生きることの意味と価値について
問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。
なにしろ意味も価値も客観的に実在するものではないのだから。
― ジークムント・フロイト ―
(オーストリア心理学者)
私達は、案外、意味とか価値とかが客観的に存在するものと観念倒錯をしている場合が大変多い。
これは、いわゆる科学やら辞書の存在こそが客観的な意味として成立しているのだという倒錯と、貨幣による金額こそが客観的な価値であるという倒錯によって、強化されていると思われます。
この倒錯は悪いことでもないし、必ずしも悪影響があるわけではありません。。
むしろ、社会を形成する上では大変重要な役割を果たしていることを認めます。
しかし、そもそも意味と価値の本質を考えたとき、すべてにおいて当てはまるとしたときこそが倒錯が発生するということです。
つまり、科学および辞書にない意味。貨幣では売買できない価値が確実に存在するということです。
たとえば、「生きること」です。
その証拠に、自分自身の生きることの意味が、科学的に説明できるでしょうか?
無理矢理やっても矛盾が生じるだけです。
辞書に載っているでしょうか? 客観的な意味が無く、載せられないからです。
じゃぁ、貨幣などで売買できるでしょうか? 出来ないし無理矢理やれば、歪が生じます。 そもそも「自分が生きること」の価値を決めているのは自分自身だということだからです。
つまり、生きることの意味や価値は客観的には存在していないということです。
どうように、科学にも限界があるし、辞書に載せられない意味もあるし、お金で買えないものも存在すると言うことです。
それらの共通点はそもそも客観的に存在しないもの。ということになります。
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