日本曹洞宗に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々を簡潔に示しています。日本曹洞宗に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

三昧中の王としての三昧であること。最も優れた三昧のこと。
舍利弗、この方便をもって、空三昧を知りて、諸三昧において第一の三昧となす。王三昧とは、空三昧、これなり。この故に、舍利弗、まさに方便を求めて、空三昧を弁ずることかくの如し。舍利弗、まさに、この学をなすべし。  『増一阿含経』、『大正蔵』2−773c

禅宗では坐禅があらゆる経論の根源となったとし、諸三昧であろうともこの坐禅から出たものであるとして、坐禅を王三昧であるとする。
浄土門では、念仏を王三昧とする。
今念仏三昧といふは、無始本有常住不滅の仏なり。是即真実の見仏、真実の三昧なり。故に念仏を王三昧といふなり。 『一遍聖人語録』「播州法語集」14

道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では72巻、75巻本では66巻。寛元2年(1244)2月15日、吉峰寺にて示衆された。

【内容】

道元禅師は、結跏趺坐をもって最高の修行であると定義し、それを以下のように指摘する。
驀然として尽界超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは結跏趺坐なり。外道魔党の頂[寧+頁]を蹈翻して、仏祖堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するは、ただこの一法なり。このゆえに仏祖これをいとなみて、さらに余務あらず。

然るに、結跏趺坐による坐禅がまさに仏法であると示した天童如浄禅師の言葉を挙げて、坐禅で仏法を得るのではなくて、坐禅そのものが仏法であるという修証一等を示される。
あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり。仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれるいまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。

同巻の後半では坐禅がまさに釈尊が行った三昧王三昧であることを示して、さらに釈尊が弟子達に示し、過去七仏から連綿と受け嗣がれた仏法であることを明らかにしている。
あきらかにしりぬ結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。結跏趺坐は、直身なり、直心なり、直身心なり、直仏祖なり、直修証なり、直頂[寧+頁]なり、直命脈なり。いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印すなはちこれなり。

そして、同巻の末尾では、結跏趺坐=三昧王三昧が衆生成仏の時節そのものであると指摘しながら、一切の経論ですらも全て結跏趺坐の事実に他ならないとされるのである。
あるひは三七日結跏趺坐、あるひは時間の跏坐、これ転妙法輪なり、これ一代の仏化なり、さらに虧缺せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。

このような、坐禅を諸行・諸経・諸三昧の根源と見るような思想は、すでに『弁道話』にて挙げているところだが、それを更に具体的行に展開したところに、この巻の特色があり、また『弁道話』以降に「薬山非思量」や「現成」、或いは「脱落」をキータームにしながら深まりを見せた道元禅師の坐禅観が、それでも『弁道話』に挙げた思想を背景にしていることを明らかにしたとも言える。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

角川書店『ねこ禅』



かわいい猫の写真とやさしく解説された禅語のコラボ本。【『ねこ禅』角川書店】からどうぞ。

管理人/副管理人のみ編集できます