帝国の竜神様25その一

1942年 4月4日 早朝 帝都東京 大原伯爵家 

 すばらしい一日は、健やかな朝のひとときから始まると誰が言ったのだろう。
 そう思いながら、俺は香りの薄くなったコーヒーを口にしつつすっかり冷めた朝食を食堂で取っていた。
 同席しているのは撫子とメイヴである。時刻は11時5分前。時間的には朝食とはとてもいえない。
 とはいえ、おいしく朝食という訳にもいかず、朝というか昼前から撫子と共にメイヴの小言を聞いているのだが。
「失礼とは思いますが、節操とか遠慮とか慎みという言葉はご存知ですか?博之さま」
 注意しているのは昨晩の夜の営みについて。
 ちょっと部外者のメイド二人を蒲団に招いて楽しんだ結果、汁まみれとなった蒲団を目の前の小言は勘弁して欲しいと思う。
 なんというか、昔、おねしょをした時によくそうやって叱られた過去の傷が思い出されるので。
「反省しています……」
「己の欲望に素直になれと言ったのはメイヴではないか。その、ちょっとやりすきだかなとは思ったが」
 言い訳がましく口を開く撫子を無視しつつ、メイド姿のメイヴがコーヒーのお代わりを注いでくれた。
「後かたづけに大変手間が掛かりましたけど」
 そう言いながらも、対して時間も掛けずに処置してしまう当たりが彼女故だろう。
 なにせ、水の魔法で部屋をふき取ると、次の瞬間には風の魔法で空気を一気に入れ替える。
 この間わずか10秒の早業。さすがサキュバス。情事の後始末も手際が良すぎる。
「とはいえ、さすがに蒲団は洗わないと駄目ですね。まさかベランダに干すわけにもいかず、どうしたものでしょう」
 さすがに遠まわしの嫌味におとなしく言い訳をしていた撫子もメイヴに異をとなえた。 
「まて。メイヴ。
 それはわらわだけの責任ではないぞ。
 文句は、アンナとナタリーにも言うのじゃ」
 言えたらなと神祇院の警告の為に箱詰めにして大使館に送り返された二人の為に心の中で突っ込んで、聞かれているのは分かってはいるが、無関心をアピールする為に新聞を読む事にした。
 大陸の戦争足抜けから大分統制にも緩みが出ているらしく論調も良く言って自由、悪く言えば過激になってきている。
『大陸に何の権益も残せずに撤退とは英霊に申し訳がたたぬ』
『盟友ドイツが仇敵ソ連と死闘を繰り広げているのに何故帝国は盟友の為に戦わぬ』
『日露戦争時に帝国が結んでいた同盟と比して日独同盟は果たして有益なのか?』
『与えられた女性参政権はまだ多くの女性達に門戸を開いていない』
 で、決まって最後の文句は、
『今の政府は何をしているのか』
 となっているのだから、過激な事この上ない。
 もちろん、検閲がかかっているはずなのだが多分背後にあるスポンサー――右翼、女性運動家といった国内勢力。そして英、独といった外国勢力までいる、まさに百鬼夜行の状況――達のおかげで手が出せないのだろう。
 そんな論調の紙面を斜め読みして、『東北で小作争議激化。騒動……』などの国内ニュースの更に隅の海外面で気になる記事を見つける。
『中華民国政府共産党関係者を弾圧 上海発 4月2日
 中華民国政府は、上海、南京等を中心に警官隊による共産党関係者の拘束を実施。
 これに対し延安の共産党は西安で声明を発表。『国共合作は完全に破棄された』と国民党を非難した。
 これにより国民党と共産党の対決は決定的となるだろうと関係筋では……』
 ついに始まったかというのが記事を読んだ最初の感想だった。
 帝国という外部の敵がいたからこそ国民党と共産党はまとまっていたのであって、帝国が足抜けしたら対決をするのは分かっていた事だった。
 ソ連が無線封鎖をしてから即座に動いているあたり、国民党はソ連が満州に攻め込んでくる前に共産党を叩く腹積もりなのだろう。
 だが、新聞の何処にも満州方面ソ連軍の記事は何も書かれていない。
 という事は満州方面の情報統制は今でも行われているという事はソ連はまだ攻め込んできていない。
 こんこんとドアをノックする音が聞こえた。
「何だ?」
「綾子お嬢様からことづけを承ってまいりました。博之さまにおかれましてはお食事が終わられましたら居間にお越しいただきたいと」
「……わかった。綾子には後で行くと伝えてくれ」
 ドア越しに声をかけたメイドはそのまま足音を残して去っていった。

「おはようございます、博之お兄様。昨晩はよく眠れましたか?」
 俺を待っていた綾子は読んでいた本を閉じてテーブルの上に置いた。
「ああ、うん。よく寝られた、と思うな」
「それはよかったです。いつも朝早くに帰られていますから気にしていたのですけど」
 そういって、綾子がにこりと笑う。
 たしかに、いつもは日が昇るころには朝食時に重時の顔を見たくないので大原家から退出しているから、こんなに遅くまですごすこと自体珍しいと言える。
 もっとも、こんな時間まで寝こけていたのは、とても口にできはしない理由のためだが。
「まあ、たまにそんな時もあるんだろうな」
 とりあえずそう口を濁しておく。
「お疲れになられていたのですわ。お兄様は連日お国のためにがんばっておいでなのでしょう?」
「ああ、そうだな。……そんな気もする」
 お国のために連日何をがんばっているか、それについてはもっと口にできない気がする。綾子の前では特に。
 綾子からそらせていた視線をひとしきり泳がせていたら、机の上の表紙へととまった。
「……『みだれ髪』か」
「与謝野晶子はおきらいですか? お兄様」
「いや、昔はずいぶんおてんばだったのに、今は文学少女しているな、と思っただけだな」
 昔読んだ内容を頭に浮かべながら、そう返す。正直、直接的な表現に若い乙女が見るのはどうかと思わなくもない内容なわけで。
 なんせ、『みだれ髪を 京の島田に かへし朝 ふしてゐませの 君ゆりおこす』とか『やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君』とかあるのだから。
 それに、与謝野晶子が私生活でとった行動といったら……。
 考えている事が伝わったらしい。『みだれ髪』を閉じて、テーブルにおいて俺のほうを向いて一言。
「それでしたら、次は『たけくらべ』にいたしましょう」
 再びにこりと笑う綾子である。
 『たけくらべ』は吉原が舞台の青春もので、華族階級で実業家の顔を持つ大原家の一人娘が読むにはどうかと言わざるをえない。
 まあ、俺は好きだが。
「まあ、なんだ。あまり本ばかり読んでいると目を悪くするからほどほどにな……」
 綾子に向かい合うように座ると、ヴィクトリアンメイドの一人が俺と綾子に紅茶を差し出して部屋を出て行った。
 居間で綾子と二人きりの話ともなるとどうも緊張してしまう。
 撫子の件もあるし、俺の大原家に対する気持ちも綾子は分かってはいるのだろう。
「ところで、綾子。その服は?」
「なにかおかしいですか、お兄様?」
 そういって綾子は自らの着ている矢絣の上着と袴といった女学生スタイルを見下ろした。
「いや、お前まで女学生の服を着るのか、と思ってな」
 苦笑しつつ綾子の服に突っ込むと、
「だって動きやすい服ですから。私、これが好きなのですけど」
 と、言い切られると俺も何もいえない。
「そういうな。昨日久しぶりに外地から帰っての東京駅では驚いたからな。笑うしかなかったぞ」
「お兄様はまだお笑いになるだけでよろしいじゃありませんか。
 私達はそれが派閥争いになるのですから大変なのですから」
 ため息をついて綾子が紅茶を嗜む。
 何しろ女性参政権運動でイギリス・ドイツ共一番効率が良いと感じた華族系子女達を自派に取り込もうと躍起になっている最中だったのだから。
「まあ、なんだ。あまり本ばかり読んでいると目を悪くするからほどほどにな……」
 綾子に向かい合うように座ると、ヴィクトリアンメイドの一人が俺と綾子に紅茶を差し出して部屋を出て行った。
 居間で綾子と二人きりになるとどうも緊張してしまう。
 撫子の件もあるし、俺の大原家に対する気持ちも綾子は分かってはいるのだろう。
「私は、竜を調伏させた英雄たるお兄様のおかげで、どの服を着ても問題になりますので外を出歩くときには普通の姿をするようにしていますわ。
 この格好は大原の家の中で、しかもお兄様にしかお見せできませんのよ」
 聞き流すには、すごくまずい告白めいた言葉が聞こえたような気がしたが、聞かなかった事にした。
 それより、ちょっと待て。帝国の最重要国家機密をなんで綾子までと言おうとして、重時も俺の事を知っていたあたりで納得する。
 華族階級は基本的に何もしなくても食っていけるだけに内部交流が狭くそして深い。
 彼女たちの父親、友人、恋人予定者が高位の軍人である事は用意に想像がつく。

「悪いな。
 迷惑はかけるつもりは無かったんだがな」
 俺も紅茶の香りを楽しむ。
「今年のセイロン産ですのよ。
 戦争が終わって、色々な品がやってきたのでうちも大々的に商いをするとか。
 お父様も張り切っていましたわ」
 重時の話題が出たので少し顔をしかめるが、綾子は気づいていない。
「また、交易でもするのか?」
「はい。何人かで船を雇って、その金主に名を連ねましたの。
 たしか、船そのものは先月には大阪に戻ってきましたわ。
 なんでもトルコに行ってきたとか」
 綾子の言葉に紅茶を噴き出しそうになるが綾子は気づいていなかった。
 今の状況でのトルコ向けの船っていえば実質的にはドイツ向けということになる。
「……あんなところに何を売るつもりなんだろうな?」
「お父様のお仕事ですからわたしも詳しくは知りませんわ。
 何でも、北崎と申す資本家が提唱したらしく、日本で飛行機を積んで、仏印で錫とゴムを買ってトルコに持っていって、トルコから工場で使う機械を買ってくるとか」
 さすが綾子。詳しい所は分からないとかいいながらしっかり重時の仕事を把握してやがる。
 綾子の話と海軍省で聞いた話を組み合わせればおおよそのからくりが見えてくる。
 北崎といえば大陸で稼いだ資本家で、零式輸送機製造の下請けとして軍に食い込んできたやり手だった記憶がある。
 ただのパイロットだった時に、上に食い込めないからと営業に名詞をもらった気がするが、ついに航空機を作る下請けにまで出世したらしい。
 きっと、イギリスには「これはトルコ向けの旅客機です」と詭弁を言っているのだろうな。
 そして、買ったトルコは機体をそのままルフトハンザ航空へ即売却。それに合わせてルフトバッフェが『自国の』民間機からの徴用を行う、というわけだ。
 おそらくは、トルコに運び込まれた機体は船から陸揚げされることもなくそのまま船倉で鉤十字を書きこまれ、黒海経由で東部戦線送りとなるのだろう。
 しかもそうして送られた輸送機の引き換えが工場で使う機械――工作機械――というからドイツの本気度がよく分かる。
 さすがにイギリスは植民地交易黙認という切り札で日本の産業の首を絞めている為、ドイツがここに食い込むには今の帝国が切実に求めている工作機械しかない。
 工作機械はさすがに型落ちの旧式だろうが、今の日本にはその工作機械の絶対数が不足していた。
 そして、その工作機械が大活躍して作られるのがイギリス向けの輸送船や護衛艦である。
 英領植民地で資源をかき集めて日本に運び、日本で作られた航空機をトルコ経由でドイツに運び、ドイツから手に入れた工作機械でイギリス向けの船を作る。
 複雑怪奇な各国の思惑を掻い潜る様な交易がそこに存在しており、そんな交易を主導した北崎のやり手さはこの一件だけでも分かるという物だ。
「戦争にさえならなければ、この投資はさぞ儲かるのだろうな」
 皮肉をこめた一言に綾子も機敏に反応した。
「釘をさしておきますわ。
 あまりのめり込むなと。
 お兄様が、こちらに戻ってこられたならば私がこのような取次ぎをしなくて済むのですが」
 俺と似た様な皮肉を返す綾子に俺は苦笑するだけで返した。
 大原の家に関わりたくは無いとはいえ、姉や綾子の行く末を考えるとついつい口を出してしまう俺がいる。
 綾子の忠告を重時はよく聞くみたいだし、綾子も大原家時期当主として親の仕事の手伝いができるだけの見識は持っている。
「大原の家に戻る気はないよ。
 綾子もしっかりしてきたのなら、いい旦那をみつけて家を盛り立てていけるだろう」
「いやです」
 俺のとりとめのない賛辞を拒否してみせる綾子に少しだけ驚く。
「お兄様の家は、この大原の家ですわ。
 私はお兄様が大原の家を継ぐと信じていますから」
 いつのまにか、芯の強くなった女になったんだなと思いながら俺は苦笑して拒否する。
「血の繋がらない、妾の弟が伯爵家を継ぐのは無理だろうな」
「あら、大原と縁のある女性を見つけて嫁にしてしまえばよろしいではありませんか」
 今度は、さすがに紅茶を噴き出すのを我慢できなかった。
 ちなみに、大原の縁のある女性といっても血筋からして綾子しかいない。
「お兄様。どうなさいましたか?」
 さも白々しく言ってくる綾子。もしやと思うが重時にいらない事を吹き込んだのはこいつじゃないだろうな?
「で、お兄様。
 こちらにはいつまでご滞在する予定で?」
 先ほどの言葉等無かったかのように問いかけた綾子の質問に俺もできるだけ合わせてこう返した。
「そいつは分からないのでソ連に聞いてくれ」
 それの綾子の返事。
「では、聞いてみます」
「ぶば!?」
 あまりに即答の綾子の返事に盛大に紅茶を噴出しつつ綾子を見ると、彼女はうれしそうに笑っていた。
「最近、流行っているのですよ。殿方にこう尋ねる事が」
 そういってかつてのいたずら娘の面影が残る笑みで俺に言葉をなげかける綾子。
 もっともその顔は、なぜかどこか大陸だか半島だかにいる黄色くて白い縞を持った猫科の生き物がしたなめずりしている姿を思い浮かばせた。
(つまり、トラと言うことじゃな?)
 この馬鹿竜、部屋の外からしっかりきいていやがった。
「その冗談は笑えないから勘弁してくれ」
 と兄貴面しながら嗜めつつ心の中で、
(だから勝手に人の心を詠むんじゃねえええ!)
 と内心で馬鹿竜に対して罵声を浴びせる俺という人間そのものに罪の意識を感じるのはどうしてだろうかと思ったが、気にしないことにした。

同日 帝都東京 海軍省前

 帝都東京は大陸の戦争終結で浮かれていたのだが、今、俺の後方で竜虎が火花を散らしていた。
 ちなみに、竜は文字通り本物の竜だったりする。
 虎の方は一応人間なのだが、俺を見る視線が愛情というか嫉妬というかよく分からない視線になっているのがいかがなものか。
「で、だ。
 何で綾子がついてくるんだ?」
 さり気なく話をそらすつもりで聞いてみたが、あっさりと一言。
「用事があるからですが何か?」
 しっかり政治的主張を避けたセーラー服でついてきているのは何でなのか怖くて聞かない事にした。
「なさけないのぉ。博之は」
 黙っていろ。馬鹿竜。
 と、心の中で罵っておきながら後ろを見ずにずかずかと海軍省に目指して歩く。
 ちなみに隊列は、軍服の俺、真ん中に和服の撫子とセーラー服の綾子の二人が意地を張りながら歩き、後ろでくすくす忍び笑いを我慢する巫女服のメイヴ。
 ……目立つ事はなばなしい。
 何しろ、帝都を闊歩しているメイドにナースに女学生達が皆俺達を見ているのだが、誰一人声をかけようとしない。
 皆、とりあえず『あれには関わるな』と本能が警告しているのだろう。
 撫子と張り合うほど綾子がここまで成長するとは正直思わなかったのだが、何が綾子をここまでにしているのかはあえて問わない事にする。
「綾子は凄いな」
 ぽつりと声が出てしまう。
「何がですか?お兄様?」
 綾子の問いかけなど気にせず、後ろの綾子に声を投げかけた。
「この馬鹿騒ぎ(流行)に綾子が乗っていない事さ」
 さも当然とという声で綾子が口を開いた。
「巫女服とナースという一部の女子に政治への道が開かれただけで何を喜んでいるのやら。
 殿方の持つ政治権力にくらべて女子が同じ道を肩を並べて歩くのにどれぐらいの時間がかかるか分かっているのかしら?」
 綾子は女性参政権に喜ぶ今の女子を切って捨てた。
 それは大原の家を守る為に重時の仕事を手伝う綾子にとって、この騒ぎは茶番でしかないのが分かっていたからだろう。
「いや、綾子らしいなと思っただけさ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
 社交辞令的な返事をしながらもその声の中に嬉しさが隠れ切れていないあたり少し甘いなと思いながらも。
「ふむふむ。なかなかお兄様思いではないか」
「当然です。
 たとえ、私は貴方よりもお兄様を知っているつもりですから」
 平然と言ってのける綾子に撫子が茶々を入れる。
「面白いな。
 わらわは、博之の全てを把握しておるつもりだぞ。
 昼から夜までのぉ」
 挑発する声に俺の背後の空気が震える。
 頼むから帝都のど真ん中で痴話喧嘩なんぞしてくれるなよと祈っていると、俺達にとっての救世主が海軍省前で待っていた。
「遅かったじゃないか」
「母さま。こっちです〜」
 あ、空気読めずにいちゃついている馬鹿発見。
 海軍省前で大尉の階級章をつけた二種軍装の士官の遠藤に、巫女服姿で黒長耳族のフィンダヴェアがぴたりとくっついているので門番も注意がしにくい。
 というか、門番の見る目が俺と遠藤と同じになっているのはいかがなものか。
「撫子様〜」
「こっちですわ〜」
 なんで大人しく海軍省の中で待っていなかったんだ。ディアナとフレイヤ。
 彼女達は協定改定後に同族の待つ富士に行く事になっていたのだが、この状況下では絶対に誤解される。
 ちらりと綾子の方を見ると、目が釣りあがっている。
 こういう時の綾子は機嫌が悪いのを隠さないので近寄りたくないのだが。
「我らの新たな眷属じゃ。
 当然、博之の夜伽もさせる予定じゃ」
「……おもてになりますわね。お兄様」
 いや、勝手にやってくるだけだぞ。あついら。
 もちろん来る者は拒まないが。
「何をお考えで?お兄様?」
「来る者は、んぐっ!ん〜!」
 とりあえず口を塞ぐタイミングが大体分かってきたというのは、いい事ではないかと思う。
 俺と綾子と撫子の精神的安定の為にも。
「とりあえず先に行っていますゆえ。ごゆっくりどうぞ」
 ずりずりと唸る撫子をメイヴとディアナとフレイヤとフィンダヴェアの四人で海軍省内部に引きずり込んでゆく。
「じゃあ、行ってくるわ」
 撫子の消えた海軍省の中に入ろうとして、綾子の方に声をかけた。
「私は、銀座のほうにでも足を運んで帰りますわ。
 行ってらっしゃいませ。お兄様」
 綾子が深々と頭をたれて揺れる髪の優雅なしぐさに周りの人間が一堂に見とれる。
 その優雅な仕草に恋人を待つという感じの切なさを入れた笑みで、唇を動かす。
(『みだれ髪を 京の島田に かへし朝 ふしてゐませの 君ゆりおこす)
 声を出さずに動いた唇から出た歌にやっと俺は気づいた。
 綾子は『みだれ髪』の歌のとおり、朝洗った髪を褒めて欲しかったのだと。
  
 第三次撫子−帝国協定の改定は俺が見ている中でわずか五分で終わった。
 獣耳族系の保護と、彼女達の保護協力に陸軍が協力するという改定部分の要旨に撫子も帝国も異を唱えなかったからだ。
 帝国は更なる技能系労働者である獣耳族が手に入るし、撫子側も己の眷属が保護されるので問題も無い。
 そして、欲しかった重機系労働者権益に陸軍も噛む事ができるから誰もが大喜びだった。
 海軍大臣嶋田繁太郎のしかめ面で協定書にサインした後に撫子がさらさらと「なでしこ」とサインする。
 これで、獣耳族も撫子の保護下として帝国の保護対象となる。
 嶋田海相は撫子の存在そのものに理解はしているが、納得はしていない。
 昔の武人らしく『婦女子戦に出ず』を体で表しているような御仁にとって撫子という存在そのものが許せないのだろう。
「何をむすっとしておる。
 お主等の使える駒が増えるのだから喜べばいいであろうに」
「婦女子を戦に投入するほど、帝国は落ちぶれたと思うと悲しくてかなわんだけだ」
 挑発的な目で撫子は嶋田海相に言葉をぶつけた。
「男だけで戦ができると思う事こそ傲慢だとおもうのじゃが?
 生存競争に雄だけとか雌だけとか言っていると他の種に蹴落とされるぞ」
 ただ一言二言の会話によって、撫子はこの会見を終わらせた。

「しかし、傍若無人というか、なんというか……」
 俺の呟きに撫子がきょとんと意味の分からない声をあげる。
「階級というのがそんなに重たいものなのか?」
 そうたよな。こいつは、本質しか見てないと何度も思い知ったのだがどうも忘れてしまう。
 海軍省の一室で俺達はコーヒーと紅茶を味わいつつ何をする訳でもなく話をしていた。
 協定の改定も終わり後は堀社長とマリアナ行きの事で詰めの打ち合わせをする予定になっていたのだが、堀社長が嶋田海相に捕まってまだこっちに来られないでいるらしい。
「おい、今年度の予算案の概略が大蔵省から回ってきたぞ」
 遠藤が部屋に入ってきて、予算原案をテーブルに置く。
 既に見ていたのか、遠藤の顔は真っ青になっていた。
「何だ、そんなに凄いのか……」
 大げさなと言おうとして俺も紙に視線を落としたまま固まった。
「……丸五・丸六計画白紙って本気か?」
「大和級3,4番艦の予算が通った方が奇跡だろうな。
 まぁ、船台に乗っている物は仕方ないから作るとして、船台に乗る前のものは空母以外全て白紙だ。
 幸いかな海軍的には大勝利だ」
 海軍資料を見ると重巡洋艦予算が消えただけで、その前にあらかた通したのが功を奏したらしい。
 もっとも、水雷屋大激怒で軍令部に怒鳴り込んだというか、今上の階が騒がしいのはそれが理由だったりする。
 対米戦――いや、回避されつつあるけど海軍のライバルとして――を考えるとこの予算計画では何をやっても勝てない。
「こっちに、付随資料として現在の対竜戦で軍需増産著しい米国の建艦計画があるが見るかい?」
 いや、見たくないから。二年で連合艦隊二個作れる化け物国家の建艦計画なんて見たくないから。遠藤。
「大蔵は、これ突きつけて、『どう足掻いても勝てない計画なんぞ金の無駄だ』と言い放ったそうな」
 まぁ、真理ではあるがと顔を引きつらせたまま予算案の次項に目を通す。
「変わりに補助艦はえらく作るんだな」
「バンコク商会に派遣した分の穴埋めを前押しで作るんだと。
 本気で、帝国は17年内は戦争できない事になりそうだ」
「いい事じゃないか。
 ……陸軍もひどいな。これ、100万除隊って削減というより粛清だろ」
 俺の呟きに遠藤が、
「航空機も計画の整理統合が決定。
 軍令部は頭をかかえているが、これでも軍令部はがんばったらしいぞ。
 せめて制空権だけでも取れればとその方向での予算を分捕ってきたのは功績だろうな」
「大陸での撫子の功績だろうよ。
 こいつがいると戦が楽だという事は大陸で実証済みだからな」
 撫子の持つ空間把握能力と同時多数通話能力は、大陸での撫子お披露目時に落としにきた中国軍との空戦で容赦なく発揮された。
 どの方面から敵が来て、それをもっとも迎撃しやすい機に同時多数に指示を出せるというのはお披露目時の被撃墜数0という数字によって証明されている。
 もっとも、その指示を出していたのは俺だったりするのだが。
 お披露目後半時では、俺は自分で零戦に乗らず、一式陸攻でついていって撫子のくれる情報の元指示を出すだけだった。
 これを踏まえて一式陸攻に強力な通信機能を持たせた指揮機みたいなものを作って運用してみようという話が出ており、それの予算が通ったという事だったりする。
 撫子のおかげで通信の重要性もわかり、通信機も改善されてきたし戦闘機乗りとしては生存の可能性が増えてありがたい事ではあるのだが。
「真田。お前、人事のように言うなよ。
 これのおかげで第一航空艦隊の源田中佐に睨まれているんだから気をつけろ」
 遠藤の小声に俺は眉を顰めた。
「俺は何も恨まれる事してないぞ」
「撫子ちゃんのお披露目から始まった指揮機構想に柴田中佐が乗っちゃったんだよ。
 でないとこの予算通るわけ無いだろうが」
 そういう事か。
 また海軍内部に敵を作りそうだ。
 零戦時の計画段階の対立がそのままこんな所に来るなんてな。
 先に何処から敵が来るかという事が分かっているならば、戦闘機にとって有利な位置から攻撃が仕掛けられる訳で、一撃必殺の一撃離脱戦法が可能となる。
 格闘戦重視で『源田サーカス』とまで呼ばれた源田中佐一派にとっては許される事態でもなく、柴田中佐もそれを知って勝手にこっちについてきた訳だ。
 航空機の計画縮小でこの対立なんぞ関わりたくないというのが偽らざる本音なのだが。
「人間というのは難儀なものじゃのぉ」
「人事のように言うなよ。撫子」
 まぁ、見栄とか面子とかなんぞ撫子にとって本当にどうでもいい所にあるんだろうな。
「お、集まっているな」
 堀社長が入ってきて早々にため息をついた。
「お疲れ様です。
 嶋田海相はなんと?」
 俺の言葉に堀社長は肩をすくめた。
「落日の帝国の愚痴を聞かされたよ。
 米国が軍備の大増強に動いているのに、海軍予算は大幅に削られてどうやって戦えというのかと」
「堀社長の心中、お察しいたします。
 で、俺達は何時ごろマリアナに?」
「ソ連に聞いてくれ。ソ連に」
 朝もこの言葉俺が言ったようなと思った堀社長の愚痴からマリアナ行きの打ち合わせは始まった。
2008年05月15日(木) 17:48:56 Modified by nadesikononakanohito




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