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【定義】

〔燭△訛減澆生滅のこと。生まれ、そして死ぬこと。生老病死の始終を示す。生死については、衆生のように分別明瞭に捉える分断生死と、菩薩のように生死一体として捉える変易生死とがある。また、一生かけて生死するという一期生死と、その一瞬一瞬に生まれ変わり死に変わりするという刹那生死とがある。
⇔慍のこと。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では92巻、28巻本では2巻。説示場所や時間は不明。

【内容】

道元禅師は、夾山と定山という2人の禅師が行った生死の問答を採り上げて、仏の事実と生死との関連を指摘する。
生死のなかに仏あれば生死なし。またいはく、生死のなかに仏なければ生死にまどはず。こころは、夾山定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり。

以上の箇所は、『修証義』「第一章 総序」に引用されているが、若干文言が変更されている。そして、「生死」巻の内容は、非常に明瞭簡潔なものであり、生死を輪廻であるとして逃れようと願うことの誤りを指摘している。
ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

そこで、「現成公案」「全機」巻との関連も指摘できるが、生及び死がそれぞれに住法位として現成していることを示す。
生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆへに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。

さらに、生死に徹しきることが、生死をはなれることだとされる道元禅師は、生死こそが「仏のいのち」そのものだともされるが、それは生死にとらわれることではない。
この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。

また、成仏道の最も簡単な方法を示される。一切を放下した思考法である。
仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひしもをあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふこころなくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。

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