【定義】
実践と理論、修行と悟りとがあい応じていること。朱子学の知行合一と比せられることが多い。
【内容】
道元禅師は、当時の風潮として口だけで行解相応を気取る者を、大いに批判している。
何故ならば、道元禅師に於いて、行解相応ということは、自ら参学し頼るべき「正師」の条件だからである。ただ文章だけを読んでいるような者も、あるいは黙々と修行し悟っただけの者も、「正師」としては認められない。
実践と理論、修行と悟りとがあい応じていること。朱子学の知行合一と比せられることが多い。
【内容】
道元禅師は、当時の風潮として口だけで行解相応を気取る者を、大いに批判している。
いまの人は、実をもとむることまれなりによりて、身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相応せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛捨すべし。 『正法眼蔵』「渓声山色」巻
何故ならば、道元禅師に於いて、行解相応ということは、自ら参学し頼るべき「正師」の条件だからである。ただ文章だけを読んでいるような者も、あるいは黙々と修行し悟っただけの者も、「正師」としては認められない。
それ正師とは、年老耆宿を問わず、ただ正法を明らめ正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量有って、過節の志気有って、我見に拘らず、情識に滞らず、行解相応これ乃ち正師なり。 『学道用心集』
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