貴国へ最後通牒をお渡しできることを嬉しく思います」
 完全なキングス・イングリッシュによる最高に性格の悪い嫌味と共に最後通牒は確かに手渡された。
 日本軍が用意した開戦の第一撃が炸裂したのはそれから僅か30分後のことだった。



 


 醍醐忠重少将は潜望鏡に写る船影を見て軽くため息をついた。
 煌煌と船外灯を灯した大型貨客船だった。
 排水量は軽く20000tを軽く超えている。垂涎の、据え膳の獲物だった。手持ちの53サンチ魚雷を叩き込んでやりたい衝動を抑えながら醍醐はそろそろと潜望鏡から離れた。
 潜望鏡が下がり、イ400は完全な水没状態になる。
「ダウントリム30」
 艦長が小さく命令すると船首部のタンクに海水を飲んだイ400はするすると水中深く潜行していった。
「いかがでしたか」
「どうもこうもない。これから戦争をしようという国とはとても思えない」
 醍醐はもはや苦笑するしかなかった。
 着崩した防暑服にあみだに被った略帽はオイルや様々な汚れによって斑模様を染め付けたような有様だったが、誰もそのことを問題にしなかった。その時発令所にいた誰もが似たような格好をしてきたからだ。
 ジュール・ベルヌのSF小説をそのままに具現化した巨大潜水艦イ400号はカリブ海の只中、ケイマン海溝の奥深くに潜行していた。
 イ400以外に4隻の僚艦がそれに付き従い、深度100で自動懸吊装置を作動させる。
 海底二万里を遥かに超えて地球を半周してきた潜水艦艦隊は開戦の第一撃を放つべく、パナマ沖に集結していた。
 イ400号潜水艦は史実においては改マル5計画によって建造、終戦間際に実戦配備された巨大潜水艦だった。山本と『勉強会』のメンバーはマル3、マル4計画において建造されるはずだった戦艦大和の建造を中止し、その費用の一部を利用してこの巨大潜水艦5隻を開戦に間に合わせることに成功していた。
 イ400号はただ巨大であるだけではなく、ある特殊装備を備えていた。
 軽巡並の船体に備え付けられた巨大な航空機格納筒がそれで、その中には3機の水上攻撃機が格納されている。搭載機は特殊水上攻撃機、晴嵐だ。フロート付きの水上機ながら急降下爆撃機、雷撃が可能な万能攻撃機だった。
 潜水艦に航空機を搭載する研究は帝国海軍では古くから行なわれており、既に小型の水上偵察機を搭載する潜水艦も多数就役していた。しかし、その搭載機の任務は偵察に限定されており、攻撃には用いられない。しかし、イ400号の晴嵐は偵察機ではなく、陸上機並の性能を誇る完全な攻撃機だった。
 潜水艦にこの種の対地対艦攻撃用の航空戦力を付与する発想は、帝国海軍が世界に先駆けて考案し、実用化したものだ。この思想を継ぐものを挙げるとしたら、それは史実において戦後に実用化されたトマホーク巡航ミサイルを搭載した原子力潜水艦だろう。発想としては極めて先進的といえた。
 しかし、史実においてその構想が具現化されたのは1945年だ。もはや戦いの帰趨は見えていた。史実においてイ400号と晴嵐はウルシー泊地への自殺攻撃に投入され、それが実行される直前で終戦を迎えた。戦争に寄与するところは何もなかったのである。仮に実行されたところでアメリカはレーダーでこれを捕捉して簡単に叩きとおしただろう。
 イ400号と晴嵐は完全に出番を間違えた悲劇の役者だった。
 しかし、アメリカが油断しきった1941年12月8日ならば別だ。
 醍醐の手持ちのイ400号は5隻だから、15機の航空戦力を保有していることになる。およそ軽空母1隻分の攻撃力だ。普通に使えばただ一度で損耗しつくしてしまう程度の戦力だった。
 しかし、潜水艦の隠密性が加わることでそれは侮れない効果を発揮する。さらにディーゼルエンジンと巨大なイ400号の長大な航続能力を以ってすれば7つの海のどこにもでも展開できる。例えば、地球を半周するような航海の末にカリブ海に至り、パナマ運河を奇襲するような作戦も可能だった。
 しかし、それは平坦な航海ではなかった。マゼラン並の大航海だ。
 クェゼリン環礁を出港してから3ヶ月。マゼラン海峡を通過して南米の沿岸を北上し、カリブ海に入ってからは全てシュノーケル航行に徹してきた。
 そのおかげでもう2週間も太陽と青空を見ていない。
 最後の行程は完璧を期すために完全な潜水航行である。この時代の潜水艦は電池の充電と換気のために1日に一度は浮上しなければならないが、イ400号ならば最大で2週間の完全潜水航行が可能だった。そんな離れ業が可能なのも、イ400号に搭載されたAIP(非大気依存推進機関)の恩恵によるものだった。
 イ400号の姿形は史実のそれとは大きくことなり、内部はさらに異なる。イ400号には様々な先進的な装備が施されている。東亜重工が極秘に開発した世界の10年先をいく装備ばかりだ。
 例えば、2基のCCD(クローズド・サイクル・ディーゼルエンジン)の装備がそれにあたる。それは21世紀になってから通常動力潜水艦に普及するAIP(非大気依存推進機関)の先駆的なものだった。
 イ400号は複殻式船体の外郭に高圧の液体酸素タンクを備え、液体酸素を気化し不活性ガスと混合させ通常の大気と同じ比率まで酸素を減らした上でCCDの2基のディーゼルエンジンに吸気させる。排気は二酸化炭素と不活性ガスと水蒸気である。排気は全て回収されセパレーターで二酸化炭素だけ取り除き、後は再利用する。二酸化炭素は水に溶けやすいので高圧をかけて水中に排気すれば全く目立たなくなる。不活性ガスは再び酸素と混合した上でディーゼルエンジンの吸気に使われ、水蒸気は真水として供給される。排気ガスの高熱を利用して海水を蒸留して真水をつくることも可能だった。
 これによりイ400号は2週間の完全潜水航行が可能になる。CCD使用時の水中速力は最高が10kt。これに加速用として搭載した補助電動モーターを併用することで瞬間的だが20ktの速力を発揮する。船体は水中高速航行に適した魚雷型をしており、速力の向上に一役買っていた。
 これまでのドイツUボートや在来の伊号潜水艦などが24時間程度の潜水能力しか持たない可潜艦に過ぎないのに対して、2週間に及ぶ潜水が可能なイ400号は潜水艦らしい潜水艦といえた。これ以上の潜水能力を持つ潜水艦は原子力潜水艦ぐらいなものである。
 しかし、いいところずくめのような気がするCCDであるが、大量の液体酸素を艦内に貯蔵しなければならないという欠点がある。液体酸素は強力な酸化剤であり、有機物を激しく反応し爆発する。また鉄を急速に腐食させ、船体を傷めつけるという欠点がある。宇宙ロケットの燃料が液体酸素と液体水素の混合液であることから、それがいかに爆発的な危険物であるかは容易に理解されるだろう。
 このためにCCDを搭載した潜水艦は今のところイ400型潜水艦の5隻のみだった。将来的には分からないが、天才的な技量の機関員がつきっきりに面倒を見なくても制御できる程度に熟成されなければ他の潜水艦には危険すぎて搭載できない。
「司令。アメリカの民間放送を傍受しました」
 イ400号は水中深くに潜行していたが電波傍受用のブイを水面に上げて情報の収集に当たっていた。ブイは流木に擬装したものなので滅多なことでは気付かれるものではない。
「艦内放送に流すことはできるか?」
 レシーバーでその内容を確認して、醍醐は言った。
「可能です」
「よし、やってくれ」
 操作員がスイッチを切り替えると緊迫した声がスピーカーに乗って艦内に流れた。フロリダ放送だった。普段は陽気なラジオDJが真面目くさった声で臨時ニュースを伝えている。
 一部の士官を除けば大半の乗員が英語を理解できなかったが、それでもその放送が何を意味するのかは誰もが理解できた。
 ついに始まってしまったのだ。祖国の存亡をかけた一大戦争が。
 醍醐は両腕にはめた腕時計で現在の時刻を確認した。1つは日本時間、もう1つはパナマの現地時間だった。そして最後にハワイ時間の腕時計だった。
 ハワイ時間の腕時計は午前7時49分を指していた。
2007年06月24日(日) 22:04:31 Modified by ID:dtfXnZAkQA




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