第3話「Terrorist incident」

軍神山本
第3話「Terrorist incident」



1932年5月15日
早朝 帝都東京
首相官邸門前

「突っ込め!」

 先頭に立った海軍青年将校の檄の下、彼と志を共にする青年将校十数名が首相官邸へと走り始めた。
 首相官邸門前に配置されていた警官が、それに対して誰何を行なった。

「ここは首相官邸です。一体何事ですかっ!?」

「天誅!」

 青年将校の一喝の下、門番は射殺された。

「……目標、門番を射殺。敵対行動開始」

「……了解。状況開始せよ」

 そして次の瞬間、近衛独立装甲団所属の戦車が彼らの前に現れた。黒いシートを被せられていたため、彼らはそれがなにであるかも知らずに首相官邸への道をひた走ったのだろう。

「せ……戦車だと!?陸軍かっ!」

 青年将校はこの義挙に参加していた陸軍将校の方を向いた。陸軍将校は青い顔をしながらそれに対し首を振る。

「違います……陸軍にあんな戦車はありません!」

「それでは……なんだと言うのかっ!」

 首相官邸門前に停車し、砲塔をこちらに向けた戦車、そして、首相官邸近くの藪の中から、完璧な偽装を施されて集結した歩兵達。彼らは全員、構えた自動小銃、短機関銃の筒先を青年将校達に向けている。

「こちらは天皇陛下、並びに統合戦略指揮本部直属の近衛独立装甲団である。貴官等のなしている事はテロ行動に他ならない。銃を捨てて投降せよ」

「これは義挙である!貴官らも帝國軍人であろう!」

 次の瞬間、装甲団に向けて叫んだ青年将校が射殺された。体が崩れ落ちる。他の青年将校は持っていた拳銃を歩兵達に向けるが、既に戦車を楯にしているために効果の方は薄いだろう。

「繰り返す。我等は天皇陛下の信任の下、統合戦略指揮本部の命令で行動している。繰り返す。投降せよ。既に蔵相、内相の下へと向った貴官らの同志は拘束された。繰り返す、投降せよ……。我々は天皇陛下の信任の下、貴官らに対する処遇を全面的に委任されている」

「へ……陛下……が?」

 天皇、と言う言葉は彼らの心に大きな衝撃を与えたようだ。それに、数丁の拳銃では、戦車に自動小銃、それに機関銃を相手にして戦えるわけがない。

「わかった……投降する」

「全ての武器をこちらに向けて放りたまえ」

 彼らは手に持っていた拳銃を全て放った。地面に乾いた音が響く。

「軍刀もだ」

「なんだとっ!」

 これには彼らも激発した。軍刀、特に先頭に立つ青年将校の持っていたそれは、成績優良者に対し、天皇から与えられる『恩賜の軍刀』である。それさえも渡せとは、将校に対する礼儀を無視しているに他ならないからだ。

「繰り返す。貴官らは既にこのテロ行動により、日本帝國軍の軍籍を剥奪されている。もう繰り返さない。捨てろ」

 威嚇射撃。戦車の同軸機関銃が、彼らの足もとに火花を散らした。




翌日
東京 市ヶ谷
統合戦略指揮本部 副本部長室


「五・一五事件を叩き潰す事には成功しましたね……しかし、いまだ陸軍内部では皇道派と統制派の争いが続いています。海軍に関しては、この事件を種に粛軍が可能になるでしょう」

 戦略課課長の佐藤純元海上自衛隊二等海佐―――現在は、日本帝國軍少将が統合戦略式本部副本部長を勤める馬渕に向けて言った。
 タイムアウトしてこの時代に到来した海上自衛隊の軍人達は、ほとんどがこの戦本の要員として活動している。そして海上自衛隊第一航空護衛群は、戦本直轄の部隊として択捉島単冠湾に展開している。

「まだまだだ。五・一五はテロに過ぎないが、二・二六はクーデターだ。これを潰さぬ限り、日本軍の改革は為されない」

「わかっています。海軍に関しては大艦巨砲主義者達の大部分をこれによって粛清する事が出来るかと。とはいえ、かなり無理をしている事にかわりはありません。其処で、意識改革の為に、アメリカへの参謀旅行を考えているのですが」

「うむ。特に五大湖周辺の工業地帯、それに合衆国東部を中心にな。ノーフォーク軍港や、ニューヨークの海軍工廠を見れば、少しは意識も変わるだろう。日本改造計画の方は?」

「既に幹線道路の敷設の入札が始まりました。我らが持ちこんだアスファルトに関しての技術書、有効でしたよ。基本的には、我々の世界における高速道路網の焼き直しですからね」

「自動車生産に関しては?」

「フォード、ロールスロイスに打診しました。また、既に我々の持ちこんだデータによって国民車の設計が始まっています」

「鉄道の方は?」

「鉄道の方も改革は始まっています。欧州と同じ様に線路の幅を修正した後、これも新幹線のデータを使用した敷設です……参謀長、よくもまぁ、あれだけのデータをノートパソコンに入れていましたね」

「大学時代からの癖でな、情報はあるに越した事はないと言うのが俺の信念だ」

「まさか、シ○シティーやA○車で行こうで行なわれるシミュレート……とは」

「データはほとんどCDRに焼いてあるからな。まぁ、海上自衛隊の要員が、著作権法違反でつかまったら洒落にもならんが。それで、本年に起こり得る状況は他にどのようなものがある?」

「以下、読みます。九月三〇日:リットン調査団報告書提出、十一月八日:アメリカ大統領選挙。ルーズベルト勝利。十一月二十一日:日本、松岡洋右全権大使、国際連盟理事会においてリットン報告書に反論、十二月十二日:ソ連・中国国交回復」

「どれも早急に対応するべきものではないな」

「ええ」

「ならば、今しばらくは静かにしていよう」

 この時期、概ね歴史の流れは史実通りに進んで行ったと見る事が出来るだろう。しかし、史実の流れと違っていた事は、陸軍において更に五個師団11万人が削減され、そして日本改造計画が断行、東北、九州地域の大開発が行なわれていた事であっただろう。

 さて、ここで日本改造計画の骨子を説明する。元来、日本は植民地とした朝鮮の開発に金を注ぎ込んでいた。これにより、朝鮮は現在の発展を得るわけなのだが、どうもここいら辺、朝鮮の文部省は教育をしていないらしい。
 日本改造計画は、それまで重視されてきた朝鮮の開発を縮小し、本土の開発を重点に置いた工業化政策だ。新たに造船所を三〇以上も増設し、少なくとも駆逐艦以上の建艦能力を持たせる。また、既存の造船所も拡充される。特筆されるのは大分県大神と、茨城県鹿島などに新設される造船所で、五十万トンもの巨大艦を六隻並べて建造できる工廠設備を備えている。現在其処では主に石油輸入のためのタンカーを中心に建造が進められているが、戦時になれば戦艦を十隻ぐらい同時に起工できる広さを持っているのだ。
 更に、戦車生産に必要とされる自動車・鉄道の技術向上の為、国内幹線道路網の拡充、国内鉄道網の輸送能力向上を行なう。さらに、国家事業として進めている『航空青年育成計画』のために、各地に飛行場を開設する事を基本にしている。
 これはもちろんそれまで歳出歳入を±0としてきた日本において、はじめて国債が導入されたことにより可能になったものだ。更に陸軍、海軍の軍備整理の為に軍事費が削減された事が大きい。
 特に陸軍向けの戦車生産が一次中止され、同じ車体を利用したブルドーザーなどの土木機械が生産されて行った事は特筆されるべきだろう。更に、成立した満州国における油田、鉱山開発により、安定した石油、鉄鉱石の輸入が可能になった事も大きかった。

 さて、明けて一九三三年。ルーズベルトアメリカ新大統領は満州国不承認を表明。日本との対立姿勢を徐々に明らかにして行こうとしていた。これに対し日本は『満州国は五族協和の大地』と反論し対抗する。事実、戦本の指導により、中国人、満州人労働者に対しても、日本人と変らぬ賃金が支払われていたからだ。
 そしてこの様な世界が緊迫を徐々に向えようとしている中、ジュネーブにおいて軍縮会談が開かれた。日本は、世界各国における軍備縮小を呼びかけ、それに対し既に行なっていた陸軍大縮小を上げた。これにより、英米が狙った日本潰しはある意味、頓挫せざるを得なくなった。日本陸軍を刺激する事で、軍備縮小を言いながら恐慌回避のための兵器生産による旨みを狙っていた彼らにとり、『日本陸軍』という外交カードが使用できなくなったことを意味するからだ。
 更に日本は、蒋介石政権に向けての兵器輸出を許可するに至った。これは、吉田茂特命大使を派遣する事によって行なわれたもので、満州国承認の代わりとして、格安で日本軍の現用兵器を輸出する、と言うものだ。これにより、日本は工業製品輸出相手国としての中国を入手した、と言えるだろう。日本は、日本、満州国、朝鮮、中国を基本とした『円=ブロック』体制構築を成し遂げたのだった。そしてこの年の一〇月に行なわれた共産党への大攻勢において、日本軍が売り払った兵器はその威力を余す事無く発揮。蒋介石の共産党への攻勢は大勝利を収めた。これにより、日本と中華民国の絆が深まった、と言えるだろう。
 一〇月九日、現在の内蒙古自治区地域を領土とする内蒙古自治政府が発足した。これは関東軍によるものであるが、史実とは違い、既に関東軍には粛清人事が断行されている。石原莞爾、板垣征四郎などを中心とした有用な人材を除いて独断専行しそうな者達を排除、関東軍司令官として宇垣一成を配置した戦本により、内蒙古自治政府は日本の新たな同盟国・市場として独立したのだった。

 そして一九三四年に移る。三月一日、満州国において、溥儀を象徴とした満州帝國政府が発足、これにより、満ソ国境を除き、関東軍は関東州に撤退した。関東軍は順次縮小され、それは関東州の防備軍といえる程度にまで縮小される事となる。それでは陸軍が反対するかもしれないではないか、とも思われるかもしれないが、満州国陸軍発足の為に関東軍所属諸部隊が軍事教練を行なう事となっており、あくまで軍備削減は静かに進められて行った。
 三月二七日、ルーズベルトアメリカ大統領は恐慌対策のニューディール政策が行き詰まった事を知り、海軍大拡張案に署名をした。兵器生産による恐慌の回避を狙ったのだった。ついにアメリカは決断した、と戦本は捉えた。既に戦本所属の艦政本部において暖められていた新型戦闘艦の建造案が検討され始めた。
 そして四月。ロンドン条約の交渉が開始された。日本側はルーズベルトが海軍大拡張に署名した事を知っているため(戦本から佐藤少将が参加)、これを暴露する事で攻勢に出た。イギリスはアメリカの決定をロンドン会議を壊すために考えられたものとしてしか受け止める事は出来ない、として、日本側のこの暴露は英米間に大きな亀裂を生じさせる事に成功した。これにより、会議はワシントン条約を現状維持する事を決めて終了した。更に、イギリスはアメリカに対する牽制として日本に航空母艦二隻の追加建造を承認した(排水量無制限)。日本側の大勝利だった。しかし、アメリカとの対立を避け得ない状況に陥った事も明確だった。
 八月三日、ロンドン会議の決定を受け、呉海軍工廠、横須賀海軍工廠に於いて新造空母『鳳凰』『鳳雛』の建造が決定された。これは、海上自衛隊第一航空護衛群の空母『山本五十六』型をこの時代に建造可能な技術にフィードバックさせたもので、既に日本改造計画の中で向上していた日本の鉄鋼生産能力ともあいまり、両用砲の初装備が行なわれた。ちなみに、アングルト・デッキ甲板は諸外国に与える影響があるとの事で、短期間の改装で飛行甲板を取り替えられるようにする設計を使用した。これにより、『鳳凰』『鳳雛』は全通型飛行甲板を持つ空母として建造される事となる。

 さて、一〇月一六日、戦本は共産党が今日、この日に行う行動に最大限の注意を払う事を決定した。そう、あの伝説的とも言える一万数千kmに及ぶ移動、『長征』が開始されたのだった。一〇月二三日、日本軍は蒋介石の要請を受け、第一独立騎兵旅団を上海に展開した。長征に伴う共産党の最終目的地が不明なため、各国の租界警備を行なっている中国軍を移動させるためだ。
 これに反発したのがアメリカだった。曰く、『第一独立騎兵旅団は日本の中国独占の尖兵である』との事であり、日本と中国の結びつきが強くなって行く事を懸念する欧州各国もこれに対して同様の見解を示した。
 なお、これに際し、戦本は蒋介石に対して共産党の最終目的地を秘匿した。兵器が売れる市場を逃す手はないからだった。

 そして戦本が同時期打出し、議会通過を無理矢理にでも行なったのが、全国における農地改革だった。
 史実において敗戦後、GHQが実施したそれに範を取った農地改革により、既に多くの小作人が労働者として都市に流出して困っている地主を、更に困らせる策となった。地主達は渋々ながらも産業資本家への道を歩み出し、または自作農へとなった。これにより東北地方における昭和一年代の惨禍は収束を見せ始め、戦本の威光を更に高める事となる(戦本は、参謀本部と軍令部、空軍参謀本部の上部にある日本軍の最高機関で、天皇陛下の直接承認の下動いている事をはじめて国民は知った)。
 さて、ここまで東北地方を戦本が重視するわけは、以下のようなものだ。
 昭和六年ごろより始まった国政革新運動なるものが日本陸軍内部で始まっていた。そう、俗に言う、皇道派と統制派の対立、その始まりである。以下、史実における流れを見る。

 皇道派の発生は、元々この時期に起こった国政改革運動が基本となっている。運動の中心になっていたのは荒木貞夫、小幡敏四郎、真崎甚三郎、武藤信義、福田雅太郎、山下奉文、本庄繁、村岡長太郎、柳川平助、秦真次、山岡重厚、香椎浩平、鈴木率道、満井佐吉らの陸軍軍人と、北一輝や西田税などの国家主義者たちで、彼らは『皇道派』と呼ばれた。
 皇道派は、『天皇を中心とする国体至上主義』を信奉して、国家改造を唱えていた。
 だが実際の所は、政党政治が終焉を迎えた事に乗じて財閥と軍部を切り離し、武力を盾に取った親裁政治を断行し、しかも軍部において権力を握ろうという運動に他ならなかった。
 しかし、そのような企みをことさら声高に言う馬鹿もいない。
 彼らは悲壮な言葉を尽くして日本の将来を憂い、アジア主義に理想を見出そうとしている青年将校の情熱を煽り立てて貴下の勢力となるように懐柔していった。そうした事からいえば、純粋な理想に燃えている青年将校たちは、権力欲と独裁欲に縛り付けられた軍人達に利用されただけであったといえよう。
 海軍においては藤井斉、陸軍においては磯辺浅一などを中心とする青年将校たちが皇道派の思想に共鳴していったのは、皇道派の掲げた第一の主張が農村救済であったからである。当時における農業の疲弊、中でも東北を中心とする地域の度重なる不作は甚大な問題になって国内を覆っていた。
 農村の零落は、様々な悲劇を生み出す。一家離散、飢餓、娘の身売りなど、当時の社会で考えられる悲惨な状況全て、地方の農村は抱え込んでいた。だが、それに反比例するように大地主や財閥は大きく成長している。そして、軍閥や政界とつるみあって、さらに私腹を肥やしていった。
 確かにこのころの日本は、軍部と政財界による馴れ合いの政治に牛耳られ、はなはだ腐敗していたといえる。皇道派の武装兵力となっていった青年将校達はそうした軍部の軟弱さを誹謗し、『これでは、日本は滅びる』と、声高に叫び上げて、海軍将校の起こした五・十五事件に続けとばかりに、『昭和維新を断行するのだ』と、自らを鼓舞していった。
 血気盛んな兵隊達の間には、土井晩翠ばりの勇壮な詩韻にみちた『べきらの淵』が象徴的に歌われ、日本が疲弊に追い込まれている現状を打破する為には、いち早い武力侵攻が必要であるという反ソ反共主義がまかり通り始めた。
 国家主義者たちの展開していた思想を平たく言い換えれば、次のようになる。
『疲弊した日本を救う為には物資がいる。だが、農村が荒廃した今となっては、国内からの供給は期待できない。ならば、憎き共産主義を打倒して、かの諸国を植民地として日本が復活できうるだけの物資を運び込むべきだ』
 打倒とはすなわち他国との戦端を開くという事以外にない。その為には、自分たちが脆弱な政府を打ち倒して、軍政をしかねばならない。政府を打ち倒す事とはすなわち、武力革命を引き起こすという意味にしかならない。青年将校たちは、血潮をたぎらせて賛同した。
 だが、そうした主張に、『馬鹿な事を言うな!』と、断固として反旗を翻したのが、永田鉄山である。また、彼に啓示していた東条英機であり、片倉衷であった。
永田は、皇道派をもって自任する青年将校の気持ちがわからないでもなかった。彼も長野県諏訪に生まれ、農村の疲弊した状況は帰郷する度に見ている。いや、彼自身、皇道派に参加していた時期もあった。
 だが、この鉄の意思を持って世に知られていた男は、『暴力革命だけは、なんとしても許さん』と、あくまでも言いつづけた。
 永田は皇道派の思想に共鳴した『一夕会』の一部が運動に加わるのを目の当たりにして、震え上がるような危惧を抱いていた。

(このままいけば、必ず皇道派によって武力革命が引き起こされ、統帥権は奪われ、日本はひたすら軍国主義の道を突き進んでしまう)

 永田の理想としているのは、あくまで立憲君主国家である。その中にあって軍人は、己に下された軍事に関する職務のみをひたすら全うし、後は常に沈黙を守るべき存在であるはずだった。だが、箍の緩んだ政界は、どうしても軍部の協力を必要とした。
このころの陸軍は、真崎らを中心とする皇道派、永田率いる統制派の他に、橋本欣五郎の清軍派(旧桜会)、石原莞爾の満州派、その他宇垣派、南派などをはじめとする小さな派閥が入り乱れている。だが、どの派閥も勢力などほとんどなく、やはり、最も気炎盛んな派閥は皇道派であった。

(排斥しなければならない)

 永田は強く、そう思った。
 当時、軍務局長であった彼は、時の陸軍大臣である林銑十郎、宇垣一成らとの連携を図り、さらには元老、政官界、財界とも清廉潔白な関係を維持するように努力しつつ、皇道派の排撃を進めていった。
 永田は常々、『粛軍』という言葉を用いている。
 一部の急進的な軍上層部、並びに少壮軍人達による過激な国家改造計画を真っ向から否定し、整然たる統制を持って規律正しい陸軍を再建する。それを、粛軍という言葉で表現しようとした。
 だが、それはやや性急であったかもしれない。永田は確かに人望を得てはいたが、反永田派とも言うべき皇道派の将校達は、彼の人望の高まりに反比例する如く悪感情をつのらせていったのである。見識者との交流が彼らの瞳には馴れ合いに映ったのも、その一因だった。
 やがて永田は、ドイツの保養地、バーデンバーデンで陸軍の再生を誓い合った小畑が皇道派の中心人物となり、また対ソ強硬論をぶちかました事で、大いに対立してこれを論破し、また、皇道派の大物である教育総監の真崎甚三郎を更迭しようとした。真崎は皇道派の原動力といってよい。真崎の力を奪う事は、すなわち皇道派の力を失わせる事だった。
 だがこの更迭処置は、永田をして、自らを災難に落とし込む役割を果たした。皇道派による永田に対する攻撃は真崎更迭によって激化した。皇道派の青年将校には、永田の強引な更迭を統帥権の干犯であると口々にわめき、これこそファシズムではないかと憤激した。彼らは怪文書をいたるところへ回し、この更迭事件をして『昭和の安政大獄』と呼んだ。

 さて、以上のようなものが皇道派と統制派対立の史実における概要である。しかしこの世界では、既に東北地方の農村救済は進められており、それはこの農地改革によって成功した。これにより、皇道派と言う派閥の勢力自体は小さくなっているものの、アジア主義を鼓舞する彼らに賛同するものは多く、陸軍内部に無視できない存在感を持っていた。
 ちなみに、永田鉄山は現在中将であり、戦本内部に創設された陸軍担当課長を勤めている(実質的な陸軍総司令官)。
 それから付記しておくが、皇道派の行動は史実とほぼ同じ流れを見せており、勢力は縮小されているもののあまり代わりがなかった事を書いておく。



 明けて一九三五年一月。三日に国際連盟は日本の南洋諸島委任統治の継続を認可した。これを受け、戦本はマリアナ諸島を中心とした開発計画を提示。港湾設備の工事、飛行場の拡大を行なう事を発表した。その翌々日、中国共産党内部において毛沢東が指導権を確立した。共産党のこの様な行動に対し、日本側がなにも手を打てなかったのは非難されるべきであろう、しかし、仕方がなかった面もなかったわけではない。日本側は既にこの時、アメリカにおいて激化していた排日運動に対する対応に追われていたのだった。これはロンドン条約において日本に惨敗を喫したルーズベルトの策謀によるもので、日本側を何とか激発させ、国際社会における指導権を確立しようとする動きが垣間見えていた。
 三月八日、昭和一〇年度予算案が成立した。既にこの時、内地における幹線道路網整備はその七〇%を終了しており、後に『日本の全ての建設会社が仕事を受け、全ての労働者に仕事が与えられた』とまで表現される『日本改造計画』が正しかった事を意味していた。既に国内自動車メーカーによる『国民車』生産も順調な伸びを示しており、日本が工業立国へと変貌する一つの転換点となっていた。昭和十年度予算は更に各種重工業設備の拡充、鉄道の複々線化事業などが盛り込まれた『第二次改造計画』を強く意識した案となっていた。
なお、この年の予算は歳出歳入ともに五十億円を突破しており、これはこの四年の間で、日本における税収が約二倍になった事を意味している。

 八月一日、中国共産党は『蒋介石政府は日本の傀儡』との発表を行ない、『抗日救国統一戦線』の確立を提唱した。しかし、日本における農地改革を手本に主に揚子江以南で行なわれた『農村改革』により、国民党の政権基盤を崩壊させるまでには至らなかった。


 そして誰もが仕事と共に年の越えた事も忘れていただろう一九三六年一月。日本が第二次ロンドン軍縮条約の条約交渉におおわらわになりつつあるこのとき、戦本の命令で、最新鋭戦車を装備した独立第一戦車大隊(指揮官宮沢繁三郎少佐)が千葉に配置された。並びに、東京では海軍陸戦隊、近衛独立第一装甲団に召集がかけられていた。全ては二月に行なわれる大事件に対応するためであった。
 そう、二・二六事件である。
2008年02月07日(木) 01:58:33 Modified by prussia




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