web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki



「お、おい、待て、川嶋ぁ!」

恐慌を来し、逃げるように走り去った亜美へ向けた竜児の叫びは、虚しく闇へと吸い込まれていった。
時刻は午前1時近く。終電はとっくに終わり、駅のロータリーの照明も消され、人影もまばらだ。
その人影が、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、鼻血を吹き出しながら跪いている竜児を避けて足早に過ぎ去っていく。

「くそっ!」

竜児は立ち上がって亜美を追いかけようとした、しかし、鼻血はなおも止まらず、竜児の胸元と、直下の地面に滴り続
けている。とてもじゃないが、全速力で逃げ去った亜美を追える状態じゃない。
血塗れの手を黒いデニムのポケットに突っ込み、長年使い込んだ青い携帯電話を取り出す。フリップを開ける暇ももど
かしく、リストから亜美の番号を選び、通話ボタンを押した。プツプツという無味乾燥な呼び出し音が聞こえてくる。
竜児は、亜美が応答してくれることを願いつつ、その携帯電話を左耳に押し当てた。

−−川嶋、早く出てくれ。

鼻血が絶え間なく吹き出してくる。竜児はそれを右手の甲で拭ったが、何滴かが携帯電話の操作盤に滴り落ちた。

ジュッ! という音が微かに聞こえ、何かが焦げたような臭いがした。ボタン回りが何もシーリングされていない旧式の
携帯電話、そのボタンの隙間からしみ込んだ鼻血が、基盤をショートさせていた。

「ちくしょう! 何てこった」

携帯電話は、うんともすんとも言わない。何て迂闊な…、と竜児は自身を呪った。
平常心ならこんな失態はなかっただろう。塩分を含み、ただの水よりも電気を通しやすい血液が電子機器にかかった
らどうなるかぐらい分からないはずがない。亜美のことで狼狽した竜児も又、持ち前の冷静さを欠いていた。

竜児は、役立たずになった携帯電話を左手で握りしめ、右手でなおも鼻血を吹き出し続ける鼻面を押さえながら、よろ
よろとバスロータリーに設置されているベンチに向かった。
そのベンチへ大儀そうに腰を下ろすと、顔面を上に向ける。次いで、手探りでバッグのサイドポケットをまさぐってポケッ
トティッシュを取り出すと、それを丸めて左右の鼻腔にねじ込んだ。
最早、亜美と連絡する手だても尽きた。亜美の携帯電話の番号は憶えてもいないし、メモに控えてもいない。携帯電話
に記録されていれば十分だと思っていたのが裏目となった。公衆電話があったとしても、これではどうにもならない。
じれったいが、このまましばらく上を向いて、鼻血が治まるのを待つことにした。

竜児が見上げたその先には、街の明かりと梅雨時の湿気を帯びた大気のせいで、薄ぼんやりとした星空が広がって
いた。その星の乏しい夜空を見ていると、亜美とのやり取りの数々が思い出され、ますます気分が滅入ってくる。
竜児は、それ以上星空を見ることにいたたまれなくなって瞑目した。だが、まぶたを閉じても亜美の姿が浮かんでくる。

『あんたって、本当に“気遣いの高須”なの? まぁ、既に看板倒れもいいところだけどさぁ』

と、怒りを通り越して呆れ果てている亜美の姿。

『据え膳を食べて貰えなかったっていうのは、女にとって屈辱なの。その点は分かってちょうだい』

努めて冷静さを装ってはいるものの、屈辱感から今にも頽れそうな亜美。

『もういい! 高須くんは、やっぱり亜美ちゃんのことなんか好きでも何でもないんでしょ! ラブホは不潔だ、別荘に行
くのは現実逃避だって、そんなことを口実に高須くんは、あたしから逃げて、逃げて、逃げてばっかりじゃないのぉ!!』

そして、竜児に拒まれたことで泣き叫んでいた先刻の亜美の姿が脳裏に浮かぶ。



「受け入れてやるべきだったのかな…」

鼻血のせいで鼻全体が腫れぼったい感じがする。それに呼応してか、頭の芯はぼやけていて、考えがまとまらない。
慢性的な睡眠不足に加えて、鼻血による出血のせいもあるのだろう。気を抜くと、視野が暗転し、意識を失いそうになる。

「しっかりしろ、俺!」

自ら喝を入れるつもりで、竜児は両頬を両手で挟むようにして強めに叩いた。
今、気遣うべきは亜美の安否だ。取り乱して発作的に自殺するような奴ではないと思いたいが、何せ今の亜美は尋常
な状態じゃない。それに、事故や何らかのトラブル、考えたくもないが、通り魔的に暴行を受ける危険だってある。そん
なときに亜美を救ってやれるのは竜児しか居ないのだ。

竜児は、鼻腔に詰め込んでいたティッシュペーパーを引き抜いてみた。どろりと、ゲル状に半ば固まった鼻血が、こって
りとしみ込んでいる。この様子なら鼻血は止まっている。何とか亜美の後を追って歩くことぐらいはできるだろう。

竜児は、バッグを持って立ち上がった。数学の専門書や条文集、さらには一キロ半を超える重さの青本が入ったそれ
は、ずっしりと重い。
竜児の鼻先をかすめた亜美のショルダーバッグもこれと似たような重さだったに違いない。まともに喰らっていたら、
間違いなく鼻骨が折れていた。その点だけは僥倖だった。
そのバッグを肩に掛けて、竜児は歩き出した。

「待ってろ…、川嶋、今、助けてやる…」

当てなどはなかった。亜美が闇の中に消えていった。だから、その闇の中を探るまでだった。


闇雲に走り回った亜美は、息苦しさから立ち止まり、鉄のフェンスにつかまった。そのフェンスは、大橋の欄干だった。

「こんなところに来ていたなんて…」

駅からはだいぶ離れたところに来てしまっていた。時刻が時刻だけに、辺りには人影がない。ただ、ヘッドライトを輝か
せた長距離便のトラックが通り過ぎていくだけだ。
亜美は、そうして行き交うトラックを物憂げに眺めながら、欄干にもたれて乱れた呼吸を整えようとした。
本当に無我夢中で走ったせいで、心臓が限界近くまで脈打ち、胸全体が重苦しい。

「うっ!」

不意に突き上げるような吐き気を覚え、亜美は口元を掌で押さえた。酔いが完全に覚めていない状態で走り回ったの
だから無理もない。

「き、気持ちわ・る・い…」

亜美は、欄干から身を乗り出して、暗い川面に顔を向けた。墨を流したように真っ黒に見える水面が、橋に備え付けら
れている街灯の青白い光を映し出している。
その淀んだ川面から水が匂う。
だが、それは、水質が良好ではないことを示す腐ったような臭気に、初夏になって繁茂した藻の青臭さが加わった、胸
がむかつく異臭であった。

「う、うううう、は、吐きそう…」

その汚臭がとどめとなって、亜美は、川面に向かって胃の内容物をぶちまけた。




「うえええええっ!」

胃酸を思わせる刺激臭を伴ったそれは、虚空を飛散し、ぴちゃん、という水音とともに水面の光を揺らめかせ、そして消
えた。
水面の揺らぎはほんの束の間で収まり、再び先刻と同じように街灯の光を映し出す。その様を、亜美は茫然として見送
るように眺めていた。
思い出すのは、顔面を血塗れにして、跪いている竜児の姿。その傷つき血を流している竜児を見捨てて、亜美は逃げた。

『高須くんは、あたしから逃げて、逃げて、逃げてばっかりじゃないのぉ!!』

そう竜児を詰った亜美だが、その亜美こそが、いざとなると竜児から逃げたのだ。
血塗れの鬼気迫るような竜児に恐れをなしたというのもあるが、何よりも竜児を傷付けた己の行為に戦慄し、その場
に居るのが耐え難かった。

「終わった…」

何もかもが破綻したような壊滅的な気分だった。泣きたくても涙すら出てこない。
何であのとき、竜児の傍に寄り添って手当をしてやらなかったのだろうという悔恨が、今となっては、切なく虚しい。

「う、うふ、うふふふ…」

亜美の顔が笑ったように引きつった。決して笑っているわけではない。精神的に追いつめられて、顔面だかの神経がお
かしくなっている感じだった。
そういえば、恋ヶ窪ゆりも、勢い込んでデートに行った翌日、こんな状態だったことがあった。それを、麻耶や奈々子と一
緒に陰でくすくす笑ったものだ。それが、よもや、自分が同じような境遇に置かれるとは…。
こんなの、全然、笑えない!

亜美は、街灯の青白い光を映す水面に吸い寄せられるような気がした。このまま飛び込めば、全ての懊悩から解放さ
れるに違いない。泳ぎの心得がある亜美だが、ショルダーバッグには青本をはじめとする分厚い専門書が詰まってい
る。水がしみ込めば、格好の重石になってくれることだろう。

亜美は、欄干の上に突いた両手を支えに川面の上へと身を乗り出した。川面の光は妖しく揺らめき、亜美を誘う。取り
合えず吐くものは吐いてしまったせいなのか、青臭い汚臭も今は全く気にならなかった。
その光は、竜児の顔となり、母親である川嶋安奈の顔となり、麻耶や奈々子の顔となり、北村祐作の顔となったように
亜美には思えた。

「みんな、そこに居たの…」

このまま飛び込めば、竜児たちに会える。そんな思いで、亜美は、欄干から大きく身を乗り出した。
後は、この手を欄干から離せば、全てから解放されるのだ。

不意に一陣の川風が舞った。川面に生じたさざ波が、川面に揺らめく妖しい光を打ち消した。
亜美は、はっとした。
さざ波が収まり、元のような光が川面に戻ってきたとき、その光は、先刻、亜美を辱めた瀬川の意地悪い笑顔に見えた。

「あんちくしょう…」

亜美を利用して、サークルを分裂させた憎むべき女。ここでむざむざ死んだら、あの女のことだ、さぞや憎々しげに笑う
ことだろう。
何よりも、死んでしまったら、あの女への報復ができない。
生きていてこそ、弁理士試験にも合格し、あの女の鼻を明かすことができるというものだ。




光は再び妖しく揺らめき、今度は櫛枝実乃梨の容貌を映し出した。
きらきらと太陽のように輝かしい笑顔は、天性のものなのだろう。どこかに翳りを秘めた亜美のそれとは全くの別物だ。
それも道理。亜美の天使のような笑顔は、女優の娘として、モデルとして、人工的に与えられたものなのだから。
本来の地味で陰気と言ってもよい性格では、女優川嶋安奈の娘にはふさわしくない。そのために、母を含めた周囲の
大人たちの要求に応えた演技に過ぎない。
実乃梨は太陽、亜美は月。与えられた明るさを反射するだけの月は、本来、太陽には敵わない。
しかし、太陽である実乃梨にだって、黒点のようにどす黒く醜い負の感情があることを亜美は知っている。

何より竜児を巡る諍いで負けるわけにはいかない。竜児も月なのだ。月と月こそが結ばれるべきではないか。
月が月を求めて何が悪い。

そのためにも生きるのだ!

「きゃっ!」

正気に戻った途端、欄干から今にも落ちそうなことに気付き、亜美は短い悲鳴を上げた。
乗り出していた上体を、そろそろと元に戻し、両足を橋の路面に着地させた。
束の間気にならなくなっていた青臭い汚臭が鼻を突く。

「本当に何やってんだか…」

危うく命を粗末にするところだった。おさまっていた動悸が、今度は恐怖から再び激しくなり、全身にアセトンのような
嫌な臭いのする汗が吹き出している。
自殺なんて、ほんの出来心というか、その場の状況や勢いで簡単にできてしまうことに思い至り、亜美は、両腕を抱え
て、ぶるっ、と身震いした。正気に戻って眺めてみると、深夜の大橋は不気味だ。過去に飛び込み自殺があったという
のも頷ける。
オカルトめいた迷信は信じない口だが、過去に自殺した者の霊が招くというのも、あながち出鱈目ではないのかも知
れない。

亜美は、バッグを肩に掛け直し、その場を足早に後にした。なさねばならないことがあった。たとえ、それが徒労である
ことが明白であってもだ。

競歩のように早足で歩きながら、亜美は竜児の携帯に電話をする。だが、聞こえてくるのは、電波の届かないところに
居るか、電源が入っていない旨の愛想のないアナウンスだ。

「どういうことぉ?」

竜児が携帯電話の電源を切っていたことなど、少なくとも亜美の記憶にはない。
一瞬、亜美は竜児に拒絶されていると思い込みそうになったが、それなら着信後に誰であるかを確認した上で、電話
を切るなり、携帯電話の電源を切るはずだ、と考えた。
我田引水な解釈ではあったが、そう思わないと、気持ちが萎えてしまう。
それに、亜美を拒絶するために、竜児が携帯の電源を切りっぱなしにしている、という根拠もないのだ。

「高須くん…」

亜美は、駅へと急いだ。
竜児が負傷してから都合三十分が経過していたから、もはやその場には居ないと考えるべきではあったが、とにかく駅
に戻りたかった。駅の方に戻れば、竜児に会える、そんな気がした。
駅から大橋までの道順にそれほどのバリエーションはない。それに、竜児のことだ、鼻血が治まったら、亜美が走り去っ
た方向へ向かうかも知れない。そうであれば、途中で遭遇する可能性はある。

駅へ向かうには、片側二車線の幹線道路の歩道を行く。その幹線道路は、昼間の渋滞を避けるためか長距離便の



トラックがひっきりなしに通っていた。

「あっ!」

その亜美の居る反対側の歩道に、見慣れた長身の人影があった。

「高須くん!」

大型トラックが地響きを上げて通過した。その轟音で亜美の声が届かないのか、竜児は、反対側の歩道には目もくれ
ない。

「高須くぅ〜ん!!」

声を限りに叫んだが、無情にも上下線に大型トラックが通り、亜美の願いはかき消された。

??渡ろう! 渡って、高須くんのところに行くんだ。

亜美は周囲を見渡した。信号も、横断歩道も、歩道橋もない幹線道路。しかも、ひっきりなしに大型トラックが通過する。
そのまま車道を突っ切るのは自殺行為と言ってよい。
そのもどかしさで焦燥しながらも、竜児の姿を認めたことで亜美は嬉しかった。
ひとまず竜児は無事だ。鼻血も本人が直後に言ったように大したことはなかったのかも知れない。
それに竜児の家はこっちの方角ではない。竜児も又、亜美のことが気がかりで、亜美を探しているのかも知れないの
だ。

「たぁ・かぁ・すぅ・くぅーん!!」

亜美は再び叫び、飛び上がりながら両手を振った。お願い、あたしに気づいて、あたしはここよ、と念じながら…。

また一台、大型トラックが通り過ぎていった。テレビのCMでお馴染みの宅配業者の商標をでかでかとペイントしたそ
のトラックは、何かの威嚇か、大型車特有の腹に響くようなクラクションを轟かせた。
その音に驚いたのか、竜児がその顔を車道の方に向けてきた、そして反対側の歩道で必死に手を振る亜美の姿を認
めた。
竜児の三白眼が驚きからか大きく見開かれ、その口唇が言葉を紡いだように見えた。行き交うトラックの騒音で、その
言葉は亜美の耳には届かなかったが、唇の動きというか全体の雰囲気で、亜美には分かった。

「か・わ・し・ま」

涙が溢れ、頬を伝って落ちた。今すぐ竜児の元へ行きたい。何なら、この大型トラックが頻繁に行き来する幹線道路を
走って強行突破したかった。

亜美のそうした衝動を知ってか、竜児は、両掌を前に突き出した。『早まるな、ここを渡るのは危険だ』というつもりなの
だろう。
亜美が、そのゼスチャーの意味を理解したつもりで竜児に頷くと、竜児は、右手で大橋駅方面を指呼した。竜児が指し
示した二百メートル程先には、幹線道路の下をくぐる歩行者専用のトンネル状の通路がある。そこを渡って落ち合おう
というのだろう。
亜美は、了解したという意思表示の印しに、右手を大きく振った。竜児もそれに応えるように右手を振ってきた。
竜児が歩き出した。亜美も歩き出す。車道で隔てられた二人は、反対側の歩道に居る相手の存在を確かめるように、
時折、視線をそちらの方に移しながら、競歩のように早足で歩いて行った。
本当は駆け出したかった。しかし、焦ることはない。もうじきだ。通路に行き着けば竜児にめぐり会える。会って、先刻の
ことを謝罪し、実乃梨とも決着をつけるつもりで、実乃梨の練習試合に赴くことも告げねばならない。

歩行者専用のトンネル状の通路が、その部分だけ歩道よりも一段高くなっている幹線道路の下を貫通していた。その



反対側の入り口に長身のシルエットが浮かび上がった。

「高須くーん!!」

そのシルエットに亜美は駆け寄った。

「川嶋!!」

シルエットの主も亜美に向かって駆け出し、通路のほぼ中間地点、仄暗い蛍光灯の光の中で二人は抱き合った。

「心配かけやがって…。どこも何ともないか?」

『それは、あたしの台詞よ』と亜美は言いかけたが、やめにした。竜児はどこまでも『気遣いの高須』であるつもりなの
だ。その気遣いのベクトルが多少ずれてはいても、亜美のことを思ってくれていることに違いはない。

「う、うん、大丈夫…、どこも何ともないわ…」

「そうか、よかった…」

「あ、あの、高須くん…」

亜美が、おずおずと謝罪の言葉を口にしようとした。しかし、竜児は、淡い笑みを浮かべて首を左右に振り、亜美の口唇
に人差し指をあてがって、その言葉を封じた。

「何も言うな、川嶋。この通り、俺は何ともねぇ。鼻血はすぐに止まったよ。俺も無事だし、お前も無事だ。それだけで十
分じゃねぇか…」

「あたしを叱らないの?! 高須くんに散々わがままを言った挙句に、高須くんを傷付けたんだよ、それでも平気なの?! 
鼻の周りには血がこびりついているし、そのシャツだって、血の痕がはっきりしてるじゃない!」

竜児は、瞑目し、スレンダーな亜美の身体を、ぎゅっと抱きしめた。

「強いて、お前を非難するとしたら、パニックになって飛び出したことだ。まるで飛び込み自殺でもしかねない勢いだっ
たから、心配したんだぞ。でも、何ともなくて本当によかった…」

まるで、先刻の大橋での振る舞いを想定していたような竜児の言葉に亜美は、ぎくりと驚悸し、頑是無い子供のように
竜児の身体にしがみついて哭泣した。

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「お、おい、川嶋…」

亜美の激しいリアクションに竜児は一瞬たじろいだが、すぐにその意味するところを悟ったのか、無言で、長い指を亜
美の長い髪に絡め、その髪を梳くように二回、三回と撫で下ろした。

通路上の幹線道路を、かなり大きなトレーラーでも通ったのか、通路全体が軋むように揺らぎ、コンクリートの天井か
らは、細かい破片のようなものがパラパラと落ちてきた。
唯一の照明である蛍光灯は、寿命が近いのか、チカチカと不安定に明滅している。時刻は昔で言う丑三つ時が近い。
そんな中で、竜児と亜美は互いにしっかりと抱き合っていた。

通路内での抱擁は、時間にすれば、ほんの二、三分であったかも知れない。
亜美の様子もだいぶ落ち着いてきたと判断したのか、竜児が亜美に問い掛けた。




「川嶋、歩けるか?」

「う、うん…。大丈夫…」

本当は、ちょっと足元がおぼつかない。でも、これ以上、竜児に甘えるのは、さすがに心苦しかった。
そんな折にも、上の幹線道路を再び大型トレーラーが通過したのか、竜児たちが佇む通路全体が揺れる。

「であれば、長居は無用だな…」

竜児は、亜美を促して、亜美が入ってきた側の出口を目指した。その出口の方が、駅に行くにも亜美の家に行くにも、
方角としては都合がよい。
オレンジ色のナトリウムランプが眩い幹線道路沿いを、竜児と亜美は並んで歩く。車道はトラックの往来が激しいもの
の、歩道を往く者は竜児と亜美以外には居ない。辺りはコントラストが強いオレンジ一色に染められ、存在するもの全
てが無機的に見えてくる。

「ねぇ…」

「ん?」

「やっぱり、あたしって間違っていたみたい…」

「間違っていたって、何が?」

亜美の唐突な問い掛けが意味不明だ、と言わんばかりに、竜児が怪訝な顔をしている。
その竜児を亜美は上目遣いで見上げ、瞑目して、口元に淡い笑みを浮かべた。

「色々とね…、特に問題なのは、高須くんの気持ちを理解していなかったこと…。その次に、まずかったのは、高須くん
の真意を知らずに、あたしが焦って空回りしていたこと…」

「なんだい、思わせ振りな物言いだな」

亜美は、竜児の横顔を見た。その顔は、目を細めて苦笑しているように見えた。

「本当は、分かってるんでしょ? あたしの言いたいこと…。まぁ、いいわ。はっきり言うと、高須くんが本当はあたしのこ
とを好きじゃないんじゃないか、ってあたしは思い込んでいた。これが第一の過ちね…」

「もう、その話はいいよ…。今日は色んなことがありすぎて、川嶋は疲れている。これ以上、あんまり自嘲的なことは言わ
ない方がいい」

だが、亜美は首を左右に振った。

「ううん、この場ではっきり言わせて。でないと、多分、同じ過ちを繰り返すんじゃないかって思うの」

「過ち? 大げさだな」

「過ちどころか、罪だと言ってもいいくらい。だから、懺悔のつもりで言わなきゃいけない…」

「そうか…、それなら川嶋の気の済むまで話せばいいさ…。俺も、ちゃんと聞いているよ」

亜美は、「うん…」と、頷いた。許可は得た。後は努めて冷静に思ったことを述べるまでだ。




「実乃梨ちゃんが現れたことで、あたしは動揺した。そして、高須くんの真意を疑い、焦った。ものすごく簡単に言えば、
こうなるかしら…」

「なんだい、えらく簡単な説明だな」

「いきなり微に入り細に入りな説明じゃ、分かりにくいと思って要約したのぉ!」

のっけからの竜児の素っ気ない返事に亜美はむくれたが、気を取り直した。ここで臍を曲げては懺悔も何もあったもの
ではない。

「まぁ、いいわ…。とにかく、あたしは実乃梨ちゃんと高須くんとの関係を疑った、そういうことなのよ」

「櫛枝のことなら、俺の方では、もう決着はついている。川嶋が怪しむようなことは何もないよ」

竜児は伏し目がちだが、その態度は落ち着いている。
亜美は、そんな竜児を涼やかな瞳で見ながら、その言葉に嘘はなさそうだと思った。

「でも、あたしの主観では納得できていなくて、もやもやしていたのね。そのもやもやな部分が、月曜日に現れた実乃梨
ちゃんのあんたに対する馴れ馴れしい態度で噴出した。後は、もう本当に悪魔の仕業じゃないか、っていうくらいトラブ
ルが重なって、今日みたいなことになっちゃった…」

「いろいろあったよな、今週は。それについては、鈍感な俺に非があるし…。それに、今日のコンパで、よもやあんな上級
生が出現するとはな…」

竜児の『鈍感』の文言に、亜美は突っ込みを入れようかと思ったが、ひとまずは自粛した。重要な論点ではあるが、取
り上げるのはもうちょっと後にしたかったからだ。

「あの瀬川って上級生には、ほんとにびっくり…。あそこまでの徹底的なワルは、あたしにとっても、高須くんにとっても、
前代未聞だったわよね。あんなのが、法律職に就くかも知れないなんて、ちょっと空恐ろしいかも…」

「ああ、卑劣な手段も辞さないところが嫌らしいな」

「でも、あの上級生は外的な要因…。あたしたちが弁理士試験に合格すれば、あいつの鼻を明かしてやるぐらいにはな
るだろうけど、それ以外では、どうにもできないわね」

亜美は、何気なく言ったつもりだった。しかし、竜児はただでさえ精悍な表情を、さらに引き締めていた。

「いや、そうでもないんじゃないか? 仮に俺たちが弁理士になれたとすれば、ありがたくはないが、関わってくる可能
性はありそうだ。何せ、弁理士は全国に八千人程度しか居ないんだよな? であれば、瀬川が審判や訴訟で敵方とし
て現れることだってあり得る」

亜美は、はっとした。

「そっか! そうだよね。もし、無効審判とかで瀬川が相手方の代理人だったら…」

「おぅ、俺たちのタッグで、ぐうの音もでない程、懲らしめてやることだって夢じゃない」

そう、弁理士の業界は狭いのだ。であれば、仕事の上でぎゃふんと言わせる機会はあるのかも知れない。
そのためにも、弁理士試験には合格しなければならない。

「あたし、やる気出てきた!」




「俺もだ。遠い遠い未来の話だろうが、今日の屈辱は何倍にもして返してやろうじゃねぇか」

「うん!」

問題は、学内のサークルが、当の瀬川たちによって潰されてしまったことだが、何も弁理士試験はサークルや予備校に
通わないと絶対に合格できない、というものでもない。
弁理士が個人的に主宰する受講料が低廉な私塾の類はいくつかあるので、これを利用する手もある。あるいは、青本
をはじめとする法学の専門書で普段は自学自習していて、予備校等が行っている答練と呼ばれる模擬試験で、定期
的に実力をチェックするという学習方法だって考えられるのだ。

「学習方法については、一から考え直さないとダメだろうが、当面は川嶋と俺とで一緒に青本と条文を読んでいくって
ことでどうだろう?」

「それでいいよ。決定的な学習方法とかは、青本を読みながら、じっくり考えていこうよ」

「そうだな…」

道は幹線道路と大橋駅へ向かう通りとの交差点に差し掛かった。竜児と亜美はその交差点を左に曲がり、大橋駅へ
と向かう。通りは閑散としていて人影はない。

「ねぇ…、話を蒸し返すようだけど、さっきの続きを話してもいいかしら?」

通りに入ってすぐ、亜美がまた問い掛けてきた。

「うん?」

もう、亜美の懴悔話は終わったと思い込んでいたのか、竜児は無防備な生返事をよこしてくる。
亜美は、その曖昧な返事を、竜児の肯定と受け取ることにした。

「さっきだけど、あんたは自分のことを『鈍感』って言ってたよね?」

「ああ、川嶋には『女心の機微が分かってない』って、散々に怒られたからなぁ。それについては、否定できないし、弁解
のしようもねぇだろ?」

亜美は、「そうね…」と言い、一瞬瞑目して微笑した。竜児にも一応の自覚はあるらしい。

「でもね、あたしも高須くんの気持ちには鈍感だった…。それが、あたしの過ちね。あたしは、高須くんを万事に鈍い機
転の利かない朴念仁だって決めつけていたんだわ」

「手厳しいな…」

「でも、高須くんが色恋沙汰に疎いっていうのは確かじゃない? だからあたしは焦った。鈍い高須くんは、あたしの気
持ちを理解できずに、また、実乃梨ちゃんの方へなびいちゃうんじゃないかって、ものすごく不安になった。それで…」

亜美は、羞恥からか、言葉を詰まらせた。竜児との絆が不安だったから、肉体的に竜児と結ばれたかったのだ。それを
明言することに亜美は一瞬、躊躇した。

「それ以上はさすがの俺にだって分かるよ…。だから、無理に言わなくたっていい」

竜児の気遣いが亜美には嬉しかった。だが、言わねばなるまい。重要な論点は、むしろここからなのだ。

「うん、でも言わせて。あたしがバカなのは、エッチしないと高須くんとは結ばれないって思い込んでいたこと。もちろん、



あたしはそうした焦り抜きで、高須くんとはいつだってエッチしたい。本当は、今、この場でだって高須くんが望むなら、
やってもいいくらい…」

「お、おい、おい…」

竜児が困惑した表情で亜美を見ている。先刻、駅前で『ラブホに行こう』と竜児に迫った時と同じだと思っているのだ
ろう。

「でも、違うの。肉体の結び付きは確かに大切だけど、それは心の絆とはイコールではないということ…。心の絆を軽視
して肉体で結び付いても、それは、所詮、刹那的なものなんだわ。そんな簡単なことも、あたしは理解できていなかった
のね…」

「そうか…」

竜児が、少しほっとして呟くように言った。

「実乃梨ちゃんが現れたことで、あたしは高須くんの愛を疑った。その焦りと不安から高須くんの肉体を求めた。それは、
あたしの方が高須くんとの心の絆を軽視していたからなんだわ。でも、高須くんは、あたしのせいで怪我をしているの
に、自分よりもあたしの安否を気遣ってくれていた…。高須くんとの間には心の絆があったのに、それに気づかず、
むしろそれを否定すらしたあたしは、本当にバカで鈍感だわ…」

「よせやい、川嶋が俺を疑ったのは、俺の方が態度をはっきりさせなかったからだ。川嶋でなくても、誰だって、俺みた
いな態度があやふやな奴には怒って当然だよ」

「高須くん…」

「それに、この前のデートで『永遠の愛』を誓ったのはマジなんだろ? その誓いを俺の方から勝手に破るわけにはい
かねぇ」

「どうしてぇ? あたしは高須くんに怪我をさせたんだよ、もう、あの誓いなんて無効だとは思わなかったの?」

竜児は瞑目して、ふっ、と苦笑した。

「永遠は少々のトラブル程度で滅しないからこそ永遠なんじゃねぇのか? だから俺は、鼻血が出ても川嶋を放ってお
けなかった。自分の怪我が大したことなければ、真っ先に川嶋を救いに行かなきゃいけねぇ。そんなのは当然だよ…」

愛すべき愚か者とは、竜児のような人間を言うのだろう。愚直なまでに相手を信じ、そのためには自己犠牲も厭わない。
何があっても、この人にはついて行こう、あたしもこの人とは『永遠の愛』を誓ったのだから、と亜美は思った。

「な、泣くなよ…」

予期せぬ亜美の涙に狼狽して、竜児はハンカチを取り出した。だが、それが自分の鼻血まみれなのに気付き、嘆息し
て、握り締めた。

「ハンカチだったら、いいよ…」

亜美は、手の甲で目頭を拭い、「はい、これでオッケイ!」と強引に微笑んだ。

二人は、大橋駅のロータリーにたどり着いた。客待ちのタクシーが二、三台止まっているのを除けば、人っ子一人居ない。

「川嶋の家は、駅の向こう側だったよな。タクシーでそこまで送るよ」




「タクシー代がもったいないからいいよ。それより、高須くんさえよかったら、歩いて帰ろうよ。その方がエクササイズにな
るし、何よりも、もうちょっと高須くんとお話ししたいし…」

「そっか、じゃあ、歩こうか…」

ゴーストタウンのように無人の駅前商店街を通り、亜美の家を目指す。

「ねぇ、明日っていうか、もう今日なんだけど、実乃梨ちゃんの練習試合、あたしも高須くんと一緒に行くよ」

竜児は、ちょっと驚いたような顔をして、亜美の顔を覗き込んだ。

「いや、お前、木曜日には行かないって…」

亜美は、覚悟の程を示すかのように、まなじりを決して竜児の視線に応えた。

「実乃梨ちゃんの試合を見に行かないっていうのは、あたしが実乃梨ちゃんから逃げているってことなんだわ。それじゃ、
何にもならない…。だから、あたし行くの。行って、状況によっては、高須くんの伴侶である覚悟を示してくる。そのつもり
なの…」

「ちょっとテンション高すぎじゃねぇのか? 俺は、もう櫛枝とは吹っ切れたし、櫛枝だって、俺のことは何とも思っちゃい
ねぇさ」

竜児がなだめるような口調で亜美を諭した。だが、亜美は引き締めた表情そのままに、竜児の顔を見つめている。

「彼女は、あんたに未練がある。それは、高須くんが気付かないだけ、ひょっとしたら、気付いていても、それを認めるこ
とを恐れているだけ…」

「お、おい、川嶋、考え過ぎだって…」

亜美は首を左右に、ゆっくりと、しかし大きく、二度、三度と振りながら、きっぱりと宣言するように言った。

「だから、あたしの考え過ぎなのかどうかを確かめるためにも行くの。そして、場合によっては、実乃梨ちゃんと差しで話
し合ってくる…。そのためにも、あたしが行かなければ何も始まらないわ」

「でもなぁ…、月曜日の昼みたいなことにならねぇとも限らねぇし…」

竜児が、珍しく眉をひそめて不安気な表情を示している。

「大丈夫だって! 月曜日は覚悟がないまま実乃梨ちゃんの急襲を受けたから迎撃に失敗したの。こちらの方に覚悟
があれば、あんな失態はしないわよ。だから、あたしを信じて、あたしも練習試合の観戦に連れて行ってよ」

「急襲とか、迎撃とか、櫛枝をもろに敵扱いなんだな。本当に大丈夫なのか?」

なおも、不安気な竜児を少しでも安心させようと、亜美はできるだけ明るい笑顔を心がけ、朗らかな声で竜児に言った。

「そう、彼女は敵だわ。それも敵ながら天晴れな。ソフトボールの選手として精進している姿勢は、弁理士を志すあたし
たちが手本にしたいくらいじゃなぁい? だから、これを機会に、彼女と向き合ってみたいのよ」

竜児は、亜美の言葉に納得したのか、「そうか…」とだけ呟いた。

「それと、気になることが未だあったわ…」




「何だ?」

「ねぇ、高須くんの携帯、電話しても『電源が入っていない』って、アナウンスされたんだけど、どうかしたの?」

竜児は、ちょっと困惑したように、眉をひそめ、一瞬の間を置いてから話し始めた。

「ああ、実はな、壊れちまった…」

「え、えっ! 火曜日に見せてくれた青い携帯電話でしょ。別に問題なく使えてたみたいだったけど、一体どうしたの? 
もしかしたら、あたしが壊しちゃった?」

「い、いや、もうとっくの昔に機種を変えてなきゃいけないような旧式だから、とうとう寿命が来たってことなんだろうな」

「ふーん…」

竜児が下手な嘘をつくときに特有の、冷や汗が額に浮き出ていることを亜美は認めた。竜児の携帯電話が壊れたの
は、間違いなく顔面に亜美のバッグを受けたことと何らかの関係がある。それを、亜美に隠しているのだ。竜児なりの
気遣いのつもりなのだろう。

「じゃぁ、午前中は講義があるし、午後は実乃梨ちゃんの練習試合の観戦があるから、それが終わったら大橋駅前の
携帯電話ショップへ一緒に行って、代わりの携帯電話を買いましょうよ」

「お、おう…」

亜美は、ちょっと意地悪そうに、にやりとしていたに違いない。

「で、その壊れちゃった携帯電話には、いろいろ大切なデータが残っているんでしょぉ? 例えば、この前に撮った亜美
ちゃんの写真とか…。そのデータをサルベージしなくちゃいけないから、どっちみち何が故障の原因かは突き止めなく
ちゃ。ねぇ、高須く〜ん」

「……」

嘘がバレているらしいことに気付き、表情をこわばらせている竜児をよそに、亜美は、うふふ、と笑った。

『あたしを謀るなんて十年早い。でも、故障の責任はあたしにありそうだから、機種を変更するのに必要な料金は代わ
りに負担してあげよう』、と亜美は思った。竜児が素直に了承するとは思えないが、それでこそ竜児だと思う。ほいほい
と亜美から金を貰うような軽薄な男ではないからだ。

二人は亜美の家の前に辿り着いた。

「高須くん、今日は本当に色々とごめんなさい、そして本当にありがとう…。あたし、高須くんのことをもっとちゃんと信じ
てあげてれば、こんなことにはならなかったような気がする。でも、その過ちが高須くんのおかげで漸く分かった…。
だから、明日は大丈夫。いつものように、あたしが理学部旧館へ高須くんを迎えに行くから、そうしたら一緒に実乃梨ちゃ
んの練習試合を見に行きましょ」

「ああ、今日は、俺も色々と済まなかった。でも、川嶋に信じてもらえるのは嬉しい。明日は櫛枝の試合でよろしく頼むよ」

「ええ…」

竜児は、それだけ言うと、亜美に背を向け、自宅へ向かって大股で歩み去った。その姿が闇に溶け込んで見えなくなる
まで、亜美は玄関に佇んでいた。
竜児の姿が闇に完全にかき消えた時、ふと夜空を見上げた。先ほどまで、薄い雲のようなベールに覆われていた夜空



には、街明かりにもめげずに瞬く星々があった。
明日は、うまくいけば絶好の観戦日和になるかも知れない。そう思いながら、亜美は玄関の鍵を開けた。


翌朝、連続する電子音で亜美は目を覚まされた。寝ぼけ眼で目覚まし時計を手に取って鳴っていないことに気づき、
おっかしいなぁ、と思いながら重いまぶたを無理矢理に開いて見渡すと、時計ではなく机の上の携帯電話が鳴って
いた。あわてて取り上げ、若干の期待感を込めてフリップを開く。しかし、液晶画面を見た亜美は、腫れぼったいまぶた
を物憂げに半開きにして、嘆息した。

「何だ、麻耶か…」

考えてみれば、竜児の携帯は壊れているのだ。であれば、彼からの電話かも知れないと期待する方が間違っている。
それに、麻耶からの電話だって悪くはない。何と言っても、彼女は気を許せる大切な友人の一人なのだから。

「もしもしぃ〜? 麻耶ぁ〜? おひさぁ〜〜、元気してたぁ〜〜?」

寝起きであることがバレてしまいそうな、語尾を不自然に伸ばした話し方で、亜美は電話に出る。案の定、亜美の本性
というか習性を既に看破しているに違いない麻耶に、その話し方を突っ込まれた。

「おんやぁ〜? もう八時過ぎだってぇのに、何か眠そうじゃん。さては、寝起きだなぁ〜」

「う〜ん、そだよ、だから、すっげ〜眠いの…」

バレちゃしょうがない。
それに、寝起きで血の巡りが悪い脳みそで嘘や屁理屈をこねくり回しても、ろくなことはないからだ。
昨夜は、竜児にエスコートされて帰宅したのが午前二時半、就寝は三時過ぎだった。その上、八時半までは寝ている
つもりだったのを麻耶からの電話で予定より三十分ほど早く起こされてしまった。少々睡眠不足なのは否めない。
面倒臭いから麻耶には説明しないけど…。

「あはは、正直でいいねぇ。でさぁ、突然なんだけどぉ、よかったら、今日の午後、駅前のホテルのケーキバイキングに行
かない? なんかさぁ、日頃ダイエット意識していると、無性に甘いものが欲しくなるんだよね」

亜美も思い出した。大手の名の通った系列のホテルでやっている奴だ。バイキングに出てくるケーキだから質より量か
も知れないが、それでも一応は有名ホテルである。それなりのものを出してくることだろう。以前から気になっていたが、
行ったら最後、際限なく食べまくって、その後、しばらくは自己嫌悪に陥ることは必至と思えたので、敢えて無視してき
た。しかし、気心の知れた友人からの誘いとなると別である。

それに、夕べはコンパだったが、ビールは飲んだものの、ダイエットを気にして、枝豆や豆腐等の高蛋白で低カロリーな
ものしか口にしていない。それも、尾籠な話だが、大橋の上から吐いてしまった。従って、夕べからの摂取カロリーは、
胃壁からすぐに吸収されたであろうアルコールを除けば、限りなくゼロに近い。だから、多少、ケーキを食べ過ぎても、
今日に限っては大丈夫だろう。しかし…。

「う〜ん、あたしも、すっげ〜行きたいんだけど…、今日の午後は先約があるんだわ…。だから、奈々子とでも二人で行っ
てきなよぉ」

「え〜っ、先約ぅ? あんた、未だ土曜日の午後は高須くんとのプチデートやってんの? いい加減、飽きないのぉ? 
もう、ほぼ毎週でしょ?」

呼吸音にも似た不自然なノイズが混じっている。麻耶があきれてため息を吐いているのだ。
ちなみに麻耶が言う『プチデート』とは、土曜日の午後、講義が終わった竜児と一緒に大学から徒歩で出かけられる
範囲を散策することである。エクササイズも兼ねて、可能な限りバスや地下鉄には乗らず、フリーマーケットを冷やかし、
根津等の下町で買い物をしたり、果ては神田、日本橋を経て銀座まで足を伸ばすこともある。かなりの運動になるので、



おかげで亜美もジムに行かなくても、以前のスレンダーな体形を維持できているというわけだ。
なお、『プチ』ながら『デート』であることを意識しているのは専ら亜美であり、竜児の方は単なる買い物か町中の探検
程度の認識でしかない。

「う〜ん、ほぼじゃなくて完全に毎週なんだけどぉ、今日だけは違うんだ。今日はさぁ、あたしらの大学と実乃梨ちゃん
とこの大学とのソフトボールの試合を見に行くことになってるぅ…」

「えっ〜、あんたと櫛枝って、結局、高校のときに高須くんを巡って決裂したじゃん。大丈夫なの? 真っ赤な雨が降っ
たりしないよね? あんたが櫛枝の頭をバットでボコって、警察のご厄介になるような真似はしないでよ、頼むから」

半ば冗談混じりながら、電話口での麻耶の声には、亜美を咎めるような雰囲気があった。何せ、酔って竜児宅で一升
瓶を振り回したり、ストーカーを追撃して撃退したり、何よりも並の男よりも腕力がある実乃梨と本気の取っ組み合い
をしたりと、それなりの武勇伝がある亜美だけに、麻耶が危惧するのも無理はない。

「大丈夫だって、そんなことしないってぇ」

「それなら、いいけどさぁ…」

電話口の麻耶は半信半疑のようだ。
しかし、今日ならば大丈夫だ。実乃梨と差しで穏便に話し合うことを竜児にも宣言したのだ。何があっても諍いなしに
済ませる。それが絶対条件でもある。

「まぁ、あたしも、最初、あんまし気が進まなかったんだけどね、祐作が是非って言うもんだから、高須くんと行くことになっ
ちゃった。てへ…」

「何よ、結局はプチデートじゃん。それに、まるおも居るの? それに櫛枝か…。何だか、大橋高校の面々が揃うのねぇ」

まるおこと北村祐作が居ると聞いて、麻耶はちょっとだけ心がときめいたのか、電話の声が急に明るくなったように
亜美は感じた。

「そだよ、麻耶も来るぅ? 来れば祐作とプチデートになっからさぁ」

と言って、麻耶をからかうつもりなのか、亜美は、あひゃひゃひゃ…と笑った。

「い、いや、遠慮しとく…。この前のピクニックで、ちょっとアレだったから…。やっぱ、まるおは…」

「え〜と、あれか? 『まるおが、丸出しぃ〜』って奴がトラウマになっているのかなぁ〜?」

「う、うわぁ〜っ! 勘弁してよぉ! もろに見ちゃたんだからぁ」

「おんや、ギャル系を標榜するあんたらしくもない。あんなもん、いずれ誰だって、入れポン、出しポン、片手でポンじゃな
い、どうってことないわよ」

「うううう…。あんた、高須くんとそこまで行ってるんだ…」

実は、竜児とはB止まりなのだが、取り敢えず見えを張った。本当は亜美だって、あんなグロいもんを突っ込まれるのは
怖い。初めて自分の指を入れた時だって、こわごわと挿入したほどだ。でも、竜児のだけは別だ。昨日のこともあるが、
やっぱり竜児との初エッチは、できるだけ早いうちに済ませたいと思う。それも中出しで…。

「ま、それはさておき…、せっかくのお誘い、あんがとなんだけど、ちょっと義理で試合を見に行くことになってんのよ。で、
さぁ、悪いけど、奈々子様とお二人で楽しんできてよ。あたしも今日は思いっきりケーキ食いたいけど、世間のしがらみ
でそうはいかねーんだわ…」




「奈々子かぁ…」

何だか麻耶の電話の声がすぐれない。

「奈々子がどうかしたのぉ?」

「いや、あの子なんだけどさ、最近、すっごく付き合いが悪いんだ。強いて言えば、あんたくらい…」

「どういう意味よぉ〜」

「もう、そのまんまだけどぉ? 毎週土曜日、高須くんとのプチデートに夢中な、色ボケ亜美ちゃんと同じくらい付き合い
が悪いんだ。奈々子は…」

「色ボケって、あんた…」

傍からは、そう見えるのだろう。ちょっと恥ずかしいが、それはそれで悪い気はしない。周囲からも亜美が竜児を好きな
ことがはっきり分かるのは、嬉しくもあるし、ストーカー紛いのキモオタ除けにもなる。
問題は奈々子だ。亜美にも奈々子の急変ぶりが気になってきた。

「奈々子の付き合いが悪くなったのはいつからなの?」

「う〜んとね、例の祐作とのピクニックの翌週、つまりこないだの土曜日から急変した。いつもは土曜日なんて暇してた
はずなんだけどぉ〜、先週に加えて今日もダメなんだよね…」

亜美は、「ふ〜ん、たかが二週連続なだけじゃん」と間延びした合いの手で、表向きは興味がなさそうに聞いていたが、
急にあることを確信した。

「あ〜っ、そりゃ、男だね。奈々子の奴、毎週土曜日、男と遊んでんだよ」

「え〜っ! やっぱりそうなのかな…。誰なんだろう」

亜美には竜児が居るし、奈々子にも男が居るとなると、大橋高校の美女トリオで、麻耶だけが売れ残りということにな
る。そんな焦りが、電話口の声にはにじみ出ているのだ。
一丁、からかってやっか、と亜美は思った。

「誰なんだろうねぇ〜、案外、祐作とかだったりして〜」

亜美は、「うひひ…」と、『人の不幸は蜜の味』を地でいくような笑い声を添えて言ってみた。

「うわぁ〜ん、勘弁してよぉ〜。まるおが奈々子と? そ、それは、ちょっと悲しいかも…」

電話口の麻耶は、何だか泣き出しそうなほどに意気消沈している。亜美は、やりすぎたか、と少々ばつが悪くなった。

「まぁ、祐作が奈々子の相手だってのは冗談だって。だってさぁ、落ち着いて考えてみなよ。奈々子は今日も付き合いが
悪いんでしょ? で、祐作は、あたしや高須くんと一緒に、実乃梨ちゃんの試合を見る。祐作にはアリバイがあるってこと
になりそうだから、あいつじゃないわよ」

「う、そっか、そうだよね。うう、よかったぁ〜」

電話口の麻耶は、心底安堵したのだろう、亜美の携帯にもはっきり聞こえるほどの大きなため息を吐いている。
それにしても、麻耶は北村の変態性を嫌悪しながらも、諦めきれていないらしい。あんな変態、やめときゃいいのに…と、



亜美は内心思うが、『蓼食う虫も好き好き』なのだろう。それは、三白眼の竜児とつき合っている亜美にも当てはまる。

−−それにしても、奈々子の相手は誰だろう、もしかして能登? まさかね…。

そんなことを考えながら、亜美は時計を確認した。もう、何だかんだで三十分も話していたことになる。そろそろ、シャワー
を浴びて、遅蒔きながら朝食をとり、大学に向かう準備をしなければならない。

「ごっめ〜ん、そろそろ大学に行く準備しないと。せっかくのお誘いなのに、ほ〜んと残念。また、今度よろしくねぇ〜」

「う、うん。じゃあ、まるおと高須くんによろしくね。それと…」

「それと?」

麻耶の付け足しめいた問い掛けが気になって、亜美は思わず聞き返してしまった。

「亜美は、土曜日は講義がないのにもかかわらず毎週大学に行くんだね。高須くんとのプチデートのためだけに…。
それを高須くんは知ってるの? 私の知ってる高須くんなら、亜美にそこまでの負担はかけさせまいとするだろうから、
高須くんは、土曜日は亜美も講義があるものと思い込んでいるんだろうね」

「そ、そんなことはないわよ…」

図星だった。

「そう? ならそれでもいいけどぉ〜。なんかさぁ、亜美って健気だよね。悪く言えば、頑固か…。何だか高須くんみたい
だね、似た者同士ってことなんだろうけど、お互いに気ぃ遣いすぎないようにしたほうがいいかも…。あ、ごめん、こんな
こと言うつもりじゃなかった。勘弁してぇ〜」

「ううん、気にしてないから。それとせっかくのお誘いを無下にしたしたから、この埋め合わせに、今度は、高須くんや
祐作、それに奈々子と、可能であれば奈々子の謎のお相手を交えて、どっかでホームパーティーでもしない?」

「あっ! それそれ、それいいねぇ!! じゃ、長電話になっちゃって、ごめんねぇ。またぁ〜」

北村を交えてのホームパーティーで機嫌が直ったのか、朗らかな声で、麻耶は通話を締めくくった。それを合図に、男
が聞いたら女性観が覆るほどの下品な、いや違った、忌憚なきギャルトークは終了した。

「頑固者、似た者同士か…」

ちょっと嬉しそうに呟いて、亜美は携帯電話をショルダーバッグに仕舞った。
その言葉をリフレインのように何度も呟きながら、亜美は手早くシャワーを浴びて朝食を取ることにした。
家の中は閑散としていた。伯父も伯母も仕事に行っているらしい。シャワーを終えた亜美は、髪の水分を吸水性のよい
タオルでできるだけ拭い取り、形を整えた。ブローは髪が痛むのでできるだけ使用しないのがポリシーだ。
そして、いったん部屋着にしているTシャツとジャージ姿になると、台所に立って、朝食の準備をする。と言っても、簡素
なものだ。竜児から伝授された、大根、人参、牛蒡、筍、椎茸、それに鶏肉を昆布と鰹の出し汁で、ごく薄味に仕上げた
煮物と、焼いた甘塩鮭、それに炒り卵だ。ご飯は煎り大豆と、小豆と、麦とを混ぜて炊いたもの。ただの白米よりもミネ
ラルや繊維素が多く取れる。これも竜児からの受け売りだ。
今では伯父も伯母も、亜美が作り置きしている煮物を喜んで食べてくれている。
何でも、竜児直伝の煮物は、出汁のうま味を極力引き出すことで、低塩分でも十分に美味しい点がいいらしい。
さすがに、二人とも医療関係の従事者というだけのことはある。
亜美は伯父と伯母には『この煮物は、お友達から教わったの』とだけ言っている。その友達が男だとは、夢にも思うまい。

朝食を終え、手早く食器を片づければ、後は着替えてメイクを整え、大学へと出かけるだけだ。
今日は、日差しが強そうなので、コットンの長袖ブラウスに、下もスリムなコットンパンツにする。



ちょっと暑いかも知れないが、半袖の形がくっきり残るような日焼けをするよりはマシである。
メイクも紫外線対策がメインだ。ついでに日傘も持った。
午前九時半。戸締まりをして大橋駅に向かう。あの蒸し暑い理学部旧館では竜児が一時限目の線形代数学の演習を
受けている頃だろう。
大橋駅から私鉄電車に乗り、その私鉄とJR山手線と地下鉄が接続する駅で地下鉄に乗り換える。大学最寄りの駅で
下車すれば、キャンパスの門は、もう目と鼻の先だ。
キャンパスには十一時前に到着した。午前の講義が終了するまで、しばらく時間がある。
亜美は、門をくぐると図書館に向かった。時間が少しでもあるのなら、細切れでもいいから弁理士試験に関わることを
調べておきたかった。本当なら、青本を使った勉強が一番なのだが、青本は初学者には難解ということもあって、一時
間程度拾い読みしただけでは大した学習効果は期待できない。青本に限らず専門書は腰を据えて読まないとダメな
のだ。
だが、一時間程度しか時間がなくとも、できることはある。それは、名著と呼ばれる専門書に触れてみることだ。亜美は、
『特許・実用新案法』というプレートの掛かった書架から『特許法概説』を取り出した。合格者の多くが『歴史的名著』
と絶賛する書籍である。しかし、著者は既に他界し、その後は法改正に対応できていないままの古い版で発行されてい
たが、数年前に絶版となって、今では古書の入手も困難となっている。亜美も、インターネットのオークションでこの『特
許法概説』が出品されているのを見たことがあったが、新刊時に七千円程度だったものが、三万円ほどで取引されて
いることに驚かされたものだ。

「これがそうなんだぁ…」

古い時代の専門書に特有の黒い表紙が格調高い。背には金文字で『特許法概説 吉藤幸朔著』と記してあった。
ずっしりと重いその本を手に取って、おもむろにページを繰る。特許法第四十一条の『国内優先権制度』のページが目
についた。細かなフォントでびっしりと情報が詰め込まれたそのページを、ちょっとだけ読んでみる。

『…技術開発の成果を包括的に漏れのない形で特許権として保護することを可能ならしめるものである…』

的確な表現と格調高い言い回しが心地よい。

「何だか、青本よりも文章が上手でわかりやすい…」

同じような記述は青本にもあるのだが、どうもあちらは官僚の作文臭くて、いまいち頭に入りにくい。しかし、この『特許
法概説』はさすがに名著と言われるだけあって、青本よりも読み手に配慮した書き方がなされているような気がする。
これはいい本だ、と亜美は直感した。難解な事例や、抽象的な概念も比喩を交えて分かりやすく説明しているのがい
い。たしかに法改正には対応していないが、そうした些末とも言える部分よりも、もっと法に関する根源的なことを論じ
ているという印象だ。できることなら、手に入れたいものだとも思った。

「おお、川嶋さんじゃないか」

なおも『特許法概説』を立ったまま読みふけっている亜美の背後から聞き覚えのある豪快な声がした。その声だけで
当人の目星はついたが、亜美は振り返って、その人物を確認した。
弁理士試験対策のサークルのリーダーだった榊が笑顔で立っていた。

「あ、リーダー、おはようございます」

亜美の『リーダー』という台詞を否定するつもりで、榊は右掌を亜美に向けて左右に振った。

「ああ、その『リーダー』ってのは、もうなし! 君も知っての通り、昨日のクーデターで政権の座を追われたからさぁ。
何よりも、君がいじめに遭ったりで、本当に申し訳なかった。俺が至らなかったばっかりに…」

「あ、リーダー、待って下さい! そんな、頭を下げられても、あたし困ります」

榊がお辞儀をするように頭を垂れたので、亜美は慌て、その榊の目線に合わせるように、自らも中腰になった。




「ほらほら、言ってるそばからリーダーなんて…。こそばゆいよ。単に榊でいいよ」

榊はお辞儀をしたままそう言って、悪戯っぽくにやりとすると、姿勢を戻した。亜美も、榊に従うように元通りに姿勢を正す。

「それじゃ、榊さん、で、いいんですよね?」

榊は、笑顔で頷いた。

「うん、それでいいよ。というか、今やそれ以外に呼びようがないだろ?」

「はい、すいません。以後、そうします」

榊は、笑いながら「うんうん」と頷いていたが、亜美が手にしている本を見て、「おっ!」という感嘆詞を漏らした。

「川嶋さん、その本読むの?」

質すような榊の口調に、亜美はちょっと狼狽した。

「は、はい、じゃなかった、すいません。ちょっと手に取ってみただけです。初学者のあたしに読めるかどうか興味があっ
たものですから…」

初学者ふぜいが読むとはけしからん、と榊が思っているのではないか、と亜美はびくついた。

「いや、いい本だよそれは。青本よりも読みやすいし、青本よりも説明が詳しいからね。俺も持っている。ただ、法改正に
対応していないから、たしかに初学者がその本だけを読むってのは宜しくないな…」

「やっぱり、あたしなんかには過ぎた本ですよね?」

見えを張って背伸びをしすぎたのかも知れなかった。

「う〜ん、そうでもないよ。青本を軽視してきた俺が言うと説得力があんまりないけど、青本を読んでみて、よく分からな
いところを調べるには今でも適しているよ。というか、未だにこの本を完全にしのぐ特許法の名著は現れていないと言
うべきかな」

「そ、そうなんですか? 辞書みたいな使い方ならいいってわけなんですね? で、あたしみたいな初学者がそういっ
た使い方をしてもいいんでしょうか?」

「ぜ〜ん、ぜん、オッケイだよ。特に、川嶋さんは、レジュメには頼らない青本中心の骨太な勉強を指向しているみたいだ
から、そういう人には勧められるね」

レジュメとは、青本等から重要な部分を抜粋した受験勉強専用のツールで、資格試験対策の予備校等が発行している。

「そ、そうなんですか…」

榊の意外な言葉に、亜美はちょっと嬉しくなった。

「で、川嶋さん、その本をちょっとだけ読んでみた感想は? 未だ感想を述べられるほど読んでないなら、これには応え
なくていいけど、どう?」

突然の榊の問い掛けに、亜美は「えっ?」と絶句した。変なことを言ったら、昨日、瀬川に突っ込まれたように、榊にもい
じめられるのではないか、と不安になった。しかし、目の前に居る榊の柔和な表情から、そのようなことは決してないと思うことにした。

「は、はい、青本よりも文章が上手で読みやすいです。それに、抽象的な概念も比喩を交えて分かりやすく説明して
あると思います」

榊は、腕を組んで、満足そうに頷いている。

「うん、川嶋さん、君はなかなか大したもんだ。一読しただけで、その本の長所を見抜いている。正直、俺なんかよりも
素質がありそうだ。君なら、弁理士試験にも短期間で最終合格できそうな感じだな」

「ええ? でも、昨日は、瀬川さんに、こてんこてんにやられて…、あたしなんか弁理士試験を受験する資格がないよう
な言い方をされて…、そんなあたしですけど、合格できますか?」

榊は、首を縦に振った。そして、亜美に囁いた。

「瀬川の言うことは気にしちゃダメだよ。あいつは君を凹ますために、根拠のないことを言ってるに過ぎないのさ。それ
どころか、昨日の君は大したもんさ。だって、瀬川が出した特許法の問題は、三次試験の過去問だからね。普通なら勉
強を始めたばかりの君が分かるはずがないんだ。実際、瀬川たちも君が正解した直後、血の気が失せていたからね」

「でも、民事訴訟法の問題でやられました」

「あの問題だって、完全に説明しようと思うとかなり大変な代物だよ。今年も前期試験には出題されるだろうけど、それ
までに完全に説明できるようにしておけば十分だ。気にすることはない」

「そうなんですか…」

榊は、自己の発言に嘘がないことを強調するつもりなのか、大げさなポーズではなく、「ああ…」とだけ、軽く頷いた。

「それどころか、昨日の君の奮闘ぶりに、俺やサブリーダーの小林くんは、むしろ感動してね。来月の二次試験は、本当
に背水の陣で臨むつもりなんだ」

「いえ、そんな…、大げさすぎます。あの特許法の問題だって、たまたま青本で最近読んだ部分だったんです。その意味
するところも完全には分かっていないんですよぉ。だから、そんな、感動だなんて…」

当惑してうつむいた亜美に榊は優しげな笑顔を向けている。

「たまたまであっても、青本の内容を諳んじることができたのは、やっぱりすごいことだよ。並の受験生にはできない
芸当さ。それに、やっぱり基本は青本だな、っていうのを俺たちも痛感したんだよ。だから、今回の二次試験は、俺も
小林くんもレジュメばかりに頼らずに、青本と、その『特許法概説』を含めた専門書で、『包括的に漏れのない形で
二次試験対策を可能ならしめる』つもりだよ」

と言って、にやりとした。
亜美は、榊の最後の『包括的に漏れのない形で二次試験対策を可能ならしめる』が、『特許法概説』の国内優先権
制度の説明をもじったものであることに気付いて、思わず「ぷっ」と吹き出した。

「お、最後の台詞の元ネタが、その本の記載だってのが分かったんだ。ますますもって頼もしいや」

亜美は、笑いをこらえながら、「は、はい…」とだけ応えた。静粛な図書館で、大口開けて笑ったら、司書につまみ出され
てしまうだろう。

「まぁ、そんなこなんで、今度の二次試験は造反した瀬川たちに負けないためにも、俺たちは必死なんだ。それに、
コンパでひどい目に遭わされた君らの仇を討つという意味合いもあるし」




『仇討ち』とは少々物騒な物言いではあるが、榊なりに亜美と竜児を気遣ってくれていることの顕れなのだと理解した。
豪放で、少々大雑把な感じはするが、本当に思いやりがあって、優しい人のようだ。それだけにサークルが分裂してしまっ
たのが惜しまれる。

「あのぉ、サークルは、完全に分裂したままなんですか?」

その質問にだけは、榊にとって手痛いものだったのか、ちょっとばかり顔をしかめた。

「うん…、残念だけれど、このままだな。瀬川とは君らも反りが合わないだろ? それは俺たちも同様だ。あの本性は、
俺たち院生も知らなかった。あそこまでのワルだとは夢にも思わなかったよ。だから、彼らをもはや同志として認めるこ
とはできない」

「そうなんですか…」

質問の仕方がまずかったのかも知れない。亜美も瀬川と一緒の勉強なんぞ御免蒙りたいが、榊や小林たちと今後も
一緒に勉強できないかというつもりで訊いたのだ。だが、それを察したのか、榊は、再び笑顔を亜美に向けた。

「サークル活動は、共通の目的を持つ同志がいる、ってのが心強い反面、それで安心し切ってしまい、真摯な学習が疎
かになるという欠点もある。加えて、俺なんかは、メンバーの自主性を尊重するという名目で放任状態だったからなぁ…。
今さらだけど、サークルに対する君らの第一印象は、『手ぬるい』とか『半分お遊び』とか、そんなもんだったんじゃない
かな?」

「そ、そんなこと、あ、ありません!」

図星を指されて、亜美は迂闊にもどぎまぎしてしまった。
さすがに榊は元リーダー、洞察力もまんざらではないようだ。

「まぁ、瀬川たちが造反したのも、俺のこういったいい加減さが原因みたいなものだからね。君がそう思わなくても、俺
自身は自分のいい加減さを反省しているんだ。それに君や高須くんは、既に青本や条文集を使った、ごまかしのない
勉強を始めているようだ。であれば、レジュメに完全に頼っている者が中心の我々と一緒に勉強することにあまりメリッ
トはないだろう。これまで通りに、青本や、条文をしっかり読む勉強を続けていけば、自然と実力は身に付くよ」

「はい…」

突き放されたような気分もしたが、ポテンシャルを認めてもらえたような気もする。それに、亜美には竜児が居る。榊の
言うように、竜児と二人で頑張っていくべきなのかも知れない。

「なあに、これは昨日、高須くんにも言ったんだけど、俺たちは未だ学内に居るから、何か勉強で困ったことがあれば、
いつでも相談に来てくれ。答えられる範囲で対応するつもりだ」

「はい! ありがとうございます」

手近なところに指導してくれる者がいるのは心強い。それも人格が円満そうな榊であれば申し分ないだろう。

「それと、話はその本に戻るけど、買う?」

榊は亜美が手にしている『特許法概説』を指さした。

「あ、これですかぁ? 購入できるのなら何とかしたいです。でも、インターネットのオークションを見たら法外な値段が
付いていて、ちょっと悩みますね…」




「ネットオークションはダメだよ。概して相場よりも高い値段で売られている。インターネットを利用するにしても、オーク
ションよりも安くて確実な方法があるよ」

そうして榊は亜美に、「よかったらついて来て…」と言って、先行した。亜美は勝手が分からず、本を抱えたまま榊の後
を追った。行く先はパソコンが設置されているブースだった。
榊は設置されているパソコンの一台に向かうと、ブラウザを立ち上げ、『Google』のサイトにアクセスし、検索欄に『日
本の古本屋』と入力して、『Google検索』のボタンをクリックした。
その検索結果から『日本の古本屋トップページ』を選択する。

「これこれ…。このサイトは、日本中の古書店の在庫を検索してくれるんだ」

榊はそう言いながら、『古書検索』の欄に『特許法概説』と入力して、『GO』のボタンをクリックした。全国の古書店で
の『特許法概説』の在庫が表示される。

「川嶋さん、ラッキーだよ。神田神保町の古書店に第九版が二冊ある。値段も六千円とお手頃だ」

亜美は手元の『特許法概説』を見た。その本は第十三版だった。

「あのぉ〜、図書館にあるのは第十三版なんですけどぉ、第九版って古すぎませんか?」

榊は亜美の突っ込みももっともだと言わんばかりに軽く頷いたが、言うことは違っていた。

「その第十三版だって法改正には対応できてないんだから似たようなもんだよ。それに、知的所有権の分野で有名な
N大法学部のG先生がうちの大学に来たときに、この本のことが話題になったんだけど、G先生は『特許法概説』は、
著者の吉藤先生が存命中に発行された第九版あたりまでがベストなんだそうだ。どう? 俺が君のような立場だった
ら買うけどな…」

「そうですねぇ…」

六千円という価格も手頃だ。しかも同じ第九版が同じ店に二冊ある。それでも、古そうなのが気になるのだ。

「今となっては第十三版も第九版も、古いってことに違いはないさ。それに、本は、買わずに後悔するより買って後悔し
ろ、だよ。身銭を切って買わないとありがたみがないから真剣に読まない。どうしても入手できない本は図書館とかで
借りるしかないが、古書店で買える本だったら、購入しておくべきだ」

亜美はそれでも躊躇していた。それを見抜いてか、榊が声をひそめて囁いた。

「それに、だ…。見ての通り、同じ第九版が二冊も同じ店にあるんだぜ? 君と君の彼氏の分がちょうど用意されて
いるようなもんさ。これは天の配剤と言っていい」

「は、はい!」

密かに思っていたことを指摘され、亜美は照れて頬が火照ってくるのを感じた。
それが榊にも分かるのだろう、流し目でちょっと意地悪そうに微笑している。

「決まりだな、君と高須くんの分が等しくあるってのは奇跡だね。おっと、このページをプリントアウトしとこう。
何なら、今すぐにでも予約の電話を入れといた方がいいだろう」

プリントアウトされた書面が亜美に手渡された。店の場所は神保町の交差点のすぐ近くのようだ。

「何から何まで、すみません」




亜美が礼のつもりで深々とお辞儀をすると、榊は、それを押し止めるつもりなのか、「まぁまぁ…」と言いながら右の掌
をヒラヒラと翻した。

「君らは俺たちのサークルに来てくれた。これも何かの縁だよ。それにお互い弁理士になったらなったで、付き合いが
あるだろう。狭い業界だからね、できれば敵としてではなく、味方としておつき合いしたい」

そう言って、持ち前の笑顔を見せた。弁理士の業界が狭いことは竜児も言っていた。瀬川のような悪辣な奴は願い下
げだが、榊のような善人なら、おつき合いは大歓迎である。

亜美は時計を見た。時刻は十二時近い。

「俺は、今日はここでずっと勉強しているけど、君はどうするの?」

「は、はい、実は、あたしと高須くんの共通の友人に誘われて、ソフトボールの練習試合を観戦する予定です。これから
理学部の教室に行って、高須くんと合流する予定です」

「そっか、じゃぁ、今日ぐらいは勉強のことは忘れて楽しんで来なよ」

「はい、色々とありがとうございます。それと、二次試験の合格をお祈りしています」

「うん、川嶋さんに祈ってもうんだから、今度こそ絶対に合格するよ」

亜美は軽く会釈をして榊と別れ、手にしていた『特許法概説』を書架へ元通りに戻すと、図書館を出た。
携帯電話を取り出し、榊がプリントアウトしてくれた古書店の番号に電話する。

「はい、こちら……古書店でございます」

古書店というイメージを裏切るような意外にも若々しい声がした。単なる若い店員なのかも知れないが、責任感を感じ
させるはきはきとした口調に店の跡継ぎといった雰囲気が感じられた。亜美は、その相手に『特許法概説 第九版』
の在庫の有無を尋ね、次いで、二冊とも予約する旨を伝えた。


図書館を出た亜美は、時間を稼ぐようにゆっくりと歩く。土曜日に法学部の必須科目の講義はない。竜児に対しては
『ある』と、要は嘘をついているのだ。そうでもしなければ、麻耶が指摘した通り、亜美のことを変に気遣って、プチデー
トのために毎週上京してくることを止めさせるに決まっている。
亜美は時計を見た。時刻は十二時十五分、この頃合いで今から理学部の旧館に行けば、講義の後に法学部の教室か
らやって来たように見せかけることができる。

木立の中に古色蒼然とした理学部旧館が見えてきた。大正か昭和か知らないが、とにかく戦前の建物であることは疑
いようがない。一応は鉄筋コンクリートで、竣工直後は白亜の殿堂のような偉容だったに違いないが、歳月を経て平
成の世となった今では、うらぶれ、薄汚れ、老朽化した哀れな姿を晒している。
もうちょっとメンテナンスにお金を掛けていれば、こうはならなかったのであろうが、予算が乏しい上に、理系学部は実
験や研究の施設に莫大な予算が必要なため、ついつい学舎の整備が疎かになるのだろう。
それにしても、LANケーブルが設置されているというのに、エアコンどころか扇風機すらないのは亜美もどうかと思う。
今は未だ何とかなるが、これから夏本番を迎えたら、ほとんど地獄だろう。

館内に入ると、むっとする湿っぽい暑さが亜美の身体を包み込んだ。その暑さで、長年建物の隅に溜まっている埃やカ
ビが臭ってくる。高須棒をあちこちに突っ込んだら、大変な量の埃やカビが掻き出されてくるだろう。だが、大学は高校
と勝手が違う。学舎の掃除やメンテナンスは業者に一任されているから、一学生の勝手な行動は許されない。

「高須くん、ストレス溜まりまくりだろうな…」




竜児の影響で、料理や掃除をできるだけ自力でやっている亜美も、隙間に高須棒を突っ込みたい衝動に駆られる。
竜児であれば、亜美以上に歯がゆい思いで薄汚れた学舎を見ているはずだ。

数学科一年の必須科目である線形代数学の講義は、その旧館の二階で行われていた。現に二階からは暑さと講義で
ぐったりとした感じの数学科の学生らしき一団が、黒っぽいリノリウムが貼られた階段を下りてくる。その一団の流れに
逆らって、亜美は階段を上った。
階段と同じような黒っぽいリノリウムが貼られた廊下に出る。窓は全て開け放たれていて、風通しは階段付近よりも
マシではあるが、それでも少々蒸し暑い。エアコン完備の法学部の教室とはえらい違いだ。
その廊下にも、講義が終わってほっとした表情の学生が散らばっている。

だが、亜美は廊下にたむろする学生の中に、悪意を放射する切れ長の双眸を認め、ぎくりと驚悸した。

「あらぁ〜、川嶋さん、来たのぉ?」

「せ・が・わ・さん?」

昨夜のコンパで亜美と竜児を利用して、榊が率いていた弁理士試験対策のサークルを乗っ取った四人の女たちが
そこに居た。

「また会えてうれしいわぁ〜、川嶋さぁ〜ん。それにしても講義がないのに毎週彼氏をお迎えとはねぇ〜。
ほんと、ご苦労さん。よほどご執心みたいね、高須くんを〜」

そう言って、瀬川は、ほほほ、と甲高く笑った。知的美人であることは認めるが、所作の全てに相手を小馬鹿にしている
ような傲慢さが微かに見え隠れしている。それが、底知れぬ意地の悪さを感じさせ、亜美は思わず身震いした。それに
何よりも、昨夜のコンパでは、意地の悪い出題で亜美を這いつくばらせた張本人なのだ。
それにしてもお目当ては竜児だろうか。そうでなければ法学部二年であるはずの瀬川が理学部の旧館に居る理由が
見当たらない。いや、『それにしても講義がないのに毎週彼氏をお迎えとはねぇ〜』という発言が気に掛かる。
何なんだ、どうしてそんなことを知っているんだ、この女は!
亜美は、憎悪を込めて瀬川の顔を睨み付けたが、それ以上は関わらないことにした。まともに相手をしてもろくなことに
はならない。こんな連中は無視して、竜児と一緒にさっさと練習試合が行われるグラウンドに行ってしまうに限る。

だが、無言で瀬川の傍らをすり抜けようとした亜美は、瀬川の取り巻きの女子学生三人に行く手を阻まれた。

「あらぁ〜、川嶋さん、先輩である私たちを無視するのぉ〜? ほんと、あなたって、粗野で礼儀知らずねぇ〜。
それだから、高須くんを元カノに奪い返されちゃうんだわぁ〜」

「瀬川さんたちには関係ありません! ここを通して下さい。それに、高須くんが元カノに奪い返されるとか、
根拠のない妄言はやめて下さい!!」

「根拠のない妄言かどうかは、教室を覗いてみれば分かるんじゃなぁ〜い」

嫌味たっぷりの猫なで声で、瀬川が亜美をそそのかすように言った。

「どういう意味ですかぁ、それ!!」

「お〜、怖い怖い…。本当にあなたって育ちが悪いのねぇ〜。そんなにカッカして、私なんかに食ってかかるよりも、早く
教室の中を覗いた方がいいんじゃないかしらぁ〜〜」

昨日と変わらぬ悪意丸出しの物言いに亜美はムッとしながら、前にバリケードのように立ちふさがる上級生越しに、
つい先ほどまで線形代数学の講義が行われていた教室を見た。藤色のポロを着た竜児の後ろ姿が目に入る。
だが、視野に飛び込んできたのは竜児の姿だけではなかった。




「祐作、それに実乃梨ちゃん! どうしてここに」

着席している竜児の傍らには、北村祐作と櫛枝実乃梨が立っていた。

「うふふ、そら、ご覧なさぁ〜い。私の言った通りでしょぉ〜? 高須くんはどうやら、あの元カノとよりを戻すみたいねぇ。
まぁ、容姿はそこそこだけど、勉強も料理もまるでダメなあなたよりも、明るくて元気そうな元カノの方が高須くんには
ふさわしいんじゃなぁ〜い?」

甲高く哄笑する瀬川たち四人に囲まれて、亜美は茫然としてその光景を目にしていた。予期せぬ実乃梨の出現、その
理由が亜美には分からない。これから試合に出るというのに、実乃梨の荷物は小さなポシェット一つだけ。その格好も、
薄い黄色でボディラインにフィットしたシルキーなブラウスに、赤が際だつチェック柄のスカートという、ジーンズばかり
着るはずの普段の実乃梨らしくない。
まるで、これからデートにでも出掛けるような雰囲気がする。

「ほらほら、ボケッと突っ立っているだけじゃ、元カノに彼氏を奪い返されちゃうわよぉ〜。さっさと彼氏の元に行って、
月曜日の喧嘩の続きでもしてくれないかしらぁ〜。それも警備員が駆けつけるような大乱闘を…。退屈な土曜日の
午後のいい刺激になるでしょうねぇ〜」

「あ、う…」

瀬川たちが意地悪くそそのかす中で、亜美は、理不尽とも言える実乃梨の出現に混乱していた。実乃梨とは穏便に話
し合うつもりだった。しかし、それは亜美が言うところの『迎撃準備』、要するに相応の覚悟がある状態での話である。
このような不意打ちとも言えるような状況は想定外もいいところだ。

「ほらほら、三人とも楽しそうに談笑しているじゃなぁ〜い? もう、みんなあなたのことなんか眼中にないみたいねぇ〜」

耳元で囁く瀬川の声も亜美には聞き取ることができなかった。ただ、「どうして…」という呟きを、蚊の鳴くような声で
繰り返していた。


「北村に、櫛枝に…、一体全体どうしたんだ?」

亜美が現れるものと思って、講義が終わった後も教室で待っていた竜児は、意外とも言える顔ぶれが目の前に居る
ことに当惑した。北村なら未だ理解できる。しかし、実乃梨というのは全くの予想外だ。それにしても亜美はどうした
のか、と竜児は訝しんだ。

「高須が驚くのは無理もないな。実は櫛枝から昨夜電話で頼まれてな、月曜日の亜美との諍いに手を打つためにも、
四人揃ってグラウンドに行きたいってことなんだ。で、亜美は毎週土曜日にはここに来るって聞いていたから、櫛枝とやっ
て来たってわけさ」

「というこって、高須くん、あーみんが来たら、みんなで電車に乗ってグラウンドに行こう。まぁ、私は試合に出る関係上、
ちょっと早く行かないといけないから、それに合わせてもらうと、私らが着替えたりミーティングしている間は、ちょっと
待って貰うことになるけど、メンゴ!!」

軽い謝罪のつもりなのか、実乃梨が敬礼するような仕草をした。そのため、肩に掛かっていた小さなポシェットが揺れた。

「い、いや、別にそんなことは気にしねぇけど…。櫛枝、バットとか、ユニフォームとかグラブとかはどうした? 見たところ、
ほとんど手ぶらじゃねぇか」

竜児の問い掛けに、実乃梨は、にっこりと微笑んだ。

「ああ、荷物は大学の寮からチームのみんなが乗るバスに乗っけてもらうことになってんのよ。他のメンバーには申し



訳ないけど、せっかく高須くんたちと出掛けるんだから、いかにも体育会系っていう大きな荷物を持って行くのは避け
たかったんだ」

「そんなことして、大丈夫なのか? 櫛枝は新入生なんだろ」

実乃梨は、ちょっと得意そうに胸を張った。

「私はこれでも今回のチームのキャプテンだからね。今回は一年生だけのチームなんだよ。で、ちょっとばかし、特権を
行使させてもらったのさぁ」

「お、おう…。そ、そうなのか」

それにしても、何でスカート姿なのだろう。実乃梨のスカート姿は、高校の制服以外では、もしかしたらこれが初めての
ような気がする。これはこれで似合っているし、正直、目の保養にもなるのだが…。
それと引き替えというわけではないだろうが、亜美が来ない。いつもならとっくの昔にこの教室に来ているのだが、
そうではないということは、何らかのトラブルか、と竜児は心配になった。

「なぁ、北村、北村は川嶋と同じ法学部だよな。川嶋は、午前中の講義に出てなかったのか? あいつが言うには、
土曜日の午前中には必須科目の講義があるから、こうして土曜日も出てきている、ってことらしいんだが…」

その竜児のコメントに、北村は鳩が豆鉄砲を喰らったように目を丸くした。

「必須科目の講義? 土曜日にはそんなもんありゃしないぞ? 選択科目なら土曜日にも講義があるが、
亜美は土曜日には選択科目も設定していないはずなんだが…」

「何だってぇ?!」


教室の外では亜美が茫然とした面持ちで竜児たちを見ていた。

「ほらほら、どうしたの川嶋さぁ〜ん。何だか三人とも浮き足だってきたみたいだし、この分だと、高須くんと、元カノと、
もう一人の男子と一緒にすぐにでも出かけそうな雰囲気じゃなぁ〜い? このまま、私たちと、教室の中の三人を交互
に睨んでいても何の問題解決にもならないわよぉ〜。今すぐ彼氏の前にすっ飛んで行かないと、何だが取り返しのつ
かないことになるんじゃないかしらぁ〜」

瀬川の言うことにも一理ある。竜児が実乃梨と一緒に出かけるところなんて見たくもない。それを見たら、しばらくは立
ち直れなくなりそうだ。しかし、いざとなると、足がすくんだように動かない。竜児の前で屈託なく笑う実乃梨は本当に
太陽のように輝いて見える。昨日の深夜、『実乃梨から逃げない』と宣言したのに、実際にはこのざまだ。

??あたしは、結局、実乃梨ちゃんが怖いんだ…。

より正確には、亜美には備わっていない実乃梨の明るさや屈託のなさ、それに竜児が惹かれることを恐れているのだ。
それ故に、竜児をめぐって実乃梨と対峙すると亜美は平常心を保てず、皮肉を言ったり、茶化したりで、その場を煙に
巻こうとする。思えば、月曜日だって、最初に皮肉で兆発したのは亜美ではなかったか。

「ほぉ〜ら、川嶋さぁ〜ん、どうしたのぉ? 顔色が悪いわよぉ〜。まるで何かに怯えているみたぁ〜い、あははは!」

それに瀬川たちと居合わせるなんて、最悪だ。もう、彼女らの目当てが何であるか、亜美にもはっきりと分かった。竜児
ではない、他ならぬこの亜美だ。

「瀬川さん…、あなたって人は…、何が目的なんです?! 何のために、わざわざ理学部の旧館に来ているんですか?!」




亜美は、持ち前の大きな瞳で、瀬川の切れ長の双眸と対峙した。その冷たい悪意を秘めた瀬川の両の眼の禍々しさに、
亜美は正直ぞっとする。陽の実乃梨とは対極の、陰の極致とでも言うべきか。虚勢を張って睨み付けてはいるものの、
本当は亜美ごときが敵う相手ではない。
その証拠に、瀬川は、先ほどと変わらぬ冷やかな笑みを崩さない。

「あらあら、そんなことも分からないのかしらぁ〜、おばかさぁ〜ん。平たく言えば、昨日あれだけ痛めつけたあなたがど
うなったのか、確かめに来てあげたんじゃないのぉ〜。光栄に思いなさぁ〜い」

「それ、どういう意味ですか?!」

「あら、あれだけの精神的なダメージを受けたんだから、もしかしたら世を儚んで自殺くらいしているかと思ってぇ〜。
でもぉ、川嶋さんって、粗野だけあってしぶといのねぇ〜、あれだけ恥をかいたのに、おめおめと生き延びているんです
ものぉ〜」

何て奴だ、こいつは本当の外道だ、と亜美は憤怒よりも戦慄した。昨夜、まかり間違えば、本当に身投げをしていた
かも知れないというのに、こいつは亜美がそうなる可能性を承知の上で、あのような意地の悪い出題をし、さらには、
実乃梨を引き合いに出して陰湿に亜美をいたぶったのだ。

「あたしが自殺って、あんたって、どこまで非道なの! それでも法律職を志す者なの? それどころか、人として許され
ないわよ!!」

「それが何? 昨日も言ったけどぉ〜、利用されたり騙されたりする方がバカなのぉ〜。で、利用されるようなバカは、
聡明な私たちから見れば、その利用以外に存在価値は無に等しい。生存権なんか認められない、って言い換えてもい
いかしらぁ〜。だから、どうなろうと知ったこちゃないわね、基本的にぃ〜」

「何ですってぇ〜!!」

「それに、未だ参っていないようなら、とどめを刺す必要があるんじゃなぁ〜い? 私って、何事も徹底的に、っていうの
がポリシーなのぉ。そのおかげで、学業でも、何でも、そこそこ成功しているってわけぇ〜。だから、昨日程度のことで、
あなたが死ぬなり何なりしていたら、その程度の雑魚ってことだし、今日みたくしぶとく生きているようなら、とどめの
刺し甲斐があるってもんだわぁ〜」

「人でなし!!」

亜美は怒り心頭の面持ちで、瀬川の胸ぐらを掴もうとした。瞬間だが、瀬川に対する恐怖よりも、憤怒が勝った。だが、
亜美は、瀬川の取り巻き三人に両腕を掴まれ、押さえ込まれた。
瀬川は、亜美のショルダーバッグに手を突っ込んで、携帯電話を取り出し、その電源を切った。

「何、人の電話をいじくってんのぉ! それよりも放してよ!」

「あら、あら、本当に粗暴なこと。所詮、芸人なんて成り上がりだから、その娘も品がないのねぇ〜。まぁ、あなたが騒ぐ
のは勝手だけどぉ〜、ここであんまり大きな声を出すと、あなたが逃げるように避けている元カノにあなたの存在が知
られちゃうわねぇ。ぞれも、粗野で、野蛮で、下品丸出しのぉ〜」

怒りに我を忘れそうになっていた亜美は、再び、瀬川の恐ろしさにぞっとした。人の弱みに付け込むことがあまりにも
巧みすぎる。
講義が終わった直後ということもあって、教室や廊下はその余韻のようなざわめきがあるため、未だ竜児たちは亜美
の窮状を察知していないらしい。竜児には助けて貰いたい。だが、実乃梨には、今、窮地に追い込まれている状況を見
られたくない。

「あそこに実乃梨ちゃん、あんたが言う元カノが居るのも、まさか、あんたの差し金じゃないでしょうね!」




「あらあら、いくら私だって神様じゃないから、そこまでのお膳立てはできないわね。偶然よ、偶然。やはり、人を支配する
に足る器の私には、こうしたチャンスが巡ってくるのかしらぁ〜。うふ、人の運命を弄ぶって、ほんとに痛快ぃ〜」

「神様ですってぇ?! 冗談じゃない、悪魔も裸足で逃げ出すわよ、あんたなんかを目の前にしたら!!」

「おやおや、この私を悪魔以上に邪悪だと言いたげねぇ〜。でも、それも悪くないわ。だって、あなたのような凡庸な
雑魚とは明らかに格が違うってことになるんだからぁ〜」

瀬川は、口元に右手の甲を軽くあてがって、ほほほ、と鈴を転がすように笑った。

「くぅ!」

悔しくて涙が出そうなのを、亜美は必死で堪えていた。それにしても、どうして、瀬川は亜美がここに来ることを知り得た
のだろう。

「まぁ、状況がある程度思い通りになるのは、独自の情報網を備えているからなんでしょうねぇ〜。それも法学部だけで
なく、理学部や工学部からも情報が入ってくる。その情報源は私たちの色香目当てのバカな男どもなんだけどぉ〜。
まぁ、適当にあしらって利用しているだけ…。要らなくなればポイだわぁ〜」

「じょ、情報源って…」

瀬川は、亜美を理解力のない幼稚園児か何かのように嘲笑った。その視線は氷のように冷たく、亜美の心胆を
寒からしめた。

「モデルだったあなたにだって経験あるんでしょぉ〜。女の武器を最大限に使うのよぉ〜。ま、イケメン男子限定だけ
どぉ、ペットにして一回だけセックスしてやるだけ…、よほどセックスが上手じゃないと、もう二度目はないのにねぇ〜、
それでも次を期待して、いろいろ無茶なことをやってくれるから、ほ〜んと、面白くってぇ〜」

「けがらわしい! 冗談じゃない、あんたみたいに、ふしだらな女じゃないわよ!」

亜美は嫌悪感で鳥肌が立つ思いだった。確かに、中学、高校の時に、男子をからかったことは幾度となくある。
恋愛寸前の経験も皆無ではない。だが、キスも、愛撫も、本当に心を許した相手、竜児以外は御免だ。

「ふん、何を清純ぶっているんだか。まぁいいわぁ〜、その情報源のおかげで、月曜日に学食で騒いだあなた達の素性
がすぐに分かったわぁ〜。それだけでなく、あなたが講義もないのに毎週土曜日に律儀にここに現れるということもねぇ〜。
何でも高須くんとのプチデートですってぇ? ほんとに幼稚なままごとねぇ〜」

「何とでも言うがいいわ。でも、自分たちが特別な存在だって思い上がって、そんなことばかりしていると、いつかきっと
痛い目を見るわよ」

両腕を押さえつけられたまま、亜美は、瀬川のぞっとするような瞳を睨め付けた。
しかし、瀬川は、相変わらず亜美を侮蔑するような冷たい笑みを崩さない。

「川嶋さぁ〜ん、今の自分の状況が分かって言っているのかしらぁ〜? 高須くんの目の前には元カノが居て、あの
浮き足立っている様子からすると、今にも一緒に出かけそうな感じがするじゃなぁ〜い? そうなったときの、あなたの
精神的なダメージが見物だわねぇ〜」


「どういうことなんだ、土曜日は講義がないって? 川嶋は、どうして? ありえねぇ…」

鈍い竜児にも、それが何を意味するのかは、さすがに理解できる。ただ、あまりにバカげていて、現実味がないのだ。




「それはお前にも、今は分かったんじゃないか? 亜美は、土曜日にお前に会うためだけに上京しているんだろう。
だけど、それを正直に言えば、お前のことだ、亜美の負担を気にして、それを止めさせようとする。亜美もそれを分かっ
ているから、敢えてお前に嘘をついていたんだな…」

北村は、諭すような口調で竜児に言った。

「そんな、土曜の午後なんて、単に二人で昼飯食って、それから下町で買い物したり、フリーマーケットを冷やかして、
他愛もないことを話して、夕方に大橋の町に帰ってくる、ってだけのことだぞ。そんなことのために、あいつは貴重な
時間を費やして講義もないのに大学に来ているって言うのか? バカな…」

実乃梨が、ちょっと寂しそうな笑顔を、竜児に向けている。

「高須くんは、あーみんとの土曜の午後を単なる買い物としか思ってないようだけど、あーみんにとっては違うってこと
さね。あーみんは、土曜の午後は高須くんとのデートのつもりで出かけているんだよ、きっと。でも、それを正直に言った
ら、さっき北村くんが指摘したように、高須くんに止められちゃう。だから、あーみん本人も、高須くんにはデートだって
言わないし、できるだけそんな素振りは見せないようにしているんだねぇ」

実乃梨の言葉で、竜児は改めて土曜日の記憶をたぐってみた。言われてみれば。いつも亜美は楽しそうだった。下町
の老舗での、彼女にとってはつまらないであろうはずの買い物の最中にも、瞳を輝かせて竜児と一緒に行動していた。
もちろん、下町だけでなく、銀座や原宿、青山にも行くことがあるが、それでも元モデルが好みそうなきらびやかな
ブティックなどが目当てではない。

「そんな…、デートだなんて、あり得ねぇ。俺と川嶋が行くところは、地味な老舗とかばっかで、とてもじゃねぇが、川嶋
みたいな女子が喜ぶようなところじゃねぇよ」

北村が、やれやれ、という感じで嘆息した。

「なあ、高須、お前は亜美という女をどんな奴だと思っている? 昨日や今日の付き合いではないお前なら、あいつの
気持ちが分かるんじゃないのか? 意外にも、あいつは服装とかも地味な配色が好きだからな。うわべは派手そうに
見えるけど、内面は決してそうじゃないことは、お前だったら俺よりも分かっているんじゃないのか?」

「そうかもしれねぇけど、そうでないような気もするんだ」

「なぜ、そうでないような気がするんだ?」

「いや、実は、つい先週の日曜日に川嶋と初めて本格的なデートをしたんだが、そのデートの行き先を決める時に、俺
は、浅草付近とかを提案したんだ。しかし、川嶋はそれを『地味だ』って嫌がったんだよ。それで、川嶋は地味な場所が
好きじゃないけど、土曜日は俺に無理につき合ってくれている…、そんな気がするんだ」

「本当にそう思う? 私も女の子だから、あーみんの気持ちはちょっとだけ分かるような気がするんだ。本当は、
あーみんは浅草でもよかったんだよ。ただ、初めての本格的なデートだから、いつもとは目先の変わった場所に行きた
かっただけなんだ。浅草が地味だっていうのは、あーみんのうわべの口実だと思うよ」

「どうなんだろうな…」

曖昧に否定したが、実乃梨の言うことに思い当たるふしがなくはない。
台所でピクニック用の弁当を一緒に作っていた時のことだ。台所仕事をしながら竜児は亜美に買い物がてらのデート
を申し出た。竜児が提案した行き先は浅草と調理器具なら何でも揃う浅草近隣の合羽橋だったが、その時、亜美が、
『どうせなら、横浜に行こうよ』と言い、『浅草は大学から近いから、いつでも行ける』ということで、横浜に行き先を変更
したのだ。
今にして思えば、『どうせなら』という言葉は、『目先を変えて』程度のつもりだったのかもしれない。




「あいつは、高須、お前に出会って変わったんだ。世話になってる親戚の影響もあるんだろうけど、堅実な生き方を指向し
ているように傍目には感じられる。というか、あいつの外交的な面は、女優の娘ってことで、後天的に身に付けたものな
んじゃないかな。だから、今、高須と一緒にいる時の、地味な感じの亜美こそが、あいつの素の姿なんだろう」

北村の言葉に、竜児は考え込むように、しばらく「うーん…」と唸った。
美貌や、元モデルというステータスに、竜児も幻惑されていたのかも知れない。だから、地味なところや、生活臭が感じ
られるような買い物などは、亜美が喜ばないと思い込んでいたのだ。

「そうかも知れねぇ…。俺は、川嶋の内面を見誤っていたようだ。高校時代の派手な印象が強すぎて、そのイメージを
未だに引きずっていたんだな。結局、俺は、あいつのことを何も分かっちゃいなかったんだ…」

「身近に居すぎると、相手の変化は分からないものさね。あーみんも、急に変わったわけじゃなくて、本当にここ二年で
徐々に変わってきたんだと思うよ。月曜日には、私もさ、売り言葉に買い言葉で、料理もできないバカ女とかって、
あーみんを罵倒しちゃったけど、後で北村くんに聞いたら、高須くんに料理教わっていて、自宅でも料理しているって
知って、ちょっと申し訳なかったかなって、反省してるんだ、これでも…」

実乃梨が、眼前に手刀を構え、「あーみんと高須くんに、メンゴ!」と呟いて、きゅっ! と目をつぶった。

「おっと、櫛枝、そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」

北村は腕時計で時刻を確認した。時刻は十二時三十五分になろうとしていた。

「ほんとだ、こいつぁヤバい。じゃ、私は行かなきゃ、北村くんと高須くんは、どうするの?」

「俺は櫛枝と一緒に行くよ。高須は? どうやら亜美は来ないみたいだし、一緒に行くか?」

「その前に、北村、すまねぇが、川嶋に電話してくれねぇか? 俺は不覚にも携帯電話を昨夜壊しちまって、あいつに
連絡できねぇんだ」

北村は、「ああ、なら、ちょっとかけてみるか…」と呟いて、亜美に電話した。

「出ないぞ、亜美の奴。何だか、携帯の電源を切っているみたいだな」

「何だって? おかしいじゃねぇか。あいつが携帯の電源を切っているなんてのは、そう滅多にはねぇぞ」

「そう言えばそうだな。でも、そうなると、ますますこっちとしてはどうしようもない。亜美には悪いが、そろそろ出掛けた
方がよくないか?」

竜児は、首をはっきりと左右に振った。

「あいつは、昨日、櫛枝と差しで向き合うために、ここへ来るって言ったんだ。だから、俺はあいつのその言葉を信じる。
いや、信じてやらなきゃいけねぇんだ。それに、何か嫌な予感がする。俺は、あと五分待ってみて川嶋が現れないような
ら、探しに行くなり、学生課に飛び込んで、呼び出しをして貰うつもりだ」

「嫌な予感だなんて、考え過ぎじゃないのか?」

「いや、ちょっと思い当たることがあるんだ。だから、北村に櫛枝、悪いが先に行ってくれ。俺も川嶋と合流したら、すぐにグラウンドに向かう」

「そうか…。高須がそうするなら、それでいい。じゃあ俺たちは先に行くよ」

「ああ、すまねぇ…」




呟くような竜児の一言に、北村と実乃梨は軽く頷いた。


「ほら、ご覧なさぁ〜い。あなたの彼氏は、あなたを見捨てて元カノと一緒に出かけるところだわぁ〜」

「ううう…」

瀬川の取り巻きに押さえつけられて、唸り声を上げている亜美にも、そんな雰囲気が察せられた。三人は、やがて亜美
のいる廊下に出てくるはずだ。そうなると、今の無様な姿を実乃梨に見られてしまう

「今の川嶋さんの姿を元カノに見せたら、どうなるかっていうのも興味深いけどぉ〜、私たちが川嶋さんを痛めつけて
いるのが彼氏とその友人に分かっちゃうのは、まずいわねぇ〜。ということで、隣の空き教室に連行よぉ〜」

「ちょ、ちょっと!」

見れば諍いだっていうのが明らかなのに、廊下に居合わせた数学科の男子学生は、我関せず、とばかりに無視してい
る。大学は高校と違って、個々人の結び付きは希薄だ。故に、女子同士のトラブルに、わざわざ首を突っ込む男子学生
は居ない。

両腕の自由を奪われた亜美は、引きずられるように隣の教室に連れていかれた。そうして、押さえ込まれたまま、席に
着かされ、顔を廊下に面した窓に向けられた。

「もうじき、あなたの彼氏と元カノがここを通って行くでしょうねぇ〜。どう、見捨てられたってのが、間もなく証明される
気分はぁ〜」

「まだ、そうなると決まったわけじゃないわ!」

そうならない、という保証もない。竜児は、亜美が土曜日の講義のついでに会いに来ていると思い込んでいるとしたら、
亜美が来ないということに、さほどの疑念を抱かず、実乃梨と一緒に行ってしまう可能性の方がむしろ高いだろう。

「ほら、来たぁ〜」

瀬川が、鼻歌でも歌いそうなほど、呑気な口調で呟いた。
廊下に面した窓越しに、北村の頭が左から右へ移動しているのが見えた。次いで、実乃梨のショートカットの頭が通過
していった。
だが、それまでだった。

「あの子が来ない!」

瀬川が、予定が狂ったことに当惑して短い叫び声を上げると、一人、隣の教室を覗きに行った。
戻ってきた瀬川は、忌々しそうに眉をひそめている。その表情を見て、亜美は竜児が未だに自分を待ってくれていること
を確信した。

「思惑通りにはいかなかったようね」

亜美が、瀬川の顔を睨め付けて言った。瀬川は、そんな亜美を冷たい瞳で一瞥したが、無言だった。狙いが外れるとは
思ってもみなかったのだろう。
もうしばらくの辛抱だ。実乃梨がこの建物を出てしまえば、大声で竜児に救いを求めることができる。
だが、この女には、言うべきことがあった。

「高須くんは、あんたが考えているような軽薄な人間じゃない。だから、あたしとの約束は必ず守る。後は、ここで大きな声を出して、高須くんに助けを求めるだけ。覚悟なさい」

瀬川が、きっ! と亜美を睨み付けた。

「うるさい小娘ねぇ。ちょっと、当てが外れることなんて珍しくないじゃなぁ〜い。それに、顔つきが険しいだけの一年坊
主なんかどうってことないわぁ。何なら、既にセックスで手なずけたペットの男どもにボコらせればいいんだしぃ〜」

「セックスで手なずけたとか、ボコらせるとか、本当に下品ね。あたしなんかよりも、あんたの方がよっぽど育ちが悪いん
じゃないの。陰険で卑怯だし、ほんとにあんたって最低な女ね。現に、あたしや高須くんみたいな初学者に三次試験の
問題を出すような卑劣な奴じゃない、あんたは!」

「ちょっとルックスがいいだけの劣等生が、口のきき方に気をつけなさい。ほんとに生意気な小娘ね。減らず口ばかり叩
いていると、セックスに飢えているペットどもの慰みものにしてやってもいいのよ?」

瀬川が語尾を伸ばす独特のしゃべり方を止めている。その瞳からは侮蔑の色が消え、亜美に対する怒りと憎悪がたぎっ
ていた。

「やれるもんなら、やってみなさい! そんな犯罪行為が許されるわけがないじゃない。本当にふしだらでおぞましい女
ね。あんたみたいな信義則に真っ向から反するような存在が法律職を志すなんて、どうかしてるわ!」

「信義則なんて糞喰らえだわ。試験の結果が全てなのよ。で、知力に秀でた私たちは、今年にも合格する。それだけの
ことなんだわ」

「受かるもんですか! 世の中を嘗めきって、相手を見くびっているあんたたちが、最終合格なんかするもんですか! 
合格して弁理士になれても、どうせあんたみたいな卑劣な女は法に触れることをしでかして逮捕、弁理士登録も抹消
されるのがオチだわ。そんなクズにあたしも高須くんも負けない、負けてたまるもんですか!!」

「ほんとにむかつく小娘だわ。どうやら本気でペットどもの肉奴隷になりたいらしいわね」

瀬川が、顎をしゃくって取り巻きに指示をした。亜美の背中を押さえていた女が、ポケットからハンカチを取り出して亜
美の口に押し込もうとする。
首を振って抵抗しながら、亜美は、実乃梨がこの理学部旧館を出て行った頃合いだろうと考えた。

「たすけてぇ!! た・か・す・くーーーーん!!」

声を限り亜美は叫んだ。この声なら、壁の向こうにいる竜児にも聞こえるはずだ。
瀬川は、舌打ちすると、亜美を押さえていた三人の女子学生に「その小娘はほっといて、退却よ!」と叫び、竜児が居る
教室からは遠い方のドアを指差した。
亜美の叫びを聞きつけた竜児が空き教室に飛び込んで来たのと、瀬川たち四人の女子学生が、竜児が入って来たの
とは別のドアから出て行こうとしたのは、ほぼ同時だった。

「お前は、瀬川!」

ドアから出ようとする刹那、瀬川は、にやりと竜児に妖艶な笑みを返してきた。
その瀬川たちを竜児は追いかけようとしたが、座席にぐったりともたれている亜美に気づき、駆け寄った。

「川嶋、大丈夫か?! 奴らに何をされた?! 怪我はねぇか?!」

竜児に抱き抱えられながら、亜美はうっすらと目を開けた、

「け、怪我はないけど、怖かったよぉ〜。人の弱みをねちねちと陰湿にいたぶって…。あいつ、瀬川って、本当に悪魔か
も知れない。あたしが、毎週ここに来ることを知っていて、待ち伏せしていたんだわ…」




そう言って、身震いし、竜児に縋りついた。

「もう大丈夫だ。心配いらねぇ。しばらく、ここでじっとして、落ち着いてきたら、今日はこのまま帰ることにしよう」

だが、亜美は、ゆっくりと首を左右に振って、竜児の提案を拒絶した。

「昨日のあたしの覚悟を翻すわけにはいかないよ。あたしは、実乃梨ちゃんから逃げないって約束したんだ。白状する
とね、瀬川たちに捕まったのは事実だけど、実乃梨ちゃんが祐作と一緒に先に来ていることで、高須くんが居た教室に
入っていく勇気がなかった…。そこを瀬川たちに付け込まれたんだよ」

「て、おい、川嶋…」

「今度は、あたしは逃げない。あたしだったら大丈夫。だから、高須くん、あたしを実乃梨ちゃんのところに連れてってよ」

「川嶋…」

竜児は、亜美を、きゅっ、と抱きしめてから、亜美を立たせてみた。

「歩けるか? 川嶋」

亜美は、ふっ、と脱力したような笑みをたたえて竜児に頷いた。

「高須くんに抱いてもらって、高須くんのパワーを貰ったから大丈夫。歩けるよ…」

「そうか、でも、無理はするなよ」

「ありがとう、でも、実乃梨ちゃんとのことは決着をつけておきたいの。だから、あたし行かなきゃいけない…」

竜児は亜美のショルダーバッグを持とうとしたが、それは亜美の手によって遮られた。

「ほんとに大丈夫だから。バッグぐらいは自分で持てるよ」

亜美は、「よっ!」という軽い掛け声とともに重いバッグを肩に掛けたが、その瞬間に足元がふらついた。

「言わんこっちゃない…」

竜児が亜美の肩を支えてやろうとしたが、亜美は首を左右に振って拒絶した。

「今回、瀬川たちなんかに付け込まれたのは、あたしが思慮なく高須くんに甘えていたところを連中に目撃されたのが、
いけなかった…。大学は高校に比べて、みんな互いには我関せずといった雰囲気が強いから、多少は高須くんに甘え
ても大丈夫って油断していたのね」

「川嶋…」

「でも、大学って、高校と違って、教職員が学生を学業以外ではほとんど束縛しないから、一般社会と同じように悪意の
ある人間も野放しになっているんだわ。社会に悪意ある人間がいることぐらいモデルの仕事を通じて分かっていたは
ずなのに、どっかにここは学校だから、何かが起こるにしてもたかが知れている、って嘗めていたのね…」

「それは俺もそうだよ…退屈だけど平穏な学園生活が続いていくものだとばっかり思っていたんだ」

しかも、大学には警察が滅多に介入してこない。一般社会以上の無法地帯であるかも知れないのだ。瀬川のような非常識なほど悪辣な女が存在することが、それを端的に物語っている。

「そうよね、でも、それはあまりにも無防備だったんだわ。だから、四六時中、高須くんに甘えるような子供っぽいことは、
そろそろ卒業しなくちゃいけない。白状するとね、あたし、高須くんが本当にあたしことを好きなのか不安だったから、
必要以上に高須くんにベタベタしていたんだと思う」

「おいおい、信用ねぇんだな…」

「高須くんの真意は分かっている。だけど、思考と感情は別物なんだわ。だから、いざとなると、不安になるのね。そこを
瀬川たちに狙われた。でも、そんなものから、いい加減脱却しなくちゃいけない。そのためにも、今日は実乃梨ちゃんと
差しで話して、自分自身の心に決着をつける必要があるんだわ」

「そうか…」

亜美の決意は固い。であれば、好きにさせてやるのが一番だ。

二人は、空き教室から廊下に出た。廊下からは既に学生たちの姿は消えていた。退屈で難解な講義から開放されて、
帰宅するなり、ショッピングに行くなり、あるいは今日以外の竜児と亜美のようにプチデートと洒落込んでいるのかも
知れない。
古い建物らしく、傾斜が急で滑りやすいリノリウムの階段を慎重に下り、埃っぽい理学部旧館から外に出た。
竜児は瀬川たちが待ち伏せしていないか気になった。それは亜美とて同じだった。

「気をつけて、高須くん。瀬川たちも怖いけど、あいつらのペットが高須くんを狙っているかもしれないから」

「そう言えば、昨日、瀬川も言ってたけど、あいつの言うペットって何なんだろうな」

亜美は、羞恥からか嫌悪からか、頬を赤く染めていた。

「瀬川たちだけど、ほんとに最悪! あいつらの言うペットって、男子学生を、そ、その、セ、セックスで手なずけて、
言いなりにさせた連中のことなんだって…」

「うへ、まじかよ…」

「で、そのペットをけしかけて、高須くんをボコるとか、亜美ちゃんをペットたちの肉奴隷にするとか言ってたよ。
ほんとおぞましい。狂ってる、あいつら…」

「たしかに、冗談じゃねぇな…」

竜児は、感覚を研ぎ澄ませて、理学部旧館入口付近を伺った。だが、さすがにそこまではしつこくないらしく、瀬川と
そのペットらしい者が潜む気配は感じられなかった。

「ねぇ、瀬川たちは、また狙ってくるかしら?」

亜美が、大きな瞳を不安そうに見開いている。

「どうなんだろうな、多分、連中にとって俺や川嶋は、からかい甲斐のあるオモチャみたいなものなんだろう。その程度
のものに、犯罪行為そのもので報いるとは常識的には思えねぇ」

「それは、そうなんだけど…、あたし、あいつらに『そんなクズにあたしも高須くんも負けない、負けてたまるもんです
か!!』って啖呵切っちゃった…」

さすがにやりすぎた、と亜美は思った。相手の恐ろしさを考えずに、宣戦布告をしたようなものだからだ。




「そっか…」

竜児は、深くため息をついた。

「ごめん…、軽率だったね…」

「仕方ないさ、俺が川嶋と同じような状況だったら、同じようなことを言っただろう。ああいう連中に対して妥協は禁物
なんだろうな。妥協すればするほど、要求が苛烈になってくる。だから、川嶋は悪くねぇよ」

「でも、これからどうしよっか…」

「そういうことなら、なりふり構わず俺たちを潰しにくるかも知れない。頼りになりそうもねぇけど、今日実際にあったこと
を学生課に相談するぐらいはしておこう。後は、自衛だな、できるだけ単独行動は避ける、俺や北村と一緒に行動した
方がいいだろう」

亜美は時計を見た、時刻は一時を過ぎていた。

「土曜日のこの時間では、学生課は閉まっちゃったばっかりね。月曜日に出直すしかないわ」

「ああ、その時は、二人で一緒に行こう。複数人が同じようなことを訴えれば、話に信憑性が出てくるし、さっきも言った
ように単独行動は危険だ」

「そうね…。それと、合法スレスレだけど、あたし防犯スプレーを用心のために持ち歩くことにする…」

「えっ! 犯罪なんかで悪用されているあれか?! 入手できるのか?」

「ママに相談する。さすがに肉奴隷とか言ったら、ママはこの大学を辞めさせるだろうから、ストーカーがキモいぐらい
の理由にしておくつもり。ママだったら、いろんな分野に顔が利くから、多分大丈夫。高須くんと祐作の分も『お友達も
ストーカーに狙われているから』って言って手配してもらうよ」

唐辛子の成分で相手の目を眩ます防犯スプレーは、一種の武器でもある。それを使用すれば、正当防衛に当たるか
否かは判断が難しい。相手が素手の状態で使用すれば、武器対等の原則に違反して、相当防衛にはならない。だが、
まともな奴が相手ではないのだ。戦うためには、武器も必要となる。

「そのスプレーを使うのは、よっぽどの時なんだろうけど、あった方がよさそうだな…」

竜児の問い掛けに亜美は「うん…」と小声で言って、頷いた。
竜児は、亜美と並び、駅を目指してキャンパスをゆっくり歩く。土曜の午後ということもあって、人影はまばらだ。

「なぁ、川嶋…」

「なぁに?」

竜児の唐突な問い掛けを、亜美は反射的に訊き直した。

「北村から聞いたんだが、お前、土曜日には講義なんてないそうじゃねぇか…。それなのに、毎週律儀に出てきやがって、
それも、法学部の教室から理学部の旧館まで歩く時間まで考えて、わざとちょっと遅れて俺の居る教室に現れていた
んだな」

亜美は、ふっと嘆息すると、瞑目した。

「ついにバレちゃったか…。そう、そうでもしないと、土曜日の午後は高須くんとデートなんてできないからね。高須くん
には悪いけど、ちょっと嘘をついてたの。ごめんなさい…」

そうして、薄目を開けて、隣を歩いている竜児を観察した。竜児のことだから怒りはしないだろうが、不快に思っている
かも知れない。

「いや、川嶋の気持ちに鈍感だった俺の方に問題があったんだ。何よりも、土曜の午後の散策を、俺は単なる買い物
程度にしか思っていなかった。出かけるところは下町の老舗とかの地味なとこばっかりだったし…。それで、川嶋は、
義理で俺に付き合ってくれていると思い込んでいた…」

「高須くんには、土曜日の午後、あたしが楽しそうには見えなかったんだ…」

「楽しそうには見えていた、でも本当に楽しいのか確信できなかったんだ。だから、無理に付き合ってくれているとかっ
て思っていたんだな…」

「でも、それは間違い。それに気付いてくれた?」

「ああ、俺は川嶋亜美という女のことを少々誤解していたらしい。川嶋は、人目を引く外見とは裏腹に、思慮深くて堅実
だったんだな。それを示すサインは、一緒に行動していて、いくらでも目についたのに、文化祭のステージとかの派手な
印象が強すぎて、感覚的には納得できなかったんだ…」

竜児は、眉を苦しげにひそめている。亜美に対して懺悔するようなつもりなのだろう。
亜美は、淡い笑みをそんな竜児に向け、首を左右に振った。

「感覚的に納得できていなかったのは、あたしも同じ。高須くんは、本当はあたしじゃなくて実乃梨ちゃんのことを好き
かも知れないって、感情が拭いきれていなかったのね。理屈の上では納得できても、感情ではそうじゃなかった…。
愚かなのは、あたしの方だわ」

その一言で、眉を苦しそうにひそめていた竜児の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。

「川嶋には詰られるとばっかり思って、内心はビビっていたんだ。でも、川嶋に逆に慰められちまった感じだな」

「慰めるだなんて、本当のことを正直に言ったまでだよ…。でも、そうした感情も今日限り。高須くんは、あたしが土曜日
の散策をデートのつもりで楽しんでいることを理解してくれた。あたしも、これから実乃梨ちゃんと向き合って、自分の
気持ちに決着をつけてくる。これでいいじゃない」

「ああ、そうだな…。だがよ、これだけは言わせてくれ」

「なぁに?」

竜児が言わんとすることは、亜美にも何となく察しがついた。

「今回、瀬川たちが待ち伏せしていたってことからも、毎週土曜日に大学で落ち合って出かけるってのは、止めた方が
いいだろう」

「そ、そうね…」

残念ではあるが、竜児の言うことはもっともなのだ。今日と同じような行動パターンでは、瀬川一派に狙ってくださいと
自ら訴えているのと大差ない。

「だから、こうしよう。毎週待ち合わせ場所を変更して落ち合うんだ。その場所も、何か不具合があったら、携帯で連絡
を取り合って、安全な場所に変更する。これなら、どうだ?」

「う、うん…」

亜美は目を丸くして驚いた。

「おい、おい、意外そうな顔をするなよ。この俺だって、川嶋とのデートは楽しい。こんな楽しいことを簡単には中断でき
ねぇだろ?」

「う、うん、ありがと…」

心が、何とも言えない暖かなもので満たされていくような感じがした。無理に理由を付けるとすれば、互いが同じ気持
ちだったから、とでもなるのだろう。だが、陳腐な理由付けなんて意味はない。幸せだ、この一語に尽きる。
これなら、太陽である実乃梨にも対峙できる。


電車に乗って、郊外のグラウンドを目指す。
竜児と亜美の大学のグラウンドは、大橋へ向かう私鉄沿線にあり、それも大橋駅から三駅ほど東京寄りの駅が最寄り
駅だった。
その駅を降りて、徒歩でグラウンドへ向かう。十分ほどでグラウンドには到着した。

「おぉ、高須に、亜美ようやく来たか」

竜児たちの大学側の内野席には北村祐作が待っていた。

「ちょっと、川嶋がトラブルに巻き込まれていてな、それで遅くなっちまった」

「トラブル?」

北村が怪訝そうな顔をした。
その北村の顔を伺ってから、竜児と亜美は互いに目配せした。あまりにも異常な出来事なので、正直に打ち明けるべ
きか迷ったのだ。
北村の存在は、瀬川たちも知っている。連中であれば、いつ何時、北村を当事者として事件に巻き込んでくるかも知れ
ない。そのためには正直に打ち明けるべきだろう。だが、今は竜児と実乃梨、亜美と実乃梨、のそれぞれについて決着
をつけるのが先決だ。

「ああ、詳しくは追って話す。それよりも、櫛枝はどうしている?」

「もう試合が始まっているよ」

見れば分かるのだが、北村はグラウンドを指差した。

「ピッチャーびびってる、ヘイ! ヘイ! ヘイ!」

よく言えば、明るく元気。悪く言えば、無遠慮に大きく、いくぶんは音痴かと訝るような歌声が、湿っぽい空気を震わせ、
グラウンドに響いていた。
竜児と亜美は、北村祐作と一緒になって、内野席からその声の主を注視した。
オレンジを基調にした派手なユニフォームを身にまとい、黒いバットを構える櫛枝実乃梨の姿が打席にあった。

「構えは一段とよくなった感じだな…」

北村は、雲間から気まぐれに射し込んできた薄日で眼鏡のレンズをテカらせ、解説者口調で呟いた。




「そうなのか? 俺にはその辺はさっぱり分からねぇ…」

竜児も亜美も、ソフトボールの技術的なことが分からない、ということもあるし、竜児にとっても過去の彼女がどういっ
たフォームであったのかが記憶にない、と言うべきなのだろうか。
竜児にとっては、はっきりと実乃梨に『ジャイアントさらば』されてからというものの、努めて彼女の姿は目で追わない
ようにしていたから、もはや彼女のフォームは記憶の中にないということなのだろう。

スパーン!! 黒いバットが相手方の第一球を芯で捉えた。白い打球が、明らかにホームランと分かる勢いで飛び去っ
て行く。守備側の選手たちがなす術もなく、その打球の行方を見守るように目で追う中、打球は外野のフェンスを軽々
と越え、ほぼ無人の芝生席に突き刺さるように飛び込んでバウンドした。

「一発かましたれ、ヘイ! ヘイ! ヘイ!」

打者一巡の満塁ホームランだった。
当のバッターは、してやったりの笑顔を浮かべ、ヘルメットも脱がずに、ジョギングするような風情でダイヤモンドを楽し
そうに回っている。
守備側の内野手は、何の屈託もなさそうに、ちょっと調子が外れた歌声とともに喜色満面で往く彼女に気圧されたの
か、遠巻きにするかのように道を譲った。
竜児や亜美、北村たちとは別の国立大学に体育専攻で進学し、今もなお、ソフトボールの選手である櫛枝実乃梨は、
グラウンド上で、きらきらとした太陽のような存在感を放っていた。

「やるな…」

「そうね…」

「ああ、櫛枝は男顔負けのパワーヒッターだからな。当たれば間違いなくホームランだ。それにスキルも高い。さっきの
構えから、そのスキルも相当に向上していると予想できたが、まさかこれほどとはな…」

一時はソフトボール部の部長でもあった北村が、自らの予測の正しさが立証されたことに満足したかのように、口元を
ほころばせて呟いた。

「…早くも勝負あった、てぇ感じだな」

竜児はスコアボードを見た。一回表、打者四人目にして既に実乃梨のチームは四点を獲得していた。
この先も、竜児たちの大学のチームは容赦なく滅多打ちにされることだろう。ピッチャーズサークル上の選手の顔が、
もう泣きそうな様に見えるのは気のせいではないのかも知れない。

「まぁ、うちの大学のホームゲームだが、こっちは関東五部リーグ。櫛枝の大学は一部リーグ。実力差は当然だな」

北村が言うには、竜児や亜美、北村が通う大学の女子ソフト部は、一部リーグのチームとの練習試合によってレベルアッ
プを目指すとのことらしい。しかし、いきなり一軍との対戦は無理なので、実乃梨をキャプテンとする一年生のみのチー
ムとで試合をすることになったようだ。迎え撃つこちら側は、二年生、三年生を中心とした主力部隊である、のだが…。

「にしても、実力差がありすぎだろ? 一回の表でこのざまじゃ、先が思いやられるな…」

亜美も、『そもそも五部リーグって何?』と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。体育がらみの推薦入学制度とは無縁
の竜児や亜美たちの大学の運動部は、概ねこの程度のレベルでしかない。
例えば陸上部。その新入生勧誘のポスターには、『来たれ新入部員! 目指せ箱根駅伝!』などと勇ましいことが書い
てあったが、箱根駅伝への参戦が叶うことは未来永劫ないだろう。

「まぁ、しょうがないさ。うちの大学は、文系でも必須科目を落とすと留年しかねないから、みんな結構真面目に勉強し
ているからな。体育会系のクラブに所属していても、単位取得について何もインセンティブはないから仕方がない」




それでは、実乃梨のような体育専攻の推薦入学者、亜美が言うところでは『脳みそ筋肉』な連中に敵うわけがなかった。
亜美は、自分の大学のチームの選手と、実乃梨が率いるチームの選手とを見比べた。明らかに体のつくりが違う。
例えば、実乃梨たちは、二の腕等が筋肉ではちきれんばかりに充実しているのに対し、亜美たちの大学の選手は、
ほっそりとして見た目からして非力だった。
これは、ソフトボールの技術云々以前に、基礎的な体力からして次元が違っている。

「祐作ぅ〜、何なの、この違いは。実乃梨ちゃんたちは筋肉のかたまりみたいな感じだけど、あたしたちの大学の選手
は、みんなガリガリ、下手すればメタボなのが混じっているよ」

亜美のもっともな指摘に、北村はちょっと困ったような顔をしている。

「向うはフルタイムで練習できるエリート選手、こっちは、片手間の趣味の領域の運動部員、その違いだろうな。
言うなれば二軍とはいえプロに、草野球のチームが挑むようなものさ」

例えとしては、的を射ているが、それほどまでに差があるのでは、双方ともにメリットはないだろう。実乃梨のチームは
手応えがなさ過ぎて、ウォーミングアップにもならないだろうし、竜児や亜美たちの大学のチームには、一年坊主が
主体の二軍にも負けたという屈辱感しか残らないだろうからだ。

案の定、その後の展開も、『なぶり殺し』という表現がしっくりくるようなもので、竜児、亜美それに北村たちの大学の
チームは、実乃梨の好投の前に一本もクリーンヒットを許されず、毎回毎回、三振の山を築き、守れば乱打され、
その焦りから凡ミスを連発し、それによっても失点を重ねた。

終わってみれば、二十一対ゼロ。試合前には竜児や亜美たちの大学のチームから、点差が開いてもコールドゲームに
しない、という申し出があったそうだが、皮肉なことに、そのために屈辱的なトラウマを自ら背負い込むことになったに
違いない。
そんな中で、実乃梨たちは、投げて、打って、走って、グラウンドを縦横無尽に暴れ回り、敵チームを文字通り粉砕した。
特に、一年生チームのキャプテンを努める実乃梨の暴れようは、鬼神の如く、と言うべきものであり、鬼の形相での
全力投球、全力疾走、フルスイングは、観戦している竜児や亜美をして、「やりすぎなんじゃないか」と思わせるのに
十分過ぎる迫力があった。

ともあれ、竜児や亜美たちの大学の選手にとっては、想像を絶する惨敗ではあったが、延々と打たれ続けるという地獄
の責め苦は終わった。

「なぁ、高須、ちょっといいか?」

試合終了後、北村が、竜児を呼び止めた。

「どうした北村?」

「話があるんだ。よかったら、ちょっと一緒に来てくれ」

竜児は、北村の真意を計りかねたが、いつになく真面目な表情の北村を見て、「あ、ああ…」とだけ、頷いた。

「よし、じゃあ、決まりだな」

北村は竜児の腕を掴んで、ベンチから立たせた。

「祐作ぅ〜、高須くんをどうするつもりなの?!」

竜児を連れていこうとする北村に、亜美が不安気に訴えている。
だが、北村は、例の人畜無害そうな笑顔を亜美に向け、言い放った。




「いや何、櫛枝たちがミーティングを終え、シャワーを浴びて着替え終わるまでには時間がある。だからってわけじゃな
いが、ちょっと高須と男同士で話し合いをしたくてな」

「ちょっと、ちょっと…」

亜美の抗議の声も虚しく、竜児はグラウンドに併設されているレストハウスに連行された。レストハウスといっても
殺風景なもので、昔の学食を彷彿とさせるような貧相なスチール製のテーブルにパイプ椅子が並んでいるという
ような場所だ。壁はコンクリートが打ちっ放しで、フロアの隅には、清涼飲料水の自動販売機が二台置いてあった。
その一角に二人は差し向かいで腰を下ろした。フロアに居るのは、竜児と北村だけだ。

「どうしたんだよ、いきなりこんなところに引っ張り込んで」

「実はな、高須。今さらで悪いんだが、お前は亜美のことをどう思っているんだ?」

単刀直入な問い掛けで、出鼻をくじかれた。おかげで、月曜日に実乃梨を亜美に予告なしで会わせたことを抗議する
タイミングを逸してしまった。
それどころか、竜児にとって言いにくいことを、いきなり訊いてくる。

「どうって言われてもなぁ…。まぁ、見ての通りだ」

北村の質問をはぐらかせないことは承知の上で、竜児は適当に言い繕った。

「それじゃ答えになっていない。お前は亜美のことをどう思っているか、と訊いているんだ」

案の定、突っ込まれた。
北村は、もったいを付けるつもりなのか、おもむろに眼鏡のレンズを拭き始めた。必要があればこういう所作によっても、
相手に威圧感を与えることができる。キャリア官僚か政治家に向いているな、と竜児は思った。

「まぁ、憎からず思っているよ。そうでなけりゃ、毎朝、同じ電車で通学し、文理共通の科目を一緒になって予習して、
昼飯は俺が作った弁当を一緒になって食べ、講義が終われば、待ち合わせて一緒に帰るってことにはならんだろ」

「そうだったな、お前と亜美は、少なくとも付かず離れずの関係にあることは明らかだ。だが、それだけの関係か?」

「い、いや、違うと思う。もうちょっと深い関係だろう…」

「どんな風に深いんだ?」

「単なる友人としての関係を、ちょっとばかり超えているかもしれねぇ…」

言うべきことは明らかなのだが、それを口にするのは、シャイな竜児には少々厳しい。

「歯切れが悪いな、もっと明確に言えないのか?」

柔和な表情ながら、北村の追及は厳しかった。そもそも親友と言うこともあって、ごまかしが効くような相手ではない。
竜児は、観念した。

「か、川嶋は、俺を愛している…」

北村が、眼鏡の奥に光る目をしばたたかせた。

「それは、俺も亜美の幼なじみだ。それくらいは、あいつの雰囲気で分かる。で、肝心のお前はどうなんだ?」




そら来た、言うべきことは一つしかないのに、しかも相手は親友の北村だというのに、それを口にすることがものすごく
気恥ずかしい。だが、竜児に逃げ場はないのだ。

「お、俺も、川嶋が好きだ…」

言い終えて、額が汗でびっしょりなことに気が付いた。そう言えば、亜美との恋愛関係を男の友人に漏らすのは、
これが最初ではないか。

「ということは、お前は亜美を愛している、ということだな?」

「何だか、娘を嫁に出す父親みてぇなことを言ってるな」

「おい、おい、混ぜっ返すな。質問には、ちゃんと答えてくれ」

眼鏡越しに見える北村の目つきが心なしか険しくなった。こういうことは、長い付き合いの竜児にもあまり経験がない。
下手に逆らわない方が無難だろう。

「ああ、愛している。こないだの日曜日には二人で横浜に行ったんだが、川嶋への永遠の愛を、港の見える丘公園で
誓わされた」

「誓わされた? 消極的だな…」

「い、いや、川嶋に言え、と強要されたのは確かだが、誓いの内容自体は俺の真意だ。これに嘘はねぇ」

「そうか、永遠の愛を誓ったということは、お前たちは結婚するということだな?」

北村の追及は実にしつこい。法曹、それも検事あたりにも向いていそうだ。

「ああ、お、俺たちは、べ、弁理士になったら、け、結婚する」

亜美との結婚は、泰子も知らない。だが、勘の鋭い者であれば、察しが付くようだ。現に、横浜では、初対面の女子高生
たちに竜児と亜美が結婚することを見破られている。北村だって、分かっていながら、念のために訊いているのだ。
それでも、さすがに正直に言うのは気恥ずかしい。竜児の額には再び汗が吹き出てくる。
北村は、竜児の狼狽ぶりと、そのしどろもどろのコメントに一瞬相好を崩したが、すぐに表情を引き締めた。

「なぜ弁理士になってから結婚するんだ? 別に学生結婚でもかまわんじゃないか」

竜児は、瞑目して頭を大きく振った。

「いや、学生結婚なんてのは論外だ。恥ずかしながら、俺の家と、川嶋の家とじゃステータスが違いすぎる。しかし、家が
ダメでも、当人が社会的に評価される資格を取得すれば多少はマシになるかもしれねぇ。それに川嶋も、このままだと 
母親の思惑で局アナにされちまうらしい。それで、川嶋も弁理士になって、母親の企みを粉砕するつもりなんだ」

「お前は、亜美との結婚のために、弁理士になろうとしているのか?」

「概ね、その通りだ。もっとも、俺のような外観で先入観を持たれやすい人間は、何らかの資格でその能力を客観的に
示した方がいい、という判断もある」

「なるほど…、お前が真剣に亜美との結婚を考えていることが分かった。であれば、お前は、亜美のどこに惚れたんだ、
容姿か?」




「容姿がいいに越したことはねぇ…。元モデルで女優の娘でもあるあいつの容姿は、まぁ、月並みな表現だが、まれに
見る美人と言っていいだろう。しかし、見た目は決定的な要素じゃねぇな。例えは悪いが、今ならばあいつがオカメや
ヒョットコでも、俺はあいつを伴侶にするだろう」

「では、お前の言う決定的な要素とは何だ?」

竜児は、「う〜〜ん」と唸りながら眉をひそめた。正直なところ説明が難しい。要は、亜美が以前言ったように、
『気が合う』ということだろう。しかし、それでは客観性に欠け、説得力がない。
竜児は、しばし考え、言うべきことを吟味して、慎重に説明することを心がけた。

「うまく説明できねぇけどよ。あいつとは、ずっと同じ道を歩んで行けそうな気がするんだ。さっきも言ったように、俺たちは、
弁理士試験に挑戦しようとしている。本当に健気だよ、あいつは。弁理士試験は法律の資格試験だから、どうしたって
法学部の川嶋の方に分がある。でも、あいつは威張ったりせずに、ダメな俺をフォローしてくれている。
一方では、フランス語とか、あいつが苦戦している大学の科目もある。それは、俺との共同戦線でしのいでいるところだ。
俺と川嶋は、互いに支え合って、共鳴し、進歩し、成長していける。これが、決定的な要素だ」

北村は、腕を組んで、竜児の説明を聞いていたが、やがて「納得した」というつもりなのか、大きく首を縦に降って頷いた。

「今のお前の説明で、俺はお前の真意が理解できた。後は、その真意を、櫛枝にも明確に示してくれ」

「示すも何も、俺と川嶋が付き合っているのは、もう周知の事実だろ? いまさら、それを明確にしてどうするんだ」

北村は、ちょっと困ったような顔をして嘆息した。

「なあ、高須。現象面から他者が高須の立場や考えを判断するのと、高須自らがその立場と考えを明確にするのとで
は、どちらの方に重みがあると思う?」

「そりゃ、後者の方だ」

何を当たり前のことを、と竜児は思った。

「だろ? であればだ、高須が亜美を愛しているということを、櫛枝に宣言してくれないか」

「宣言ってのは何だ? 大声で川嶋が好きだー、とでも叫ぶのか?」

「違う違う、宣言というのはだな、お前の立場や考えをはっきり示せ、ということだ。この後、櫛枝とお前が差しで話し合
う機会を設けるつもりだ。その場で、お前の揺るぎない立場と考えを櫛枝に示して欲しい」

それだけ言うと、北村は竜児に「そこで待っていてくれ」と言い残してて立ち去った。

「お、おい、いきなり俺と櫛枝の面談かよ!」

竜児の抗議にも似た問い掛けは北村に無視された。後に残された竜児は、仕方なく言われた通りに待つことにした。
月曜日に実乃梨を伴っていきなり現れた北村。そして今日という日に実乃梨の練習試合に竜児と亜美を半ば強引に
誘った北村。これまでのところ、その北村のせいで、ろくなことが起きていない。竜児と亜美との絆が以前よりも深まっ
たとは言えるが、その過程に瀬川というとんでもない外的要因が絡んだこともあって、一歩間違えば破滅しかねない
危うさを孕んでいた。

「失恋大明神め、危なっかしい真似をしやがる…」

さらに北村は、竜児の立場や考えを、竜児自らが実乃梨に示すことにより、実乃梨の未練を断ち切り、
亜美と実乃梨の確執に終止符を打つつもりらしい。



竜児が実乃梨との差しでの話を終えたら、次には亜美と実乃梨を差しで話させるに違いない。そうであれば、実乃梨
に明確に自己の真意を伝えるとともに、次に予定されている亜美との面談が穏便に進むように配慮して実乃梨と向き
合わなければならない。
朴念仁の自分にそれが可能か? と竜児は不安になったが、最早土壇場、と腹をくくった。
それに、実乃梨と向き合うのに、小細工はいらない。誠心誠意をもって、対応するだけだ。

北村が中座してから十分ほど経過しただろうか、その北村が実乃梨を伴って戻ってきた。
その実乃梨と竜児は目が合い、思わず、他人行儀のように会釈をしてしまった。見れば、実乃梨も竜児に対して会釈し
ている。実乃梨もそれなりに緊張しているらしい。

「じゃあ、高須に櫛枝、後は二人で思う存分に話し合ってくれ。もう、二人とも何を話すかを心得ているだろうし、それを
話す覚悟もできているはずだ。では、俺は、お邪魔だろうから、暫く退散するよ。ただし、話が一段落したら、高須はグラ
ウンドの内野席に戻って来てくれ」

「お、おい、北村、ちょっと、待ってくれ!」

先ほどと同様に、竜児の呼び止めは一切耳に入っていないかの如く、北村は振り返らずに、レストハウスを出ていった。

「え〜〜と…」

目の前には暖色系のブラウスとスカート姿で、持ち前の明るさに可憐さが加味された実乃梨が座っている。
今までになくキュートな実乃梨を前にして、どうやって話を切り出そうかと、竜児は思いを巡らせた。

「こうして話すのは、本当に久しぶりだね…」

「お、おう…」

不意に実乃梨から話し掛けられ、竜児はちょっとばかりうろたえた。
高二の時に完全に袖にされてからというもの、こうした機会はついぞなかったように思う。

「試合は見てくれた?」

「ああ、川嶋や北村と一緒に、お終いまで見させて貰ったよ」

亜美の名を出したことで、実乃梨の表情が僅かにこわばったように見えた。しかし、それはほんの一瞬で、竜児がその
変化に気付いた時、実乃梨は元のにこやかな表情を取り戻していた。

「あーみんも来てくれたんだ。そっか、大学で待っていた時には、てっきり来ないものだとばっかり思ったけど、ちゃんと
来てくれたんだね」

「ああ、俺も川嶋も試合開始には間に合わなかったけど、櫛枝が一回の表で満塁ホームランを打ったのは見たよ」

「いやぁ、照れますな、あのホームランは…」

そう言って、本当に気恥ずかしそうに、人差し指で頬を軽く引っ掻いた。

「でも、すげぇ戦いっぷりだったな。もう、情け容赦なくこてんこてんつぅか、もう完膚無きまでに叩きのめしたっていうか…。
櫛枝のチームが強いからだが、俺たちの大学のチームが弱すぎたってのもあるな」

「それって、いっちゃあ悪いけど、弱い者いじめに見えた?」

実乃梨がドングリ眼をさらに真ん丸にして竜児を凝視している。一応は笑っているようではあるが、少々剣呑な感じは否めない。竜児は、思った通りのことを口にするか否か、少しばかり躊躇した。

「う〜ん、そうだなぁ、『いじめ』とまでは思わねぇけど、少々、やり過ぎっていうか、なんつぅか…。もう少し手加減してやっ
てもよかったんじゃねぇか、という気はしないでもない…」

言い終えてから、まずったかな? と思いつつ、実乃梨の表情の変化を窺った。
しかし、実乃梨の笑顔はそのままだ。

「うん、うん、そだよね、それが常識的な感覚だと思うよ。だから、高須くんの言うことの方がもっともなんだよ。でも、私
は、スポーツっていうのは、相手が全力で戦う気力があるのなら、こっちも全力でそれに応えてあげるのが礼儀だって
思っているのさ。相手が弱いからって、手を抜いて戦ったら、それはその相手に対して、ものすごく失礼なことなんじゃ
ないかって思うんだよ」

「お、おう…」

「だから、この私と高須くんとの話し合いも、手加減なし、嘘偽りなしの真剣勝負でいくよ」

「そうだな…」

変化球ではなく、小細工のない剛速球での真っ向勝負。それでこそ櫛枝実乃梨だ、と竜児は思った。


「ちょっと、ちょっと、祐作ぅ、高須くんを拉致ったきりだと思ったら、今度はあたしまで、一体どういうつもりなの? 
大体が、月曜日に実乃梨ちゃんを連れてきて、それが元であたしも高須くんも偉い目に遭ったんだからぁ!」

亜美は、自分の手を無理やりに引いて先導する北村祐作に抗議したが、当の北村はそれを完全に無視していた。
それに加えて、亜美をどこへ連れていくのか、なぜ連行するのかすらも説明してはくれない。

「さてと…」

二人は、レストハウスの裏口にたどり着いた。その裏口は、所々に錆が浮いている鉄製の扉で無愛想に閉ざされている。

「亜美、お前は、高須の真意を知りたかった、違うか?」

何を今さら当たり前のことを、亜美は半ば呆れて北村を見た。頭はいいが、どっかずれたアホなところがあるのが、
北村祐作である。それを幼なじみである亜美は、竜児と同様、よく知っていた。

「そ、そりゃ知りたいわよ。でも、この一週間で、あたしと高須くんとの間には色んなことが起こってね。それを通じて
互いの気持ちを確かめ合えた。だから、今となっては、以前ほど切実な問題ではないわ」

「まぁ、そう言うな。それにお前の言う、『気持ちを通じ合えた』というのは、高須との間だけの話だろ。違うか?」

「そりゃそうだけど…。それで何が不足なの?」

「お前が一番不審に思っているのは、高須と櫛枝の関係だろ? お前とは気持ちが通じ合えたかも知れないが、実は
櫛枝とも通じているんじゃないか、と疑っている。そうなんだろ?」

気になるところを突かれて、亜美は一瞬、「うっ!」と絶句した。

「そ、そりゃ…、そ、そうかも知れないわね。でも、いまさら高須くんと実乃梨ちゃんの関係をどうやって確認するの? 
二人をウソ発見器にでもかけるの?」



「そんな迂遠な手続きを踏まなくたって、もっと手っ取り早い方法があるだろうが…」

北村は、眼鏡の奥に光る瞳をキョトンとさせて、亜美を見ている。皮肉のつもりで言った『ウソ発見器』を真に受けてい
るらしい。こうした常識離れした面はあるが、時折、恐ろしく即物的で現実的なことを言い出したり、しでかしたりする。
そうしたところは、油断がならない。

「祐作、あんたまさか…」

「まさか、というほどまずい方法ではないと思うがな。とにかく、この裏口から中に入る。入ったら、物音を立てずに高須
と櫛枝が居るテーブルのすぐ近くにあるコンクリートの太い柱に身を隠すんだ。そこまでは、余計なおしゃべりさえしな
ければ、二人には気取られずに接近できる」

北村は、左手で亜美の手を引き、右手を裏口のドアノブにかけた。

「ちょっとぉ、祐作ぅ〜、これって覗きに、盗み聞きじゃない。誉められた行為じゃないわよ。第一、高須くんや実乃梨
ちゃんたちは、あたしたちが立ち聞きしていることを承知するわけがないじゃない。こんなの明かにアンフェアよ!」

「だが、こうでもしないと高須と櫛枝の関係がどうなのかは確認できないし、今後、こうした機会は最早ないだろう。
どうする? どうしても気が進まないというならやめておくが、それだとお前は、心のどこかに納得できないもやもや
したものを抱えながら生きていくことになる。それでもいいんだな?」

「う、うう…」

北村の脅しとも、すかしとも受け取れそうな言葉に、亜美はたじろぎ、言葉を失った。

「お前が気が進まないというのであれば、それでいいだろう。ただし、それなら、今後、高須が櫛枝と未だに何かあるん
じゃないかっていう勘ぐりは一切なしだ。約束できるか?」

「そ、それは…」

「どうなんだ?」

畳み掛けるような北村の言葉と視線から逃れるように、亜美は無言でうつむいたが、やがて決意の程を示すかのよう
に、瞳を大きく見開いて、北村に向き合った。

「いいわ…、あたし、二人の会話を聞く! どこか納得できないもやもやを払拭するためにも、高須くんと実乃梨ちゃん
の会話をしっかりと聞き届けておきたい」

「よし、決まりだな」

北村は裏口のドアノブを回し、鉄の扉を慎重に開け、亜美を伴って内部に侵入した。安っぽいリノリウムの床は足音が
立ちやすい。亜美と北村は、泥棒のように息を殺して抜き足差し足で、竜児と実乃梨が向き合っている席の間近に立
つコンクリートの太い柱にたどり着いた。
北村が、口元に人差し指をあてがって、微かに「しっ…」と囁いた。亜美は無言で頷いて、耳を澄ませる。
その柱から五メートルほど離れた場所に座っている二人の会話が聞こえてきた。


「ねぇ、高校時代の私って、変な子だったでしょ? しょっちゅう意味不明なことばっか言ってたし、体育会系丸出しの
がらっぱちでさ、まぁ、それは今でも同じなんだけど、もうちょっと高須くんの前では、女の子っぽい感じでいるべきだっ
たかなぁ、なんて、ちょびっと後悔してるんだよ、これでも」

実乃梨が、「えへへへ」と、照れ笑いなのか、苦笑なのか判じがたい笑みを浮かべている。




「そうでもねぇよ。櫛枝が個性的だったのは確かだけど、それが櫛枝の魅力でもあると俺は思っている。それに、櫛枝の
その屈託のない明るさが、俺には今でも眩しいんだ」

「眩しい…、そんな感じで高須くんは私を見ていてくれてたんだね。そっかぁ、眩しいんだぁ」

実乃梨は、目を細め、目尻を下げて、うふふ…、と笑った。その笑顔は、高校時代と何ら変わらない。竜児があこがれ、
胸をときめかせていたあの時と寸分違わぬものだった。

「俺だけじゃねぇ、川嶋も、櫛枝のことを『太陽』だって言っていた。あいつにとっても、櫛枝は眩しかったんだ」

昔の話や四方山話は十分だ、そろそろ本題に入らせて貰う、というつもりで、竜児は亜美の名を挙げ、実乃梨の反応を
窺ってみた。
実乃梨も、そろそろ核心に迫る頃合いと思っていたのだろう、笑顔をちょっと苦しげに引きつらせたような感じがする。
輝く太陽に薄雲が覆い被さったような趣だ。
その実乃梨が呟くように言った。

「あーみんかぁ…、月曜日は、あーみんにも高須くんにも本当に申し訳なかったよね。あんな風に喧嘩するつもりじゃ
なかったんだ。本当に、あの件は、メンゴ!」

実乃梨は米搗きバッタのようにぴょこんと頭を下げた。そのコミカルでキレのいい動作も高校時代を彷彿とさせる。

「いや、月曜のことなら、あれは川嶋にも非があるからいいよ。それに川嶋も、もうそのことは気にしてねぇと思う」

「そっか、それならいいんだけど…。でもね、本音をいうと、月曜日に高須くんの大学の学食で、高須くんと仲良くお弁当
を食べているあーみんを見たら、何か複雑な心境になって…。で、つい、あーみんといざこざを起こしちまった、っていう
感じなんだ」

−−複雑な心境ときたか…。

亜美の言うように、実乃梨には未だに未練があるのかもしれない。その実乃梨に亜美と結ばれることを宣言するのは、
非道とも思えた。しかし、北村と約束した以上、避けては通れない。

「な、なぁ、櫛枝からは、弁当を食べている俺と川嶋はどんな風に見えたんだ?」

「ものすごく仲がよさそうに見えた…、っていうのは月並みだけど、あーみんが高須くんのことを大切に思っているこ
とが伝わってきたし、高須くんもあーみんのことを大事に思っていることが何となくわかるんだ。それで、ちょっと、ね…」

実乃梨の表情がさらに苦しげになった。彼女にとって、この話題の核心に触れることは、やはり辛いのだ。

「櫛枝…」

だが、実乃梨は気丈にも笑顔を竜児に向けてきた。

「あ〜っ、やだなぁ! こんな風にウジウジ言うなんて、全然櫛枝実乃梨っぽくない。そうだよ、言いにくいことはずばっと
言う!!」

まるで自分を叱咤するかのように叫ぶと、実乃梨はドングリ眼をぱっちりと開いて竜児を凝視した。

「お、おい、櫛枝…」

戸惑う竜児にはお構いなしに、立ち上がって声を張り上げた。




「えーい、畜生! もう、やけのやんぱち、破れかぶれ、恋に破れた哀れな乙女、諸般の事情で別れてみたが、未練たら
たら、た〜ら、たら。忘れてみようと努力はすれど、切ない思いは消えやせぬ。月日が流れ、相まみえれば、振ったつもり
が振られてた! 恋に破れた哀れな乙女、救いを求めてソフト三昧。白球追いかけ猛練習。されど心は満たされず、
女一匹どこへ行く! あ〜こりゃ、こりゃ」

声を限りに叫んだのだろう、実乃梨は膝に手をやって、うつむき、息を整えている。打ちっ放しのコンクリートが殺風景
なレストハウス内に、「はーっ! はっー! はーっ!」という実乃梨の荒々しい呼吸音が残響する。

「櫛枝…、お前…」

実乃梨は竜児の問い掛けにも応えず、うつむいたまま、ひたすら荒々しい息遣いを続けている。

「ご、ご免、ちょ、ちょっと息が続かなくなっちゃって…」

そう言って、実乃梨が顔を上げた時、その林檎のように艶やかな頬が濡れていた。

「お前、涙が…」

その涙で濡れた頬をほころばせて、実乃梨は竜児に微笑んだ。

「いやぁ、人間、年をとると、涙もろくなっていけねぇや。まぁ、白状しちまえばぁ、ざっとこんな具合。私は高須くんとは
ジャイアントさらばしたはずなのに、やっぱ未練があるんだよ。で、月曜日に、あーみんと仲睦まじい高須くんを見て、
なんかむかっ! というか、むらっ! というか、そんな気持ちになっちゃったんだね。で、あーみんと大喧嘩、
笑っちまうぜ」

実乃梨は、右手の甲で涙を無造作に拭った。

「櫛枝…」

「でもさぁ、高須くんとあーみんを見て思ったのは、悔しいけど、私じゃ今のあーみんには敵わないってこと。月曜日に
あーみんと高須くんを見たのと、今日、あーみんを信じて待つ、って言ってた高須くんを見て、もう、私の出る幕じゃないっ
ていうのを思い知らされたんだよ。恥ずかしい話だよね。さっきの即興の台詞そのまんま。私が高須くんを振ったつもり
が、結果的には振られていたんだよ…」

「もしかして、お前…」

その先は、『スカートとかで女らしくしてきたのは、俺への未練故だったのか』と、続けるつもりだった。だが、涙を拭い
ながら、無理矢理に笑顔を作り上げている実乃梨を慮って、竜児は口を噤んだ。
実乃梨は、そんな竜児の思いを察したのだろう。

「そう、今日、私がこんな格好で来たのは、高須くんの気を引くためなんだ。もう一度高須くんと仲良くなれたらっていう、
下心があったから。勝手にジャイアントさらばしておきながら虫のいい話だけど、それでも高須くんともう一度やり直し
たい、今度は親しい友人で終わらずに、今のあーみんみたいな立場になりたいって思っているんだ」

実乃梨は、鼻をすすった。涙は止むことなく実乃梨の頬を濡らし続ける。

「でも、ダメ、今のあーみんには全然敵わない。あーみんは変わったよ、高校の時とは…。美貌を鼻に掛けるような
雰囲気は全然ないし、上辺だけの派手さがなくなって、落ち着いた感じがする。そして、何よりも高須くんのことをもの
すごく大切にしていることが、嫌でも分かっちゃうんだ。それに高須くんも、もう私のことなんかどうでもよくて、あーみん
を一番大事にしている。もう、私には全く勝ち目がないのにね、それでも高須くんへの未練は消えないんだ」




「どうでもいい、なんて俺は思っちゃいない。俺だって、今でも櫛枝のことは…」

竜児は慰めのつもりで実乃梨に語り掛けた。しかし、実乃梨は竜児の眼前に掌を突き出して、それを制止した。

「ダメだよ、そっから先は言っちゃいけない。あーみんのためにも言っちゃあいけないんだ。高須くんにはあーみんが
要る、あーみんには高須くんが必要なんだよ。だから、私がこんな未練なんか捨てっちまえばいいのさ」

実乃梨の言動があまりに痛々しく、竜児は耳を塞ぎたくなった。だが、彼女の言葉を聞き届けることが、彼女の願いで
あると思い、一言一句聞き漏らすまいと、神経を集中させた。

「ただ、人の心は、スイッチを切り替えるように簡単に割り切れるものではないし、そこにある未練を消すこともできない。
でも、押さえ込むことはできるかもしれない。そのためには、現実を思い知る必要があるんだよ。だから、私は高須くん
の口から現実を知らなきゃいけない。お願いだよ、高須くん、今、ここで高須くんの真意を高須くん自身の口から聞きた
いんだ」

そうやって長広舌をふるった実乃梨は、「はい、高須くんのターン」と呟いて、涙を手の甲で拭った。

「お、おう…」

いかし、如何に切り出すべきか、竜児は未だに迷っていた。いくら何でも、『いや、実は、川嶋と結婚することになった』
では、実乃梨に対して済まないし、あまりに芸がなさ過ぎる。

「何でもいいよ、あーみんとののろけ話でも何でも…。そうだ、高須くんはあーみんのどこが気に入ったの? やっぱ、
あの美貌? あーみんは可愛いからねぇ…」

話し始めない竜児に業を煮やしたのか、実乃梨が呼び水よろしく話題を振ってきた。竜児にとっては渡りに船である。

「美貌っていうか、見た目は、俺にとってはそれほど重要じゃねぇ。問題なのは中身なんだ。でも、最初、あいつを見た時
は、正直、なんて嫌な女なんだろうって思った…」

「どうして、あーみんが嫌な女だって思ったんだい?」

「実は、櫛枝がバイトしてたあのファミレスで、あいつと初めて会った時、北村と一緒に物陰に隠れて、あいつが本性を
出すのを見たからなんだ。そのときの印象が後々まで尾を引いて、なかなかあいつの良さが分からなかった…。その点
はあいつに、川嶋に済まないと思う」


柱の陰では、亜美が柳眉を逆立てて憤慨していた。

「ちょ、ちょっと、祐作ぅ、今の高須くんの話はどういうこと? あたしがタイガーにビンタを喰らった時のことでしょ? 
それを高須くんと一緒に隠れて見てたのぉ?!」

「ああ、そんなこともあったかな?」

素なのか、とぼけているのか、北村は、上目遣いで「う〜ん」と唸った。

「なんで、そんなことをしたのよぉ、そのおかげで最初、高須くんに嫌われていたんじゃないのぉ。道理で高須くんが
亜美ちゃんの誘いに乗って来なかったわけだわ。とにかく、祐作ぅ、あんた、これが終わったらリンチにしてやるからね」

言うが早いか、北村のつま先を靴の踵でグリグリと踏みにじった。

「痛い、痛いじゃないか。お前の怒りはもっともかもしれんが、今は頼むから静かにしてくれ。あんまり騒ぐと、高須と櫛枝に俺たちが隠れていることがバレてしまう」

「分かったわよ…」

業腹ではあったが、北村の言うように二人にバレては一大事だ。亜美は、不満げに頬を膨らませたまま、竜児と実乃梨
の話を大人しく聞くことにした。


「だから、最初、川嶋から『あたしたち気が合うじゃない』って言われたときは、何かの冗談だと思ったくらいだ。でも、
それから、あいつの本当の良さがだんだんと分かってきた…。川嶋とは一緒に受験勉強してきたんだが、その過程で、
あいつの健気さや、俺への思いが伝わってきたんだ。川嶋はモデルの仕事が忙しくて自主的な勉強はできなかった
から成績はあまり良くなかったし、俺も高二の時はいろいろあって、学力が一時停滞していた。そんな俺と川嶋は、
二人で励まし合いながら、二人三脚のようにして何とか合格までこぎ着けたんだよ」

「あーみんは健気だからね、その点でも私はあーみんに敵わないや。私は協調性がないから、あーみんみたいに高須
くんと二人三脚はできないよ。きっと、鉄砲玉みたいにあさっての方向にすっ飛んでって、高須くんに迷惑をかけるのが
オチだから…」

それはそうかも知れない、と竜児は思った。同時に、亜美が言った、『月である竜児は、太陽である実乃梨に焼き尽く
されるだけ』の意味が漸く分かったような気がした。

「そして、俺と川嶋は、今また、新たな共通の目標に向かってスタートしたところだ…。櫛枝は弁理士って知ってるか?」

実乃梨は、怪訝な顔をして竜児を見た。

「弁護士じゃないよね? 弁理士? 聞いたことないなぁ」

実乃梨の反応は、竜児も想定済みだ。知的所有権が重要視されるようになった昨今であっても、弁理士は一般には
理解されていないと言ってよい。

「英語では『patent attorney』、直訳すれば『特許弁護士』ということになる。実際には、弁理士になってから、さらに
特定侵害訴訟代理業務試験という試験に合格しないと弁護士のように訴訟の代理人にはなれねぇが、
まぁ、知的所有権に関する代理人ということで、『特許弁護士』と言ってもいいかも知れねぇ」

「弁理士になるには、試験とかに合格しないとダメなんだよね?」

竜児は顎を引くようにして軽く頷いた。

「ああ、弁護士になるには司法試験に合格しなければならねぇが、弁理士も弁理士試験に合格しないとダメだ。しかも
この弁理士試験は司法試験に準ずる難易度だとされている。とにかく大変な試験であることは間違いねぇ。
その弁理士試験に、俺は川嶋と一緒に挑戦するつもりだ」

「そうして、大学の受験勉強の時と同じように、あーみんと励まし合いながら頑張っていくんだね…」

実乃梨が憂いを帯びた淡い笑みを浮かべている。

「ああ、そうだ。俺と川嶋は、互いに同じ道を、同じ志を持って歩んでいく。二人とも弁理士になれたら、事務所を共同で
経営するのが夢なんだ。俺と川嶋は私生活だけじゃなくて、仕事の面でもずっと、ずっと、一緒なのさ。
単に惚れた腫れたにとどまらない、俺と川嶋は同盟者であり、同志なんだ」

言うべきことを全て言ったと思い、竜児は改めて実乃梨を注視した。実乃梨は、竜児の視線に応えるかのように、
微笑みながら微かに頷いた。




「ありがとう、高須くんとあーみんが、もう互いに離れられない存在だってのが嫌っていうほど分かったよ。でも…」

「でも?」

「高須くんは、『単に惚れた腫れたにとどまらない』って言ってたけど、あーみんのことを愛しているって、言ってない」

そう言えばそうだった。『単に惚れた腫れたにとどまらない』だけでも十分意味は通じるということと、無意識な照れが
あって、言えなかったのかも知れない。

「高須くんが、あーみんを愛していることを私にきっちり伝えてくれないと、私は未練を制御できない。頼むよ、高須くん。
あーみんを愛しているんなら、それをこの場ではっきり言っておくれよ」

それは、『とどめを刺してくれ』と言わんばかりの要求だった。だが、それで実乃梨のためになるのであれば、
告げるしかない。

「そうだな、言葉が足りなかったようだ。俺は川嶋を誰よりも愛している。川嶋も俺のことを誰よりも愛してくれている。
そして、二人とも弁理士になれたら、結婚する。以上だ…」

その瞬間、一時は枯れていた実乃梨の涙腺が再び溢れ、大粒の涙が滴った。実乃梨は、しばらく無言のまま茫然とし
て、涙が流れるままにしていたが、やおらポシェットから取り出したハンカチで、顔面をごしごしと、ちょっと乱暴に拭った。

「へ、ちょ、ちょっと、このレストハウスは暑いから、目から汗が出ちまったぜぃ! まぁ、とにかく、高須くんにはおめでとう
と言わせて貰うよ。高二の夏休みに高須くんは幽霊を見たって言っていたけど、その高須くんにとっての幽霊が誰で
あるかがはっきりしたわけだ…」

「お、おう」

「そして…」

実乃梨は、間近にあるコンクリートの柱を指さした。

「高須くんの幽霊は、そこに居る!」

その宣告を受けて、柱の陰からは、「祐作のバカ! あんたがへまするから実乃梨ちゃんにバレちゃったじゃないのぉ」、
「いいや、お前がくだらん過去のことで俺を詰るから櫛枝に気取られたんだ!」という言い争いが聞こえてくる。

「川嶋に北村か? お前ら、いつの間に…」

その柱の陰からは、亜美と北村が、きまり悪そうに這い出てきた。

「や、やぁ、高須に櫛枝、ちょ、ちょっとお前たちの話の展開が気になったもんでな。そ、それで、悪いが、ちょっと立ち聞き
をさせてもらった」

図々しいところがある北村も、さずがに動揺しているのか、どもりがちだ。
北村ほどの図々しさを持ち合わせていない亜美は、青菜に塩といった塩梅でうなだれている。

「あははは、北村くんらしいや。北村くんは、私と高須くんの会話を、あーみんに聞かせるために、こんなことをしたんだ。
でも、策士策に溺れるだね、まさに」

「ま、まぁ、そういうことなんだ…。正直な話、亜美が高須の本当の気持ちを知りたがっていた。それでちょっと問題の
あるやり方だったが、二人の会話を聞かせて貰ったというわけだ。済まなかったな、高須に櫛枝」




「ちょ、ちょっと、祐作ぅ! その言い方じゃ、まるで亜美ちゃんの方からあんたにお願いしたみたいじゃないのぉ。
あんたが説明もなく強引にあたしをここへ連れてきたんでしょ!」

亜美は北村に詰め寄ったが、北村は上を向き、亜美とも、竜児とも、実乃梨とも、目線を合わせずに、素知らぬ顔を
決め込んでいる。

「いいってことよ! 今回は、あーみんが高須くんのほんとの気持ちを確かめるってのもあるけど、私の未練をどうにか
するっていうことも大事だったからねぇ。内緒のつもりで話した本音を、あーみんや北村くんに聞いてもらった方が、
結果としてよかったんだよ。だって、あーみんや北村くんに聞かれたら、もう、未練を押さえるって言ったことに引っ込み
がつかなくなるからねぇ」

そうして実乃梨は、また屈託なく笑うのだった。竜児は何か声を掛けるべきかと思ったが、その実乃梨の目にうっすらと
涙が光っているのを認め、言おうとした言葉を慌てて飲み込んだ。
その代わり、竜児は亜美に向き直った。

「川嶋、まぁ、聞いての通りだ。俺はお前のことを誰よりも愛している。嘘も偽りもなく、だ。これだけは信じてくれ。それと、
櫛枝とも和解してくれ。たしかに、お前が危惧したように櫛枝には俺への未練があった。だが、櫛枝は、それを制御する
つもりでいる。その点は櫛枝を信じてやってはくれねぇか」

亜美は、涼やかな瞳を竜児に向け、その言葉に聞き入っていたが、やがて納得したつもりなのか瞑目して頷いた。

「そうね、祐作が余計なことをしたけれど、あんたや実乃梨ちゃんの真意を知ることができたのはたしかなんだわ。高須
くんがあたしを愛してくれているように、あたしも高須くんのことを愛し、高須くんの愛に報いなくちゃいけないわね…」

そして、亜美は、いくぶん遠慮がちに、実乃梨と向き合った。

「実乃梨ちゃん、月曜日は喧嘩ふっかけるようなことをして、ごめんなさい。それと、祐作と一緒に盗み聞きしていたのも
ごめんなさい…。でも、そのおかげで、あたしも実乃梨ちゃんの気持ちが理解できた。月曜日は、実乃梨ちゃんが言って
いたように、あたしも突然現れた実乃梨ちゃんを見て、複雑な心境になったんだよ。で、大喧嘩なんだから、あたしって
どんだけバカなんだか…」

実乃梨は、「いや、いや…」と呟きながら首を左右に振った。

「月曜日の一件は、そもそも私が北村くんに無理言って、あーみんと高須くんに引き合わせてくれって、お願いしたのが
いけなかったんだよ。だから、責任の一端は私にあるし、さっきも言ったように、高須くんと仲睦まじくしているあーみん
を見てむかついたのも事実なんだ。それに笑っちゃうよね。高須くんへの未練を断ち切ることができないのまでバレ
ちゃったし、ほんと格好悪いや」

「でも、それは、あたしも同じ…。人は機械じゃないから、嫌なことや苦しいことを簡単に忘れたりなんかできないんだわ。
だから、あたしは実乃梨ちゃんの言葉を信じる。未練は断ち切れないけど、現実と向き合って、それを克服するっていう
のはすごく重みのある言葉だった。そして…」

亜美は、おずおずと右手を差し出した。その手が微かに震えている。

「み、実乃梨ちゃんとは、い、色々あったけど、で、できれば、昔のようにまた友達でいたい…」

差し出された右手が、実乃梨の両掌に包まれた。

「私も、昔みたいに、あーみんと友達になりたいよ。正直言うとね、今は、未だ辛いんだ。高須くんと一緒のあーみんが
やっぱり羨ましくてしょうがないんだよ。でも、それは現実を理解した上で克服しなくちゃいけない。だから、勝手だけど、
私の気持ちの整理がついたら、昔のように、あーみんや、高須くんや、北村くんたちと一緒に遊ぼうよ」




「う、うん…」

亜美が左手を口元に当てて、声を詰まらせている。泣きたいのを懸命に堪えているのだ。

「よし、予定では、この後は亜美と櫛枝の面談だったが、この様子だとそれは蛇足だな。どうする? 亜美と櫛枝に異存
がなければ、これで手打ちということにしたいのだが…」

失恋大明神こと北村祐作が、場を取り仕切ろうとした。意味もなく裸でうろついたり、人の話を盗み聞きするような、
公序良俗に少々難ありな人物だが、たしかにある種の統率力めいたものは備わっているらしい。
亜美も実乃梨も、その北村に無言で頷いて賛意を示した。

「じゃあ、きょうはこれでお開きということにしよう」

「俺と川嶋は、このまま電車に乗って大橋に帰るけど、北村と櫛枝はどうするんだ? 特に櫛枝は、他県にある大学の
寮に戻らないとダメなんじゃないか? 荷物とかもあるし…」

竜児の問いに実乃梨は微笑した。

「いやぁ、またキャプテンとしての特権を行使させてもらってね。私の荷物はチームのメンバーが寮に運んで行ってくれ
たのさ。もう、みんなバスで私の荷物と一緒に出発しちゃったよ。何せ、実家近くまで来たんだから、今日は実家に泊ま
るつもりだよ。すでに寮には外泊許可もらってるし」

「じゃ、じゃあ、高須くんや祐作ともども、みんなで帰りましょうよ」

「いやぁ〜、あーみん、メンゴ。失恋しちまったおいらは、ちょっくら失恋大明神様を拝みたいんだ。第一、おいらは
お二人さんにとって、お邪魔虫だから、別行動とさせてもらうよ」

「そ、そう…」

北村が無言で頷いている。こうなることを予想して、実乃梨と北村の話し合いは最初から予定されていたのだろう。

「そういうことなら、悪いけど、櫛枝に北村、俺と川嶋は、お先に失礼するよ」

竜児と亜美は、荷物を持ち、居残りの二人に軽く会釈をしてレストハウスを後にした。
レストハウスの窓から、歩み去っていく竜児と亜美の後ろ姿が見える。それを茫然と見送りながら、実乃梨がぽつりと
呟いた。

「やっぱり高須くんって、いい奴だったよ…」

「そりゃ、そうさ。俺の親友だし、かつてはお前とも恋仲だった。そんな奴が悪いわけがないじゃないか」

「あーみんも、いい奴なのかも知れない…」

「そうだな…」

「畜生! あーみんは果報者だぜ。あんな優良物件を旦那にできるんだから。やっぱり羨ましくってしょうがねぇや」

実乃梨は、北村に背を向けたまま、鼻をすすり上げた。もう、未練は押さえ込むという約束だが、人の心は機械仕掛け
じゃない、そんなに器用に制御なんてできないことを今さらながら思い知らされる。

「櫛枝、今は未だ気持ちの整理がつかないかもしれないが、高須と亜美の行く末を良かれと思ってくれ」

「う、うん、未練はあるけど、あーみんのことを恨んだりしないよ、それは約束する…」

「亜美は母親に反発して女優にならずに高須と同じ大学に行き、高須と同じように弁理士を志している。それは、母親
である川嶋安奈にも認めてもらえるだけのステータスを二人揃って手に入れるためなんだ。二人が行く道は想像を絶
する困難の連続だろうし、高須ともども弁理士になっても、亜美の母親は二人の仲を認めないかも知れない。しかし、
それでもあの二人は頑張るつもりなんだ。」

「そうなんだ…」

北村には、実乃梨の後ろ姿が一瞬、萎んだように感じられた。

「どうした、櫛枝?」

「やっぱり、あーみんには敵わないや。私だったら、親に反発してまで好きな人と一緒になれない…。あーみんと私とじゃ
覚悟が全然違うんだ…」

「櫛枝、そんな弱気はお前らしくない。今は気持ちが萎えているからマイナス思考に陥っているが、ゆっくりでいいから
気持ちを切り替えて、元の明るさを取り戻してくれ」

「う、うん…」

「それに、櫛枝。失恋の特効薬は、新たな恋だ。明るくて屈託のないお前なら、ふさわしい相手が必ず現れるさ。その時
には、きっと辛い思い出も癒される」

「私みたいな子に、ふさわしい相手って、見つかるの?」

そう、力なく問いながら、実乃梨は溢れてきた涙をハンカチで拭った。一日でこんなに何度も何度も泣いたのは、一生 
のうちで初めてかもしれない。
その実乃梨の後ろ姿を労るように、北村は穏やかな口調で語り掛けた。

「大丈夫だ、この俺が保証する。何せ、俺は失恋大明神なんだからな」


「ねぇ、明日は何をやるのか、覚えている?」

駅へ行く道すがら、亜美が出し抜けに訊いてきた。もちろん、何をすべきか竜児も分かっている。

「おう、川嶋さえよければ、予定通りデートだな」

亜美が、それまでのこわばった表情を、安堵したかのようにほころばせた。

「そっか、覚えていてくれたんだね。そう、月曜日に約束したように、明日はデート。で、どこに出掛けるか決めてくれた?」

「はっきりとは決めてねぇけど、映画を見てランチしたり、テーマパークで遊ぶってのを考えてるよ」

竜児が、ちょっと照れたような表情をしている。その表情には、『どうだ、これならいかにもデートっぽいだろ?』という
つもりもあるようだ。
しかし、亜美は、わざと眉をひそめて、竜児の提案を一蹴した。

「え〜?! そんなの月並みじゃん。つまんないってぇ」




「え、そ、そうなのか?」

亜美の反応は、竜児にとって予想外だったのだろう。三白眼をきょときょとさせているのが、亜美はおかしかった。

「もう、高須くんはセンスないんだからぁ〜。しょうがないから、明日は亜美ちゃんが考えている通りにいこうよ」

「お、おう。で、明日はどうするんだ?」

亜美は、目を細めたお馴染みの性悪笑顔で竜児の顔を覗き込んだ。

「そうねぇ…。まずは神田神保町の古本屋、そこでデートしましょ」

「ふ、古本屋?!」

竜児が理解不能といった面持ちで目を白黒させている。

「そしてぇ〜、次は浅草を散策」

「あ、浅草ぁ?! ちょ、ちょっと待て、お前、以前は浅草なんかババ臭いとかって毛嫌いしてたんじゃねぇのか?」

亜美は困惑した竜児の反応を楽しむように、意地悪くとぼけてみせた。

「え〜っ? 亜美ちゃん、そんなこと言ってねぇんですけどぉ〜。高須くん大丈夫? 亜美ちゃんと一緒に居られる幸せ
で、興奮して脳みそが茹だっちゃったんじゃないの?」

「バ、バカ言え!」

「ふぅ〜ん、まぁ、異常な人ほど自分は正常だと思い込むらしいから、しょうがないわね。で、浅草の後は、合羽橋で高須
くんは中華鍋、あたしは包丁を買う、ってのを考えてるので、よろしく」

「合羽橋ぃ?! しかも包丁だとぉ?! なんか危ないな…」

「うん、高須くんも、異存はないよね? ほら、先週の中華街での買い物が、ものの見事に不発だったからさぁ。だから、
もっといい品が揃っていそうな合羽橋に行くわけ…」

「そ、それは、いいけどよ…」

竜児が妙に落ち着きをなくして、キョドっている。亜美はおかしくなった。一度は亜美が拒絶した合羽橋行きを亜美の
方から提案してきたことが不可解であることに加え、亜美が『包丁』と言ったことを剣呑に思っているらしい。
たしかに、その包丁を、昨日のショルダーバッグのように振り回されたら、物騒でかなわない。

「特にぃ、包丁の購入は外せないわねぇ。うちの包丁は、ステンレスの奴だから、高須くんが使っているのとじゃ切れ味
に雲泥の差があって、使いにくいのぉ。で、亜美ちゃんも本格的に家で調理するために、マイ包丁を買っておくってわけ」

「お、おう、そ、そうなのか?」

竜児が、心なしかほっとしたような表情を浮かべている。本当に分かりやすい人だと、亜美は思う。だから、もうちょっと、
からかってあげたくなる。

「そう、包丁って、色々と使い道があるじゃない? 切れ味が良ければ良いほどぉ…」

「い、色々って何だよ?!」




竜児が、今度は、訝るような眼差しで亜美を見ている。それが亜美にはおかしくてたまらない。

「う〜ん、そうねぇ。例えばぁ、高須くんが、亜美ちゃんへの永遠の愛を違えたときは…」

そう言って、竜児の脇腹へ、指をまっすぐに揃えて包丁に見立てた右手を、「えいっ!」とばかりに突き立てた。

「うわぁ! 冗談じゃねぇよ。勘弁してくれぇ!!」

左脇腹を押さえて、亜美の傍から逃げるように飛びすさった竜児を見て、亜美は腹を抱えて笑い転げた。

「あはは! 冗談よ、そんなこと絶対にしないわよ。本当に臆病者なんだからぁ!」

「お、おう…」

「まぁ、今日の調子だと、当面、高須くんは、あたしを裏切ることはなさそうだし、あたしも高須くんを裏切ったりしない
から、そんな刃傷沙汰には、なりっこないわよぉ」

「そ、そうか。でも、今のは洒落にならないほど、びっくりしたぜ…」

未だ動悸が治まらないのか、竜児はちょっと呼吸を乱している。普段は沈着冷静なくせに、妙に小心なところがあって、
そんなところが、かわいらしいと亜美は思うのだ。

「まぁ、ちょっと悪ふざけが過ぎたけど、真面目な話、神保町の古本屋には行かなきゃいけないの…」

そう言って、榊がプリントアウトしてくれた書面を手渡した。

「『特許法概説』、たしか、多くの合格者が絶賛していた本だよな。二冊あるようだが、これを買いに行くのか?」

「そう、今日の午前中、サークルのリーダーだった榊さんに会って、この情報を教えて貰ったんだけど、榊さんが言うに
は、青本や条文中心の勉強をしているあたしたちには必要な本なんだって」

竜児は、その書面を見て、ちょっと難色を示している。

「『第九版、1991年発行』って、何か古いな。役に立つのか?」

同じような質問は亜美も榊にした。従って、榊が亜美に言ったことを、今度は亜美が竜児に告げることになった。

「何でも、その第九版あたりまでは著者が存命してたから、その後の版よりも出来がいいんですって。それに、本は
買わずに後悔するよりも買って後悔しろ、って、榊さんに言われたわ。それに、もう、あたしと高須くんの分は
予約しちゃったから、買わなきゃいけないの」

『予約』と聞いて、竜児は「しょうがねぇなぁ…」と、苦笑した。

「でも、『買わずに後悔するより買って後悔しろ』か、たしかにそうかもな。よっしゃ、お前と榊さんを信じて、明日は
古本屋でデートだ」

「そうね、その後は浅草散策と合羽橋での買い物ってことにしようよ」

「おう、そうしよう!」

駅に辿り着いた時には、日は西に傾き、辺りを赤く染め始めていた。ホームに上がると、ほどなく電車がやって来た。



大橋駅までは三駅、時間にして十分ほどで到着するだろう。

「大橋駅に着いたら、携帯電話のお店で高須くんの携帯電話を何とかしないとね。携帯がないとお互いに連絡も取れ
ないし」

「そうだな」

竜児は否定したが、竜児の携帯が壊れたのは、亜美がバッグを振り回して、竜児に鼻血を出させたことに因果関係が
ありそうだ。だから、竜児が何と言おうとも、買い替えに必要な料金は亜美が払うつもりでいる。

「それと、今夜は、家には誰も居ないから、高須くんの家で晩ご飯を食べたい。台所仕事は、あたしも手伝うから」

「おう、いいとも。だったら、何を作ろうか…。どっかのスーパーで食材を吟味しながら、考えることにするか」

三白眼を輝かせて、料理のことに思い巡らしている竜児を、亜美は頼もしげに見上げた。

「ねぇ、スーパーに行く前に、稲毛のおじさんのお店、『稲毛酒店』に行かない? 今夜はちょっと、ワインでも飲みたい
気分なんだ」

竜児が、「えっ?」と言って、三白眼を丸くした。

「いや、未成年で飲酒はまずいって。それに、稲毛のおじさんは俺たちが未成年だって知っている。売ってくれねぇよ」

亜美はそんな竜児の肩に縋った。

「固いことは言わない! 今日ぐらい乾杯したっていいじゃない。それに行ってみれば分かるけど、稲毛のおじさんは、
多分オッケー、亜美ちゃんにはお酒を売ってくれるはず」

以前、稲毛のおじさんに般若顔で迫って酒を売って貰ったというのは、ひとまずは内緒だ。

「そうなのか?」

半信半疑な竜児の肩を抱き寄せ、亜美は艶麗な笑みを向ける。

「うん、多分大丈夫、任せておいて…」

「そうか…」

「そう、我らが同志に乾杯よ」

そう言って、竜児の瞳をじっと見た。それに促されるように竜児も唱和した。

「そうだな、我らが同志に乾杯だ」

(終わり)

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