【定義】
正月に供えられていた鏡餅を砕いて、大衆とともに食べる儀式のこと。いわゆる「鏡開き」。
このようにあって、面山禅師の時代には1月20日に行われていたことが分かる。なお、ここで食べられている餅は前年の年末に行われる「撏餈普請?」で大衆が準備した鏡餅である。
【内容】
面山禅師は1月20日を鏡開きだとしておられるが、江戸時代は1651年(慶安4)に死去した3代将軍・徳川家光の忌日(4月20日)を避ける意味もあって、それ以降「1月11日」になったという。ただし、1753年(宝暦3)に刊行された『僧堂清規』の段階で20日としているため、江戸時代の状況は、他の資料も含めて考える必要がある。実際、享保20年(1735)に刊行されている『江府年行事』では、正月の「▲十一日 御具足餅御祝、諸家同じ。○むかしは刃柄と訓じ、いわふよし、いひつたへて、廿日を用ひし也、此日御上の御月忌なるゆへに、承応より十一日を用る也」(三田村鳶魚氏『江戸年中行事』中公文庫・1981年、34頁)とあって、やはり「11日」であったことを示し、1838年(天保9)の段階でも武家が用いた暦では、原則「11日」のため、面山禅師は武家以外の習慣と見たものか。
そこで、面山禅師が「20日」に置いた理由は、「祝法衣餈」という儀式であったことに注目したい。面山禅師は、道元禅師の帰国が「20日」であったとされる。とはいえ、管見では『永平実録?』も『訂補建撕記』も、「20日帰国」とは書いていない。『嘉禄考』という文章も面山禅師は書いているけれども、同文では安貞への改元が4月20日と書いているが(本来は12月10日のはず)、それを元に「4月20日」を帰国の日付だとしてしまったものか。直接の関係は分からないが、その辺のことを理由にしながら、「1月20日」という日付にこだわったと思われる。
また、この儀式で大衆が食べていたものは、餅を砕いて、赤小豆で調えるとあるため、「善哉」だったことが理解出来る。
正月に供えられていた鏡餅を砕いて、大衆とともに食べる儀式のこと。いわゆる「鏡開き」。
祝法衣餈○廿日は、永平祖師帰朝し、この日に法衣を祝せらると云い伝う。粥後、住持の本師の像前に、侍衣、華炉燭を備え、厨下に聞き合せ、時至りて茶鼓一通し、大衆、像前に集まりて三拝して立つ。侍者、通覆し、主人、出て焼香。維那、『大悲神呪』を挙し、「上酬慈蔭」の回向し、大衆、三拝分立す。次に侍者の問訊了って、住持、正面に大衆と相い揖して、展具著座。侍者、鳴版一下し、行者、盛餈の椀に箸と茶盞を添えて托盆して、住持より両序次第に行き了って、侍者、中揖して、大衆、相い揖し喫す。了って餈の水引湯を行いて、鳴版一下し、瓶を行く。喫茶了って、亦た一下し、盆を収む。次に退座鼓三下。住持、大衆相い揖し起座。像前に三拝、亦た住持に謝茶。触礼三拝し散ず。この餈、赤小豆にて調う。菜をそえず。一椀にて再進せず。慇懃の至るを表す。水引湯は、大衆飲み余りを俗人に飲ませず。河海の中に入る。この餈の桶器椀盤を洗いし湯水も、河海に入る。河海なき所は、人行くことなき浄地に棄つ。 面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3「祝法衣餈」項
このようにあって、面山禅師の時代には1月20日に行われていたことが分かる。なお、ここで食べられている餅は前年の年末に行われる「撏餈普請?」で大衆が準備した鏡餅である。
【内容】
面山禅師は1月20日を鏡開きだとしておられるが、江戸時代は1651年(慶安4)に死去した3代将軍・徳川家光の忌日(4月20日)を避ける意味もあって、それ以降「1月11日」になったという。ただし、1753年(宝暦3)に刊行された『僧堂清規』の段階で20日としているため、江戸時代の状況は、他の資料も含めて考える必要がある。実際、享保20年(1735)に刊行されている『江府年行事』では、正月の「▲十一日 御具足餅御祝、諸家同じ。○むかしは刃柄と訓じ、いわふよし、いひつたへて、廿日を用ひし也、此日御上の御月忌なるゆへに、承応より十一日を用る也」(三田村鳶魚氏『江戸年中行事』中公文庫・1981年、34頁)とあって、やはり「11日」であったことを示し、1838年(天保9)の段階でも武家が用いた暦では、原則「11日」のため、面山禅師は武家以外の習慣と見たものか。
そこで、面山禅師が「20日」に置いた理由は、「祝法衣餈」という儀式であったことに注目したい。面山禅師は、道元禅師の帰国が「20日」であったとされる。とはいえ、管見では『永平実録?』も『訂補建撕記』も、「20日帰国」とは書いていない。『嘉禄考』という文章も面山禅師は書いているけれども、同文では安貞への改元が4月20日と書いているが(本来は12月10日のはず)、それを元に「4月20日」を帰国の日付だとしてしまったものか。直接の関係は分からないが、その辺のことを理由にしながら、「1月20日」という日付にこだわったと思われる。
また、この儀式で大衆が食べていたものは、餅を砕いて、赤小豆で調えるとあるため、「善哉」だったことが理解出来る。
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