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【定義】

現在の京都高台寺境内にあったとされている一寺で、道元禅師の荼毘所を寺にしたものだともされている。道元禅師の法嗣である詮慧開山である。

【内容】

京都の永興寺は、現在寺基が残っていないことから、詳細は不明であるが、詮慧に関わりがあったことは明らかである。
師、嗣法の弟子は、懐弉永平寺に住す。詮慧、永興寺に住す。僧海、師の在世に宇治興聖寺に於いて死去す。 『建撕記

また、永興寺が道元禅師の荼毘所だったことも以下の記述から知られる。
永興庵永平開山の荼毘所なり。詮慧和尚これを開き経豪和尚住持云々。のち建仁寺西来院権管。 『高台寺旧記』

よって、道元禅師亡き後、永平寺僧団は永平寺を中心に、同じ越前にあった宝慶寺、或いは九州には義尹禅師の大慈寺といったように教線を拡大したが、それは洛陽にもまた、同じように教線を伸ばしたということであろう。なお、詮慧や経豪が記したという『正法眼蔵御抄』には、「永興寺五世」の語句も見え、詮慧や経豪の時代から、しばらくの間存在していたものと推定される。ただ、大智禅師(1270〜1366)が訪れた際には既に、寺を保つことは出来ていなかったようである。
空堂にただ見る緑苔の封ずることを、法席人の祖宗を補うなし、満樹の落花春過ぎて後、杜鵑血に啼き夕日紅なり。 『大智禅師偈頌』204「永興の開山塔に礼す」

この後、一説では無着妙融?が永興寺を辞去する建徳年間(1370〜1372)に『正法眼蔵御抄』などを、九州の泉福寺?に運び出したともされているが、今では異論が多い。

なお、江戸時代に面山瑞方が一度、永興菴を再興しており、「永興菴再興の偈並序」(『面山広録』巻12参照)によれば、豊後から来た参禅者などが合議して、京都東山にある青蓮院の側、粟田口にあった廃菴を買って面山の休息所にした。面山は場所柄、詮慧の「永興菴」を慕って、名前を決めたという。同菴の名前について、「蓋し、永平・興聖を慕うなり」と、詮慧が道元禅師開闢の二寺から名前を取ったものとしている。寛延元年(1748)閏10月12日に、同菴に入った。

しかし、これもその後、続かなかったようで、現在京都市山科区にある永興寺は、1919年(大正8)左京区鹿ヶ谷にあった自炊林を現在地に移し、再興されたものという。一応、同寺が詮慧以来の伝統を受け継ぐといえる。また、永興寺は本来、道元禅師荼毘所に建てられたともいうが、現在の寺は受け継いでいない。荼毘所跡は、現在の高台寺の墓地の傍らにあり、しかも高台寺所管ではなく、京都市内にある曹洞宗寺院関係者の個人管理となっている。

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