【定義】
道元禅師の門下であり、後に懐弉禅師の弟子・法嗣(諸説ある)となって九州地方に曹洞宗を広めた。号は寒巌(かんがん)。後の法系は寒巌派?、法皇派?(法王派)などと呼ばれた。
生没年:建保5年(1217)〜正安2年(1300)
出身地:京都
出 生:後鳥羽天皇の実子とされてきたが、近年の学説では順徳天皇の実子とされる。
【略歴】
天皇家の落胤であったことから、世に法王長老などと呼ばれた義尹禅師は、幼いときに比叡山にて出家すると、天台宗の教学を学んだ。25歳(仁治2年)になると、京都の宇治興聖寺で宗風を挙揚していた道元禅師の門に入った。後に道元禅師が越前に移ると、それに随侍している。なお、かつては義介や義演、義準などと同じく達磨宗の1人であると考えられていたが、様々な伝記の検討から、最近では「義」の付く名前が偶然に共通しているだけで、関係がなかったとされる。
実際に、義尹禅師は晩年に至るまで永平寺教団と一線を画して、独自の活動を行っている。
例えば、建長5年(1253)には、一度中国に入り翌年帰国している。また、文永元年(1264)には、今度は道元禅師の語録『永平広録』を持って、再度中国に渡り、無外義遠・虚堂智愚・退耕徳寧などを歴参して、特に無外義遠によって『永平広録』から『永平略録』を編集してもらう。後、文永4年(1267)に帰国すると、福岡の聖福寺に入った。
その後は、九州各地に寺院を建立することになる。文永6年には、素妙尼のために肥後に如来寺を、建治2年には肥後に極楽寺を、そして、弘安6年には源泰明の寄進によって肥後川尻に大慈寺を開創した。特に大慈寺は、亀山法皇から官寺の勅許を受けて、寒巌派の本寺として門風を振るうことになる。後に、寒巌派は東海地方に進出を果たし、浜松の普済寺を中心に、豊川稲荷でも知られる妙厳寺?などが同派の寺院として有名である。
そして、寒巌義尹禅師は、正安2年8月21日に示寂された。世寿84歳であった。
【著作】
・義尹禅師には目立った著作はないが、『発願文』などが残されている。また、『永平略録』の編集に功があった。
道元禅師の門下であり、後に懐弉禅師の弟子・法嗣(諸説ある)となって九州地方に曹洞宗を広めた。号は寒巌(かんがん)。後の法系は寒巌派?、法皇派?(法王派)などと呼ばれた。
生没年:建保5年(1217)〜正安2年(1300)
出身地:京都
出 生:後鳥羽天皇の実子とされてきたが、近年の学説では順徳天皇の実子とされる。
【略歴】
天皇家の落胤であったことから、世に法王長老などと呼ばれた義尹禅師は、幼いときに比叡山にて出家すると、天台宗の教学を学んだ。25歳(仁治2年)になると、京都の宇治興聖寺で宗風を挙揚していた道元禅師の門に入った。後に道元禅師が越前に移ると、それに随侍している。なお、かつては義介や義演、義準などと同じく達磨宗の1人であると考えられていたが、様々な伝記の検討から、最近では「義」の付く名前が偶然に共通しているだけで、関係がなかったとされる。
実際に、義尹禅師は晩年に至るまで永平寺教団と一線を画して、独自の活動を行っている。
例えば、建長5年(1253)には、一度中国に入り翌年帰国している。また、文永元年(1264)には、今度は道元禅師の語録『永平広録』を持って、再度中国に渡り、無外義遠・虚堂智愚・退耕徳寧などを歴参して、特に無外義遠によって『永平広録』から『永平略録』を編集してもらう。後、文永4年(1267)に帰国すると、福岡の聖福寺に入った。
尹上人、日本の元和尚の永平集を持し来る。その締構を観るに、深遠にして語言に堕せず。自ら謂らく、天童浄和尚不伝の旨を得たり、と。況んやこの老平時発越鏗鏘として、昴枿規矩の外に絶出す。これをもってこれを見れば、元老は則ち超師の作有り、この録を●らん者、したがって魯変せん。 大宋咸淳改元春三月 勅を奉じて京国浄慈に住持する虚堂智愚書 『永平略録』跋文 ※●は手偏に監
その後は、九州各地に寺院を建立することになる。文永6年には、素妙尼のために肥後に如来寺を、建治2年には肥後に極楽寺を、そして、弘安6年には源泰明の寄進によって肥後川尻に大慈寺を開創した。特に大慈寺は、亀山法皇から官寺の勅許を受けて、寒巌派の本寺として門風を振るうことになる。後に、寒巌派は東海地方に進出を果たし、浜松の普済寺を中心に、豊川稲荷でも知られる妙厳寺?などが同派の寺院として有名である。
そして、寒巌義尹禅師は、正安2年8月21日に示寂された。世寿84歳であった。
【著作】
・義尹禅師には目立った著作はないが、『発願文』などが残されている。また、『永平略録』の編集に功があった。
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