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【定義】

慶安2年(1649)江戸三ヵ寺の江湖会中に、雑学について談じたことにより、十人の宗侶が擯罰されたことに端を発する事件で、承応2年(1653)まで断続的に経過した。

従来「雑学事件」とは、中世曹洞宗から近世曹洞宗へという変動期に、代語などの中世的な学人接化法、文献を淘汰した象徴的な事件だと考えられ、「代語講録事件」とも呼ばれてきた。しかし、近年、『宇治興聖寺文書』に収録された「録学口論之事」の資料研究などにより、事件全体の流れからすれば、幕藩体制下での宗門統制を推進したという意味で象徴的であったが、宗学上からすれば、代語等の中世的な曹洞宗の家風を脱却することはなく、関三刹を頂点とした幕府の宗門統制を強めようとした事件であるという評価がされている(安藤嘉則先生「雑学事件考」、「万安」)。

【内容1】

「雑学事件」に対する元々の評価としては、石川力山氏などは「中世抄物資料の後進を促進する象徴的出来事」であると指摘している。「雑学事件」とは、別に「代語講録事件」とも呼ばれ、曹洞宗の教義に違反した咎で、宗門から擯罰された者が出たという事件である。慶安2年(1649)と承応2年(1653)の2回あったとされ、特に後者は「承応の公事」として、かの『宗統復古志』にも顛末が記載されるほどである。
昔し、承応年中に、万安・鉄心の二老、関東の諸老と、代語講録の議論に付、出訴し玉ひし其の時も、江戸中、両方に立分れ、互に気鋒をふるいしゆへ、或は呪咀調伏を行ふもあり、或は剣難毒薬にかかるもあり、遂には録方非理に成り、万安・鉄心の二老を始め、其の党の三十三箇寺擯罰し、宗門俳徊を停止せらる由し聞よりも、此の度の革弊には、覚悟の前と云ながら、幾度か危き虎の尾を踏める、憂目を見玉ふ、二老の心こそゆゆしけれ。 『続曹洞宗全書』「室中」581頁

代語』文献とは、いわば古則公案の解説(下語著語)を集成した資料であって、師家の系統の特徴が出るものであった。室町期では公案参得のための代表的な方法であったとされる。江戸時代中期以降は『代語』による参究は、面山瑞方による『洞上室内断紙揀非私記』において、永平寺室中に伝わった様々な切紙などについてであっても代語禅の所産として以下のように否定されてしまう。
永平寺室中断紙目録並引 延享二年乙丑夏、余、永平寺承陽庵に寓すること五十余日。室中法宝と謂うを周覧す。中に断紙、一百四十余通有りて、逐一拝して目録を読み、以て後鑑に備う。皆、是、代語者の妄談僻説。而も、一として宗門に補する者、無きなり。 『曹洞宗全書』「室中」215〜216頁

面山は、斯様に永平寺室中に伝承されていた切紙などを批判したのだが、この理由について、石川力山氏は当時の宗門の修行形態が、各学人の個人的な能力よりも、法度によって定められた「二〇年修行にして江湖頭、三〇年修行にして建法幢」という紋切り型の体系に転換され、これら年功序列型の人材育成施策が教義に反映した結果ではないかという指摘をしている。確かに、この制度に則って修行していく限りは、むしろ各派による切紙による儀規相承などは不要であり、ただ長年定められた修行を行ったものが一人前の僧であるということになる。ここからは、卍山派と天桂派によって争われた「未悟嗣法」などの問題にまで関係してくる根深い議題となっていくのである。

面山は江戸期に輩出された曹洞宗最大の学僧だが、中世から伝わる従来のあり方ではなく、江戸時代に相応しい実証的な宗学的方法を構築しようとしていた。そして、曹洞宗も古来は幾つかの地方で独自の活動をしていたが、その各地に伝わる各派や各系統の独自の方法としてではなく曹洞宗としての統一的見解を出すというあり方そのものが、面山の方法に依っていると見ることが可能である。

【内容2】

この事件の内容として「雑学」という学人の指導のあり方が問題となっているが、近年『宇治興聖寺文書』「録学口論之事」などの研究によって、この一件の経緯が明らかになってきた。まず、〃聴存鞠(1648)4月に、宗門有力6ヵ寺の住職が連署して、「五ヶ条の壁書」が発せられた。⇒眷の7月、関三刹が連署にて、江戸青松寺にいた2僧を初めとする7ヵ寺10僧を、江湖会中に「雑学を専らにす」という咎で擯斥処分とされている。ところが、F映9月、江戸天徳院鉄玄など4ヵ寺4僧は連署にて、先に処分された僧侶達の行いは、雑学ではないとして、寺社奉行所に訴え出ている。

この後、この一件は寺社奉行所が関与することになり、し聴2年12月10日に、奉行所側、関三刹の僧録側、そして擯罰僧を擁護する江戸9ヵ寺の訴訟側、擯罰された10僧が寄り合って、対論が行われた。ネ眷の2月22日、今度は関三刹などの僧録側が、擯罰僧を擁護する江戸9ヵ寺側を寺社奉行所へ訴えている。

そして、承応2年(1653)11月に、関三刹を中心にした有力寺院5ヵ寺の連署にて、宇治興聖寺万安や、美濃全久院鉄心などを初めとする33ヵ寺に対して、曹洞宗の宗規を混乱させ、新宗を建立しようとしたとして、擯罰するという処断が下った。

この流れからすれば、本来の「雑学」に対する擯罰から、徐々に事件の性格がずれてしまって、結果的に幕府によって曹洞宗の統制機関に定められた、関三刹を中心にした有力寺院によって、他の寺院に対しての支配を強めるという結果になってしまっている。

なお、従来あったような見解についてだが、雑学=代語としてみなすと、ここで批判された代語の作者については、特に事件以後にしても、総寧寺や大中寺といった関三刹の法脈を嗣いだ僧侶に多く見られるため、△鳳ける最初の擯罰というのは、江湖会中に「読み物をした」ということであったとされる。それは、に於いても、代語そのものの問題点を論じているのではなくて、様々な「諸録経巻」を「読み物」しなければ、代語も廃れてしまうという話であった。つまり、雑学=代語ではなく、雑学=読み物ということになるのだろう。

そこで、この両者は、いわば代語と読み物のあり方をめぐってエスカレートすることになり、代語を押しつけ、それ以外の諸録経巻を否定しようとする僧録側の統治に反感を憶えた擯罰僧擁護派が、全国に檄文を飛ばすなどして、感情的な対立も深めた。そして、統制にしたがわない僧侶を、関三刹側が奉行所へ訴え出ることにまでなっていくのである。ここで、いわば関東の古風な代語を慕う一派(僧録側)と、革新的な一派との対立という構図が見えてくるようになり、そして、全国からこの議論に参入せんとする者達が、さらに議論を混乱させていったのであろう。ここで、慶安3年(1650)から承応2年(1653)まで間は空くが、関三刹側は、代語=古風を慕わない一派を、「新宗を建立するもの」だとして擯罰した。

この事件の当事者の1人である万安英種については若い時分から、代語を否定していたという証言のような記録があり(鈴木正三が、万安に同心して代語を批判している)、それを勘案すれば、全体的な整合性は取れる。

このことからしても、「雑学事件」とは、「代語」をめぐって、賛成派が権力側になり、反対派が擯罰される側になり、論争の上で権力によって、反対派が叩き潰されたということなのだろう(ただし、懲罰された僧には、『大淵代』『龍州代』『高国代』などの代語を読んだ者も含まれる)。ただ、その後、江戸期を通じて見れば、日本曹洞宗では多くの学僧が輩出され、道元禅師の宗典研究などが盛んになった結果、「宗統復古運動」「古規復古運動」、或いはその前後で宗典の発刊が相次ぐ中で、代語は総じて否定され(面山の見解などが影響大か)、現代まで続く実証主義的研究の端緒となったということになろうか。

【参照した論文】

・渡辺康昌「近世曹洞教団の形成過程 伝法公事を中心として」『印度学仏教学研究11−1』昭和38年
・横井覚道「近世における宗学復古序説 特に承応の公事に関連して」『宗学研究6』昭和39年
・中山成二「代語講録事件考」『曹洞宗研究員研究生紀要11』昭和54年
・安藤嘉則「雑学事件考 「代り法門」をめぐって」(『中世禅宗文献の研究』2000年・国書刊行会、所収)

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