日本茶インストラクター協会、南風サロン - 釜炒り茶



生産量の調査は明治16年(1883)に始まっているが、釜炒り茶は玉露やてん茶を大きく上回り3000t程度の生産量があった。
しかし、27年(1894)以降は釜炒り茶の生産が無い、というより調査対象茶種に見つけることができない。
なぜか。
明治26年(1893年)に静岡県茶業組合連合会議所が釜炒り茶を禁止しているという記述を『日本茶業史』に見つけた。
釜炒り茶が粗悪茶の一つとして取締りの対象とされていたのだ。
茶の輸出が盛んであった明治時代は釜を用いる製法で、日干しや陰干しする釜炒り茶(釜炒日干茶や釜炒陰干茶)の生産もあり、これらも釜炒り茶と呼ばれていた。
粗悪茶の一つとされていた歴史的背景から、釜炒り茶イコール番茶という認識がなされていると考える。

ちなみに、大正末期にソビエト領中央アジア向けとして開発されたのが玉緑茶である。
(玉緑茶のルーツは別にあると私は考えている。)
当時、中央アジアで飲まれていた中国産緑茶にブレンドできる茶として釜炒り茶に倣った玉緑茶が考案されたという。
何故、玉緑茶という新しい茶種を開発する必要があったのか。
既に九州を中心に生産されていた釜炒り茶を奨励し、それを輸出の振り向けることでも十分に輸出に対応出来たと考えられる。
しかし、明治26年に釜炒り茶を禁止している。
禁止した茶を改めて奨励出来ないということから新しい茶種開発の必要性があったのだ、と私は考える。

written by お茶の虫