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【定義】

日本曹洞宗では、江戸期の「宗統復古運動」以降、1人の師から嗣法した場合、その後、別の師から嗣法してはならないとする制度が定着し、一師印証と呼ばれた。
夫れ一師印証とは、二つの法脈を帯びざるなり。 『見聞宝永記

【内容】

中世以降の日本曹洞宗では、特定の寺院を嗣ぐにあたり、その寺院開山が伝えていた法系に入らねばならない定めがあったとされる。この開山の法系を尊ぶ寺院を、「一流相続刹」といい、この時、寺院に付属する形で伝わる開山の法系のことを「伽藍法」という。そして、伽藍法を守るために、直接師匠と弟子の関係になくても、特定の寺院に入るにあたって、従来自らが受け嗣いでいた法系を捨てて、寺院に即した法系に易えた。これを「因院易嗣」という。

しかし、江戸期の宗統復古運動では、伽藍法を廃止して人法中心として、あくまでも師と弟子とが面と向かって嗣法すること(面授嗣法)と、一度嗣法してしまえば、二度と師を易えてはならないこと(一師印証)が定められた。そして、爾来300年にわたってその護持に務めてきた。現代の『曹洞宗宗制』でも、その用語こそ用いられないが、「曹洞宗僧侶教師分限規程」第38条に「伝法を了じた者は、師僧替えをすることができない」と定められ、概念的に踏襲していることが分かる。

【解説】

現在の宗門伝法の根幹を為す理念は以下の通りである。

●一師印証 印可証明はただ一師のみから受け、その後、二度と、他師に易えない。
面授嗣法 伝法(嗣法)は、師と資とが面と向かって行わなくてはならない。

そこで、宗統復古運動の時は、各々、先行対立する概念や習慣があったため、それを批判して正道に戻すため、上記2つを根幹と定めた。対立した概念は以下の通りである。

因院易嗣 当時の寺院住職は、自らの住職地を変えるに当たり、その当該寺院の開山の法(これを伽藍法という)を嗣がねばならなかったため、幾度も転住する僧は幾度も嗣承して、その度に師を易えた。これを、「寺院に因って嗣承を易える」という意味で「因院易嗣」ともいい、また、「因院易師」などとも表現する。
代付・遥授 「遥付・代授」などとも表現する。これらは、先の「因院易嗣」に付随して行われたものであるが、例えば、先代住職が亡くなっている時などは、当然に伽藍法の面授は出来ない。そのような時には、誰か別の者が、その先代住職の法を預かっていて、「代わりに付する」ことがあった。これが「代付」である。あるいは、それも行えない場合、開山などの墓所(塔)を礼拝することで、嗣法に換えること(拝塔嗣法)もあった。師と資とが会わないという意味で、これを「遥授」といい、この例としては他に、先代住職が既に転院して、遠方にいる時に、書面などでもって、遥かに離れていても仏法を付授したことにした。これも「遥授」である。

これらは全て、当時の正法伝授が、本来の正法眼蔵を授受していく様相を検討せずに、ただ現実的な要請にしたがう形で、つまりは「利」を前面に押し出して寺院相続に重ねて行われていたことを意味し、宗統復古運動の推進者の先達は、その状況を看過できなかったといえる。例えば、実質的な代表者であった卍山道白(1636〜1715)は、その主著『洞門衣袽集?』にて、以下のように指摘する。
それ洞済禅門師資の因縁、既に悟りて伝を得るもまた一師印証。嗣書有りて、信を表し、未悟にして伝を得るもまた一師印証。嗣書有りて信を表し、人に悟・未悟あるも、法に二致有ること無し。化門の表示と雖も、また、悟・未悟を論ぜざるは、同一の表示なり。 『洞門衣袽集?』、『曹洞宗全書』「室中」巻所収

このように、卍山は「一師印証」を基本として伝法をすべきであり、悟か未悟かも問うべきではないとまで言い切ったのである。そして、現状はこの様相が伝法の際の基本として選択されている。そして、同じく宗統復古運動の推進者として、その代表の一人であった梅峰竺信(1633〜1707)は、その主著である『林丘客話』にて以下のように指摘する。

・およそ禅宗の嗣法、一師印証を悛易すべからざること、和漢一轍なり。済北の一派、今に於いて軌を同じうす。
・その間、洞家一宗、近古以来、底に縁し、澆風日をかさねて倒瀾し陵を襄す。涼を避けて炎に就き、院に因って嗣を易えるの尤もに效き、竟に以て家常の事となす。
・然るに、元祖道元、嗣書・面授両巻を演じて、一師承の外、他師を存せず、一回嗣法の後、再び嗣ぐの通規無し。日月を掛けるに昭昭たり。

梅峰は、『正法眼蔵』「嗣書」「面授」巻を元に、一師印証を是とする見解を出した。

また、卍山の運動に助力し、自らも江戸にあって宗旨の宣揚に努めた損翁宗益(1649〜1705)は、弟子の面山瑞方(1683〜1769)が遺した語録『見聞宝永記』から、次のように述べたと伝わる。

・夫れ一師印証とは、二つの法脈を帯びざるなり、師資面授は遥付・代授を嫌うなり。
・然るに卍山老、生涯の大願を以て、今、面授の正統に復す。卍老、実に日本洞上の中興なり。向後、一師の印証を帯びる者は、幾寺に住すると雖も、而も終に最初の伝法の本師を易えざるなり。是れ卍老の遺蔭、大法を荷う者は、須らく此の如き高範を慕うべし。

当時、これらの概念が定義的に卍山・梅峰二師以外にも共有されていた様子が分かる。実際、損翁師から薫陶を受けた面山は、卍山よりも更に激烈に、一師印証・面授嗣法を説き、いわゆる曹洞宗学の確立に尽力することとなる。そこで、時代的な展開も見てみたいが、損翁師の法嗣である面山は『洞上金剛杵』で、以下のように指摘する。
師資面授・一師印証は、則ち道元禅師の家訓たり。嗚呼、祖師の家訓なり。元和の号令、既に大綱を提げ、元禄の発揮、更に条目を張る。師資面授と謂うは、則ち代付・遥続を許さず。一師印証と謂うは、則ち断じて一人に二脈を帯びるを禁ずるなり。これ道元禅師の家訓と謂うは、祖師の『正法眼蔵』「嗣書」「面授」双巻中、その理究尽せざるは莫し。

つまり、先の損翁の教えに従いつつ、梅峰と同じく教えの淵源を『正法眼蔵』に結びつけたといえる。そして、卍山の孫弟子に当たる万仭道坦(1698〜1775)は、『正法眼蔵』「面授」巻の註釈『正法眼蔵面授巻弁?』において、以下のように指摘する。

・永平一派は元来より一師印証の條目なれども、元禄年中にいよいよ古来の通り、一師印証を相ひ守るべしとて、御公儀并に関三箇寺より日本国中に触れ定められるなり。
・それ宗門の嗣法面授・一師印証は、実に仏祖の慧命なり。仏祖の光明なり。仏祖の大道なり。仏祖の煖皮肉なり。纔も邪見をそのあいだに生ずれば、仏祖の慧命、乃至、仏祖の煖皮肉を滅するなり。

万仭は、一師印証は仏祖の慧命(智慧であり命であるということ)、光明、大道、煖皮肉などの語でもって、その重要性を指摘している。これはつまり、我々人間の側の強為(都合)ではなくて、法の云為として行われるべきである。だからこそ、法であり仏心を伝授していくという状況からすれば、当然に嗣法は一回きりということになる。何故なれば、受け継がれるべき「法」「仏心」とは、絶対的普遍的事象であるためである。
たとへば、帝網珠の如し、万に一を映し、一に万を映す。第二人なきものなり。これを生仏不二同時成道といふなれども、これを知る人を仏祖といひ、これを知らずを衆生と云ふ。知りて教るを師といひ、教へを受るを弟子と云ふ。弟子が知りて又教れば師といはれ、その教へをうくる者を又弟子と云ふ。尽未来際、此の如くしてもてゆく。これを仏祖の児孫と称す。 同上

つまり、仏陀釈尊の一切衆生の大地有情同時成道の世界において、それを知る者が仏祖であり師である。また、知らずに教えを受ける者が衆生であり弟子である。そこに、本質的な違いは無い。ただ、その教えを知るタイミングが前後したというだけである。よって、この教えを会得した順番が前後する様相を、図にしたのが三物である。ただ、本来は仏陀釈尊と同時成道している事実があるので、このような三物は方便である。
諸法一実相、三界唯一心と云ひ、事外に理無く、理外に事無し。一切法一心ともいふ者也。この一心・一実を仏祖の方便を以て、嗣書の円相にあらはし、血脈の円相に見せしめ、大事の円相に図にして示すは、仏祖慈愍の垂訓なり。 同上

諸法一実相・三界唯一心の中には、衆生も仏祖となり、仏祖は衆生を導くしかないのであるが、この様相について、方便をもって仏祖は三物を認(したた)めたのである。これは、大法相続の様相を図示し、より理解を深め、また信を表せんとした三物である。そして、三物の表信は、仏祖の慧命が息づく師資一体の伝法があれば、必ず行われるものである。だからこそ、我々の伝法式は、ただの形式を超える。一師のみに印可証明されるということは、その時に普遍的なる仏法に帰入することである。普遍なのだから、捨てることも出来ないし、新たに得ることも出来ない。ただ一回きりなのである。

よって、たとえ、還俗しても、大法を担った事実が消えるわけでは無いし、先に損翁師が指摘した通り、「二つの法脈を帯びること」と同義だと思われ、本来の宗旨・伝統に大きく反しているといわざるを得ないのである。

また、この状況は明治時代になっても続いた。まだ曹洞宗務局が成立していない時分の明治2年3月2日に大本山永平寺は既に各地の長老を集めて公議して決めた宗門の「掟」として、「曹洞宗掟書」を明治政府に提出した。その中には、一師印証や伽藍法に関わる指摘がある。
第三は、師資面授嗣法は一師印証で、他人が代わったり未出世者は行えない。 川口高風『明治前期曹洞宗の研究』(法蔵館)39頁

これは、嗣法を「一師印証」として行うべきことを確認した条文である。また、伽藍法については、以下のように定めたという。
第八は、転住の時、嗣法の三物は一生護持するが、伽藍法の二物(大事・血脈)も重ねて授けること。ただし、伽藍法の二物は先住地へ残し、遷化後、後住がいない時、本寺あるいは同門が代わって付与する。 同上、40頁

このように、永平寺が中心になって定めた「掟」では、まだ、江戸時代の習慣を残し、「人法」は一生涯に一度きりで、「伽藍法」は転住のたびに何度も受ける状況であった(第九も同じく伽藍法の規定だが、細目なので省略)。しかし、この流れを一転させたのが、明治8年に曹洞宗務局から出された「布達第一号」である。この布達は、当時の宗務局から「全国末派寺院」宛てに出されたものであるが、以下の通りである。
師資面授嗣法了畢三脈を帯て以て法灯を維持するは宗祖の家訓にして毫も違犯すべからず。然るに、中古乱灯、祖規を敗り、院に由って師を換へ、其弊、殆んど済ふべからざるに至る。元禄の度、卍山・梅峰之を患ひ、屡々官衙に哀訴して復古の勲労あるは、末派の熟知する所なり。然と雖、積年の弊垢、一洗悉く拭ふが如くなる能はず。遂に伽藍二脈重授の規を創して以て当時の意を充たしむ。延て、今日に至り、尚ほ克く宗祖の家訓に復せざるは、豈に児孫の遺憾ならずや。因て、今般断然伽藍二脈重授を廃止し候條、末派の僧侶厚く此意を体すべし。自今師資面授入室伝法三脈を帯る者は、永瑩門下何れの寺院に住するとも、更に伽藍二脈を附贅するに不及候。 『曹洞宗務局布達全書』「明治八年」項、カナをかなにし、表現を改める

ここで、宗務局は現行と同じく、曹洞宗の寺院であれば、どこに入っても、重ねて「伽藍二脈」を受ける必要を無くしたのである。この布達が出て来た背景としては、やはり明治五年に定められた「両山盟約」の影響が大きいとされる(川口前掲同著、262頁)。両大本山で末寺の数を争う場合、伽藍法で規制するという方法が採られたが、それは両山抗争の原因の一つであった。よって、「盟約」によって、争いの原因を極力除去するように決めたこともあり、伽藍法については廃止され、住職地選択の自由化が図られた。

また、他にも、明治5年より、僧侶の肉食や妻帯が国によって規制されなくなったこともあって、僧侶が家庭を持つようになると、寺院の転住については、一部の僧侶を除き、徐々に実施を減少させた可能性もある。要するに、伽藍相続のための法脈変更は、時代の流れに合わなくなっていた。つまり、伽藍相続という現実的側面から、「伽藍二脈重授」などの様々な手法が実施されたこともあったが、それらは全て、「一師印証」という曹洞宗の正法正伝の基本に従って統一されたのである。

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