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【定義】

江戸時代日本曹洞宗が輩出した学僧で、晃全本『正法眼蔵』の書写などで功績があった。可山(かさん)は号であり、名は洞悦(とうえつ、投悦・叟悦とも)。

生没年:寛永14年(1637)〜宝永4年(1707)
出身地:仙台
俗 姓:源氏(仙台の武士だろうと推定されている)

【略歴】

※可山禅師の伝記については、法孫に当たる面山瑞方師が、「奥州泰心院請大蔵経碑銘并序」(『面山広録』巻18所収)に詳しく記すところであるので、それも参照して論じる。

生年を示す文献はないのだが、1707年に71歳で示寂したとあるため、1637年に生まれたと推定されている。俗姓は源氏であるとされているが、仙台藩の武士階級の出身だったとされる。20歳になって、仙台藩僧録だった昌伝庵10世嶽翁宗悦大和尚について得度された。洞悦という名前は、この時に授けられたものだろう。

受業師はまもなく示寂するが、可山禅師はそのまま昌伝庵に残って10年修行され、29歳になると各地に行脚されたという。この頃は、日本の禅宗で人気があった隠元隆禅師に参じたり、各地の僧堂只管打坐に徹したらしく「悦達磨」というあだ名まで付いている。

この頃から曹洞宗の学僧に歴参しており、月舟宗胡禅師が大乗寺晋住される(寛文11年[1671])と、その会にあって月舟禅師を助けた。その意味で、卍山道白禅師とは道旧であったことになる。後にも、大乗寺に秘蔵されている書物を可山禅師が泰心院にて用いたことが知られているため、修行を終えた後も、可山禅師と大乗寺とは親密な関係があったと推定される。修行の期間を終えると、永平寺にて瑞世され、故郷の仙台に帰って年老いた親の世話をした。

また、同時期辺りから、同じ宮城県内にある城国寺?(現・栗原市)にて住持を勤めている。ただし、同寺の歴代住職に可山禅師の名前はない。しかし、先に挙げた卍山禅師が、城国寺の鐘銘を書いており、そこには「可山悦公住持之日」と明記されている。城国寺は仙台藩の奉行であった遠藤家の菩提寺であったが、そこから名声が伊達家の藩主だった綱村公の耳に入ったと推定され、天和2年(1682)の春に、仙台藩僧録であった泰心院の住持(7世)となった。この時に、同寺6世・学州存逸大和尚(1692年寂)から嗣法したと思われる。なお、『見聞宝永記』などの記載を見ると、可山禅師は同寺の住持として化を振るう間に、禅堂の整備なども熱心に行ったという。

貞享3年(1686)に、可山禅師は出羽東源寺の法会に随喜しているが、その時に首座を務めたのが、後の泰心院8世となる損翁宗益禅師である。ここから両者は交流を持った。そして、可山禅師は泰心院に長居することなく、元禄4年(1691)閏8月11日には退董され、泰心院の法席を法嗣となっていた損翁宗益禅師に譲られている。

翌年の4月には35世版橈晃全禅師が化を振るっておられた永平寺に入られ、その下で晃全本『正法眼蔵』の書写を行っている。その様子は、後に詳しく示す。ただし、元禄6年の2月24日には、永平寺の晃全禅師は示寂され、可山禅師も永平寺を乞暇されて、伊達(現・福島県)の普門寺に庵を結ぶことになったが、一方で同じ伊達郡にある細谷寺には、元禄6〜13年まで留守を守ったという記載がある。

なお、先の城国寺の例や、今回の細谷寺にも顕著なのだが、可山禅師は各地で堂閣を立てたり、様々な什物を完備しようとしたことが分かる。そして、大願を発して日本各地を周り、托鉢などをして『大蔵経』や、仏殿や僧堂の本尊などを泰心院にも収めたという。『正法眼蔵』書写も合わせて、そのような社会事業に積極的な人だったのだろう。

晩年になって、自分より先に法嗣である損翁禅師が、宝永2年(1705)6月24日に示寂された。そして、宝永4年9月3日には泰心院の中興と称された可山洞悦禅師も、71歳で示寂されている。

【可山禅師の『正法眼蔵』書写事業】



【参考資料】

今回略伝をまとめるに当たっては泰心院40世小野寺隆孝老師がまとめられた、同寺の寺誌である『泰心院』(1999年・非売品)を参照している。

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