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【定義】

^貔擇梁減澆髻存在そのものから見れば、平等相でありながら差別相を具えるように、ただ単独に存在していることを諸法実相という。なお、現代語にある「平等社会」というような意味での「平等」ではなくて、存在それ自体がもつかけがえの無さを「平等」と呼ぶのである。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では50巻、75巻本では43巻。寛元元年(1243)9月に、吉峰寺にて学人に示された。

【内容】

‖減濕体が、真実の姿をしているのか、それとも実体がない事実を受けて仮の姿であるのかという論争は、仏教史としては長い論争があったようだが、諸大乗経典にあっても、「諸法実相」と「諸法虚妄」は大きな問題になったようである。然るに、「諸法実相」については、その後の影響を考えれば『法華経』「方便品」にある以下の一句が象徴的である。
唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。

仏と仏とが、良く究めてきたのは、諸法実相の道理だということであり、この論理が敷衍されて、一切の存在が現実には差別相を具えていても、実際には悟りの姿そのものであるというような解釈まで行われるようになった。そのもっとも顕著な例が、中世の日本天台で行われた本覚思想であろう。

道元禅師は,傍鵑欧拭慄_攘弌戮琉豢腓鯢烋Г靴董◆正法眼蔵』の一巻を著した。そこでは、「唯仏与仏」は、「唯仏」と「与仏」というそれぞれに独立した仏祖の存在であり、それぞれに独立した存在であるということを「乃能究尽」とした。そして、「唯仏」と「与仏」は、まさに「諸法」が「諸法」として自らを明らかにし、「実相」が「実相」として自らを明らかにすることであるとされて、それこそ仏祖現成の事実であるとした。
仏祖現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり、諸法は如是相なり、如是性なり、如是身なり、如是心なり、如是世界なり、如是雲雨なり、如是行住坐臥なり、如是憂喜動静なり、如是拄杖?払子なり、如是拈華破顔なり、如是嗣法授記なり、如是参学弁道なり、如是松操竹節なり。

さらに、『法華経』の句を縦横無尽に使用しながら、「相」についての解釈を展開され、実相とはまさに、存在が自ら自身のあり方である生死去来が真実人体であることに気づくことであるとされる。
発心・修行・菩提・涅槃を挙して、生死去来真実人体を参究し接取するに、把定し放行す。これを命脈として華開結果す。これを骨髄として迦葉阿難あり。

また、仮の姿である方便と、真実の姿である実相とが、この現実にあっては本質的に違いがないことを唱え、さらに、方便であると考えられがちな菩薩と、真実の姿であるとされる如来とが、本質的に違いがないという見解も提唱されていく。
いはゆる一切菩薩は、一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類にあらず、老少なし、勝劣なし。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自佗にあらず。過現当来箇にあらざれども、作仏は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏し、始覚地に成仏す。無量百千万億度作仏せる菩薩あり。作仏よりのちは行を廃してさらに所作あるべからずといふは、いまだ仏祖の道をしらざる凡夫なり。いはゆる一切菩薩は、一切諸仏の本祖なり。一切諸仏は、一切菩薩の本師なり。

また、同巻中には道元禅師が中国天童山の如浄禅師の下で修行している際に行われた、或る夜間の普説及び入室について、非常に臨場感のある描写を行っており、当時の状況を伝える貴重な資料ともなっている。その普説に於いて、如浄禅師は諸法実相の道理を提唱しながら、まもなくに近づいた夏安居の開始か近いこと、そして安居の心構えと春先の季候の良い時期には奮って坐禅すべきことなどが説かれた。
かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおぼえり。この夜は微月わづかに楼閣よりもりきたり。杜鵑しきりになくといへども、静間の夜なりき。

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