日本茶インストラクター協会、南風サロン - 熊本の茶の歴史
『日本茶業史』に「肥後の玖摩(球磨)・八代・山鹿…等に、自生の茶繁茂するもの尠(少)からず」とあるように、熊本県の茶業は自生していた「ヤマチャ」を摘採、製茶して飲用していたことに始まると考えられています。

慶長8年(1603)、関ヶ原の合戦の功績により天草の一部が肥後藩寺沢広高に加増され、留岡袋浦(とめおかふくろのうら、苓北町)に築城された富岡城に茶・桑・塩を運上させたとあり、これが県内に残る最初の茶の記録です。

寛永9年(1632)に肥後藩主となった細川忠利候が初のお国巡視の折、多久星原(山鹿市鹿北町)の茶に感銘し、この地に茶園を設けて御前茶園とし、翌年から献上させています。
また、御前茶園については山都町(旧矢部町白糸)にも設けられており、上納茶として献納され、これが明治維新まで続けられたと言い伝えられています。

一方、人吉相良藩においても古くから茶が奨励され、元禄10年(1697)には「五木茶」として八代方面へ移出されており、茶が商品として取り扱われていたことがうかがえます。
18世紀には相良藩で茶の植栽が始まり、年貢や幕府への献上が行われています。

安政6年(1859)の横浜開港以降に茶の輸出が隆盛を極め、茶園の増反はもとより盛んにヤマチャを利用して生産も拡大していきましたが、粗製濫造が横行して米国における日本茶の悪評や価格暴落で輸出が不振となり、熊本の茶業も奮わなくなりました。

この対策として、ヤマチャを開発利用して紅茶の生産を奨励しようと、明治8年(1875)には山鹿に、翌9年には人吉に我が国で最初の紅茶伝習所が設けられました。
明治20年代後半には県も紅茶や磚茶の生産を奨励してロシアへの輸出が試みられましたが、日露戦争の余波もあって失敗に終わっています。

明治の後半になると緑茶に押されて紅茶の生産は減少し、替わって緑茶の生産が増加していきました。


青柳茶(釜炒り茶)の起こり

釜炒り茶については、19世紀の前半には蒸し製と二分されるほど一般的であり、その機械化(写真1)がなされる前までは、佐賀県嬉野市を主産地とする嬉野茶と熊本県や宮崎県の中山間地域で生産される青柳茶がありました。


(写真1)釜炒り茶の機械

嬉野茶は釜が約45度程度に傾斜している(写真2)のに対して、青柳茶の釜は水平に設置してある(写真3)ところに大きな違いがありました。


(写真2)嬉野茶の手炒り


(写真3)青柳茶の手炒り

また嬉野茶は形状が丸形で珠状となり、色沢は黄緑色、水色は金色濃厚であるのに対して、青柳茶は形状が湾曲してやや伸び形であり、色沢は青緑色、水色は多少青味を帯びていました。
一説には、加藤清正(1562〜1611)によって朝鮮半島から連れてこられた大工、石工、左官などの技術者が、熊本城の築城(1601〜1607)後に日本に留まりたい者を加勢群(かせむろ、山都町)に定住させましたが、ヤマチャで釜炒り茶をつくり城主へ献上していたようで、それが青柳茶の始まりと伝えられています。
また、加藤清正の慶長3年(1598)の朝鮮出兵の際には既に製茶されていたとも伝えられています。

『三ケ所茶業史』には加藤清正が釜炒り茶を奨励したとあり、青柳茶の伝来は熊本より矢部、矢部より釜野(山都町鎌野)、釜野より加勢群、加勢群より三ヶ所村(宮崎県五ヶ瀬町)の官の原という経路で伝わったとあるが明らかではありません。

「青柳」という名称は、元禄年間(1688〜1704)に肥後(熊本)と日向(宮崎)の国境の番所役人が、馬見原(山都町)附近の茶の品質がきわめて優れていることから「青柳」と命名し、藩主細川候に献上したことに始まるといいます。

享保18年(1734)には、浜町(山都町)の萬屋という商家が五家荘(八代市泉町)方面の茶を集めて、これに「矢部茶」「奈須茶」と命名して熊本方面へ盛んに移出しました。

享和元年(1801)、江戸から細川藩へ差し出した文書によると「召し上がり星原茶(山鹿市鹿北町)近年遠香悪くし依って江戸廻り加勢群相渡すよう」とあり、青柳茶が幕府に献上されていたことがうかがえます。
現在も山都町の加勢群に献上茶園の一部が保存されています(写真4)。


(写真4)加勢群の献上茶園

熊本県では山都町を中心に釜炒り茶が生産されていますが、現在ではその生産量を把握することが出来ないくらいまでに減少しています。
そして、釜炒り茶の生産量が少なくなったことに因るのか、熊本県や宮崎県の釜炒り茶を「青柳茶」と呼ぶこともあまり知られていません。


written by お茶の虫