帝国の竜神様38

1942年5月1日 夜 マリアナ諸島 サイパン島 愛国丸艦橋

 昨年来から関係悪化が問題となっていた日米の合同作業となるマリアナの竜捜索は、その第一歩から仲介した英国まで含めて関係国全てを慌てさせることとなった。
 日米英の各艦から本国に向けて緊急電が送られ、それを受け取った各国も頭を抱えているだろう。
「で、だ。
 もしあの人魚の言うとおりだとして、鯨に乗った乙姫様はどこにいると思う?」
 巣に戻った(撫子が呼べば出てくるらしい)人魚が言うに、「気づいたら居なくなっていた。まぁ、いつもの事だから気にもしていなかった」というまったく役に立たない情報を元に、乙姫様の捜索範囲の特定を急いでいるわけで。
 海図を広げて、西村少将が海図を睨む。
 そこにはマリアナ近辺の潮の流れが書かれている。
 多分、米国も英国も同じ事をしているのだろう。
 木村大佐が海図を指差して説明する。
「このあたりの海流は、パラオの近くを通って、フィリピンに当たり、日本海流で本土の方に流れています。
 いつごろ寝たか微妙な所ですが、竜がきてからまだまだ五ヶ月も経っていません。
 その時から眠ったしても……」
 マリアナから西に当たるパラオ諸島からフィリピンあたりをなぞって見せる。  
「このあたりにいるのではと」
 木村大佐の言葉を聞きながら、そのパラオからフィリピンまでの想定地域を探すという事がどれほどの手間隙がかかるか考えると頭痛がしてくる。
「それなら、まだいい。
 この位置に遊弋していたら我々としても手が出しにくいぞ」
 打ち合わせの為に来ていた南雲中将がフィリピン近海あたりをとんとんと海図を突いてみせた。
 当然、合衆国もフィリピン近海なら大手を振って捜索できるわけで、撫子がいるとはいえアメリカがマリアナのドラゴンを発見した場合日本としてはおもしろくない。
「まだ、問題がある」
 同じく打ち合わせに来た井上中将がため息をついてぼやく。
「ああいう眷属を抱えているマリアナの竜を帝国が持つという事に対しての米英の警戒心をどう解きほぐすか?
 こうなると、マリアナの乙姫様が疫病神に見えてくる」
 それはそうだろう。
 撫子や乙姫様を帝国は手に入れた結果世界中を敵に回しましただったら、去年とさして変わらないという事態となりかねん。
 異世界にまで手を出してやっと大陸からも足抜けしたのだ。
 好き好んで世界大戦なんぞに参加なんぞしたくない。
 誰が音頭を取った訳ではないが、皆一斉にため息をついた。
「何暗くなっておるのじゃ?
 わらわとあやつが揃うなら、どんな敵とて一ひねりなのじゃ」
 相変わらず何も分かっていない竜神様は、まるでどこぞの陸軍みたいな精神論を展開しやがるし。
 山本長官ではないが、この馬鹿竜にこそテキサスの油田、デトロイトの工場群、摩天楼そびえるマンハッタンを見せてやる必要があるのではないかと。
 と、同時にハワイであの国相手に喧嘩をふっかけたハワイの竜の無鉄砲さに哀悼の意を感じずにはいられないのだが。
 艦橋に、メイヴ付きの黒長耳族の巫女がメイヴに近づいてきて何事か囁いたのはそんな時だった。
 メイヴが巫女に二言三言囁き返した後で、皆に向かってこう言ったのだった。
「特派員のフレミング氏がお戻りになられたそうですわ。
 『色々とお話がしたい』と」

「我が国は、引き続き貴国のマリアナの竜との交渉を支持します」
 愛国丸艦橋の面子がそのままフレミングの待つ食堂に移ってきたのだが、フレミングが口を開いた想定外の発言に皆言葉を失った。
「おかしいのぉ、お主らは帝国の力を削ぎたいのではないのか?」
 艦橋での話を聞いていたのだろうが、その意味まで考えてはいなかった馬鹿竜がその馬鹿さ加減を遠慮なくさらけ出したが、フレミングはそれを意に介さずに彼の事情を語る。
「削ぎたいのは山々なのですが、情況が変わりました。
 あと、バンコク商会経由で日本政府に話が言っているはずですが、近く我が国および連邦諸国と植民地における交易制限を大幅に軽減する予定です」
 信じられない待遇に撫子までも口を閉じる。
「万一の話ですが、マリアナの竜がもし撫子様と同じ様に帝国に協力した場合、貴国はどのような態度を取るつもりなのですか?」
 メイヴがフレミングの出方を探るようにゆっくりと疑問を切り出すと、フレミングはさも当然という感じで、
「貴国と第三者の交渉に何故我々が介入しなければならないので?」
 と、言い切った。
「合衆国がどう言うか分かっての発言ですか?」
「あくまで、我が国の立場を表明したまでで。
 合衆国には合衆国の立場があるのでしょう。
 もっとも、我々は合衆国ともよく話しができる立場に居るので、意見のすり合わせは貴国よりは容易かと」
 そこまで帝国を優遇するのは何だ?
「貴国の帝国に対する友誼に感謝します。
 まずは、マリアナの竜を見つけてから。改めてお話を」
 南雲中将が感謝の言葉を述べて、フレミングの言う『色々なお話』を打ち切った。
 悠然と食堂から出てゆくフレミングは、ドアの前で振り返りもせずに、
「ああ、そうだ。
 この件を含めて色々とお話がしたいので、この話のできる代表者を紹介して欲しいのですが。
 もちろん、わが国も米国も紹介していただければ、特命全権大使をここでご紹介しますが」
 この一言が、撫子と綾子やメイヴを除く女性以外全員を固めるのを見ずにフレミングは出て行ったのだった。
「……まずいぞ。真田」
「ああ」
 真っ青のまま俺と遠藤は頷き、
「何がまずいのですの?お兄様?」
 よく分かっていない綾子の問いに重々しくこの場の現場最高責任者たる南雲中将がぽつりとつぶやき、綾子も固めさせたのだった。
「我々は代表者を用意していないのだよ。綾子君」
 と。

 特命全権大使。
 外交使節団の長の最上級の階級であり、接受国の元首に対して派遣され、外交交渉、全権代表として条約の調印・署名、滞在する自国民の保護等を行う。
 よし。頭の辞書はまだ錆びてはないらしい。
「って、代表者がいないってどういう事なんですか。南雲のおじさまっ」
 あ、綾子の地が出た。
「いや、『竜の捜索と交渉』だから捜索部隊を現場から出してきたわけで。
 英米と『この話』をするとは思っていなかったんだろうな。東京は」
 言っている事が、まるで人事のように聞こえるのはどうしてだろう。
「では、南雲長官はどういう権限でここに来ているんですか?」
 当然のように言うであろう疑問を口に出す俺に対して何を言うべきなのだろうか考えているのだろう、南雲中将が渋い顔をする横で井上中将が助け舟を出した。
「艦隊の名前を思い出せ。真田少佐」
「それは、『南洋竜捜索艦隊』―」
「だから、長官は現場責任者。
 あくまで、『竜の捜索と交渉』が仕事であって、マリアナの竜の交渉担当は撫子君だろ。
 しかも撫子君は竜の交渉であって、しかも帝国‐撫子協定で保護協力関係にあるから話がややこしくなる」
 マリアナくんだりまできて発覚する帝国官僚組織の悪しきお役所仕事がこんな所で炸裂するとは思わなかった。
 見事なまでに全権を持った人間がこの場に誰もいなかったなんて、しかもそれに皆気づくのが英国からの外交提案があってからときたもんだ。
「どうややこしくなるのじゃ?」
 撫子が自分の名前を呼ばれているので興味を持って井上中将に尋ねると、井上中将は撫子と俺を指差しながら愉しそうに諭す。
「撫子君と帝国の関係は一言で言えば、君と真田少佐の個人的関係の延長でしかないのだよ。実は」
 あっさりと、かつとんでもない事を言ってのける井上中将に俺は顔が赤くなるのを自覚しながら反論しようとして、手で井上中将に諭される。
「率直に言えば、帝国は撫子君の行動を制御できないのだよ。
 撫子君の真田少佐への従属的恋愛行動以外においては」
 愉しそうに口が回る井上中将を見ていると、兵学校の教師にふと見えてしまう。
 人に教えたり、考えたりするのが好きなんだろうな。この人。
「考えても見たまえ。
 ハワイを焼いた竜と同等の力を持ち、大陸からの戦争をその力の誇示によって帝国を戦争から足抜けさせた撫子君を我々が従わせるだけの力があると思うか?
 あの大陸ですら泥沼に陥った我々だぞ」
 すばらしく自虐的な意見だが、そもそも井上中将は海軍数少ない対米戦反対論者として中央で集中砲火を受けた経験を持つ。
 いまさら正しいことを正しいという事の怖さなどどうでもいいのだろう。きっと。
「ましてや、撫子君が突っ込んできたのが帝都東京。
 もうすぐ皇居が視野に入っていたと言うじゃないか。
 そんな化け物を制御できる力があるなら、帝国ははなから大陸で戦争なんぞしていなかったさ」
「化け物とはひどいのじゃ……」
 しょぼーんと落ち込んでみる撫子だが、人の身たる俺も考えてみると怖くないといえば嘘になる。
「博之までそんな事をいうのかっ!!」
 あ、俺の心を読んだらしく怒った。
「いや、最初の出会いを思い出したら……」

‐‐回想‐‐

 竜の顔面まで零戦を近づけてバンクさせてみる。
(頼むから火なんて噴くなよ…竜神様よ……)
 せめて鳥並みの知能がこの竜に事を期待して、冷や汗をかきながら竜の反応を見た。
(失礼な!!わらわを鳥なんぞと同じと思うか!!)
 妙につんつんとした女性の怒った声が何処からか聞こえた。
「だ、誰だ?無線か??」
 あまり聞こえたためしの無い無線に叫んでみたが、無線以上に透明な声が怒っていた。
(お主の後ろで竜神様と呼ばれたわらわが話しているに決まっているだろう。人間よ)
「しゃべりやがった!!」
(失礼なっ!!!お主、わらわを鳥か何かと思っているのか!!!)
 いや、どっちかと言えばトカゲか蛇と考えていた時に更に怒声が頭に響いた。
(なお悪いわっ!!!!!)

‐‐回想おわり‐‐
  
「酷くなっているのじゃ!!
 最初は、鳥とか蛇とかトカゲから言っていたのに今は化け物なのじゃ!!」
 いや、突っ込む所はそこじゃないだろう。馬鹿竜。
「じゃあ、何処に突っ込めば良いのか賢い博之に教えてもらうのじゃ」
 つつつと近寄ってぽかぽかと俺の背中を叩く撫子。
 完全にこの場に他の人がいるのを忘れてやがる。
「忘れてなどいないぞ。
 目に入っていないだけじゃ」
 黙れ。しゃべるな。心を読むな。馬鹿竜。
「な・で・し・こ・さん。
 貴方の話をしているのに何を睦みあっていらっしゃるのですか?」
 えっと、綾子さん。
 貴方まで何で俺の隣で声にドスきいているのですか?
「博之が化け物とか馬鹿竜とか言うから怒っているのじゃ!
 それの何処が悪いのじゃ!
 大体、わらわの事を化け物とか馬鹿とか罵るくせに閨ではわらわを組み敷いて睦みあうのだから、他の場所でも閨と同じ態度を取って欲しいのじゃ」
「人には、時と場合と場所に応じないといけないんですっ!」
「そもそもわらわ…んっ!!!
 んーー!!んーーーー!!!!!」
 この不毛な痴話喧嘩を収めたのは、背後から撫子の口を塞いだメイヴの手だったりする。
「……ご迷惑をおかけしました」
 ぺこりと頭を下げるメイヴだが、手はしっかりと撫子の手を塞いでいる。
「まぁまぁ、綾子ちゃん。
 ここは落ち着いて。
 で、井上中将。続きをどうぞ」
 遠藤の太鼓持ち的おだて声に眉をしかめていた綾子も我に帰る。
 なお、遠藤はこの手の機嫌を損ねた女性を宥めるのにかけてはもの凄くうまい。
「お見苦しいところ、失礼しました」
 流石に井上中将や南雲中将や西村少将に大井大佐の前で痴話喧嘩はまずいとは思った綾子も矛を収めるが、しっかりと右手は俺のももを抓っている訳で。
 しっかりと根にもっていやがる。 
「で、だ。
 私は何処まで話したのかな?」
「撫子の行動を誰も制止できないあたりまで」
 井上中将に今度は綾子の代わりに聞き役となった遠藤が話を戻し、軽く手を叩いて話の方向を愉快な痴話喧嘩から愉快な帝国政府官僚機構に戻す。
 ……どっちも、本質的に変わらないほど救いようがない気がするのはどうしてだろう?

「で、だ。
 彼女の扱いは一応旦那である真田少佐がいる海軍が握っている訳だ」
 井上中将。そんなにぶっちゃけて言わないでください。
「んぁ…違うのじゃ。わらわは内縁の妻というらしいぞ」
 ええい。メイヴの手を離してろくでもない事をいうな。馬鹿竜。しかもそれがかなり本当だから何も言い返せないじゃないか。
「これに対して、陸軍はメイヴ君達黒長耳族や獣耳族の保護を名目に内務省外局の神祇院に取り込んでいる。
 いずれ、撫子君の扱いもここに移そうと考えているんだろう。
 その為の取り込み第一歩が、綾子君のその巫女姿という訳だ」
 巫女服の綾子がぱちくりと己の巫女服を見て棒読みな声で呟く。
「私、陸軍でしたの?」
 この問いに井上中将は笑いながら不正解と告げた。
「それぐらいで所属がはっきりするなら、この国は大陸での戦争に勝利しているさ。
 さて、そもそもの混沌の始まりたる、帝国‐撫子協定の話をしよう。
 この協定は、帝国と撫子の間に結ばれた協定だが、撫子の隣にサインをしたのは海軍大臣の嶋田さんだ。
 さて問題。
 この協定に正当性はあるのかな?」
 その言葉の何処に問題があるのかとふと思ったら、綾子が「あ」と小さな声をもらした。
「この協定、海軍省が関与して構わないんですか?」
 綾子の答に井上中将は愉しそうに、まるでできの悪い生徒に答えを教える教授のごとく答えを教える。
「構わないんだな。これが。
 帝国‐撫子協定は、『国家元首たる天皇陛下の親任する』海軍大臣が天皇の代わりとして撫子との間に結んだ協定だ。
 この場合、『国家元首たる天皇陛下の親任』が重要で、この協定には正当性があるのさ」
 さすが、海軍内部でも政治的才覚の高い井上中将。複雑怪奇たる帝国の統治機構を理解している。
「何よりも帝国‐撫子協定時は帝国内部で即決してまとめられたからね。
 第三国や陸軍が何か言う前に大本営海軍部が発表でぶちあげて、国権の最高責任者たる天皇陛下が断を下した形になっているから誰も文句はいえない。
 では、問題その二だ。
 我々は帝国‐撫子協定によって、乙姫様も撫子の同族としてその保護対象に入るという解釈でここに来ている。
 だから、帝国と竜との関係は解決しているという訳だ。
 その正当性は撫子君がここにいる事によって証明されている」
「なんじゃ?一斉にわらわを見て??」
 一斉に向いた視線に撫子はよく分からずきょとんとしているが、構わず井上中将は話を続ける。
「対して、英国・米国ともドラゴンに対しての交渉という形は宗教的にも彼らのスタンスから許せる訳が無い。
 たとえそれが交渉という形であれ、ハワイを焼いた悪魔と同族なら話すら難しいだろう。
 イギリスはともかく、アメリカの新聞などを見ていると、ドラゴン許すまじで論調がほぼ統一されているのはその現われだろうな。
 だから、『竜と手を結んだ帝国と交渉する』というロジックでドラゴンと交渉する形が必要だったんだ。
 そして、それがフレミング氏の言う『特命全権大使』という発言に繋がっている」
「井上中将。
 肝心の話をまだしていません。
 どうして我々が代表者を連れてこなかった理由です」
「そういえばそうです。
 私どもの世界では、この手の表と裏の話が渾然としていたので口を出さなかったのですか……」
 撫子から離れたメイヴも恥ずかしそうに白状するが、それは部外者には絶対に分からない高度かつ複雑怪奇な大日本帝国官僚機構の深遠さが問題なのであってメイヴに罪は無い。
「簡単なことさ。
 外交筋、つまり外務省に話を持っていきたくなかったんだよ。我々海軍は。
 外務省、現在の東条内閣の外務省に話をもっていってまとまると思うかね?
 しかも、現在の外務大臣は東郷さんだ。
 独逸贔屓の彼と彼の率いる外務省に、英米との交渉を任せろと?」
 井上中将の話に、俺を含め誰もが頭にはてなマークが浮かぶ。
「博之。井上中将の話は難しいのじゃ」
 だろうよ。撫子。俺もよく分からない。
「あのぉ……、陸軍に関与されたくない海軍の事情はよく分かりましたが、海軍が外交に関与できる正当性というは何処に……?」
 綾子が申し訳なさそうに疑念を口にするがそれはこの場の誰もが同じ思いだろう。

「さて、この話をする為に我が国のしくみをここで簡単に説明しよう」
 と井上中将はちっとも簡単ではない統治機構の話をしだすので、俺の方でまとめてみる。

 大日本帝国は天皇陛下によって統治されている。
 それを遂行する為に内閣は天皇陛下から権限を代行されている。
 一方で軍事は天皇直帥(じきそつ)の大本営が動かしている。
 この上三行にこめられた致命的欠陥に気づいた人は鋭い。
 実は、大本営には内閣は関与していないし、総理には軍の統率権が無い。
 たとえば、内閣に属する機関で総力戦研究所という総力戦に対して研究する機関があるのだが、軍事を司る大本営に内閣が関与していないから、その報告が大本営に届いていないという信じられない笑い話がある。
 『一体、この国は何をもって総力戦を戦うつもりなのか?』という総力戦研究所職員の嘆きがあるぐらい、内閣は大本営に関与できないのだった。
 帝国の、特に戦時下の大本営という軍事機構は天皇陛下を頂点に輔弼として設立され、内閣から軍事が完全に切り離される形になる。
 だから、陸軍の長が総司令官たる大元帥、天皇陛下の参謀である「参謀総長」だったりする。
 閑話休題。
 帝国政府の最高意思決定は天皇陛下に集中しているのに陛下は古くからの慣習に従い、その存在は象徴かつお飾りであるという形を政府も陛下も望んでいた所が問題をややこしくさせている。
 大本営は天皇直帥(じきそつ)の為で内閣より権限が存在する。
 日清・日露の戦役でこれが問題とならなかったのは、維新の元老と呼ばれる実力者達がこの組織の双方を兼任していた為に問題にすぎない。
 だが元老達が政治の表舞台から去り、軍事が内閣から切り離されてチェック機能が無いという状況では軍の権限が肥大化する。
 内閣の決済をとらずに最高権力者である天皇に直接決済を求め、その黙認と共に政策を実行し、人事権は内閣から離れ、予算は議会の承認を得るとはいえ正規予算ではなく戦時国債による臨時予算でやはり天皇決済で必要分は通す。
 大本営−大日本帝国という組織の問題点がここにきて一気に噴出してきていたのだった。
 なお、去年の東条内閣の成立だって、大本営と内閣の意識統一の為に総理と陸相を兼任する事になったのだ。
 こうして、彼に政府と陸軍の統制を任せざるをえないという強引な手法を持ってようやく軍政両面で対米交渉を行えるようになったのだった。
 更に、今年になってメイヴ達の保護と女性参政権運動の受け皿となった神祇院が内務省外局として設置されたのも、内地の治安を司る内務大臣も東条首相が兼任していたというのが大きい。
 海軍が実質的に握っている撫子やメイヴ達黒長耳族を、政治組織上陸軍が握っている内務省外局に置くという陸軍の巻き返しにおいて海軍が不快感を持っているのは事実だった。
「お、お兄様……
 この国、こんなに凄い事になっていたんですの?」
 綾子の声に呆れが入っているのを誰が責められよう。
「なお、帝国は合衆国とも英国とも断交はしていない。
 彼らの特命全権大使というのは、表向きは帝国だが、その実は帝国の国家内国家という扱いになっている撫子嬢に対してのものさ。
 流石に、彼女を我々と同じく神様という位置づけにはできなかった彼らの苦肉の策だな。
 とりあえずこの話を東京に送って、責任者が決まると思うかね?
 まず、決まらない。
 あちこちで、書類が回され、権限の奪いが始まって決まる頃には全てが終わっている。
 英米の一人勝ちという事だな」
 実に淡々かつ愉快そうに井上中将は我々に語る姿はもはや諧謔でしかない。
「ではどうしたらいいんですか?」
 俺の問いに井上中将が答える。
「だから撫子君がいるじゃないか。
 もちろん東京には報告は送るが、その間、竜の交渉は撫子君がいる以上竜に付随する事柄に対する権限は撫子君に一任されている訳で、それを拡大解釈すればいいだけの事だ」
「けど、撫子に交渉がまとめられるというんですか?」
 俺の懸念に人の悪い笑みを浮べる井上中将。すごく楽しそうだ。
「何の為にメイヴ殿がいるの思っているのかね?
 彼女は帝国において従三位、伯爵相当の地位を持つ撫子殿の眷属だ。
 メイヴ殿の隣で撫子殿は椅子に座って、彼らの信任状捧呈の後で『よろしい』と一言言えば十分さ」

「分かったのじゃ。威厳正しくいってやるのじゃ。
 よろしい」
 豊満な胸の下で腕を組んで胸を張ってその大きな胸を揺らして言って見る撫子だが、なかなか堂に入っている。
 けど、それは英米の特命全権大使がきてから言おうな。
「よろしい」
 撫子はどうやら、この挨拶気に入ったらしい。
 それと、撫子を見ている俺の隣で俺の方を見て睨まないでください。綾子さん。
「なかなか威厳があるじゃろう。博之」
 うん。十分威厳があるからいい加減にやめろ。
「よろしい」
「で、だ。
 井上中将。
 わしは何をすればいい?」
 撫子がかつてもらした質問を、皮肉にもその手の話にまったくうとい南雲中将が思わず漏らした本音に俺や遠藤があっけに取られる。
 何しろ、南雲中将と井上中将といえば海軍兵学校の先輩後輩の仲でかつ犬猿の仲とまでいわれており、お互い大佐時代の省部事務互渉規定改正時に「貴様を殺すのは簡単だ」「そんな脅し怖くない」と大喧嘩をした話は語り草となっている。
「先輩は真面目に第二艦隊でも指揮するがごとく、どっしりと構えていてくださればいいんです。
 上がふらつかないならば、下は安心して働けるものなんですよ」
 やっと、俺や遠藤は悟った。
 寡黙なまま困惑する南雲中将に対して莞爾に微笑む井上中将の姿は、間違いなく帝国海軍史上まれに見る貧乏くじを南雲提督と共に引いてしまった嘆き節だったという事に。
 そして、そんな大凶な貧乏くじを引かせたのはこの絵図面を引いた一人である山本長官に違いない。
 俺も遠藤も互いに目を合わせて、テレパスなど使わずに乾いた笑いを浮かべる井上中将と寡黙に困惑している南雲中将を哀れんだのだった。
(……かわいそうに……)
 と。
 なお、その不幸な二提督の手足としてこき使われるであろう、俺と遠藤自身の不幸ははるか遠くの棚に置いて置くことにする。

同日 夜半 マリアナ諸島 サイパン島 仮装巡洋艦ヘクター

「おまたせしました。ミスターフレミング。
 こちらが、派遣艦隊のフレッチャー提督です」 
「ようこそ。アトランタよりは快適とはいいかねますが、歓迎しますよ」
 ダレスと共に訪れたフレッチャーは差し出された紅茶を味わう余裕すら捨てて、さっさと本題を切り出す。
「で、ダレス君より聞いたのだが、英国は日本を突き放す事はしないと?」
 フレッチャーの率直な質問に、英国紳士らしく紅茶の香りを堪能しながらフレミングは答える。
「対独作戦『アークエンジェル』、第二段階『サンダー』発動が目前に迫っています。
 今、日本の機嫌を損ねてインド洋で連合艦隊が暴れたら、ソ連は最後の援助ルートを失い、スターリングラードの決戦で敗北してしまうでしょう。
 それだけは避けねばなりません」
「そんなにソ連が追い詰められているとはな……」
 味わう余裕が無いとは言え、差し出された高級セイロン茶葉の香りはフレッチャーに心の平穏と余裕を取り戻すには十分な働きをした。
 今度は、その味を楽しむ為にカップを持ちながら、フレミングにソ連の事を問いただす。
「そのドイツはスターリングラードでソ連と決戦近しという情報はこちらの情報部でも裏が取れています。
 そして我々は、この決戦においてソ連の勝利の可能性をあまり高く見積もっていません」
 フレミングは、さしたる問題が無いように肩をすくめて見せるがその判断は英国存亡の危機に直面するかもしれない重大なものだった。
 ドイツの勝利は日本の三国同盟推進派を勢いづかせるし、英国自身が出したソ連の敗北にかこつけてのソ連領進攻は日本陸軍は十二分にやる気になっているというトウキョウからの情報も届いていた。
 ソ連敗北後に、いやおうなく日本は選択を迫られる。
 独逸か英国か中立かを。
 今回のマリアナでの竜捜索は、諸外国では親英路線の加速と受け止められているだけに、それが破綻した上でのソ連参戦。
 黙認があるとはいえこの事は表向きには日本が親独側に立ったようにも見えるし、ぎくしゃくすれば対英傾斜しつつある日本をドイツの方に追いやってしまう。
「とはいえ、これ以上日本に力をつけさせるのは合衆国は望んではいないのは事実です」
 フレッチャーが一応の釘を刺す。
 米国にとって英国は大事な同盟国であるが、それは米国の利害に反してまで守るものでもない。
 もちろん、それはフレミングも分かっていたから米国の利害を引き合いにして切り返す。
「提督のお言葉をそのまま使うならば、国民党と停戦して大陸から撤退し、仏印からも引き上げた。
 満州や朝鮮をどうするかが残っていますが、ハルノートの名目は六割以上達成されている。
 貴国が日本の国力増強を快く思っていないのは分かりますが、その結果日本を敵に回してインド洋で連合艦隊が暴れ回ると英国は敗北し、貸し付けた戦時国債が紙くずとなってしまいますがそれを大統領が望んでいるのでしょうか?」
 ルーズベルト大統領はもちろん望んでいないだろう。それぐらいフレッチャーにも分かっている。
 だが、長年仮想敵国として見てきた日本の異世界の力の取り込みは、ハワイで合衆国自らが痛い目を見ているだけあって、望ましいとは絶対に言えなかった。
 もっとも、フレッチャーは軍人でしかないので己の発言で合衆国を動かせるはずも無く、ただ現場指揮官の懸念として英国現場諜報官に伝えているに過ぎない。
 その懸念がチャーチルに伝わっても、あの「ドイツ打倒の為に悪魔とでも取引する」と言ってのけた英国宰相は、鼻で笑うだけだろう。
 悪魔とすら取引するのだから、竜などまだ話が分かると言うに決まっている。

「さて、提督。
 もう少し、現実的な話をしましょう。
 マリアナの竜をとりあえず発見しない事には、我々は先に進む事ができません。
 ミッドウェーやジョンストン向けの補給船団をドラゴンが叩き出した現在において、日本とマリアナのドラゴンの協力はもう必須となったと英国は判断しているのです。
 フィリピン近海での捜索についてはお任せしてよろしいですな?」
「既に太平洋艦隊司令部からフィリピンのマッカーサーに向けて報告が入っている。
 もちろん、我々が先に見つけたとしても攻撃はかけない。
 ハワイを焼いた憎き悪魔の同胞だろうが、私にも理性なるものは存在しているので」
「それはなりより。
 マリアナのドラゴンに攻撃をしかけて、日本を合衆国と同じ外交的機能不全に陥れるような事はないと信じていましたので」
「……」
 事実だった。
 万一、合衆国がドラゴンを見つけた場合、「ハワイの仇」を大義名分に攻撃して、西太平洋でドラゴンを暴れさせて日本を足止めするというプランは存在はしていた。
 だが、太平洋の安定化は中国進出が加速しつつある合衆国経済界の要請であり、中間選挙迫る議会や大統領もそれを無視して票を失う事を恐れていたのだった。
「それで、マリアナのドラゴンを見つけ、日本を更に強くして英国は何をしようというのかね?」
 皮肉たっぷりに言ってのけたフレッチャーの問いに、さも当然という顔でフレミングは言ってのけたのだった。
「英国の勝利」
 と。 


 帝国の竜神様 38
2010年07月19日(月) 16:57:37 Modified by nadesikononakanohito




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