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【定義】

(・菩薩智慧を象徴するもの。迷妄の闇を破り、真理を現すためである。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では36巻、75巻本では15巻。仁治3年(1242)6月2日、三更四点という夜中に興聖寺にて学人に示された。

【内容】

[磴┐弌阿弥陀仏は無量光如来などとも呼ばれるが、それは、その功徳が巧妙(十二光)で示されることを讃歎する名前である。この光明とは、智光(心光)と身光(色光)とに分けられるが、前者は智慧の威光を示し、後者は智慧の外に現れた具体的な表現を意味する。仏身から発する光が、光り輝くこと。なお、特に瑩山禅師はこの仏心としての光明を重視する。
諸仁者、先づ此処に親く到らんと思はば、且らく両眼を閉じ、一息断て此身終て、掩ふべき家なくして、一切の用処悉く以て要とせず。恰かも青天に雲なきが如く、大海に波浪なきが如くにして少分相応あり。此時、又汝をして如何ともするなしと雖も、更に一段の光明あり。是れ青天に月あり日あるが如きに非ず。漫天是れ月なり、都て物を照すことなし。尽界是れ日なり。敢て耀く所なし。子細にして承当すべし。若し此処を見得せずんば、徒に僧俗男女に迷へるのみに非ず、三界六道に輪回す。 『伝光録』第49章

道元禅師は、「光明」について長沙景岑・雲門文偃などの言葉を用いながら、仏祖のそれを明らかにしておられる。
いはゆる仏祖の光明は、尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり、仏光なり、光仏なり、仏祖は仏祖を光明とせり、この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す。

その内容としては、一切の存在が、仏祖の光明そのものであり、仏祖の光明が、一切の存在そのものであるという一如の見解をもって、光明とは、その輝きをではなくて、禅僧の日常底であることを明らかにした。なお、永平寺2世の孤雲懐弉禅師は、同巻の参究により『光明蔵三昧』を著したとされる(異説もある)。

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