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日米貿易摩擦
 日本は原料を輸入して製品を輸出する加工貿易を行ってきた。戦後は1ドル360円の単一為替レートのもと対米輸出が増加し、日米貿易摩擦が発生した。1950年代の繊維、60年代後半の鉄鋼、70年代のカラーテレビ、80年代の自動車・半導体など個別品目について摩擦が発生し、輸出の自主規制で対応していった。
 80年代には日本は国際競争力を強化する一方アメリカは低迷を続け、85年のプラザ合意で円高ドル安誘導にもかかわらずアメリカの貿易赤字は拡大していった。アメリカ国内ではジャパンバッシングが起こり、アメリカは日本市場の閉鎖性という構造問題をとりあげて市場開放と構造改革を要求していった。
 90年代日本経済が凋落しアメリカ経済が復活すると、経済パートナーシップを結び両国の規制改革協議を行った。アメリカの要望に基き、橋本首相や小泉首相の構造改革のもとで規制改革が実施されてきたが、米国企業に日本市場を開放することとなり、アメリカによる日本改造として批判されている。

◆繊維摩擦 1955~72
 ・1950年代中ごろ、米国による対日産業育成政策によって日本製繊維製品の対米輸出が急速に増加した。特に「ワンダラーブラウス」と呼ばれる1ドル前後の安価な日本製ブラウスが米国製品を圧迫した。米国の繊維業界はアメリカ政府に対日規制を要求し、結局アメリカ政府の圧力に日本政府は屈した。日米は1957年に「繊維品協定」を結び、日本は対米輸出自主規制を実施した。
 ・日本は55年にGATTに加盟していたが、輸入制限措置が許されていた。59年には日本の対米貿易がはじめて黒字化し、米国の貿易自由化の圧力が強まった。池田首相は「貿易自由化計画大綱」を決定し、輸入品目を例外的に定める方式から、輸入制限品目を作成し減らしていく方式へと切り替えた。日本の貿易自由化率は、60年の41%から63年には92%まで上昇した。
 ・1961年、ケネディ大統領の「経済教書」では、日本への要求を「貿易・為替の自由化」とした。ディロン財務長官は、米国製の工業製品の輸入制限を行っているのは日本だけだと批判。グラダー国務省極東部長は、日本の通産省と外務省に対して、工業製品の自由化、関税引き上げの中止を要求し、門戸開放しなければ米国内で日貨ボイコットは押さえられないと申し入れた。
 ・日本は63年に貿易自由化の義務を負うGATT11条国に移行、64年には為替自由化の義務を負うIMF8条国に移行したほか、経済協力開発機構(OECD)に加盟した。
 ・1968年の大統領選挙において、共和党のニクソン候補は民主党支持基盤である南部の繊維産業の支持を得るため、繊維製品の輸入の制限を公約した。翌年ニクソンが大統領に就任すると日本に自主規制を迫った。70年から繊維交渉を開始したが、沖縄返還を実現したい佐藤首相は繊維問題で妥協する「糸を売って縄を買う」取引を行った。72年に日本側の譲歩で日米繊維協定が結ばれた。

◆鉄鋼・カラーテレビ・牛肉・オレンジ
 ・60年代後半以降、米国では鉄鋼産業の国際競争力が低下し、外国製鉄鋼の輸入が増加した。ジョンソン大統領の求めに応じ、日欧は輸出規制を実施した。米国鉄鋼業界やUSスチールは議会やカーター大統領に圧力をかけ、78年に「トリガー価格制度」を設けさせた。トリガー価格制度は、輸入する鉄鋼製品が一定の基準価格(トリガー価格)を下回る場合、自動的に政府当局がダンピング調査を行うというもの。この制度の発足によりUSスチールは対日ダンピング訴訟を取り下げた。
 ・石油危機後、省エネで安価な日本製カラーテレビの対米輸出が伸び、米国産業界からダンピング提訴された。76年、日本はカラーテレビの対米輸出を175万台に抑える3年間の自主規制を実施した。
 ・自民党政府は農協を支持基盤としていたため、農家保護のために牛肉・オレンジの輸入自由化に強く抵抗していた。アメリカ政府は貿易不均衡の是正のために自由化を迫り、78年に日米は輸入拡大で合意した。

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