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【定義】

「公府の案牘」の略。本来は、取り調べを要する書類の意味であるが、そのことから政府の法令をいう。政府の法令とは、国民にとって厳しく守るべきものであり、遵奉すべき性質を有するが、これを禅の修道上に転用して、仏祖の語句で、参禅者の模範とすべき問題をいう。公案の数は概して、千七百則あるとされ、中国唐代から唱道された。古則公案現成公案などがある。なお、臨済宗楊岐派の大慧宗杲が、公案禅を唱え、後の日本の臨済宗でも江戸時代にいたり白隠慧鶴が出て大成した。
この一則公案は、趙州より起首せりといへども、必竟じて諸仏渾身作家しきたれるところなり、たれかこれ主人公なり。 『正法眼蔵』「栢樹子」巻

【内容】

曹洞宗に於いて、「公案」をどのように扱うかは、常に議論がある。例えば、特に白隠以降に公案禅全盛となった臨済宗妙心寺派などと宗風を区別するために、敢えて公案など用いることはないと主張する者が、研究者や師家の一部にいる程である。ただ、これなどはかえって「宗我見」を招くので、注意を要する。なお、公案否定の見解の傍証に用いられるのは、以下の一節である。
示云、公案話頭を見て聊か知覚あるやうなりとも、其は仏祖の道にとほざかる因縁なり。無所得無所悟にして端坐して時を移さば、即祖道なるべし。古人も看話祗管打坐ともに進めたれども、なほ坐をば専ら進めしなり。また話頭を以て悟リをひらきたる人有リとも、其も坐の功によりて悟リの開くる因縁なり。まさしき功は坐にあるべし。 『正法眼蔵随聞記』巻6-16

このように、道元禅師は懐弉禅師の問いに対して、古人も公案と坐禅をともに修行されたが、大切なのは無所得無所悟坐禅であるとした。この見解を受けて、坐禅さえ行ずれば、公案など要らないとする意見が出て来る。ところが、実際のところ、『正法眼蔵』も『永平広録』も、随所に西天東土祖師が用いた古則公案を引用され、提唱されている事実からは、なるほど得道の手段として、公案を用いるのは宗義に反するが、しかし、公案を一切不要とするのも誤っている。公案は、ただの禅問答ではなくて、あくまでも古人が如何にして得道したかを示す手本である。手本を参究せずに、ただ無闇に坐すれば良いというのは、無事禅に堕する。上記引用文は、公案(話頭)にばかり興味を示す学人が陥りやすい、依文解義を諫める方便として理解されるべきである。

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