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きすして5前 2009/11/17(火) 23:33:52 ID:1z3bFZXI 356FLGR




 文化祭を翌日に控えた大橋高校は、その準備の喧噪と祭りを控えた浮ついた雰囲気と
でちょっとしたカオス状態だった。とはいえ、校長室はそのカオス空間とは完全に隔絶
されており、その室内はまったくもって静かな物である。その静寂空間のドアが開かれ、
招き入れられたのはスーツ姿の若い女性だった。

 すらっとした細身の躯。ダークグレーにストライブのパンツスーツ。襟の広い純白の
ブラウスに緩く巻かれた光沢のあるシルバーグレーのネクタイ。ブラックのローヒール
パンプス。腰まである漆黒のストレートヘア。そして、整った精悍な顔つき。

 前生徒会長にして伝説の中退者。狩野すみれだった。

 すみれが帰国するのは約一年ぶりだった。結局、渡米してからこれまで一度も帰国し
なかったのだ。理由は節約、それだけである。そうは言っても一年に一度ぐらい帰って
来いと両親に懇願され、すみれはハイシーズンを避けて三泊五日という強行日程で帰国
したのだ。そして母校に報告がてら挨拶しに来たところ、元担任につかまり、生徒会顧
問につかまり、教頭につかまり、なんだかんだで校長室に連れてこられてしまったのだ。

 すみれは教師達にアメリカでの日々を報告し、教師達はいちいちそれに驚嘆感嘆する
ばかりであった。中退扱いとはいえ大橋高校が輩出した才媛、VIP待遇である。お茶
も出ればお菓子も出る。もっとも、当のすみれにとって、それは居心地の良い物ではな
かった。ソファーに腰掛けて話すすみれを大勢の男性教諭が取り囲み、彼女の一言一言
に感嘆している様子はどう見たって異常であり、お茶汲みをするハメになった恋ヶ窪ゆ
りから見ればそれはもうセクハラにしか見えないのだった。

 すみれはそんなセクハラ地獄…もとい、手厚い歓迎を半ば無理矢理お開きにさせて校
長室を後にした。すみれには他に用事があったのだ。現在時刻は十五時二十分、文化祭
のオープニングイベントが始まる十六時までに用事を済ませるべく、狩野すみれは高須
竜児がいる理系選抜クラスへと向かっていた。

***

 高須竜児はクラス展示の準備を一時間程前に終えて文系選抜クラスの教室でまったり
と過ごしていた。理系選抜クラスの展示は文系選抜クラスとの合同展示でお題は写真館。
選抜クラスは一般クラスより人数が少ないので負荷軽減ということで合同展示になった
のだ。さらにこの展示は一年あまりのブランクを経て復活した女子写真部との合同展示
でもある。

 地味な展示なのだが、普通の撮影の他に貸衣装もあるというのがこの写真館の特徴だ。
客は好きな衣装に着替えて写真部に撮影してもらいその場でプリントしてもらえる。普
通のプリント以外にシールも作れるしメールで携帯電話に送る事もできる。さらに画像
データを収めたCDも購入可能。衣装の方も集めれば集まるものでスーツは男物、女物
各種、ドレス、迷彩服、着物、浴衣、体操着、全身タイツなんてものまである。勿論、
各サイズの制服もとりそろえた。小物は帽子、眼鏡、アクセサリー類、ウィッグ、靴も
各種。秘密兵器、というか主力兵器として川嶋亜美の等身大パネルなんて物まである。

 そんなクラス展示のために竜児が仰せつかった役割は繕い物だった。集まった衣装は
基本的に古着だから破損しているものも多かったのだ。それを休み時間や放課後にチマ
チマチマチマと補修したのだ。女子に混ざって毎日毎日である。それはもう大変だった。
大河の機嫌が大変だったのだ。

 やれ、今日は違う女の匂いをさせてるだの(させてねぇよ)
 鼻の下が伸びているだの(のびねぇよ)
 こんな可愛い彼女がいるのに浮気三昧だの(浮気なんてするかよ。お前可愛いし)
 
 もう、本当に言いたい放題だったのだ。しかも、そういう事を竜児の左手をしっかり
握ったままで、仲良く手をつないだまま、ブツブツブツブツブツブツと言うのだ。そん
な日々もやっと今日で終わりである。

 ともあれ、衣装の直しも無事終わり、お役御免となったお裁縫部隊はオープニングま
での時間をのんびりと過ごしていた。スタジオやらフィッティングルームの建て込みは
まだ続いていたのだが、システマティックに仕事をしているところには手が空いたから
と言って入り込む余地はなく、竜児は持ち分の仕事をやり終えた同級生に混ざり教室で
時間をつぶしていた。

 そんなのんびりとした雰囲気の教室に、
「じゃまするぞ。高須はいないか?」
 不意に女の声が響いた。
 教室の出入り口に腕を組んで立っていたのは、狩野すみれだった。
 途端に教室はざわめき出す。
「アニキだ」「高須だってよ」「宿命の対決か〜」「おお、リベンジリベンジ」 
 そんな、喧噪に引きずり出されるように竜児はすみれの前に立った。
「なんですか?」
「ご挨拶だな。ちょっと話せないか。大して時間は取らせない」
 すみれはそう言って教室の外を指差した。
「いいですよ」
「こっちだ」
 言われるがまま、竜児はすみれの後に続いて教室を出た。すみれが何を話すつもりな
のか竜児にはまるで想像がつかなかったが晒しものの様になっているのも癪だった。
 すみれはそんな竜児を引き連れて廊下をつかつかと歩いていく。ビシッとスーツを着
込んだアニキとヤンキー高須の行軍である。もう、画的には『極道の妻たち』、姐さん
に付き従う若頭みたいな事になっている。その迫力に廊下の生徒が割れて道ができる。
歩きやすい事この上ないのだが、竜児的にはやっぱり微妙な気分だった。二人は階段を
上がっていき、屋上の手前の踊り場まで来た。

「ここでいいだろう。ん、前にここでお前と話しをしたことがあったな」
「ええ。しました。よく覚えてますね」
「バカにするなよ。あんなの忘れるわけがないだろうが」
「そうですね」
「ふっ。奇遇だな。まあ、いい」
 
「で、なんの用ですか?」
「まあ、そう急くな。お前、進路は決まったのか?」
「は? 進路、ですか」
 竜児は呆気に取られていた。竜児は北村絡みの話しになるものだとばかり思っていた
から、すみれからそんな話しを切り出されるとは思っていなかったのだ。
「ああ、進路だ」
「進学します」
「そうか。実はな、お前に考えてもらいたいことがあるんだ。お前にとっても悪い話し
じゃないと思うぞ」
 そう言ってすみれは不敵に微笑んだ。

***

 能登久光はどん底な日々を送っていた。理由は単純かつ明快である。二学期が始まっ
てすぐに木原麻耶の雰囲気が激変していることに気付いたのだ。なにより衝撃的だった
のは、北村のことを『まるお』ではなく『祐作』と呼ぶ様になっていた事だった。まだ、
付き合ってるという感じでは無いけれど、親密度は桁違いに上がっている上に、北村が
木原を見る目つきまで変わっているような気がしたのだ。

 能登は北村が木原になびく事など絶対にないと思っていた。故に能登は木原が北村を
諦めてからアプローチした方が上手く行く可能性が高いと考えた。だがしかし、にもか
かわらず、夏休みが終わってみれば状況は激変していたのである。それは、能登にとっ
てはルール無用の不意打ちであり、いきなり投げ飛ばされて受け身も取れずにアスファ
ルトの路面に叩き付けられたようなものだった。
 そんなわけで、二学期のスタート早々に能登は完全に打ちひしがれて、そのまま一ヶ
月以上もジャングルで泥水に浸かりながら匍匐前進させられるがごとき日々を送ってい
るのだった。

 そんな超絶的にダウナーな能登はクラス展示の準備を無気力にサボりまくっていて、
それは今日も同じだった。そんな能登に春田は健気にも付き合っていたのだが、それは
つまり春田もサボってしまっていると言う事であり、アホなりに気まずさは感じつつも、
それも友達ガイ(GUY)だよね〜なんて思ってる春田だった。
 とは言え、サボるというのは本質的に後ろめたい行為に他ならず、故に二人は人の少
ない方へ、目立たない方へと彷徨い階段へ。これを上がれば滅多に人が来ない屋上手前
のスペースがある。ところがそこには先客がいた。

「あれ? 高っちゃんの声じゃね」
 階段を上がりかけた春田の足が止まった。
「誰と話してるんだ?」
 明らかに女の声、なのに言葉遣いは男のそれだった。
「…アニキだ」
「え〜。なんでアニキがいるの? なんで高っちゃんとしゃべってんの?」
「知らないよ」
 なぜかこそこそと身を隠す二人だった。

『…と、まあ、そんなワケでな、お前に来てもらえれば私も助かるのだがな』
『買いかぶりですよ』
『そういうな。お前の実力は確認済みだ。うちの連中も納得するだろう』
『相変わらず、手回しが良いんですね』
『どうだ、悪い話しじゃないだろ』
『ええ、確かに、そうですね』
『お前程の逸材はなかなか見つからないからな』
『それこそ買いかぶりですよ』
『いや、お前みたいな人材、探してもそうそう見つかるもんじゃない。貴重と言っても
良い』
『でも、俺も考えてることがありますから』
『だろうな。まあ、ここでいきなり決めろなんてことは言わん。考えてみてくれ。お前
にとっても大事な事だからな』
『…わかりました』
『じゃあ、頼んだぞ』
『あ、狩野先輩』
『ん?』
『北村には?』
『…まだだ。なにせ、振られてしまったからな』

「うわ、やべ、降りてくるぞ」
 能登と春田は這いずる様に階段を下りて教室の前で暇つぶしをしている振りをした。
階段を下りてきたすみれは二人を一瞥してそのまま階段を下りていった。

「春田。とにかく高須が降りてくる前に撤収だ」
「え〜。なんで逃げんの〜」
「いいから来いよ」

 二人は階段を降りていき、体育館に向かう人並みに紛れ込んだ。オープニングイベン
トまでまだ十五分以上あるが既に生徒が集まり始めていた。そのまま二人は体育館に入
り並べられたパイプ椅子に並んで腰掛けた。

「さっきの高っちゃんとアニキの話しさ〜、あれ、どういうこと?」
「お前、わかんないの? あれはアメリカに来いってことだよ。絶対に」
「え〜っ。アメリカって外国じゃん」
 流石に春田慣れしている能登でもコケた。
「外国に決まってるだろ」
「すげーっ! 高っちゃんアメリカ行くんだぁ」
「いや、行くって決まったわけじゃないだろ」
「え〜。でも、いくっしょ。高っちゃん、あったまいいもん」
「そうだよな。誘われたら行くよな。それにアニキからの話しだろ。絶対、普通の留学
じゃないよ」
「すげ〜」
「ああ、すごいよな。けど…、タイガーどうするんだ?」
「連れていくっしょ。高っちゃんがタイガー置いてくわけないもん」
 なぜか春田は自信満々である。
「そんな簡単に連れていけるわけないだろ。やっぱり断るんじゃないかな」
「え〜、もったいないじゃん…」

「あ!」春田が素っ頓狂な声をあげた。
「なんだよ?」
「そう言えば、アニキ、北村せんせーに振られたっていってなかったっけ?」
「あ! あああああああ。そうだったのかぁあああ。裏切ったなぁ、北村ぁあああ」
 能登の叫びは体育館に響き渡り、周りの生徒が一斉に能登を見た。
「あ…」
 あまりのバツの悪さに能登と春田は小さく身体を丸めた。逃げ出そうにも周りの席は
すっかり埋まっていて、二人はそのまま周りからのチクチクと突き刺さる様な視線を浴
び続ける事となった。
「別に裏切ってないっしょ」
 小声で話しかけた春田に能登は「そんなの…わかってる…」と小声で言った。

 それから十分ほどで体育館に置かれたパイプ椅子は概ね埋まり、ステージから離れた
後方では立ち見も出始めた。徐々に照明が落とされて体育館の中は暗くなっていき、控
えめな音量で無駄に荘厳な感じのBGMが流れ始めた。

『生徒諸君! 生徒会会長、北村祐作です』
 どこからともなく「大明神!」のかけ声。
『静粛に!』
 水を打った様に会場は静まりかえる。
『文化祭の開幕に先立ち、私から注意事項を述べさせていただきたい。今年の文化祭は
ただいまより開催の前夜祭、そして明日とついに二日間の開催となりました。』
 おおーっ、と湧き上がる歓声。そして、拍手。祐作は右手を上げてそれに応える。
『私からお願いしたい事は唯一つ。ハメを外しすぎない様にしていただきたい。文化祭
の治安を乱す不埒な輩を見かけたら迷わず実行委員に連絡をお願いしたい。文化祭平和
維持軍はそのような輩を速やかに排除、捕縛するであろうことをここに宣言するもので
あります!』 
「こえ〜」とか「恐怖政治だぁ」というヤジが飛んで、それに笑いが追従する。
『ともかく! 堅苦しい話は以上だ。それでは、多いに楽しもうではないか!』
 湧き上がる拍手と歓声。

『大橋高校、文化祭… 前夜祭開幕です』
 進行役を勤める放送部の女子生徒の声が体育館に響く。
 スポットライトがステージのセンターに立つ少女を照らし出した。

「あみちゃ〜ん」
 「あっみちゃ〜ん」そして湧き上がる『あみちゃん』コール。
 川嶋亜美は満足げに恍惚の表情を浮かべてポーズを決める。そして天使の様に微笑む。
もちろん演技だ。

「掴みはオッケーだな」
 ステージ下で生徒会長、北村祐作は腕を組みつつ満足げに微笑んだ。

『さぁ、みんなぁ〜! いっくよー。 まずは第二回、ミス大橋コンテスト』

 うぉぉぉ、とヤローどもの怒号が響きわたる。
 まさに川嶋亜美の独壇場。
 前夜祭は激しくヒートアップしていくのであった。

***

 一夜明けて、翌日。

 竜児は暇だった。当たり前といえばそうなのだが、北村も村瀬も生徒会役員だから忙
しいのだ。大河は予定通り実乃梨と模擬店荒らしに出撃してしまったし、ぶらっと展示
でもまわってみようか、とも思うのだが不特定多数の人々を恐怖に陥れるのも憚られる。
いくら慣れてるとは言っても、見知らぬ人から「ヒッ」とか言われるとやっぱり凹む。
せめてツレがいれば多少はマシなのだが…

 ま、春田でも捕まえるか…と、竜児は歩きだす。そして竜児は自らの危惧通り、ひと
かけらの悪意も敵意も無いままに校内に恐怖を振りまくのだった。人と目を合わせない
様に廊下の隅に視線を送り俯いて歩く姿はそっち系のプロフェッショナルにしか見えず、
気を使えば使う程に竜児の姿は遺憾な状態となっていき、すれ違った一般客に「ヒッ」
とか「うっ」とか言われること六回、子供に泣かれる事三回、最上階に付く頃には竜児
はすっかりブルーになっていた。

 窓から外を眺めて軽く溜息。
『大河がいてくれりゃこんなに酷くねぇんだけどなぁ』と心で呟く。

「うーす、高須君」
「おはよう、高須君」
「ん? おぅ」
 振り返った竜児の目の前にいたのは川嶋亜美と香椎奈々子だった。
「あれ? タイガーは?」
「櫛枝といっしょ。友情パワーで盛り上がるんだってよ」
「へぇ」
「そんで置いてけぼりくって凹んでるワケね」
「そんなんじゃねぇよ」
「ふぅん、でもさ、あんた明らかにブルー入っちゃってるじゃん」
「目が合っただけでビビられたり泣かれたりすりゃあ凹むさ」
 竜児は不機嫌そうに言った。
「なるほどね」
「納得されちまったよ」
「思うんだけどさー、下手に俯いて歩いてっから余計悪いんじゃないの?」
「そうなのか?」
「そうかもしれないわね。ちょっと俯いてみて、高須君」
「え? こ、こうか?」
 奈々子に言われて竜児は俯いて斜め下に目線を落とした。
「げ…」「ひっ…」
 亜美と奈々子に軽くビビられて竜児は溜息をついた。
「ヤバいって。そんなだからビビられるんだって。普通にしてなよ、フツーに」
「普通? これでどうだ」
 竜児は普段の表情と姿勢にもどった。やっぱりプロにしか見えなかった。
「その方がいいわよ。ねぇ亜美ちゃん」
「だね。そうしてればビビられないって」
 と、亜美と奈々子は言うのだが…
「そ、そうか」
 と表情を多少緩ませた竜児と廊下を通りがかった女子中学生の目がたまたま合った。
「ひっ…」
 息を詰まらせて女子中学生は足早に竜児の目の前を通りすぎていった。
 相変わらずの見事な攻撃力だった。
 竜児はカクンと項垂れて、「ま、こんなもんだよ」と呟いた。
「気にする事無いって」
「そ、そうよ。気にしない方がいいわ」
「おぅ。ありがとよ」
 とは言ったものの、竜児自身、自分の外見に凄みが加わってきた自覚はあったのだ。
去年から更に少し背も伸びたし、顔つきも少しごつくなった。三白眼とのマッチングも
バッチリで、もはや誰がどう見ても自分は心優しき青年になんか見えない事を自覚して
いる竜児だった。

「そういや、木原は?」
「麻耶は実行委員だから」
「ああ、そうだったな。それにしても木原が実行委員とはなぁ」
「祐作の役に立ちたいの〜、だってさー。ごくろーさんって感じ」
「お前だって駆り出されてるんだろ? いろいろとよ」
「まあね。でも、メインは昨日のミスコンの司会だったから、今日はそんなに忙しくな
いんだよね。そういうあんたは?」
「俺? クラス展示だけだし、店番とか無いんだよ。客がビビるから」
「じゃあ、暇なんだ」
「今のところ…」
 亜美と奈々子は顔を見合わせてニヤリ。
「それじゃ、あたしたちの護衛をよろしく」
「なんだよ、護衛って」
「えー。わかんないわけ? こーんなカワイイ女の子が二人でいたらさ、うざいヤロー
どもに声かけられまくりでメンドーじゃん。そこで…」
「あんたよ」言いながら亜美は竜児を指差した。
「高須君が一緒にいてくれればナンパなんて絶対にないわね」
「俺は魔除けか?」
「ふふ、そんなところかしらね」
「いいじゃん。そのイカしたご尊顔が役に立つんだから」
 言われて竜児は不機嫌そうに溜息をついた。
「ご尊顔ねぇ。で、どこに行くんだよ?」
「ちょい待ち」
 亜美は制服のポケットから生徒会謹製文化祭ガイド(ダイジェスト版)を取り出して
ガサゴソと広げた。
「どこにする? 奈々子」
「そうね。これなんてどうかしら?」
「んー、おもしろそうじゃん。じゃあ決まりね」
「じゃあ、高須君。よろしくね」
 竜児はどこに行くのかも言わないで歩き出した亜美と奈々子に続いて歩き出した。

***

 亜美と奈々子が竜児を連れて来たのは地学部のプラネタリウムだった。段ボールで作
られたドームは直径が三メートル以上ある気合いの入った物だった。投影機の方は家庭
用の物なのだが、その性能はなかなかのものだと竜児も聞いた事があった。手作り感たっ
ぷりのパンフレットによれば、その家庭用プラネタリウムに全天投影を可能とする改造
を加えた、というのがこの展示の売りらしい。

 三人は他の五人程の見学者と一緒にドームに入った。照明が落とされるとドームの中
は墨で塗りつぶした様な暗闇になった。残った灯りは女子部員が手にしている小さなL
EDライトだけだ。
「それでは投影を始めます…」
 女子部員のアナウンスを合図に投影機が輝きドームに無数の星が投影され、それを見
た全員が感嘆の声をあげた。まさに予想外のクオリティ。

「うわ、すご」
「すごいわね」
「ああ。こんなに本格的とは思わなかった」

「秋の星座の代表格といえばやはりペガスス座でしょう…」

 女子部員による解説もなかなかのものだった。随分と時間をかけて脚本を練って練習
したであろうことが感じられ、三人は星空に見入り、解説に聞き入った。プログラムは
十五分程だったのだが、それはあっという間で物足りないぐらいだった。

 そんな束の間の星空見物を楽しんだ三人は渡されたアンケート用紙を埋めていた。

「でーきたっと」
 亜美は鉛筆を置いてアンケート用紙を折り畳んだ。
「早すぎだろ。ちゃんと書いたのかよ?」
「もうバッチリ」
「嘘つけ」
 竜児は亜美のアンケート用紙に手を伸ばす。亜美はさっと腕を伸ばしてアンケート用
紙を竜児の手から遠ざけた。
「みっせないも〜ん。出しちゃおっと」
 亜美は回収ボックスにアンケート用紙を押し込んだ。
「奈々子もサラッと書いちゃいなよ」
「だめよ。高須君に怒られちゃうわ」
「別に怒らねぇよ」
 竜児はチマチマとアンケート用紙を埋めていた。想像以上に感動させてもらったお礼
とばかりにきっちりと感想を書きこんでいた。

「ふふ、でもホントにきれいだったわね。亜美ちゃんの別荘で見た星空を思い出したわ」
「あれから二ヶ月だもんねー。早いもんだわ」
「そうだな。もう十月だもんな」
 本当にあっという間だったな、と竜児は思った。
 この二ヶ月間は竜児にとって本当に激動の二ヶ月間だった。

「高須君、進学するんだよね?」
「おぅ。なんとかな」
「奈々子も進学だよね」
「とりあえずね」
「とりあえず、なんて言うなよな」
「…そうね。ごめんなさい」
「あ、いや。まあ、いいんだけどよ」
 とは言ったものの、本当に経済的に進学は無理だと思っていた竜児にしてみれば、
『とりあえず進学』なんて言われてしまうと文句の一つぐらい言いたくもなる。
「川嶋は?」
「あたし? あたしの進路はナ・イ・ショ」
「亜美ちゃん、教えてよ」
「なんだよ。香椎も知らねぇのか」
「そうなのよ」奈々子は頷いた。
「もうちょっと待ってよ。はっきりしたら奈々子には教えるから」
「あたしには教えてくれるのね。ふふ、じゃあ待ってるわ」
「なんだよ、それ」
「気にしない、気にしない。で、タイガーはどうすんの?」
「ん、ああ。同じ大学を受ける」
「だよねぇ」「そうよね」
 亜美と奈々子の声が妙にハモった。

「ま、あんた達なら大抵のとこは間違いないでしょ」
「んなことねぇって。結構、必死に勉強してんだよ」
「タイガーといっしょに?」
「ま、まあな」
「ホントに勉強してるの?」
 奈々子はジトっと竜児の顔を見た。
「してるってぇの」
「しちゃってるんだぁ。わぉ」
 亜美はわざとらしく頬に手を添えながら言った。
「なに、あらぬ妄想を展開しちゃってんだよ」
「そりゃ、するって」亜美はニヤニヤと竜児を眺める。
「そうよ。彼女と二人で過ごして何もしないなんて犯罪よ」
「犯罪はねぇだろ」
「ふふ、そうね。でも、二人っきりなのになにもしてくれなかったら、それはそれで
きっと不安になるわよね」
「なるよねぇ。でもさ、ぶっちゃけキスぐらいしちゃってんでしょ?」
「ぐらいって言うなよ。つーか、学校でする話じゃねぇ」
 周りの生徒や部員が聞き耳を立てていた。
「そ、そうね」と奈々子は気まずそうに言い、
「つまんねぇの」と亜美は本当につまらなそうに言った。

「よし、出来上がり」
 竜児は鉛筆を置いてアンケート用紙を折り畳んだ。
「私も」
 奈々子もアンケート用紙を折り畳んだ。

「この後どうするんだ?」
「んー、まだ出番には早いけど体育館に行っとこうかな」
「私もそろそろクラス展示の当番だから」
「そうか。じゃあ、ここで解散だな」
「だあね。んじゃ、先行くね」
 亜美は立ち上がって教室を出て行った。
「じゃあね、高須君。後でウチのクラスにも来てね」
「おぅ」
 竜児は教室を出て行く奈々子の背中を見送った。

***

「ターゲットをセンターに入れて…」
 実乃梨はスコープを右目で覗き込みながら呟いた。全長一.二メートルにもなるドラ
グノフ狙撃銃を抱える様に構えて十五メートル先の小さなターゲットに狙いを付ける。
ほんの僅かに指を動かすだけで十倍の光学スコープの中のターゲットがゆらゆらと揺れ
る。息を吐きながら、実乃梨はトリガーをじわっと引き絞っていく。

 ぱしゅ

 拍子抜けする様な音がして直径六ミリのBB弾がターゲットに飛んでいく。

「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ
「ターゲットをセンターに入れて、スイッチ」 ―ぱしゅ

「はい、全弾はずれ〜。おつかれさま〜」

 大河と実乃梨は射的で遊んでいた。ただ、縁日の射的と比べるとやけに銃が本格的だっ
た。光学スコープまでついているライフルタイプのエアガンは有効射程三十メートルと
いう肩書きで、それもあって的は十五メートルも先の小さな箱だった。

「みのりん、ぜんぜんダメじゃん」
「おっかしーな。絶対に当たってると思ったんだけどなぁ」
「ダメよ。ちゃんと風を読まなきゃ」
「おっ。言ってくれるじゃん」
「ふふん、まあ、見ててよ」
 防護ゴーグルをかけた大河は肩に担いでいたL96A1スナイパーライフルを構えた。
 大河の人差し指がトリガーを引く。
 ―ぱしゅ
 ―ぱしゅ
 ―ぱしゅ
 ―ぱしゅ
 ―ぱしゅ ぱす
 ―ぱしゅ 
 ―ぱしゅ ぱす
 ―ぱしゅ 
 ―ぱしゅ ぱす
 ―ぱしゅ ぱす
 
「はい、四発命中」
「よっしゃ〜」
「すごいよ。大河」
「ま、あたしにかかればこんなもんよ。よいしょっと」
 大河は構えていたライフルを下ろして男子生徒に返した。
「景品はこの箱の中から好きな物を四つね」
 店番の男子生徒が差し出したプラスチックのコンテナにはうまい棒がどっさりと収まっ
ていた。
「みのりん、二つあげる。好きなの選んで」
「おおっと、いいのかい?」
「いいの、いいの。ね、どれにする」
「う〜む、悩むねぇ…」
「あたしは…、これとこれ」
 大河が手に取ったのはサラミ味ととんかつソース味だった。
「そうくるか。じゃあ、私は…こいつとこいつだぁ」
 実乃梨はテリヤキバーガーとチキンカレーを選んだ。
「はい、どうも〜」と、男子生徒に見送られ二人は『やけに本格的な射的』を後にした。

 大河はうまい棒サラミ味を開けてかじり付く。
「うわ、サラミだ」
「そりゃあそうだよ。だってサラミ味だもん」
「なんかさ、なんとか味とかっていうお菓子、不思議だよね」
「びっみょうなのもい〜っぱいあるけどねぇ」
 実乃梨はテリヤキバーガー味のうまい棒をかじった。
「う〜ん、確かにテリヤキなんだけど、どうやって作るのかねぇ。本当にテリヤキバー
ガーが材料ってわけじゃないだろうし」
「ホントにそうだったら悲しすぎ」
「う〜ん、確かに悲しいよね。こーんなでっかい機械にさ…」
 実乃梨は身振りで得体の知れないマシーンの輪郭を描く。
「…大量のテリヤキバーガーが投入されてさ、ガーとかゴーとかグイングイン、ゴイン
ゴインって、それで出てくるのがコレだったら、そりゃ悲しいよね」
「犠牲になったテリヤキバーガーが哀れだわ…」
 実乃梨のうまい棒(テリヤキバーガー味)を眺めて大河はしみじみと言った。
「星になったね。テリヤキ君」
 遠い目をして実乃梨は空を見上げた。
「なったわ。もう完璧に犬死にだけど」
 遠い目をして大河も空を見上げた。
「ありがとう、テリヤキ君。僕らは君を忘れない」
 空いている左手を握りしめ、妙に凛々しく実乃梨は空に向かって呟いた。
「星屑と消えたテリヤキ君に捧ぐ…」空を見上げて二人で敬礼…

 二人は顔を見合わせて、ほとんど同時に「ぷっ」と小さく吹き出した。

「大河。ダーリンなら知ってるんじゃね?」
「え? いくら竜児だって、そんなの知らないって」
「いや、いや、試しに聞いてみてくれたまえ」
「まあ、憶えてたらね」

 実乃梨はうまい棒(チキンカレー)の袋を開けて一口かじった。それから、油でテカ
る唇にくっついたカレー風味の粉をぺろっとなめとって、大河の方を見て話しかけた。

「ねえ、大河。 高須君と仲良くしてる?」
「え、な、何よ? いきなり」
「…ほら、前と違ってさ、あんまり二人で一緒にいるところを見ないから、みのりんは
心配しとるんだよ」
「みのりんはそればっか」
「ごめん」
「…仲良くやってるよ。たまには喧嘩もするけどね」
 大河はそう言って微笑んだ。
「惚気てくれちゃって…この、このぉ」
 実乃梨は指先でくりくりと大河の脇腹を突つく。
「やめ…くすぐったい」
「ほほぉ、ここかい? ここが感じるのかい?」
「…やめ…もう…」
 大河は実乃梨の脇腹を人差し指で思い切り突ついた。
「ぐひゃあっ」
 大河の奇襲に実乃梨は飛び退き、そしてファイティングポーズ。怪しげな構えでゆっ
くりと腕を動かしている。内なる小宇宙が燃え上がっちゃってる感じだ。
「もう…、知らない」
 大河はそっぽを向いた。

「ごめんごめん」
 実乃梨は小さく舌をだしておどけて見せる。
「でもね、心配してるのはホントだよ。大河とも高須君とも違うクラスになっちゃった
からねぇ」
「うん…。でも、大丈夫だよ」
 大河は『本当に婚約したんだよ』と言いたかったけれどそれは秘密だった。まだ、そ
れを話すべきタイミングではなかったから、彼女達に秘密を抱えさせたくなかったから、
それはまだ内緒にしておかなければならなかった。

「大河、ちょっと座って話さない?」
「え、うん」
 実乃梨は大河の腕を引いて校庭の端に作られた休憩スペースに連れて行った。そこは
まだ人影はまばらで、実乃梨は適当な椅子に大河を座らせて自分も隣に座った。

「あのさ、大河。ずううっと、聞こうと思ってた事があるんだけどさ…」
 実乃梨は大河の首に腕を引っかけて引き寄せて、
「高須君と、き、キスぐらいは、し、したんだよね?」と、大河の耳元で囁いた。
「な、な、な」
「実はね、大河」
「うん…」
「みのりんも興味はあるのだよ。彼氏がいるってのはどんなもんなのかなーと、知るだ
けは知っておきたい今日この頃なのだよ」
 と言いながら、本当に知りたいのは二人がどうなっているのかだった。
「…は、話す様なコトじゃないもん」

「じゃ、じゃあさ、質問するから、イエスなら頷いて、ノーなら首振ってよ」
「ま、まあ、それぐらいなら…」

「じゃあ、キスした?」
 … こくり と、大河は小さく頷く。

「十回以上?」 
 … こくり

「百回以上?」

 大河は心の中で数えてみた。
 毎日、三回。竜児がウチでご飯食べる様になって半年ぐらいだけど、来ない日もある
から少なめに見積もって百二十日×三回で三百六十回。一回エッチすると二十回はキス
をするでしょ。この前、十一回目だったから、それだけで二百二十回。

 合計すると… 五百八十回…
 計算してみて驚いた!継続は力なり! 
 ……… こくり

「うわっ」
「うわって何?」
「え、ああ。絶対にこれは無いかなって思ってたもんだから。ゴメンゴメン」
「じゃあ、次ね」

「…… あのね、高須君とえっちした?」

***

 竜児は前髪を弄りながら俯き加減で廊下を歩いていた。お目当ての春田とは遭遇出来
ず、体育館で行なわれいるバンド演奏でも眺めて暇を潰そうと、行き交う一般客や子供
たちと目が合わない様に細心の注意を払いつつ移動している最中だった。

「高須!」
 背後から名を呼ばれ、軽く肩を叩かれて振り向いた竜児の頬に細い指がめり込んだ。
竜児の視界の端に移ったのはニヤッと微笑む狩野すみれの姿だった。

「ふふふ。今時、こんな悪戯に引っかかる奴がいるとはな」
「そりゃ、今時、こんな悪戯する人がいないからですよ」
 竜児はちょっとだけ呆れた表情をすみれに見せながら言った。

「違いない。… それにしても一人とはな。ツレと喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩なんかしてませんよ」
「そうか…。暇そうだな」
「ええ、見ての通り」
「じゃあ、付き合え。昨日の答えも聞かせてもらわないとな」

 すみれは文化祭のパンフレットを眺めて「ふむ」と小さく呟き、おもむろに竜児の手
首を掴んで歩き出した。
「か、狩野先輩。どこに行くんですか?」
「地学部だ。なかなか、面白そうじゃ無いか」
 竜児は、『俺、そこから来たんですけど…』と言う間もなく、すみれに引きずられて
いった。画的には女刑事に連行されるヤンキーみたいな事になっていた。

「なかなか気合いが入っていそうな展示じゃないか」
「そ、そうっすね。あの、先輩。離してください。逃げませんから」
「ん? そうだな。すまん」
 すみれはぱっと手を離した。そして、そのまま歩き続ける。竜児は半歩遅れですみれ
と歩いた。
「プラネタリウム…ですか?」
「ああ、そうだ。狙ってたんだがな、女一人でプラネタリウムじゃいかにも寂しすぎる
だろ」
 すみれはチラッと竜児に視線を送った。
「先輩もそういうの気にするんですか?」
「意外か? 私だって女だぞ。それぐらいの繊細さは持ち合わせているつもりだが」
 さほど声のトーンを変えずにすみれはそう言った。
「いや、あの。すいません」
「ふ、まあ、いい。みんな、そう思ってるだろうからな」
「…失言でした。先輩は、繊細な人ですよ」
「分った様な事を言うんだな」
「ええ、先輩のノート、一年間ずっと見てきましたから。分りますよ」
「そうだったな。役に立ったのか?」
「そりゃもう。実績が証明済みってことで」
「それは高須の努力の成果だろう」
「いいえ。俺はあのノートで何かコツみたいなものが分かったんですよ。だから、やっ
ぱり先輩のお陰です」
 すみれはほんの少しだけ竜児に微笑んで、
「そうか。役に立ったのか。嬉しい物だな」と呟いた。

 歩く事、数分で二人は地学部の展示が行われている教室についた。

「結構、並んでるな」
「二十分待ちですよ。どうします?」
「どうせ暇だろ」
「ええ」
 二人は並んで壁によりかかった。
「さて、時間もあることだし。答えを聞かせてもらおうか。無論、私はお前を説得する
つもりでいるがな」
 狩野すみれは涼やかな目で竜児を眺めてそう言った。

***

「高須君とエッチした?」
「な、な、な」
 とんでもなくシンプルでストレートな質問に大河は声を詰まらせた。実乃梨は親友だ
けれど、けれど彼女も竜児のことが好きだったのだ。そんな彼女に竜児とのセックスを
告白するなんて…。けれど…

「ねえ、どうなんだよ?」
 真顔で迫る実乃梨に、大河は押し切られる様に、

 ………………………… こくり

 と、小さく頷いた。
 実乃梨が知りたいと言うのなら、大河はそれに応えるべきだと思った。

「やっぱり痛かった?」
「…うん、初めてのときはね。…でもね、すごく嬉しかった」
「そうなんだ」
 大河は無言で小さく頷いた。
「どんな感じなのかな。されるのってさ」
「どんな感じって…」
 抱かれている時のことを思い出す。
 首筋が熱を帯びる。カラダの内側に熱がこもっていく。
 あれをどんな言葉で表すと言うのか。
 あの、何もかにもが満たされて行く感覚を、自分の生き物としての本質が歓喜する様
を、意識が途切れてしまう程の悦びを、言葉で表すなんて到底できない。
「上手く言えないけど、幸せ…かな、満たされるっていうか…」
 大河は呟く様に言ってから小さく首を振った。
「言葉にはできないよ…」
「そっか…でも、幸せ…なんだよね」
「うん」
 なら、それで良い。実乃梨はそう思った。

「高須君は優しくしてくれる?」
 大河は小さく頷いて、優しく微笑んだ。
「すごく優しいよ」
 大河は実乃梨の耳元に口を寄せた。
「髪の毛を撫でる時も…
 キスする時も…
 耳朶を甘噛みする時も…
 パジャマのボタンを外す時も…
 あたしのカラダに触る時も…
 胸にキスする時も…
 あたしの中に入ってくる時も…
 どんなときもすごく大切にしてくれるんだよ…
 だからね…あたし、竜児と『する』の好きなんだ」
 
 話した大河より聞いていた実乃梨の方が真っ赤だった。

「た、た、大河…。お、大人の、か、か、階段、の、上りすぎ」
「み、みのりん、鼻血」
「あ、あで?」
 実乃梨の鼻から赤いスジがツーっと流れた。
「あわわ。ティッシュ、ティッシュ」
 大河は制服のポケットからティッシュを出して実乃梨に渡した。実乃梨は慣れた感じ
でティッシュを丸めて鼻に詰めた。

「うーっ。ださげだい」空を見ながら実乃梨は言った。
「変な事、聞くからバチが当たったんだよ」
 大河に冷たく言われて、
「かだじけだいでぇ」と実乃梨は応えた。
 
 鼻にティッシュを詰めて数分で実乃梨の鼻血は収まった。
 出すのも止めるのも得意なのだ。なんの自慢にもならないが。
 やれやれ、なんて言いながら実乃梨は鼻からティッシュを抜いて丸めると、すぐ近く
に置かれているゴミ箱にそれを投げ込んだ。

「ありがと。大河」
「え?」
「話してくれて。これで、みのりんも一安心」
「うん…」
 大河が言うのとほとんど同時に携帯電話から着信音が流れ始めた。大河はポケットか
ら携帯電話を取り出して電話に出た。
「もしもし」……「うん、迎えにいくから」……「うん、待ってて」
 大河は母親と短い会話を交わして電話を切って制服のポケットに入れた。
「みのりん、ごめんね。ママ、着いたって」
「いいよ、いいよ。いっといで。親子水入らずでさぁ。ずずずぃーっと」
「うん、ありがとねっ」
 大河は立ち上がるとくるっと向きを変え足早に校門に向かって歩いていった。実乃梨
は大河の姿が見えなくなるまで見送って、それから椅子に腰掛けて背もたれに身体を預
けた。
 大河の母が来るのは予定通りだった。去年の事があったから、大河の母が本当に来て
くれて実乃梨はホッとしていた。とはいえ、一人になってしまったのは事実で、祭りの
雰囲気の中で独りぼっちでいるのはなんとなく惨めだった。

「ふられちゃったぜぃ。どーすっかな」
 良く聞こえる独り言を言ってみた。

 実乃梨はポケットから携帯を取り出して時刻を確かめた。クラス展示の当番のシフト
まではまだ時間がたっぷりある。あたりを見回してみると、今年もなかなかの盛況で近
隣住民、小中学生、他校の生徒と様々な人々が思い思いに楽しんでいるようだった。

 去年は高須君と見て回りたいな、なんて思ってたら大河のことで喧嘩になっちゃって
ダメだったんだよね…

 やっぱりちょっと避けちゃうんだよね。親友の彼氏って、やっぱ微妙だよなー。ソフ
トボールを選んだとはいえ、高須君のことは嫌いでは無いんだよね…

 はぁ、我ながら…軟弱だわ。と思いつつ実乃梨は空を見上げて軽く溜息をついた。

 実乃梨は竜児と話すのも怖かった。『やっぱり好きなんだ』それを思い知らされるの
が怖かった。もっと好きになってしまうことが怖かった。部活がある間は自分の選択の
正しさを実感できたし、忙しさにかまけていられたからまだ良かった。でも、引退した
今は、いろんな事を考える余裕がありすぎる。

 なんかさ…。実乃梨は心の中で呟く。
 大河とも前みたいには付き合えないんだよね。
 そりゃあ一人の男の子を二人で好きになっちゃったんだから仕方ないんだけど。
 自分の本当の気持ちに気付いてからの高須君は大河だけを見てる。
 それは嬉しいんだけどさ…
 嬉しいんだけど…
 嬉しい筈なんだけど…

 そんな感じだったから、実乃梨は大河とも距離を置いて付き合う様になっていた。大
切な友達だから、彼女には嫉妬したくなかった。そんな風にしか付き合えないのに親友
だなんて言うのはおこがましいんじゃないか、とも実乃梨は思っていた。だから、こん
な状態を終わらせたくて、彼の恋人は大河なんだと認識するために、二人の関係がどこ
まで深くなっているのか確かめたかった。

 大河。幸せそうだったな…
 幸せそうに微笑む彼女を思い出した。

 高須君の中ではきっと私は過去形なんだよね… あるいは過去完了形とか…

 だぁあああああああああ ったく、何考えてんだよ。しっかりしてくれよ私ぃっ!
 一人でのたうつ様に身を捩る女がそこにいた。

「はぁ…。やっぱ、暇すぎだよ」
 そう呟いて実乃梨は立ち上がった。
 ソフト部の後輩を捕まえてクラス展示でもまわってみよっと。自分を鼓舞するみたい
に心の中で呟いた。

***

 ソフト部の後輩を求めて一人校内を徘徊する実乃梨が地学部の展示の前を通りかかっ
たのは唯の偶然だった。

『いいですよ』

 行列の中から聞こえきた竜児の微かな声を実乃梨は聞き取った。実乃梨はとっさに壁
面に出っ張っている柱の影に身を隠す。ついさっきまで大河と竜児の事で頭が一杯だっ
たのだ。今、出くわしてしまったら普通の態度など絶対に不可能だ。

『俺なんかでよければ』
 間違いない。高須君だ…

『いらん謙遜はいやみだぞ。お前の実力はお見通しだといっただろう。大体、俺なんか、
とか言うな。そういう言葉は自分の価値を下げるぞ』

 この声、話し方…、狩野すみれ。前生徒会長。狩野姉妹の兄の方。

『…わかりましたよ。かないませんね。先輩には』
『受けてくれるんだな』
『ええ。喜んで』
『じゃあ、これは渡しておく』
『はい』

 どうして、彼女がここに? どうして、高須君と?

 教室の引き戸が開けられて行列が進み始めた。
『やっとだな』
『ですね』

 教室に入っていく二人の気配をすぐ近くに感じながら実乃梨は静かに息をひそめてい
た。二人の関係が少しだけ気になったが、会話の中身や雰囲気は男女の仲という感じで
はなく、だから、久しぶりに帰国した狩野先輩に高須君が何かを頼まれたんだろうと解
釈して、実乃梨はそれ以上の詮索をやめた。
 程なく教室の引き戸は閉められて、そこに新たな行列が出来始めた。

「あれ、櫛枝先輩。こんなところでストーキングですか?」
 声をかけたのはソフト部の後輩、二年生でポジションはセカンド。実乃梨より少し小
柄で実乃梨が思うにソフト部で一番かわいい娘である。

「な、そんな人聞きの悪い事いわないどくれ。ストーキングじゃなくてスニーキング
ミッションなんだからさ」
「武器も装備も現地調達ですか?」
「そう! その通り」
「… 作戦の成功をお祈り致します。では」
 触らぬ神に祟りなし、とばかりに後輩はその場をそそくさと立ち去ろうとしたが、
「おっと、逃がさないよ」
 実乃梨は後輩の腕をがしっと掴んだ。
「既に作戦は完了したのだよ。つーことでさ、一緒に見物、見物」
 後輩の腕を掴んだまま実乃梨は歩き出した。
 これぞ体育会系のスキル、絶対服従。後輩は実乃梨の言いなりだった。
「なんか食べたいものある?」
「おごってくれるんですか?」
「もちのろんだよぉ。まっかせたまえ」

 実乃梨はちょっと引っかかるものを感じながら、でも高須君の万能ぶりなら、誰に何
を頼まれたっておかしくないよね、そう思うことにした。

***

 二回目のプラネタリウム鑑賞を終えた竜児は教室でアンケート用紙を埋めていた。
まるでデジャヴュの様だが、今、正面に座っているのはスーツ姿の狩野すみれである。

「なかなかのモノだったな」
「そ、そうっすね」
 確かに、そうなのだが、二回目だと感動も薄れがちではある。とはいえ、今更二回目
なんです、とも言い出せない竜児だった。

「おっと」
 竜児はポケットに入れていた携帯電話が震えているのを感じて携帯を取り出して開い
た。大河からのメールだった。

『でんわして』とだけ書かれた横着なメールだった。

「先輩、すみませんけど…」
「呼び出しか?」
「ええ」
「ふ、気にするな。相変わらず仲良くやってるみたいだな」
「まあ、なんとか。それじゃあ失礼します」

 すみれは書きかけのアンケートをポケットに突っ込んで教室を出ていく竜児の背中を
見送った。それからもう一度アンケートに目を落とし、それを埋める作業に没頭し事細
かに感想と提言を奇麗な文字で書き込んでいった。紙面を埋め終わると、すみれは書き
込んだ内容を一通り確認してから用紙を折り畳んで回収箱に入れた。

 さてと… 生徒会室に顔を出すか…

 すみれは立ち上がり教室を後にした。
 自分が振って、そして自分を振った男、北村祐作に会うのが楽しみだった。彼がどん
な生徒会長になっていて、どんな風に変わっているのか見てみたかったのだ。

***

 竜児は大河の母親と合流し、二人で二十分程文科系の部活の展示を見てから大河のク
ラスに向かった。大河のクラスの展示は紅茶とクッキーをメインにした喫茶店だった。

「いらっしゃいませ」
 二人を向かえたのはウエイトレス姿の大河だった。メイド服なのだが装飾は控えめ、
クラシカルなロング丈、エプロンのボリュームも控えめで清楚なイメージ。

「ママ、どう?」
「似合ってるじゃない。なかなか良いわよ」
「へへ」
 大河は子供みたいな表情で笑い、
「なかなかでしょ?」と、その場でくるっと回って見せた。
「おぅ。イイんじゃねぇか」
「でしょ。ね、ママ、何にする?」
「そうね。クッキーセットのロイヤルアールグレイにするわ。竜児君は?」
「俺は、アールグレイのストレート」
「クッキーセットのロイヤルアールグレイとアールグレイのストレートね」
 大河はメモ用紙にオーダーを書き込みカンペを覗き込む。
「かしこまりました。チケット五枚になります」
 竜児は財布からチケットを五枚取り出して大河に差し出す。
「結構取るんだな」
 小声で竜児は言った。紅茶一杯でチケット二枚というのは他の模擬店の倍だ。どこの
模擬店でも飲み物はチケット一枚が相場なのだ。
「ケチくさいこと言わない」
 大河は小声で言いながら竜児からチケットを受け取った。
「ありがとうございます。少々お待ちください」
 軽くお辞儀してから大河はテーブルを離れて教室を仕切るカーテンの前に立っている
フロア係とおぼしき男子生徒にチケットとメモ用紙を渡した。

 それからしばらく竜児と大河の母は大河のちょっとぎこちない接客や少しだけ危なっ
かしい給仕の様子を眺めた。竜児は大河を目で追いながら、同じ様に大河を眺めている
大河の母親の様子も眺めていた。
「ちょっとドキドキものね」
「はは、まあ、大丈夫ですよ」
 と言いつつも竜児もドキドキものだった。ただ、春になってから大河は竜児の台所仕
事も手伝う様になって、一年前と比べれば随分といろんなことが出来る様になったのだ。
そんなこともあって、竜児は弟子の闘いぶりを見守る師匠のような気分でもあった。

 ティーカップ二つとクッキーの入ったカップを載せたトレーを大河が運んで来た。
「おまたせしました」
 テーブルにトレーを置いてミルクティーを母親の前に、ストレートティーを竜児の前
に置き、最後にクッキーを真ん中に置いた。

「以上でおそろいですか」
「大丈夫よ」母は娘に微笑みかけた。
「では、ごゆっくり」
 大河は照れくさそうに微笑んで定位置に戻っていった。

 竜児はカップに口をつけて紅茶を一口飲んだ。
「お、意外に本格的」
「あら、香りもいいわね。ちょっと意外だわ」
 さすがに高いだけのことはある。

 大河はウェイトレス姿の女子生徒と何か話して微笑んだりちょっと照れた様な表情を
見せたりしていた。
 大河の母は紅茶を飲み、クッキーをかじりながらそんな大河の様子を眺めていた。

「楽しそうね。あの子」
「ええ…」
 そうだよな。今年は約束、守ってもらえたもんな。心の中で竜児は呟いた。
「きっと、お母さんが来てるからですよ」
「そうかしら?」
「そうですよ。やっぱり、大河は見てもらいたかったんだと思います」
「そうね。ねぇ、泰子さんは来ないの?」
「来ませんよ」
「そう、でも残念ね」
「うちはそれが普通ですから」
 そう言って竜児はクッキーをかじった。なじみの味だった。自分のレシピなのだから
当然だった。
「どう? お弟子さん達の仕事ぶりは」
「良く出来てると思いますよ」

 二週間程前に竜児は大河と奈々子、それに彼女らの同級生二人にクッキーの作り方を
教えたのだ。奈々子はクッキーの作り方は知っていたけれど大量生産となるとそう簡単
でもなかったのだ。竜児は量産向きのちょっと手抜きなレシピを彼女らに教えたのだが、
成り行きで大河の家で実際に作ってみせることになってしまったのだ。

「香椎さん、だったかしらね?」
「ええ」
「あの娘、きっとあなたの事が好きなのね」
「へ?」
「だめよ。浮気しちゃ」
「しませんよ。てか、香椎は川嶋と一緒に俺を弄って遊んでるだけですよ」
「そんなことないわよ。見てれば分るもの」
「はあ…」
 竜児は納得出来る様な、出来ない様な、そんな気分だった。
「大河にもなんとなく分ってるのよ。それで警戒してるのね」
「警戒ですか」
「そうよ。彼女、家事もこなせるし、おっぱいも大きいし」
 竜児は小さくコケた。

「笑い事じゃないのよ。泰子さんも大きいでしょ。竜児君マザコンでしょ。大河にとっ
ては深刻な問題なのよ」
「いや、大河のだってそんなに小さくはないですよ。形も奇麗だし」
 彼女の母親に、彼女の胸の美しさを語る高校生。高須竜児だった。
「あら、そうなの?」
「え、ええ、まあ」耳を赤く染めて消えそうな声で竜児は言った。
 ふわふわとした触り心地を思い出してしまう自分が恥ずかしいやら情けないやら。
「胸のことはともかく、あなたが誰にでも優しくしてしまうのは、大河にとっては不安
よね。大河もあなたの事をわかっているし、信じてるから言わないだろうけど。そうい
う気持ちを分ってあげてね」
「はい」
 それは竜児にも分かっていた。けれど自分のそういうところも大河は好きだと言って
くれている。そもそも、自分がお人好しでなかったら大河とこんなふうにはなれなかっ
ただろう。だから、そういう所を変えるというより彼女の気持ちを分かろうとすること
や、それを忘れてしまわないことが大事なんだろうな、と竜児は思った。

 それから竜児と大河の母は取り留めの無い話しをしながら紅茶を飲みきり、クッキー
を食べ終えた。模擬店は結構繁盛していて、あまり長居するのも憚られたので二人はそ
こを出る事にした。二人は席を立って大河の傍へ。

「ママ、どうだった?」
「美味しかったわよ。紅茶もクッキーも」
「よかった。あと三十分ぐらいで当番が終わるから、そしたらまた見て回ろうよ」
「いいわよ。竜児君も一緒にどう?」
「ええ、いいですよ」
「え? いいの?」
 校内では自重するルールは今でも続行中だった。増して、今は二人にとって最もデリ
ケートな時期だ。だから竜児がそれにあっさりと同意したのが大河には意外だった。
「今日ぐらい、いいだろ」
 そう言う時期だとは言っても、今日は祭りだ。タイガー&ドラゴンが久々に並んで校
内を闊歩したっていいだろう。
「…うん」静かに、嬉しそうに、大河は呟いた。
「じゃあ、後で」
「うん、電話するね」
 
 竜児は大河の母に続いて教室を出た。教室を出ると大河の母は、
「恋ヶ窪先生とお話したいから、ちょっと行くわね」と言った。
「あの、俺も行った方が…」
「ダメよ。これは私の用事だから」
 彼女は竜児に背中を見せて歩き出した。
 準備は静かに粛々と進んでいた。

***

 実乃梨と後輩は2−Cのメイド喫茶(ブームもボチボチおわりだろう)にいた。別に
メイドには興味はないけれど、実乃梨はなんとなく2−Cの教室を覗いてみたかったの
だ。窓際の席に座り外を見ると、なんとなく懐かしい風景がそこにあった。見える景色
自体は三年の教室と大して変わらない。けれど、フロアが違えば見える角度もちょっと
違う。

「櫛枝先輩、去年はこのクラスだったんですよね?」
「そーなのだよ…。2−Cか、何もかも皆懐かしい…」
「あれ? 櫛枝じゃん」
 一つ奥の席に座っていたのは能登だった。
「へ? ああ、能登クン。なんか久しぶりっすなぁ」
「同級生にそういうことを言うなよなー」
 そこにアホロン毛が合流。
「あれ〜櫛枝じゃん。どったの?」
「どうもこうもねぇべさ。フツーに後輩と祭りを楽しんでるだけだがね」
 いかにも失敗した、という表情で実乃梨は春田に言った。
「先輩。お邪魔だったら私、失礼しますけど」
「ああ、いいって。こいつら追い払うから。シッシッ。あっちへおいき。もたもたして
るとウチの巨神兵で焼き払っちゃうからね」
「そこまで言われちゃだまってられないね。春田、そっち持て」
 能登と春田は勝手に机を動かして櫛枝と後輩の席に強制合体。
「むりやり相席だー」
 能登は椅子を引きずって動かすと後輩のとなりにどかっと座った。それに付き合う様
に春田は実乃梨のとなりに座った。その様子を見ていたメイドさんが堪らずに声をかけ
てきた。
「あの、勝手に机を動かされては…」
「コーヒー」「俺もコーヒーね」
 言葉をさえぎり能登と春田はむりやりオーダーしてチケットを渡す。仕方なく、
「ジンジャーエール」「わたしも、それで」
 と、実乃梨と後輩もオーダー。実乃梨はメイドさんに二人分のチケットを渡した。
「コーヒーが二つとジンジャーエールが二つですね。かしこまりました」
 すっかり押し切られて可愛いメイドさんはオーダーを確認すると戻っていった。あま
りに酷い自分たちの最上級生っぷりに、実乃梨はたまらず溜息をつく。
「随分と強引じゃないか? 能登君よ」
「ふふん。いいだろ、せっかく同級生にめぐり合えたんだからさ。これも何かの縁だと
思って諦めてくれよ」
「クラス展示の準備をサボりまくる様な不埒な同級生は櫛枝にはおらんのだよ」
「俺はそんな気分じゃねーのよ」
 能登は口を尖らせて言った。
「あ、そう。その気分とやらはサボって晴れたのかな?」
「く…」
「やだねぇ。麻耶ちゃんが北村君と仲良くなっちゃって凹んでるわけ?」
「くしえだ〜」
 情けない声を上げたのは春田だった。それ言っちゃダメ、とでも言いたいのか、手を
ばたつかせる。
「ぐっ…」
「あれれ、こりゃ〜悪いこと言ったかねぇ」
 などと白々しく言ってみるブラックみのりんだった。

「俺は北村はアニキ一筋だと思ってたんだ。まさか、木原に手を出すとは…」
「手を出すって、麻耶ちゃんはあんたの女じゃないでしょ」
「そうだけどさ」
「いいじゃない。麻耶ちゃん、ずっと北村君を追っかけてたんだから。きっちり北村君
に想いを伝えた麻耶ちゃんの勇気の勝利だよ」
 腕組みをした実乃梨は自分の言葉にうんうんと頷いていた。
「く…」
 能登はがっくりと肩を落とした。

 そこへ気まずそうにメイドさんが飲み物を運んできた。修羅場チックでどんよりとし
た雰囲気の中、メイド姿の女生徒はコーヒーとジンジャーエールを机に置いて、
「ご、ごゆっくり」と消え入りそうな声で言ってそそくさと下がっていった。
 なんとも気まずい気分の中、四人はそれぞれの飲み物に口を付けた。

「そういえば狩野先輩、帰ってきてるんだねぇ」
 実乃梨は大して興味もなさそうに言った。
「ああ。俺らも見た。昨日だけど」
「私もさっき見かけたよ。高須君となんか話してたみたいだったけどさ」
「ほんとか! 何を話してた?」
 能登はかぶりつきそうな勢いで身を乗り出した。
「な、な、なんだよ」
「いいから、言えよ!」
「そんな細かいこと憶えてないって。狩野先輩が高須君になんだかお願いしてて、それ
を高須君が引き受けてたみたいだけど、別に高須君が頼まれごとするのは珍しいことじゃ
ないだろうし…」
「…ほんとか?」
「何が?」実乃梨は不機嫌そうに応えた。
「受けたのか。高須のやつ」
「何か知らないけど、俺でよければ、なんて言って引き受けてたけど…。どったの?」
 能登はストンと落下する様に椅子に腰を下ろし、
「マジかよ」と呟いた。
「どうしたの。大丈夫?」
「高須はアメリカに行くつもりだ…」
「え?」
 実乃梨は自分の顔から血の気が引くのを感じた。
「どういう事。ちゃんと話して」
 青白い顔をして、今度は実乃梨が身を乗り出して能登に詰め寄った。
「昨日、聞いちゃったんだよ。狩野先輩が高須に言ってたんだ。お前程の逸材に来ても
らえれば助かるって。おまけに向こうの人間も納得してるって言ってたんだよ。それっ
てつまりアメリカに来いってことだよな。その時はとにかく考えておいてくれって狩野
先輩は言ってたんだけど」
「高須君はそれを受けたって言うの?」
「それっきゃないよ。引き受けたんだよな?」

 『受けてくれるんだな』『ええ。喜んで』

 引いた血の気は逆流し、今度は一気に駆け上っていった。
「大河は? 大河はどうなるんだよ?」
 顔を紅潮させた実乃梨は能登に食らいつく様に吠えた。
「わかんねぇよ。俺に言われたって」
「高っちゃんがタイガーを置いてくわけ無いじゃん」
「そんなのわかんないだろ」

「…確かめる」
 実乃梨は小さく噛み締める様に言った。
「確かめるって?」
「高須君に直接聞く! それっきゃない」
 椅子がひっくり返るほどの勢いで実乃梨は立ち上がった。
「櫛枝先輩!?」
 後輩がそう言い終える前に実乃梨はもう走り出していた。 
 
 大河を泣かすようなことをしたら、絶対許さない!

 教室を飛び出し、廊下を行き交う人にぶつかりそうになりながら、それを華麗なフッ
トワークでかわす。彼がどこにいるのか分からない。でも、最後に見かけた場所に向かっ
て実乃梨は全力で走り続けた。その後を春田と能登が追っていることにも、携帯電話と
いう便利なモノがあることにも実乃梨はまったく気付かなかった。そして、自分がそれ
ほどまでに熱くなっているという事にも気付いていなかった。

***

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